最後の引き返し可能地点だった上海事変
日中戦争は、あの第2次上海事変の部分のみを切り離して強調すれば、「侵略」ではなく、完全な<自衛戦争>の形式が整っています。
ですから右の人たちは、この第2次上海事変だけを前後の歴史の流れから切り取って、ここだけを強調したがります。
というのは、おそらくこの事件しか日本の自衛戦争を主張できるタイミングは、なかったはずですから。
中国(中華民国)は先制攻撃の意図をもって70万という大軍を動員・集中し、あらかじめ上海付近に構築した塹壕・トーチカ陣地網に日本軍を誘い込む計画を立てていました。
そして一挙に陸戦隊もろとも居留民を皆殺しにする、こんなもの騒がせな計画を、中国側は立てていたわけです。
(写真 集結した中国「ドイツ師団」。これは噂のチベット人ナチ親衛隊か。もちろん違います)
中国側はここで、「侵略」が成立する必須要件を大っぴらに犯してしまっています。
①宣戦布告なき先制攻撃
②計画された戦争準備期間
③他国領土、ないしは、それに準じる地域への軍事攻撃
戦後になりますが、国連の「侵略」の定義をみてみます。
●国連総会決議3314(1974年12月14日)
第1条 侵略の定義
侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使
立場を替えれば、第2次上海事変こそが、日本側にとって「自衛戦争」であることを完全に立証できる戦闘だったのです。
後には宣戦布告なき戦争が一般的になるなど、宣戦布告自体は必ずしも必須の国際法的手続きではありません。
しかし、宣戦布告という外交手段で、国際社会に対して「我々はカクカクシカジカで不当な攻撃を受けている。もはや自国民の生命、財産、領土を防衛するために自衛戦争に入るしかない。国際社会よ、わが国の立場にご理解を賜りたい」、という宣伝が大いにできたのです。
ちなみに、こういうロビー活動の場としての国際連盟は実に有効な場で、軽率に脱退したことが惜しまれます。
(写真 燃えるパールハーバー。9.11まで米国が受けた領土に対する唯一の攻撃だった)
この<自衛戦争>という表現は、日本が太平洋戦争(日本側呼称「大東亜戦争」)の開戦事由として上げた、「自存・自衛の戦争」に当たります。
開戦当時の外相であった東郷秀徳は、開戦直後の1941年12月16日にこう衆議院で演説しています。
「(米英政府の蒋介石政権への援助を)容認することが如きことがありせば、帝国は支那事変(※日中戦争の日本側呼称)4カ年にわたる建設的成果を犠牲とするのみならず、帝国の生存の脅威せられ、権威を失墜する」
これが、日本の外務省が作った開戦理由です。
この演説で東郷外相は、5つの開戦事由を上げています。
①重慶政府(※蒋介石国民党政府)への米英の援助
②米国の資源輸出の禁止などの経済封鎖
③日米交渉の破綻
④米英による包囲網
⑤米英への国際社会の屈従
大戦争を始めるメッセージとしては、余りにも弱いですね。
だって、呆れたことに、近代戦争における最大の開戦事由である、国家の自然権たる正当防衛権、つまり「自衛戦争」が一行も出てこないじゃないですか。
①から④までは、すべて外務省の対米交渉が不調だったことを愚痴ったものにすきません。
②の対日石油輸出の禁輸に至っては、日本の南部仏印(※現代のベトナム南部)進駐という武力進出に対しての米国の制裁が原因で、米英からすれば自業自得だろうということです。
東郷は苦し紛れに、「自存・自衛」とゴロ合わせをしていますが、「自存」とは、自国の生存圏を確保するために他国に侵攻するなので、これではむしろ「オレは自分が生きるために進攻したんだ」という意味になってしまいます。
「自衛」も、決して自衛戦争を意味せずに、ただ「米英の制裁に抗して戦争をする」というだけの意味です。全部自分の都合にすぎません。
結局、忠臣蔵よろしくここまで苛められているんだから、オレは切れたゾと言っているだけで、お前は子どもか。少なくとも、まともな外交官のセンスではありません。
そんな泣き言が世界相手の戦争の理由になる、という甘ったれた根性だから、戦争そのものにも負けるべくして負けてしまいます。
