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2014年12月18日 (木)

植村記者が誇らしげに言う「歴史の転換点」とは

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この植村記事の出た1992年の時点において、朝日新聞には「従軍」慰安婦は、強制的に日本の官憲や軍によって拉致されたのだという絶対的確信がありました。 

当時は、2014年8月の検証記事にあるような<慰安婦問題の本質は女性への人権侵害である>という抽象度の高い概念そのものが存在していませんでした。

当時の朝日はあざといまでに、<日本軍が奴隷狩りのようにして、韓国女性を強制連行して慰安婦にしたのだ>と言い張っていたのです。

どこでも、どの時代にでも通用してしまう「本質的人権論」などではなく、泥臭い現実が争われていた時代だったのです。

「日本軍が大量の韓国女性を暴力で拉致して慰み物にした」、このように大新聞に報道されたが故に、宮沢政権は腰を抜かしたのです。

もしそれが仮に、「日本軍は女性の人権侵害をした」ていどの内容だったら、痛くも痒くもありません。

「あ、そうですか、なにせ当時は戦争やっていましたからね。お気の毒に」、でお終いです。

時代水準と言えばそれまでですが、そのあたりのエグサを理解しないと、なぜこうまで慰安婦問題がこじれにこじれたのか理解できなくなります。

いまだに、韓国は1992年の植村記事の時点の水準から一歩も先に進んでいません。

かの国との齟齬は、この23年前のまま止まってしまった彼らと、それから七転八倒しながらも事実を追及してきたわが国との落差なのです。

当時朝日は、軍が強制連行したという吉田清治証言を100%正しいと信じて、「慰安婦証言が出た」というので、おっとり刀で植村記者をソウルに出したわけです。  

ではその証言を始めたという元慰安婦の金学順氏は、弁護団聞き取り証言の中で何と言っていたのでしょうか。 

1991年8月のあの衝撃的な記事から4か月後の12月25日に書かれた記事には、こうあります。 

「見出しは、<かえらぬ青春・恨の半生に日本政府を提訴した金学順さん」>とある。記事はこうだ。
韓国の「太平洋戦争犠牲者貴族会」の元従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族35人が今月6日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起こした。慰安婦だった原告は三人。うち2名は匿名だが、金学順(キムハクスン)さん(67)=ソウル在住=だけは実名を出し、来日した。(略)
その恨の半生を語る証言テープを再現する。
「私は満州に吉林省の田舎に生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです」(略)
貧しくて学校は普通学校(小学校)四年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らをしていました」
「『そこに行けば金儲けができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と二人で、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年でした(略)」
(植村手記より再現 朝日新聞1992年12月25日)
 

植村氏はこの証言を手記の中で、控えめながら誇らしげに「歴史の転換点」と呼んでいます。手記はこう言います。 

「韓国では金学順さんに続き、元慰安婦の証言者が相次いだ。こうした事態を受けて、日本では1993年8月に河野談話が出された」
「私の記事は日韓のメディアに影響を与えなかったが、私は知らないうちに歴史の転換点を目撃することになった」
 

では、この植村氏が言う「歴史の転換点」と呼ぶ金学順氏の証言が引き起こした、河野談話とはいかなるものだったのでしょうか。

それは宮沢訪韓を間近に控えて、韓国と波風を立てたくない一心の日本政府による政治的配慮の塊のような代物でした。

この後に日本政府が強制連行を認めた動かぬ証拠とされるようになった河野野談話とは、まさに「日韓合作」そのものでした。

発表までに常に韓国政府が介入し、継続的「事前調整」(報告書の表現)をしています。

河野談話検討報告書はこう述べます。

「韓国政府は、日本政府による調査結果の発表に先立ち、1992年7月、問題等に関する調査・検討状況を発表したが、その際にも日本側に対し事前にコメントするよう要請し、結果として、両国で事前調整が行われた」(検証報告書)

