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2015年1月16日 (金)

「言論の自由」は守られねばならないが、それは正さの証明ではない

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シャルリ・エブドは下のAFPの写真にあるように、タブロイド版の左翼週刊紙にすぎません。

日本でタブロイド版の左翼紙といえば「日刊ゲンダイ」でしょうが、あそこを襲うモノ好きなテロリストはいないでしょう。

シャルリ・エブドの発行部数は、わずかに6万部ていど。植村氏に訴えられた週刊文春が約70万部ですから、その規模がわかります。

ただし、フランスは日本のような押し紙という悪しき商習慣がないので、代表的日刊紙ルモンドですら29万部程度です。

ではなぜ、この「小さな新聞」が襲撃されたのでしょうか。 

Photo
それにはまず、フランスにおいて<風刺漫画>がどのようなステータスにあるのか知っておいたほうがいいでしょう。 

コロンビア大学(歴史学)のサイモン・シャマ教授は、こう述べています。 

「風刺を殺害することは決して笑い事ではない。不遜こそは自由の活力源である。自由と笑いは3世紀以上にわたって欧州の伝統の中で双子の関係にあったし、双方あいまって風刺する権利として貴重なものと見なされてきた
グラフィックな風刺は、カソリックとプロテスタントの間の宗教戦争の中で武器として登場したのが最初である。
プロテスタントは、印刷物において法王を怪物に、そして王侯貴族を虐殺者に描き出した。17世紀半ばにイラスト入りの新聞を発明したオランダ人は、スペイン王国に対する反抗を描く図解の歴史を描き始めた」(フィナンシャルタイムス1月7日)

~ん、「不遜こそは自由の活力源」「自由と笑いは双子」「風刺する権利」ときたか・・・、何やらご大層なもののようです。

ここでシャマ教授が言っているのは、ヨーロッパの歴史の中から<政治的武器>として風刺漫画が登場したということのようです。 

それはなんと新教徒と旧教徒の血で血を洗う闘いの中で既に誕生し、印刷物として時には「異端」を、時には宗教的権威を叩きのめすための文字通りの政治的武器でした。 

そしてなによりフランス共和国という国家のレジティマシイ(正統性)の根源であるフランス革命においても、<風刺>は大きな力を発揮しました。

下の風刺画はまだ生ぬるい方なのですが、第一身分の聖職者、第二身分の貴族が、重税の大石を第三身分である平民に乗せて押し潰しています。

|重税に苦しむ第3身分風刺画の破壊力は、当時ほとんどが文盲であった貧しい農民や職工を革命に立ち上がらせるための起爆剤でした。

それは現代でもそうでしょう。グチャグチャと細かい活字よりも、一枚のグラフィックのほうがよほど訴求力があります。

この<絵の力>が持つ猥雑で権力を屁とも思わない「不遜な」パワーこそが風刺画であり、権力に立ち向かう自由の源泉なのだ、とフランス人は考えているのです。 

 この事件を受けて、AFPはこう書いています。(下写真も同じ) 

「報道における風刺画にはすでにこの当時100年の歴史があった。こうした風刺画が初めて登場したのはフランス革命のさなかだった。フランス国王ルイ16世と王妃、マリー・アントワネットは風刺画家のお好みの標的で、国王はブタ、王妃はヘビとして描かれていた。聖職者もまた連載画でさらし者にされていた」(AFP1月9日) 

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このように風刺漫画が「言論の自由」において占める地位は、まさに欧州という古い政治の舞台において、歴史的に形成され、確立してきたものであり、なかでもフランスの建国以来の歴史にまつわる、いわば「神話的存在」であったのです。 

しかし、このような言論界における特別席の座り心地は、時に危険なものに転化してしまいがちです。

フランス風刺雑誌は 自分が属する文化圏であるキリスト教文化圏に対しても、毒を含んだ<笑い>によって批評しています。

上のAFPの写真にあるシャルリ・エフドの裏表紙には、十字架をかついだキリストの風刺画が見えます。 

だから彼らは、「一切の宗教に対して公平に風刺している」という言い方をしています。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。私はそうは思いません。

