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2015年3月10日 (火)

日本の運命の転換点 第2次上海事変

058
2015年3月8日、全人代最終日に記者会見に臨んだ王毅外相は、日本に対して「日本は70年前に戦争に負けた。胸に手を当てて誠実に反省しているのか」などと、述べています。 

すごいですね。「胸に手を当てろ」ですか。生活指導の教師みたい。

このような挑発的な発言について、菅官房長官は9日午前の記者会見で、「一外相の発言であり、政府の立場でコメントは控える」とスガない、もとい、スゲない対応を示しています。
 

では、王毅さんの仰せのとおり、私なりに「手を当て」てみることにしましょう。 

1937年7月に起きた盧溝橋事件から、わが国は不拡大路線と拡大路線との間の激しい葛藤を内部に抱えながら,中国との戦争に引きずり込まれていきます。 

ただし、激しい戦闘が起きたのは、37年12月の南京戦を経て、翌年38年10月の武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)の陥落までで、これで日中戦争の大勢はほぼ決してしまっています。 

この日中戦争初期の戦闘において、一貫して中国側の主力だったのは国民党政府です。中国共産党軍など影も形もありません。 

この一年半ていどで戦闘はほぼ終了してしまっていたのです。あとは防衛庁戦史叢書『北支治安戦』という史料タイトルが示すように、治安維持活動が延々と続いたことになります。 

欄外資料1に1941年大戦勃発時の勢力図を掲載しておきましたが、基本的にこの勢力関係に大きな変化はないまま1945年8月の敗戦を迎えています。 

意外に思われる方もいらっしゃるでしょうが、日中戦争は華北と、黄河流域、武漢までの揚子江流域、そして沿岸部の多少の都市を制圧したのみで、第2次大戦中は長い停戦状態に入っているのです。 

では、この後に、中国の大部分を占める地域でなにが起きていたかといえば、中国が18世紀末から延々と続けてきて伝統芸になっている泥沼のような内戦です。

この内戦は、基本的に蒋介石率いる中国国民党重慶派と汪兆銘率いる国民党南京派、そして毛沢東率いる中国共産党の間の三つ巴で戦われました。 

ただし、三つの勢力の合従連衡もひんぱんに起きており、これに各地の軍閥がついたり離れたりして、その上に重慶政府には米国、南京政府には日本、延安派にはソ連などといった外国勢力が支援するというややっこしさです。 

広島大学非常勤講師の広中一成氏は「当時の中国は、まるでISISなどの武装集団がはびこる現在の中東地域のようだ」と述べていますが、そのとおりですね。 (資料2参照)

あえて例えるならば、当時の日本の立場は、イラクに駐留していた米軍の位置に相当するかもしれません。 

私たち戦後生れの人間にとって、あまりにも強く南京「大虐殺」の宣伝が刷り込まれてしまったために、あのような住民虐殺を15年間通して大小やりながら、敗戦を迎えたと誤解しがちですが、それは間違いです。 

日中戦争の内実とは、実は日本軍による支配地域の治安維持活動が大部分であったのです。 

皮肉にも日本軍支配地域のほうが治安がいいために、商業も盛んになり、中国軍支配地域から大勢の人が逃げ込んで人口が増えるという現象すら起きています。

漠然と「中国」という国があって、国境線を犯して「軍国日本」が侵略しました、というシンプルな構図ではゼンゼンないことをご理解いただきたいと思います。 

ですから、別稿で詳述しますが、日中戦争において中国共産党軍の出番はまったくといっていいほどありません。 

中国共産党が銅鑼をガンガン鳴らしながら叫ぶ「抗日」と「救国」の主役は、この日中戦初期の1年半を戦った國府軍に対してこそ贈られるべきなのです。 

では、そもそもなぜ日中戦争が始まったのでしょうか。遠因としては満州事変にまで遡らねばなりませんが、直接のきっかけは、一般的には1937年7月7日の廬溝橋事件だと言われています。

中国は毎年7月7日になると必ず廬溝橋事件を宣伝し、この日を日本の「侵略」の記念日としています。

また日本の左の学者たちには、遡ること1931年の満州事変から起算して「15年戦争」などという表現をする人もいます。

しかし私はこれは間違っていると思っています。 廬溝橋事件は、中国側宋哲元率いる第29軍(29路軍)と、日本側の天津軍は共に出先の警備隊同士にすぎず、互いに戦闘拡大の意志はありませんでした。 

