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« パリ風刺週刊誌テロ事件まとめ | トップページ | 「言論の自由」は守られねばならないが、それは正さの証明ではない »

2015年1月15日 (木)

パリ風刺週刊誌テロ事件は、単に「言論の自由への挑戦」で片づけられるのか?

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このパリ風刺週刊誌テロ事件は、いくつもの問題をはらんでいます。 

昨日あたりのマスコミの解説を聞くと、ほぼ例外なく「言論に対する暴力の挑戦」といったトーンで報じられています。 

テレ朝では大谷昭宏のジィさまが、入れ歯を飛ばさんばかりにして、「言論には言論で対するべきなんですよぉ」と叫んでいらっしゃいました。 

まぁそりゃそうなんですが、それではなぜこんな事件が起きてしまったのかさっぱり分かりません。

確かに英国のフィナンシャルタイムスや、エコノミストあたりの社論も同じく「文明の衝突ではない。言論に対する暴力だ」という論調で共通しています。

しかしこれだとあまりにも通り一遍な解答に過ぎて、なぜこの襲撃を受けた風刺雑誌シャルリ・エブドが選ばれた標的となったのか、あるいは、再び下のような挑戦的な表紙の最新号を作ったのかわからなくなります。

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ここにはイスラムの預言者ムハンマドが、「すべてを赦す」というボードを下げて泣いている様子が漫画化されています。(たぶん汗じゃないよな)
※追記 なお翻訳家の関口涼子氏の見解を欄外に添付しておきます。

フランス政府は少なくともこの時期には、自粛してほしかったでしょうね。これでかなり長期に渡ってシャルリ・エブド社は当局の重保護下におかねばならなくなりましたからね。

米国のニュースネットはこの絵を流すのを自粛したそうですし、いくつかの国も同じ判断をしています。 

その理由はご承知のとおり、イスラムは偶像崇拝を禁じていて、イスラム世界では、預言者ムハンマドの顔には必ずベールがかけられています。

それは、 ムハンマドの肖像画や彫刻があると、人々が過ってそれらをアッラーフの代わりに拝めてしまうからだと言われています。

これは宗教的戒律であって、他の宗教の文明圏に住む者がとやかく批評の対象にすること自体が憚られるもので、まして嘲笑う対象にするべきではありません。ここまではいわば常識のレベルなはずです。

さて、今回のシャルリ・エブドの襲撃において、犠牲になった12名のうち4名は風刺漫画家でした。 

その中には、編集長であり、自らも画家「カーボ」というペンネームを持つステファン・シャルボニエ氏も含まれています。 

また、同じく犠牲になったカブ氏はこの週刊誌の共同経営者で、有名な風刺画家でした。

「シャルリー・エブド紙の前身である月刊誌「アラキリ(Harakiri:日本語の切腹の意 フランスでは「アラキリ」と発音する)」の共同創刊者でもあった。アラキリ誌は、1970年代に発禁処分を受けたため、『シャルリー・エブド』に改名したという背景がある」(ハフィントンポスト1月8日)。

また、他にウォリンスキ氏、ティグノスも犠牲になっています。 

編集長のシャボニエ氏が書いた漫画がこれです。 

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                     (絵 ハフィントンポストより)

これは2011年に発表されたもので、ムハンマドを同性愛者として描き、おそらく自分がモデルの男と同性愛をしているのが描かれています。
 

この時もイスラム世界で強い反発を招きハッカーの被害を受けています。 

ハフィントンプレス(1月8日)によれば、これに対してシャボニエ氏はこう答えたそうです。 

「2012年には、フランス当局から警告を受けていたにも関わらず、ヌード姿のムハンマドの絵を複数掲載した。シャルボニエ氏はAP通信に、預言者ムハンマドを風刺する漫画の掲載決定について次のように主張した。
『ムハンマドは私にとって聖なる存在ではない。イスラム教徒がこの漫画を見て笑わないのは仕方がない。しかし、私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない』」

