植村氏の痛い弁明
植村氏は、自ら2014年8月29日の読売新聞の検証記事に答える形で、今までくすぶっていたふたつの疑惑を取り上げています。
「批判のポイントはふたつある。
①キーセンを養成する家へ養女として出されたことにふれていない
②養父に連れられて行かれたことがわからなくなっている-ということだ」(手記)
まさにこの植村氏の要約どおり、この2点が長年に渡って植村記事が誤報とされてきた大きな理由になっていました。
まずは、植村氏の当時の記事を確認してみましょう。こうあります。
「貧しくて学校は普通学校(小学校)四年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らをしていました。『そこに行けば金儲けができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と二人で、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年でした」
(植村手記より再現 朝日新聞1992年12月25日)
これだけ読めば、<当時子守をしていた金学順さんは17歳の時に「地区の仕事をしている人」に勧められて中国大陸に渡って慰安婦になった>としか読めません。
(写真 1991年12月、東京地裁提訴の記者会見における金学順氏)
この記事のわずか4か月後の1992年12月に、金学順さんの東京地裁に提出した訴状内容が分かることになります。そこにはどうあったのでしょうか。
・1924年吉林省(満州)に生まれる。
・1926年(2歳) 母と共に平壌へ移住 。
・1939年(15歳)でキーセン巻番(キーセン養成学校)に通う
・1941年(17歳)卒業するが年齢が足りずキーセンになれず、養父に中国大陸なら金が稼げるだろうと、養父に連れられて平壌から中国大陸に渡る。
・北京に到着町中で日本軍将校に呼び止められ「朝鮮人だろ、スパイではないか?」と姉さんとトラックに乗せられる。夜中ついた空き家で将校に犯される。翌日、お姉さん共々慰安所に行く。※原告団長 ヤン・スニム(植村記者の義母)
※原告代理人弁護士 福島瑞穂 高木健一 林和男など
このように訴状には、<15歳(数え)の時にキーセン学校に行った>と書かれていています。
なお、「日本の将校に呼び止められて犯された」うんぬんの箇所は、植村記事が出た後に、書き加えられた部分です。
キーセンは妓生と書き、芸者と訳されますが、実態は当時の官許の売春婦・公娼のことです。
そのようなものに14歳で自ら進んでなりに行く少女はいないわけですから、当然、親に売られて行ったことになります。
ただし、あくまでキーセン学校ですから、芸事の勉強だけで、実際に売春行為をしていたかどうかは不明です。
その後に17歳で「地区の仕事をしている人」に連れられていったことを、訴状では「検番の人」と書いています。
検番とは地区の女性を、料亭や芸者、娼館に連れていく売春斡旋業者の置き場のことです。当時の朝鮮では、ほぼ100%朝鮮人が経営していました。
つまり、金学順さんの訴状によれば、<親に売られて公娼にされた。その後、17歳で売春斡旋業者に勧誘されて、中国に渡って慰安婦になった>ということになります。
ところが、植村氏は手記でこの部分をすっぽりと落して報道します。
その理由を手記では、、西野瑠美子氏などの主張に重ね合わせてこう書いています。
なお西野氏はこの世界の有名人で、「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター(VAWW RAC)の共同代表として、松井やより氏と共に2000年に、「女性国際戦犯法廷」というイベントを開催した人物です。
この集会はNHkでも放映され、後に主宰者側の期待どおりに仕上がっていないというので訴えられ、「期待権」という本来、遺産相続に使われる法律用語がテレビ番組に用いられるというトンデモ裁判を生み出したことでも有名です。
(下写真)https://www.youtube.com/watch?v=aE6t1mn0UXE
(写真 「女性国際法廷」という弁護人ぬき模擬裁判で、天皇に死刑判決を下す松井やより元朝日新聞記者)
それはさておき植村氏は、このふたつの情報を落した理由としてこう書いています。
「<たとえ妓生出身だとしても、日本軍の慰安所に連れていかれ『慰安婦』にされた女性たちが受けた被害は、いかなる理由をつけようとも日本軍による加害を正当化するものではない>
キーセン学校に通ったか、通っていなかったかは大きな問題ではないと私は思う。金学順さんが、どんな経緯であっても、自ら望んで慰安婦になったわけではない。被害者は被害者ではないか」(手記)
これを読んだ時に、あーとため息が出ました。植村氏にとってこの23年間は、自分が関わった慰安婦問題を深化する時間ではなく、ただひたすら「オレは間違っていない」とつぶやき続ける時間だったようです。