この廬溝橋事件が中国共産党の謀略だとする説が、右の人達には強いようですが、根拠が薄弱です。 

陰謀ひとつで国家間戦争は起きるものではありません。 

蒋介石にとっての悲願は、偶発的に起きた不幸な局地紛争をきっかけにして、長年フォン・ゼークト率いるドイツ軍事顧問団と鍛え上げてきた大規模な軍事作戦に、日本を引き込むことでした。

蒋介石はヒトラーの崇拝者で、ドイツ・フェチといっていいような人物でした。ヒトラーに憧れる余り、自らの肩書をフューラーの漢訳の「総統」にしたくらいです。中独合作といって 当時のナチスドイツは、大陸利権を狙って中国に強く介入していていました。

1936年の日独防共協定締結以後も中国にたいしての支援は継続されとおり。終了したのは1938年のことです。

Photo
一方日本側の陸軍参謀第1部長だった石原莞爾は、この事件直後の7月8日に直ちに拡大しないことを命令しています。(陸軍参謀本部臨時命令400号)

日本側には、戦う計画も軍備の蓄積も存在していなかったのです。 

一方、同時期の7月8日、蒋介石は廬山おいて、このような演説をしています。 これはすべての準備が感性して、日本軍を上海で袋のねずみにできる算段がついた証です。

「満州を失ってはや6年、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦する」 

この演説どおり、蒋介石は満州を奪い返すために日本軍を居留民もろとも包囲殲滅した後に、撤退交渉に引き込む腹だったと思われます。 

そのために周到に計画された軍事作戦が第2次上海事変でした。蒋介石は、2代目の軍事顧問だったフォン・ファルケンハウゼンの指導の下に、完璧な動員、集中計画を発動します。

ファルケンハウゼンが上海攻略の作戦計画すべてを立案し、彼は中国を離れた後も、戦中はベルギー占領軍政治長官を経て、反ナチスに加担して逮捕されます。戦後も蒋介石との親交は続いたといいます。

Photo_4
蒋介石は、彼の虎の子だった最精鋭の中央軍と軍閥軍諸派を統合し、実に75万人の大兵力を作り出します。

これは中国で空前絶後の兵力集中であって、その後も中国軍はこの規模を二度と再現したことはないほどです。

いかに蒋介石が、この第2次上海事変に賭けていたかわかります。

この大兵力を以て、1937年8月12日、ドイツ流近代装備に身を固めた精鋭部隊の中央軍第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲し、大攻勢を仕掛けます。

17267004(写真 上海事変に投入された最精鋭部隊「ドイツ師団」。ドイツ軍軍事顧問団によって教育され、ドイツ流訓練を受け、ドイツ製装備を有していた)

これに対して日本側は、上海共同租界の通常警備に当たっていた上海陸戦隊2200名(後に増員されて約4千)にすぎませんでした。

3万vs2200という極端な兵力差を見ても、わが国に「侵略」の意図がなかったのがわかります。

また攻撃を仕掛けるに際して、あらかじめ中国軍は上海周辺に大規模なトーチカ網と塹壕を設営していました。

これは第1次大戦の塹壕戦をモデルにしたゼークト・ラインと呼ばれ、日本軍は苦闘を強いられます。

このように、中国は長期間の準備の上に立った先制攻撃をしかけたわけです。

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(写真 第2次上海事変における塹壕に立て籠もる国民党政府軍。ドイツ型フルメットを被り、ドイツ製武器で武装しているのがわかる)

このように、上海陸戦隊が応戦しなければ、日本の居留民は通州事件のように虐殺されるのは目に見えていたのであって、国際居留地に向けての攻撃に対する応戦は100%合法でした。

したがって、この時点までの日本軍の軍事行動は、国際法上の自衛行動であって、まったく国際法上も何ら問題がなく、「侵略」とはいえません。

いや、むしろ当時は租界はその国の領土に準じるものとして認められていましたから、日本側のほうが中国から「侵略」を受けたとすら言っていいのかもしれません。

6ton_01(写真 中国「ドイツ師団」と対峙する上海陸戦隊。在留邦人を防衛するために10倍以上の敵と戦い、多くの戦死者を出した。陸戦隊とは日本版の海兵隊である)