わが国は一国の外務公文書を公表前に外国に見せていて、事前に談合し、その圧力に沿って書き換えていたわけてす。

言って来る韓国政府も韓国政府ですが、その主権侵害に唯々諾々と従ってしまう日本政府も政府です。

「『強制性』については、例えば、一部には軍又は政府官憲の関与もあり、『自らの意思に反した形』により従軍とされた事例があることは否定できないとのラインにより、日本政府としての認識を示す用意がある」 (検証報告書)

証拠もなにも出ていないのに、「強制性」をわざわざ「自らの意志に反した形で」と間口を拡げてまで河野談話を作ろうとしたのです。

この「自らの意志に反して」という言葉は、実に使い勝手のいい言葉でどうとでも取れます。

この軽率に使った言葉が、後々に動かぬ「強制連行」を認めた言辞として世界に流れていくことに、当時の宮沢首相-河野官房長官は気がついていませんでした。

さて金学順さんの証言にある時代は、まさにあのドラマ『おしん』の時代にあたります。

不況と冷害による農村恐慌で、大量に女性が売られた時代に彼女たちは生きていました。売ったのは親です。だから悲惨なのです。

食べさせられなくて、弟妹を食べさせるために泣きながら娘を女衒に売ったのです。このような貧しい女性は日本にも大勢いました。

日本人慰安婦の政府への提訴がないために、まるで慰安婦はすべて韓国人女性だったように勘違いされていますが、その大部分は日本人女性でした。

親が娘に、ごめん、すまん、許してくれと手を合わせて売ったのです。それらの女性は皆「自らの意志に反して」でした。誰が好き好んで身体を売るものですか。

このような絶対的貧困を前に、「女性の人権」などという聞いた風なことを言う軽薄なインテリぶった奴を、私は心底軽蔑します。

彼女たちは親から売られても、だまされても、ぼろ布のようにされても、明るく笑っていたのです。笑わないと死にたくなるからです。

ゼニを貯めて、一軒お店でも持ってみせる。そして故郷の親兄弟に仕送りをする。それが彼女たちの生きがいだったのです。

この金学順さんも、そのようなひとりでした。彼女は、慰安婦の高給で貯めた金でお店を持って、何人かの女の子を使う立場のところまで頑張った人でした。 

彼女の提訴の理由は後にわかりますが、日本の敗戦による軍票の無効に怒ったためでした。 

このような苦難を乗り越えてきた元慰安婦に対して、戦後育ちの男たちはたじたじとなりました。彼らの多くは、戦争も飢えも貧困すら知らない世代だったからです。

このような悲惨な体験を聞かされた男たちは、植村氏のように彼女たちの体験にひれ伏すか、河野洋平氏のように国としての主語を抜かした、まるで評論家のような「談話」を出すしかなかったのです。

ですから、河野談話の聞き取り調査は、決して植村氏の言うような「歴史の転換点」を飾るようなものではなく、官僚による手抜きの仕事そのものでした。

元慰安婦団体の要求どおり大使館は使わずに聴取場所は、訴訟団体の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の事務所で行ない、遺族会側の弁護士も同席することにしました。(※弁護士は福島瑞穂氏)

全部、慰安婦団体の要求どおりです。日本側のやりたかったことは調査ではなく、既に官邸によって原案が書かれていて筋書き通りにすすめる必要があったからです。

河野談話検証報告書は言います。

「日本政府の真相究明に関する真摯な姿勢を示すこと、元慰安婦に寄り添い、その気持ちを深く理解することにその意図があったこともあり、同結果について、事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった。聞き取り調査とその直後に発出される河野談話との関係については、聞き取り調査が行われる前から追加調査結果もほぼまとまっており、聞き取り調査終了前に既に談話の原案が作成されていた