ここで氏が、「私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」と言っていることに注目ください。

これは、次回に説明しますが、フランスの<ライシテ>という法の原則を指します。一般的には「政教分離」原則と呼ばれていますが、フランスはこれを徹底的に適用しています。

他にもこのようなものがあります。 

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右が「コーランは糞 銃弾から守れない」とあります。これは、事件後もよく引き合いに出されましたが、左に至ってはあまりの下劣さに掲載するのを見合わせたメディアも多かったようです。 

これは予言者ムハンマドを顔を出しただけというレベルではなく、「ムハンマドのスター誕生」だそうです。 

これなど有田芳生氏のご意見を伺いたいものですが、まさに憎悪表現(ヘイトスピーチ)そのものだと指摘されても致し方ないでしょう。 これはもはや「風刺」ではなく「侮辱」です。

ところで、フランス人はこのような「言論の自由」の激しい逸脱の常習犯、いや確信犯とでも言える存在です。

これは他の主要各国とフランスか大きく違う点で、わが国はもとより米国でこのような反イスラムの風刺画は印刷することがほとんど不可能なはずです。

ただし、シャルリの名誉のために言い添えるならば、シャルリはキリスト教も風刺の対象からはずしているわけではなく、ローマ法王すらも笑い飛ばす標的にしています。

その時のシャルリの言い分はこうでした。

「我々はローマ法王も同じように揶揄しているから、平等であって、差別ではない」

また、その「無差別風刺」の対象は、福島事故にも及び、2013年にシャルリではありませんが、同じ仏週刊紙カナール・アンシェネに掲載されたものが下です。 

2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催と、東京電力福島第一原発の汚染水問題の影響を報じた記事と共に、手や足が3本ある力士を掲載しています。 

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 この画は3本の手がある力士と、3本の足がある力士が土俵上で向き合い、防護服姿のリポーターが「すばらしい。フクシマのおかげで相撲が五輪競技になった」と中継する内容です。 

この風刺画は、弁解の余地なく被曝地差別丸出しで、私はこれを見た時に、強い怒りを覚えたことを思い出します。 

これはフランス社会ではまったく問題にされず、日本政府の抗議に対しても、新聞社はにべもなく謝罪を拒否して、こう言い放っています。

「謝罪するのは、日本政府と東電のほうだ」 

また、これに対して日本で抗議が沸き起こっていることに対して、フランス人のひとりはこういう意見を述べています。 

「ユーモアとしては辛辣だけど、傷つけるほどまでの深刻なものではなくないか?それほどに失礼なものでもないと思うし、ユーモアは必要だって。福島のことを隠そうとしたところで、今起きている惨事がなくなるわけじゃないしさ」 

ユーモア?!絶句です。おそらくこの風刺画を見た、日本人の10人に9人は脱原発派の否かに関わらず、不快になるでしょう。

それは自分たちが守ろうとしている大事なものに、冷水を浴びせられたような気持ちになるからです。しかも面白半分に。

あるいはちょうど、このシャルリ・エブドの風刺漫画を見たイスラム教徒の人たちのように。

彼らフランス人の思考様式にはなにか決定的な抜け落ちがあります。それはどうしてかくも簡単に一線を越えてしまうのか、自覚できていないことです。

次回もこのテーマを続けます。

                   :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

■翻訳家関口涼子氏の「Tout est pardonné」についての見解http://synodos.jp/international/12340

「すべてが許される」であれば、フランス語ではTout est permis になるだろう。「許可」を意味するPermissionから来ているPermisと異なり、Pardonné は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。そして、permisであれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、pardonnéは、過去に為された過ちを赦すことを意味する。「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。
しかしこれは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、たとえば、放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、または、あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。割れた壺は戻らないかもしれない。それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。

画面上この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、「シャルリー・エブド」誌側の言葉とも取れる。つまり、複数の解釈を許しているのだ。ムハンマドが言ったとすれば、それは、「君たちの風刺・または思想をもわたしは寛容に受け止めよう」ということであり、「シャルリー・エブド」誌の側としては、「わたしたちの仲間は死んだ。でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」ということを意味するだろう。