ちなみに、日本軍の死傷者だけで4万を越える大規模な戦闘が行なわれたにもかかわらず、互いに宣戦布告はなされませんでした。

それは上海事変時までは、日本の戦争指導は不拡大派の石原が握っていたからで、石原の念頭においては、中国は共に白人帝国主義と戦うべき友邦でした。

また皮肉にも、日中両国とも、当時中立国だった米国からの資源輸入に頼っていたからで、宣戦布告をしてまうとそれが途絶してしまうからです。

中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日のことでした。

つまり上海事変の起きた1937年から1941年までは、公式には「宣戦布告なき戦争」だったわけです。

世界規模の戦争に突入する41年までの期間に、中国となんらかの形で和平に持ち込み、大陸から軍を撤収していたならば、日本にとって別の未来があったはずでした。

しかし、第2次上海事変に辛くも勝利した日本軍は、逃げる國府軍を追って南京を陥落させ、次第に大陸の泥沼に陥り、国際的に孤立していくようになります。

私はこの第2次上海事変の終結時に確固たる和平の方針を持ち得なかったことが、最大の問題だと考えています。

もし、この時点でわが国が不拡大を宣言して、なんとしてでも完全停戦に持ち込めたのならば、日本は「侵略国」の汚名を被らずに済んだはずです。

しかし現実には、陸軍参謀本部内では不拡大派の石原は事変後に満州に左遷されてしまい、拡大派が実権を握るようになります。

また、政府も無能な近衛が座るなど、日本は大陸からの撤収どころか、その反対の道を歩み始めるのです。

戦争はいかなる理由にせよ、いったん起こした以上、その治め方を考えてから始めるべきだということです。

長くなりましたので、次回に続けます。

 

                。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚

 

■資料1 敗戦時における勢力図Photo

 

■資料2 日中戦争前の中国軍閥割拠状況(広中一成氏による)Photo_2

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コメント

王毅さんの言い方だと、むしろ「敗れたことを反省しろ」と言ってるように取れますね(苦笑)
勝ちゃ、文句無かったと。

満州事変を起こした張本人の悪魔的天才、石原完爾。盧溝橋事件では、即座に停戦と不拡大を指示。
戦後になって、陸軍(関東軍)の暴走が戦禍の拡大の悪党だ!という「一般認識」として書かれますが、東條英機が台頭して朝日新聞は煽りまくり…犬猿の仲だった1期下の石原はここで退場(予備役編入)
だからこそ、極東軍事裁判でも中国提出の「戦犯10人のリスト」にも入りませんでした。

一方、石原が大反対した熱河作戦をやっちまったのが軍の大きな間違い。
ここが、歴史の1つの転換点。
続きが第二次上海事変。
世論にも押され、有事の指導者としては無能な近衛文麿が軍の後追い。


当時の中国大陸は、国民党・共産党に各地の軍閥でバトルロイヤルですが、
当時の記者や兵隊さんの手記によると、南京を初め占領地での治安は良く、輪タクやポーターも仕事に忠実で、戦後の中国人のような野蛮なボッタクリなんか無くて友好的だったとの表現が多いですね。
侵略だったのは確かですが、とにかく日本軍が統治してくれれば治安だけは高かったから。
中国人のモラルが崩壊したのは毛沢東になってからですよ。
共産政権という独裁を完成させ、ウイグルやチベットを侵略。
大躍進で国民を山のように餓死させ(後にポル・ポトがカンボジアで同じ失敗を繰り返しますが)、さらには文革。
狂った話です。

山形様
>王毅さんの言い方だと、むしろ「敗れたことを反省しろ」と言ってるように取れますね(苦笑)
>勝ちゃ、文句無かったと。

中国人の本音はそこですよ。彼らにとっては「正しいものが勝つ」転じて「勝ったものが正しい」です。ちなみに日本に対しての本音は「敗者が勝者に対して偉そうな顔をするな」です。それを、そのままいったら国際社会で受け入れられないから、適当に言い換えているだけです。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という価値観はどこにでもありますが、とりわけそれを、本音では徹頭徹尾信じきっているのが中国・韓国といった国々です。だから彼らは何があっても「勝ち組」になりたがる(たとえ成りすましでも)のです。

日中戦争は日本の侵略でしょうか?

いろいろ意見がありますがどう思われますか?