歯ぎしりしたいほどの外交オンチですが、日本は米英から武力挑発も、ましてや武力攻撃も受けていないのですから、「自衛戦争」という一番強力な普遍的カードを使えないでいます。
これでは、米国に対して真珠湾作戦で先制攻撃を仕掛ける理由としては、薄弱極まるもので、国際社会に対して自らの正当性を主張しきれないのです。
山本五十六が、宣戦布告を手交したかどうかを気に病んでいた、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたかどうかなどは、ハッキリ言ってどうでも良いことです。
肝心の開戦事由に「自衛戦争」を入れられなかったというのが、日本の最大の失敗だったのです。
できたのは、唯一この第2次上海事変時のみです。やっていたら、後の歴史は大きく変わりました。
よく左の学者の中に、「一発でも他国で撃ったら侵略だ」というメチャクチャを言う人がいますが、困ったものです。
上海共同租界は、国際法上その管理区域は当該国の主権が及ぶ領土です。ですから、そこに暮らす邦人を、政府は保護する義務があるのです。
この主張に、諸外国が反対できるはずがありません。目の前で自分たちも共同管理じている共同租界が攻撃されているのですから。
(写真 応戦する上海陸戦隊。陸戦隊は海軍所属なので水兵服を着ている)
ところが呆れたことに、この絶好の機会をあっさりと日本は逃してしまいます。
米内光政内閣はムニャムニャと「これは戦争じゃあありませんよ。支那事変ですよ」という訳の分からない言い方で逃げます。
「事変」とは、「宣戦布告なき小規模な紛争状態」ていどの意味です。英訳すれば、an incidentです。これだと諸外国には「事件」ていどの意味にうけとられてしまいます。
中立国の米国の輸入途絶を恐れたという説もありますが(※)、ここまで明確な先制攻撃を目の前で受けていることを、米国も現に見ているわけですから、貿易に関しては日米交渉に持ち込めたはずです。※国際法上、中立を宣言した国は、交戦国のいずれにも加担してはならない。
そして日本は宣戦布告もしないまま、腰が座らず、8月15日には何を血迷ったのか欧米が大使館を置いている首都南京までをいきなり爆撃してしまいます。
外交オンチにもほどがあります。なぜ、ここでいきなり相手の首都を叩く必要があるのですか。
自分でインシデント(事変)と言っておきながら、外交交渉なしで相手国の首都を爆撃するセンスがわかりません。
その前にやることがあるだろう。外交的攻勢をかけろよ、国際社会に自衛戦争であると宣言しろよ、中国を交渉テーブルに着けさせるべく米英に依頼しろよ、と叫びたくなります。
この時期に外交攻勢をかければ、諸外国はこれ以上の戦火の拡大に対して反対していましたし、中国軍は戦闘で敗北していたわけですから、日本にとって有利な交渉テーブルに着けたはずです。
「海軍左派三羽カラス」のひとりの米内光政ですら、この調子ですから、陸軍の拡大派の武藤章(参謀本部作戦課)などは、それ以上のエスカレーション(火遊び)に走っていきます。
もはや、この前後の時期には、現地軍は参謀本部の統制にすら反して独走しています。
この中心人物が武藤でした。この事変直前の内蒙工作事件で、石原に叱咤された武藤はこう傲然と言い放ったそうです。
「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っているだけだ」
「石原閣下の行動」とは、満州事変において参謀本部と政府を無視して、独断で現地軍を動かして、満州国をデッチ上げた謀略のことです。
石原は後に不拡大派になりますが、今度は彼に替わって武藤のような人物が参謀本部に座り、首都南京への進撃と、その後に続く徐州、武漢三鎮の軍事侵攻という「侵略」を開始していくことになります。
皮肉にもこの武藤すら、太平洋戦争開戦時には、米英戦争反対派に廻って、中枢から退けられることになります。
かくして、日本は大戦に引きずり込まれないための最後の河を、ここで渡ってしまったのです。
そしてその河とは、大戦という悲劇の瀑布に向けた河だったのです。
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