しかしそれは同じ文明的価値観を共有できるという暗黙の了解の上に成り立つもので、いわばギリギリ「寸止め」が可能です。 

たとえばシャルリが掲載した法王のホモセクシャルな風刺漫画があったとしても、現実にありえないから、読む者は安心して笑って見ていられるわけです。

逆に言えば、読者がキリスト教徒がたらこそ書ける一枚なのです。 

しかし、昨日にあげたムハンマドの肛門に星という絵柄はどうでしょうか。シャルリはイエス・キリストに対して同じ絵柄を描くでしょうか。

たぶんしないはずです。 上の写真のように、ギリギリ十字架と絡ませるまでで「寸止め」するはずです。

シャルリは認めないでしょうが、そんなことをすれば、自分の雑誌の購買層であるキリスト教徒に「売れない」からです。

この<寸止めと突っ込み>のえもいえぬバランスこそが、風刺画を洗練化させていったのです。

風刺画家にとって、ギリギリで止めるということが、権力の出方を探り、それをより高い質の笑いですり抜けることによって風刺漫画のクォリティを高めることを可能にしていました。 

風刺画家は、ここまで言ったら危険かな、しかしそこをつついてみようぜ」という間合いを読みながら、かつ、読者に日常のストレスから解放されてもらおう、と思って書き、一方読者は、「ここまで書くか。けど、こんなんで怒ったら、ヤボテンだぜ」という阿吽(あうん)の了解が成立してこそ風刺画というジャンルは出来ているのです。 

しかし、異文化や異教徒にはそれが通じません。<笑い>の質や、価値観すらも違うからです。 

こんな簡単なことが、フランス風刺週刊紙には分からなかったようです。シャルリの自分が属する文明圏の風刺画は、確かに笑えます。 

しかし、イスラムやわが国を描いたものはさっぱり面白くないのは、この「風刺の見切り」が甘いからです。 

ムハンマドの尻の穴に星を飾って何が可笑しいのか、私には理解できないし、これがいかにイスラム教徒を怒らせるか、予測しなかったこともまた分かりません。

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また「フクシマ」の三本足の力士の何が楽しいのか、さっぱり理解できません。というか、これで笑うフランス人が目の前にいたら一発張り倒してやりたくなるでしょう。(しませんが)

当時まだ福島県の女性は、妊娠や出産に対して脅えがありました。「奇形が出る」と岩上安身氏のような反原発主義者が、騒ぎたてたからです。

その絶望的状況を乗り越えて、福島の女性たちは新しい生命を生み出してくれました。ほんとうに嬉しかったことを、今でも思い出します。

この福島県の出生率が高まりつつあり、東京オリンピック招致が決まって日本全国が喜びに沸き立っているその時を狙って、このような三本足の力士でヘラヘラ笑う神経を許せません。

はっきり言って、まるで子どもの便所の落書き以下です。私には、これか命をかけて守る「言論の自由」などにはまったく見えません。

下の写真は今回の大規模抗議デモのものですが、彼らが守ろうとしているのはフランスの国柄なのか、あるいはシャルリ・エブドの「言論」なのでしょうか。

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決定的にシャルリ・エブドは、鈍いのです。自らの属するキリスト教文化圏の絶対的優位を無意識の前提にして、他の異文化を差別することによる<笑い>の卑しさに気がつかないのです。 

そしてイスラム系移民が激増するフランス社会でこのようなことをすれば、それは社会の排外主義と安易に癒着して、結果としてシャルリのような戦闘的左翼の敵であるはずの極右勢力を伸ばしてしまうことに、あまりにも無自覚です。

したがって、ヨーロッパの政治的歴史的背景や、ましてやフランスの革命神話などを共有する立場にない我ら外国人や異教徒は、このフランス製の風刺画の特権的地位などを認める必要はなく、冷やかな突き放したスタンスで見るべきなのです。 