HN鳥座音さん。よく左方向には、「15年戦争」などというざっぱくな言い方をする人がいますが、まったく一貫していません。

満州事変は国際法上非常に問題を含んだ行動でしたが、満州国建国の時点で終了しています。
盧溝橋事件は、現地の小部隊同士の小競り合いで、これも直ちに停戦になっています。

その後、蒋介石は日本を中国国内に引きづり込んでセンメツするという夢を捨てきれませんでした。
日本を挑発し続け、日本に熱河事件のような緩衝地帯作りのための侵攻作戦を取るように仕向けます。
また日本側も、熱河作戦に反対した石原や、天皇などがありながら、現場軍の独走のようにして大陸に介入していくようになります。
しかし、これも停戦条約が結ばれ、全面戦争は避けられています。

しかし、中国は通州事件という日本人虐殺事件、大山大尉暗殺事件などで日本を挑発し続けます。
そして、その間に、蒋介石がしていたのが、ドイツの軍事指導による上海租界に対する包囲攻撃計画でした。

この流れの中に上海事変はあることを確認してください。
問題は、どこで切るか、です。満州事変や熱河作戦時点で切れば、日本の侵略、ないしは侵攻といってもかまわないと思います。
次に、この記事の第2次上海事変で切れば、国際法上あきらかに侵略したのは中国側です。
そしてこれが日中全面戦争になっていきます。

ただし、この記事でも書きましたが、この時点で止められたのです。
私はここで、ドイツなり英米を入れて和平を結べば、相当に有利な条件で和平を勝ち取れたはずだと思っています。

しかし大山大尉を惨殺された怒りと、上海事変初期をほぼ独力で戦い抜き、多くの損害を出した海軍がブチ切れてしまいました。
そして海軍の報復としての首都南京爆撃が始まり、それは陸軍も巻き込んだ南京戦へと続いていきます。
ひいき眼に見ても過剰報復・やりすぎです。

この第2次上海事変以降は、流れとはいえ日本がとった行動には相当に問題があります。
それをして侵略というかどうかは微妙ですが、負けたらなにも反論できない、ということです。

つまり、日本側には一貫した中国侵略構想などといったこじゃれたものはなく、その上に出先の関東軍と陸軍中枢との折り合いも悪く、さらには陸軍と海軍との永年の近親憎悪という宿痾を抱え込んだまま、中国国内へとおびき出されてきます。
まさに場あたりのスラップスティックです。

一方日本とは逆に、中国のほうが、「日本を巻き込む」という戦略として一貫性があります。

「侵略」という硬直したモノサシで見るとかえって分からなくなります。
時代を区切ってみていくと分かりやすくなると思います。


お返事ありがとうございます。確かに始めたのは中国です。しかし第二次上海事変の原因になったのは日本の華北分離工作です。これについてはどう思われますか?

鳥座音さん。
横から失礼しますね。

管理人さんの言うように盧溝橋事件と熱河作戦が1つの大きな分岐点でした。
石原莞爾は悪魔的天才で関東軍参謀時代に暴走して満州事変を起こした張本人ですが、その後の戦線拡大には断固反対していました。
部下に「閣下がやったことと同じことをやっただけです。」と言われて黙ってしまいましたが…。
積極派の東条英機とは激しく対立しましたが、いかんせん当時の軍の序列では1つ上の東条によって予備役にされました(左遷です)。

こういった歴史の流れを押さえておかなければ、分析に齟齬が生じるのだと思います。

ちなみに極東軍事裁判で中華民国が提出した「戦犯リスト」には石原は入っていません。この当たりをお調べになって下さい。

HN鳥座音さん。さっき書いた思うけど熱河作戦がこれにあたります。日本に非があるに決まっています。

ただし、リットン調査団も述べているように、「国際法違反だが、当時の満州地域は統治の空白であって、日本がそうした理由は理解できる」という性質のものでした。
そしてこれもこの時点で協定が結ばれて、収拾はついています。

ただ、第2次上海事変がそれ以前と異なるのは、それが国際共同租界という国際社会に武力で敵対したことだという点です。

また規模も3万という大軍、しかも蒋介石直轄の中央軍(ドイツ師団)を集中し、かねてから構築していたトーチカ網におびき出すような戦争計画も練った上での計画的な攻撃でした。

記事にも書いたように、この時点で、中国はすべての「侵略」の要件を満たしてしまいました。当時、いかなる言い訳も効かないことでした。

だから、この時点でなんとしてでも休戦と講和に持ち込むべきだった、というのが私の見方です。

>山形様

武藤章ですね。

盧溝橋事件と熱河作戦ではなく華北分離工作がまさに日中戦争の原因になっているので私はそこと、和平提案の中身がよくなかったのではないかと思っています。

>管理人様

日本は満州国建国後、華北5省(山西省、山東省、河北省、チャハル省、綏遠省)を自治の名のもとに偽の独立運動を展開し、中央政府から切り離そうと工作していました。

蒋介石が日本との戦争を決心したのもそれを防止しさらに満州を取り戻すためだと言われています。第二次上海事変が起こった理由です。東北4省を失い、今度は北支まで失うことになることを恐れたのです。