植村さん、違いますよ。いまだにこんなことを言っているんですか。朝日新聞が社内に植村氏を置きたくなかった理由がこれです。
植村氏は自分が、まったく間違った報道をしたと思っていないわけで、この姿勢がどうやって慰安婦問題をランディングさせるか悩んでいた朝日の上層部の思惑と食い違っていたのです。
というのは、朝日は95年前後の時期に一度社内で誤報として認めるかどうかで激論を交わしたことがあって、慰安婦報道の間違いに気がついていたのです。
ただ引っ込みがつかなかっただけのことでズルズル引きずってしまって、かえって傷口を拡げてしまいました。
だから、慰安婦誤報の源流で、なおかつ、古い朝日のリベラル頑固派の植村記者が社内にいてもらっては不都合だったのでしょう。
というわけで、彼は体よく肩叩きされて早期退社に追い込まれたのです。
それはさておき、この西野氏の論理がいかにメチャクチャなものか、たとえばコメントの常連さんでいらっしゃるプーさんは、内科のお医者さんですが、医療過誤で訴えられたと仮定して考えてみましょう。
患者側の医療過誤専門弁護士がこういう論理を使ったらたらどうでしょうか。
「死亡した患者が受けた被害は、いかなる理由をつけようとも医者による被害を正当化するものではない。患者が特異体質であるか、否か、あるいは病院に搬送された時にどのような状況であったかどうかなど大きな問題ではない。患者さんが、どんな経緯であろうと、進んで死亡したわけではない以上、被害者は被害者ではないか。病院の入口を潜って亡くなったら、全部医療過誤だ」
とまぁ、こんなかんじで、病院に入って亡くなったら、いかなる状況であっても例外なく医療過誤ということになっちゃいます(苦笑)。
もう鉄板・無敵の論理ですね。
憎い相手を決めつけるだけで、なんの調査もデータもいらないし、反論などしようものなら、「生命・自由・幸福追求の権利を定めた憲法第24条違反」などと言い立てて、社会的に葬れるのですから。
マジ、福井地裁・樋口英明裁判官(※大飯原発差し止め訴訟の時のヒト)なら、そんな判決なんか出しそうだな(笑)。
一見、「女性の人権」「戦時性暴力」といったトレンドな概念でコーティングされていますから惑わされますが、使っている論理はこのように粗雑な短絡でしかありません。
西野氏たちは、こんな理屈に頼って他人を攻撃ばかりしているから知的怠惰になったわけですが、この論理を作ったのは彼女たちではありません。
それを作ったのは、他ならぬ河野洋平官房長官です。彼は河野談話でまったく同じ論理を使っています。
1993年8月4日の河野官房長官談話の河野氏の発言です。
「(強制連行の事実があったという認識なのかと記者団に問われて)「そういう事実があったと。結構です」
「精神的強制は官憲の記録に残らない」
ここで河野氏は、日本政府の調査でいまに至るもなんの証拠もない慰安婦の強制連行を、一挙に「精神的強制」にまで無制限に拡げています。
「精神的強制」まで強制連行に含めるのなら、もう調査など必要がありません。
「精神的強制性」は、河野氏の説明では、「本人の意志に反して」なのだそうですから、親に売られようと、女衒にだまされようと、当人の意志だろうと、全部「日本軍の強制連行」なのです。
これが世に言う河野官房長官談話の核心部分で、彼は、談話本文において政府見解が強制連行を認める証拠はないという一線で止まっていたものを、勝手に独断で記者会見の場で逸脱したのです。
これが後に国際社会で、「日本政府は慰安婦の物理的強制の事実があった」という解釈につながります。
政府は現在、河野談話文書版は継承すると表明していますが、このような一官房長官の記者会見における口頭による政府見解逸脱まで継承するとは言っていません。
これが後に、強制連行の証拠がなにひとつないにもかかわらず、河野氏が「精神的強制」にまで拡大解釈したために、「慰安婦問題の本質は女性の人権侵害だ」、果ては「日本軍は性奴隷を使役していた」などとという「国際常識」を生むことになります。
このようなミソもクソも一緒にして全てを「強制連行」にしてしまった源流こそ、この植村記事の数行なのです。
※お断り この後、後半が続きますが、長いのでカットして次回に廻します。いつもダラダラ書いてすいません。
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いわゆるトンデモ判決ですね。
近いものはいくつかあります。
大野病院事件、加古川心筋梗塞訴訟、奈良心タンポナーデ訴訟などです。
慰安婦問題と共通しているのは、証拠や科学や諸般の事情を考慮せずに「被害者に寄り添う」弁護士・判事・マスコミです。(この分野では政治家は関係していないようです)
投稿: プー | 2014年12月19日 (金) 13時20分