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コメント

その風刺画家達は、他人の心を理解出来ないか、しようとしないのですね。
そういう環境で育ったのか、そういう性質だから風刺画かを続けられたのか。そういうのを書けば誰かからお金が貰えるとか。

TOUT EST PARDONNEは、全ては許される、という意味らしいですが、イスラム教徒だけでなく事件に巻き込まれた人々まで冒涜しているように思えます。

ある記事によると、この風刺画に書かれている言葉の訳は、誤訳だとの事らしいです。本来の意味は、「許す」でなく「赦す」とのことらしいです。「許可」するの許すでなく、宗教的意味合いの強い「赦す」。極端な表現すれば、全てを水に流し合おう的な意味合いかと。風刺画を描いた者が、どう言う意味を込めてこの言葉を使ったかは、私には分かりませんが、巷間で考えられている意味合いとは少し違う気がします。

一宮崎人さん、ありがとうございます。

水に流す、ですか。
自分は、家族が殺されたら水に流すことは出来そうにないです。


一宮崎人さん、「すへては赦される」で修正しました。ありがとうございます。

わたしにはフランス語のニュアンスは分かりませんが、おそらく宗教的意味合いを込めて「赦す」のほうが妥当でしょう。

しかしどちらでも、シャルリー・エブドがムハンマドがなり替わって勝手にテロリストを赦してしまったことになり傲慢のそしりは免れないでしょう。皮肉で言ったのならもっとタチか悪いですが。

いずれにせよ、異なる宗教の預言者を勝手に出してくるあたり、まったくなんの反省もありません。
本気でテロリストをも「許す」という寛容の精神があるなら、こういった場でベールなしのムハンマドを出さないはずです。

あるいはムハンマドがこのテロリズムを許容するという意味で「許す」と言ったほうが、イヤミたっぷりでいいのかもしれませんが。
ほんとうに何を考えているのやら。

殺された人達の家族も、プーさんが仰せのように簡単に「許す」心境にはなれないでしょう。

なお本職の翻訳家のご意見も、記事に添付いたしました。

「私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」
この一言に傲慢さが集約されてますね
自国の法さえ守ってればその他はどうでもよくて相手を尊重しようとする姿勢が欠片も見られない

フランス人はイヤらしい程、個人主義なのだと思い
ます。個人個人は圧倒的に別人なので、強烈な個性
を持っており、お互いに全然違ってアタリマエ。

全然違うので、個人個人は自分の好き勝手にしても、
他人には無関心でこそあれ、批判する意味もなく、
「どうぞお好きに!私は知りませんから」

大昔に読んだ『エトランゼ』は、キョーレツな個性
の若者が「太陽が眩しいぜィ」とアラビア人を射殺
した物語でした。

そう、自分のやりたい事をヤル!それが人生の第一
動機だ、というのがフレンチ流なのかと。たとえ、
反撃で射殺されたり、死刑判決を受けたとしても・・

リュック・ベッソンが、『TAXI』制作当時のインタビ
ューで、「私はクルマには乗らないんだ、バイクに
乗るんだよ。200km以下では走ったことがないね」
と語ったのにはタマゲました。もちろん公道です。
違法!!ですが、やりたい事をヤってらっしゃる。

私個人は、フランス人みたいな友人はカンベンして
欲しいです。まして、家父長制なムハンメド教から
見たら、信じられない奴等で、即殺モノでしょう。
まだまだ、ず~~~~~と続くと思います。

はじめまして。

どうでしょう。私がこの画を見て覚えた違和感は、もっと宗教的なものです。つまり、tout est pardoneeという言葉が寧ろ、キリスト教的な言葉に思えるのです。

「人間は罪を背負っているが、救世主イエスによって救われているのだ。」というのがキリスト教の教義であり、イスラムとの最大の相違点のように思います。イスラムはムハンマドやイエスを預言者として認めていますが、ムハンマドは彼らにとってのキリストではないですから、「総ては(すでに)赦されている」と発言するのは違和感があるのです。