そもそも日本が9か国条約を破っていますので、相手が条約を破ってもなかなかそれを非難することは難しいのではないでしょうか。

その後の日本の和平提案や行動も妥当とはいえないと思います。確かに第二次上海事変だけをみれば中国が始めたものですが。

HN鳥座音さん、このあたりで打ち止めにしたいのですが。

ご理解いただきたいのは、後の世になっての学術的命題としての原因究明なのか、当時既に起きてしまった事象の収拾をどう図っていくかは別次元のテーマなのです。

あなたがおっしゃるような原因を探っていくという歴史アプローチは十分にありえますが、私はそうではなく、「どうしたらあの大戦を回避できたのか」に重点を置いています。

なにが原因だっかのかというのは近代史研究家におまかせして、当時どのような解決方法があったのかを考えています。

あなたが前者の解を求めているならば、立場によっていろいろな見解が存在します。

たとえばいわゆる太平洋戦争も、日本側からみれば、人種差別主義で日系人排斥した上に、石油禁輸などしやがったくせに、という言い方もできますが、米国からすればなに言っていやがる真珠湾はなんなんだ、ということになります。

米国には米国の筋に基づく「原因」があり、日本側にもあるということです。
だから、国際法で「先に手を出した方が悪い」という決め事を作ったのです。
太平洋戦争の場合、日本が先に「国境線の力による変更を試みた」という罪状で有罪となりました。

もちろん勝てば関係ありませんよ。なぜなら勝利者は、国際法そのものも変更できるからです。
あなたが言うように、こうしたらよかったというような反省は重要ですが、しかし、当時の人の視座にたつと、その解決法にそうたくさんの解はないのです。

これは、現在進行形の事象でも一緒で、私は原因遡及型思考を取りません。
特に中国相手に、そもそも論などといっても無意味だからです。
今どうしたら状況悪化を食い止められるのか、平和を維持できるのか、とかんがえております。

ゆるゆーるさん。ご心配おかけしてすいません。養生していますからよくなってきています。
こういうお声をいただくのが嬉しい限りです。

中国と対峙するためには日中戦争に対する理解が必要だと思います。それによって外交問題や歴史問題でも感情的にならずに適切な対処ができるようになると思います。

また昭和陸軍人の行動は彼らの思想に端を発しているので、そこを分析、理解することによって日本人の思想的課題を克服できると思います。

私はまだ日中戦争に関する十分な知識がないので今のところもっぱらその原因・経過・結果・法的正否に関心があります。ただ管理人様の望まない問答を強いる気はありません。

やはり感情論だけではなくて、冷静に物事を見ないと本質って見えないんですね。以前紹介した「アリの一言」とかいう左翼のブログに「天皇は南京大虐殺の起こった12月13日を忘れてはいけない日に入れていない。8月15日は忘れてもいい」と書いてました。南京大虐殺を忘れるなというのならともかく終戦の日を忘れてもいいなんて本当の平和を願ってる人なら絶対に言わない言葉だと思うんですがね。

すいません、続きです。 自分は12月13日は忘れても、6月4日は忘れるなと言いたいですね。

HN鳥座音さん。私も学生時代から昭和の軍人たちの思想や行動には興味を持ってきました。
それが日本史の研究者たちの共通のスタンスだったからです。

しかし昨今、それだけではわからないのではないかと思ってきています。あたり前ですが、戦争はひとりではできないのです。
戦争には相手国があり、相手国の利害や思惑があるからです。
しかも、大戦などの場合、一国だけで煮詰まって戦争が起きるはずがありません。
例外的にありえたのが、ヒトラーでした。
ですから、日本の昭和期の軍人たちを、無意識の内にヒトラーに重ねてイメージしてしまったのだと思います。
戦後の戦争に対する反省は、このヒトラー探しでした。しかし、東條も近衛も、ましてや武藤もそんなタイプではありませんでした。

唯一、それに近い体質を持っていたのは石原ですが、彼はこの第2次上海事変後に更迭されています。

つまり、日本陸軍内部だけではわからないのです。
そのうちこのテーマは書きたいと思っています。とりあずこのていどで。
楽しいやりとりをありがとう。

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