今回の襲撃事件は痛ましく、また許しがたいものでしたが、だからといって、それが故に風刺紙の中身まで「言論の自由」として美化される必要はまったくありません。

この事件は確かに「言論の自由に対する挑戦」でしたが、だからといってその「言論」が正しいかどうしかは別な次元のことなのです。

これは植村氏に対する脅迫が、彼の「言論の自由に対しての挑戦」だとしても、だからといって、それによって言説までが正当化されるわけではないことと一緒です。

こう考えてくると、おそらくシャルリ・エブド襲撃事件は、言論へのテロの終わりではなく、単なる序章でしかないように思えます。

もうひとつこの事件を理解するには「ライシテ」(政教分離・非宗教性)というフランスの国是があるのですが、それについては来週に。

 

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コメント

風刺は文化だからなんでもあり?
ってわけでもないようで、テロを認めるような発言をしたコメディアンが逮捕・起訴されています。あれ、おかしいな。

なんのことはない、「オレたちクリスチャンだから偉いんだ!」差別丸出しですね。
漫画だったらよかったのか?
ムスリムには見るに堪えない内容でも。

笑いの観点から見ても、江頭2:50トルコで全裸事件なんてことがあったとき(彼はかなり特殊な例でしょうが)、現地では「ふざけるな!死刑にしろ!」「生かして帰すな」とまで言われていました。
やはり、土地柄や文化によって、面白いか面白くないかは違って当然ですし、なによりこれ以上はダメ!というラインを見極める必要があります。

1日経って少し流れが変わったか、フランスでも「あれはない」と新刊を燃やす集団や、ローマ法王の談話が報道されたりしてますね。
シャルリはこれも「皮肉」で返すのでしょうか?

国が一時的にヒステリーを起こして、議会で「ラ・マルセイエーズ」を歌い出したりしてますが、それこそシャルリの格好のネタでしょうに。
慌てて出港した空母「シャルル・ドゴール」が被弾したり原子炉が暴走でもしたら…何を書いてくれるんでしょうね。

「悪魔の詩」についてはどう説明するのでしょうか?

シャルリの権力者や権威に対する過激なまでの挑発の対する代償について彼らが考えなかったとでもいうのでしょうか。まるで無邪気な、日本人のように。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
徹頭徹尾、この言葉の本質が問われているというのがわたしの見解で
す。

長年の文化として、キリスト教圏では寸止めが機能していた・・・勉強になります。
現代の人間界で猛威を振るうHIVやエボラも昔はジャングルの奥で宿主と共存しながらひっそり暮らしていました。彼等はまだ、人間との付き合い方が分からないのです。

原子炉が暴走したら・・・さしずめ、腕が3本の自由の女神でしょう。ガイガーカウンターでも持たせれば完成です。
しかしそんなものを思いついたとして、いざその時に出版出来るでしょうか。やったらフランス国民の怒りによって廃刊に追い込まれるでしょう。

ペンは剣より強しという言葉がありますが、確かにペンでも人を殺せますね。彼等は分かってやっているのではないか、という疑念が湧きます。末端の絵師はともかく、編集長とか社長とかは。

山形さん、確かにフランスは憎悪表現についてはかなり厳しい規制がありますが、この風刺漫画に関しては特にそれがありません。それがこの記事を書き出した謎でした。

由紀子さん。いうまでもなく、言論の自由は近代法治国家の根幹です。フランスの知識人は、風刺漫画を基本的人権の一角に位置づけているようなことをよく主張しますが、それはフランス独特のバイアスで、必ずしも国際的尺度ではありません。

私は、言論の自由は十全に防衛すべきであると考えています。
だからといって、その言論がすべて「正しい」かどうかは別です。つまり、言論の自由はあるが、それが直接に正しいことの担保にはならないわけです。
次元が違うということでご理解いただきたいと思います。

「悪魔の歌」は、筑波大学の研究者が殺され、まだ犯人は見つかっていませんので、なんとも判断しかねます。

由起子さん。
悪魔の詩の件は日本でもシャレになりませんね。
実際に邦訳しただけの筑波大学の先生まで暗殺されているんですから。
日本人よりもフランス人がどんだけノーテンキなんだよ!と。