そういう目で見ると「キリスト教の下、イエスは総ての罪を赦す用意がある(当然、ムハンマドを風刺することは赦される一方、テロ行為の方も赦されるという含意がある)。イスラム教はどうだい?」とでも問いかけているようにも映ります。

アホンダラさん。
リュック・ベッソンのインタビューなんか、それこそ彼らのウィットですから真に受けちゃダメ。

私個人的にベッソン作品は大好きで全部観てますが、ヒット作TAXIは、初期のSUBWAYの焼き直し。
悪乗りとカーアクションが大好きなお方ですな。

また、むしろ外れ作品だったグラン・ブルーなんか、逆に日本から人気に火がついて「名作」と呼ばれるようになりましたが、あの映画の中での日本チームの描かれ方なんか見ると、まあだいたい日本人に対する彼のスタンスなんて半世紀前で止まってるんだなぁ…などと。

キリスト教と、ひとくくりにいってもプロテスタントや、カトリック、ものみの塔、その他同じ教えを、もちながら解釈の違いが教義のちがいとなり、同じキリスト教でありながらお互いを異端扱いし宗教戦争の原因ともなりえます。
仏教においても、真言宗や、日蓮宗など、多くの宗派が、ありますね。
日本においても一部ではあるでしょうが葬儀に際して自らの信ずる宗教による弔いしか出来ない方がいます。
私の家は神道ですが、私個人は恐らくは無宗教にちかいです。強いて言うなら個人の宗派宗教を尊重したい派と言えます。何が正しい誤ってるとは言えないでしょうが、自分の宗教が正しいのならば、他人の宗教を貶めていいのか、どの宗教の教義にも共通してるのは相手を気遣う心だと思うのですが…

種子さん。
おっしゃる通りです。
私なんか人類史上で殺された人間の数は、圧倒的に宗教・宗派対立だとずっと思ってます。
とはいっても、10代末から30位まで意地を張って一切の冠婚葬祭に出ないでいたら…あはは、友人もガクッと減って、家の葬儀続きの時に親戚の顔もほとんど分からんなんてことになりました。
やはり、うわべだけでも無難に付き合っておくのは大切ですね。
あと、クリスチャンといえば、名門通信社のUPI通信なんかトムソンロイターやAPに集約される中で経営悪化して、アラブの富豪が買収。しかし赤字が好転せずに、今はなんと統一教会傘下です。
ニュース資料をあたる場合はご注意下さい。
と、家は曹洞宗の檀家。茶の間には神棚。庭にはお稲荷様までいらっしゃる家庭なんですが。
叔母は若い時分にプロテスタントに改宗。
従姉妹は山寺の坊さんに嫁いだという、摩訶不思議状態。
日本においては信仰の自由って素晴らしいと思います。
ちなみに海外で信仰を聞かれた場合、「無宗教」はアイデンティティーの無いヤツと思われて鼻で笑われると大学の先生が言ってました。無難に「仏教」だと答えとけと。

しっかし、本来最も庶民の仏教である曹洞宗は葬儀費用がやたら高いですね。
浄土真宗の親戚の話聞いたら、なんか格安で馬鹿馬鹿しくなりました。
真言宗だと、やたらお経や講話が長かったり、特徴を比較すると面白いです。
また、日本の場合、嫁入りした途端に嫁ぎ先の宗派に自動的に変わるというユルさ。特徴的だと思います。

アホンダラさん。補足。
TAXI2の日本の国防大臣の逆バンジー誘拐やら、ヤクザと右翼政治団体と忍者をごちゃ混ぜにしたようなハイテク悪の組織や、マヌケヤクザのコミカル演出なんか、大の親日家のように報じられるリュック・ベッソンですら、その程度の理解です。映画は面白かったけど。
あれ、トンデモチューンしたプジョー406という設定ですが、当たり前だけどヤクザのランエボの方が圧倒的にクイックなのが、スクリーン見てて直ぐに解っちゃうのがねえ。演出や編集でどうにかならんかったのかと…。

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