ここでもまた「元慰安婦に寄り添い」です。「寄り添う」ことこそが大事で、その証言の客観性をなどどうでもよかったのです。

既にできあがっている「原案」に沿って聞き取るふりをするだけだったわけです。そしてその聞き取りの内容たるやずさん極まる内容でした。

これについてはこの調査の事務方責任者の石原信雄元官房副長官の国会証言が残っています。それによれば

①聞き取りした元慰安婦は16人
氏名すら明確でない者が3人
生年月日が記載されているのは半数の8人
④その生年月日すら、別の調査やインタビューには全く違うことを述べている者もいる。
⑤朝鮮半島で重視される出身地についても大半の13人が不明・不詳
⑥大阪、熊本、台湾など慰安所がなかった地域で働いたという証言もある。
氏名が確定しない者、出生地があいまいな者がほぼ全員

言うも愚かですが、これでは調査の名に値しません。

特にこのような賠償措置を用意している聞き取りにおいて、当人確認のためのなんらかの書類が必要なことはイロハのイで、聞き取りをした全員があいまいだったというのですから、もはや調査ですらありません。

おまけに出身地、生年月日までデタラメ。このために、後に政府が追跡調査しようと考えても、まったく不可能になってしまいました。

これが植村記者のいう金学順証言の、「歴史の転換点」が招いた河野談話の内実だったのです。

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コメント

証拠はなくても証言があるのだから償わなければならない。
そんなふうに考えていた時期が俺にもありました

たぶん、かつて自分は「イイ奴」だったのでしょう。
今は「イイ奴」ではないのですが、
洗脳の解けた晴れやかな気分です。

管理人さん、テーマからの脱線でごめんなさい。

プーさん。
オレは某大学の合格発表での中○派の喧しさに、こりゃ右翼も左翼も過激な連中は一般市民にとって同じ。ただの迷惑!と見切りました。
まあ誰でも通る道ですよ。私も大学時代にはアジビラ配ってた学生にいつも貰ってはニヤニヤしながら見てましたが(もう高校で懲りてた)、昭和天皇重病の頃に「ヒロヒトの戦争犯罪がイギリスの新聞に取り上げられた」
って、THE SUN紙のコピーを載せてるのを見て、「おいおいあんたら(一応先輩)、SUNって日本でいうと東スポだよ」と、逆に校正してあげたり(笑)

ちなみに極左はすでに下火で、一番危ないのは「原理」と言われてた時期です。
セミナーにしつこく誘われて半分傾いてた学生を連れ戻したり。

昨日コメントした某大学のバリスト中○派は、白メットにタオルにゲバ棒という古き良き?スタイルのが30人という状況でしたので、さすがにちょっとビビリましたが(苦笑)。

話すとほんとイイ奴なんですわ。政治の話しなきゃ。
沖縄での米軍演習を一部(それこそ無駄な金かけて)王城寺原に移転することに反対する署名を募ってた相手に、
「沖縄の負担軽減で国がカネ出すんだから賛成なんだけど」
「いや、日本に米軍がいること自体がおかしい」
「じゃあ、対案出せ。自主防衛に予算割くか?まさか9条があれば安全だなんておもってるの?」
と、黙らせたことがあります。

山形様の勇気ある行動に敬意を表します。

最後の下りのところで、「中国が守ってくれるさ」とか言わないあたり、彼等は良くも悪くも純粋ですね。

脱線続きでごめんなさい。補足ですm(__)m

プーさん。
あのバリスト当時は天安門事件の記憶がまだ生々しく、ソ連も崩壊してロシアがメタメタでジリノフスキーみたいな極右が「日本なんか海上封鎖すれば1ヶ月で干上がる」なんて言ってた時代です。

米軍訓練移転の反対署名を求めてきた相手には「アメリカとの安保条約切ったらどうするの?、中国と組む?まさかロシア?」と言ったら、あっさり黙りましたよ。オレは親米保守だと言わんばかりの態度で。
「純粋な」彼らを逆に呆れさせたというか…。
私も若かったし。

だからこそ、先日の京大の事件を見て「まだ、こんなクラシックというか化石みたいな連中がいるのかよ!」と驚きました。

日本でもトップレベルの頭脳を持つ連中が、「純粋な正義感」に陥り易い(ライフスペース事件みたい)典型です。

テーマから離れた話はこのていどに。

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