プーさん。
ねえ…。悪いこと想像したらいったいどうなるやら(苦笑)
それでも「オレたちはあくまで被害者で、批判者だぁ!」と叫び続けるのかどうか。

ついでに、犯人の「武器庫」が分かったようですね。ルートはこれから分かってくることでしょう。

おっと、投稿時間がカブってました。

管理人さん。
だから、「自由・平等・博愛」なんて理想を掲げて200年以上のフランスも、やはり根底は白人キリスト教徒内の常識の範囲内でしかなくて、異教徒よりも優位であるという血が流れているままなのだろうと。


プーさん。
ペンは剣より強しとは、特定の社会状況でしか成り立ちませんよね。あくまで「象徴的」な表現。同じ数なら剣や銃の方が絶対に強いです。
じゃあ、よしっ!
日本製最新ボールペン内臓型の着剣機構付きアサルトライフルを開発して特許取ろう!
ついでに、10得ナイフ付きで。

あ、管理人さん、冗談ですから…怒らないで。

山形さんありがとうございます。
そうですね。

この期に及んで風刺画家達が粋がっていられるのも、フランス政府・軍という剣ないし盾、銃が守ってくれているからですね。
政府としては「ふざけるな、もう黙れ」という気持ちでしょう。

日本は本来多神教ですから、仏教の仏にしてもキリスト教の神も、

あ、途中で投下してしまいました。

続きです
イスラムの神も、極端な拒絶をすることは無いように思います。
単一神教においては自らの神は、絶対の存在でしょうからそれを否定されるのは自らの存在そのものを否定されるのと同義なのかもしれませんね。

今回、フランスの警官隊は礼拝の時間を狙って突入したとの事ですが、イスラム教徒にとっての最も神聖な時間を狙うって言うのもどうなんだろうと感じてしまいます。

言論の自由が保証されるのは当然ですが、他者の権利を著しく損なう物は、また当然に非難されるべきです。

襲撃事件そのものは許されざるものでしょうが、イスラム教徒の中に、自らの神を貶める者に対して過激な対応を取る事多いのはすでに明らかなのに、彼らの神聖な神や、預言者を辱しめればどうなるか想像出来ない事の方が不思議です。

テロ行為は言語道断として、この風刺画は「すいません、どこが面白いんでしょうか?」と伺いたくなるような出来ですね。売れない芸人がドツキ漫才をしている程度の作品じゃないでしょうか。テロリストには「こんな便所の落書きみたいなのにむきになっていると恥ずかしいよ」と教えてあげるのが親切というものじゃないかな。日本にはもっと宗教人の肺腑をえぐるような漫画が沢山あります。星野『妖女伝説』のサロメとかひさうちみちお『悪魔が夜来る』とか大前田りんとか、もっと世界を見た方がいいのではないでしょうか?おフランスのエスプリはどこへ行ったのかなぁ。

風刺画の落とし前をつけさせたいならマクロン大統領の首も切るほうが効果的なんだよな
アラー・アクバルは盗賊である神や仏が人を殺して盗んだモノを分配して創造主をやっているという意味だからテロのスローガンになってるんだろうな
駄洒落と曲解で“勝った方と立場をすり替える”惨めなゴキブリAI上級国民が自由を盾に他者を煽ったところで気に入らない産廃を暴力で始末するのもまた“自由”って言われるだけだしシャルリー・エブドみたいな風刺にしろ盗作にしろいつぶち殺されてもいいように命懸けでやれってだけの話なんじゃないの
所詮は世の中殺した者勝ちなのに司法機関や行政機関や立法機関がマフィアみたいな癌細胞を守ってるのも都合よく犯罪が起こる環境を維持して国家の存在意義を確保するためだけど国家権力持ってるゴキブリAI上級国民ですらカードゲームのブラック・マリアみたいに悪いことをしたほうが高得点とかいう破滅願望で行動してるくらいだし首を切られた教師も本望ってやつだろ
風刺画に命を懸けたフランス以外の国も“最後まで残ったピエロが嘲笑した時にはもう誰もいなくて札束が役に立たなかった”って茶番劇をやってる嘲笑屋のムーンレイカーの味方だからどの道“勇気”を出して犯罪をやる方が“得”なんだろうし笑って送ってやればいいんじゃないの

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