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2015年3月13日 (金)

戦争中に何もしなかった中国共産党軍 ケーススタディ平型関大捷

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日中戦争について書き出すと、なかなか止まりません。 

満州事変、塘沽協定(たんくー)協定、熱河作戦、冀察(きさつ)政務委員会自治政府の流れも、ぜひ触れておきたいところです。 

また九ヶ国条約、中華民国提訴、リットン調査団、国際連盟脱退という国際関係の線もお話したいのですが、これを始めるとキリがないので、とりあえず別の機会に譲ります。 

え~、いちおうこのシリーズは、王毅外相のこんな発言から始まっていたんでしたね(汗)。市民語訳のほうが実感が伝わると思います。 

「オレら中国は反ファシズム戦争の勝利者で、国連の創設国だ。中国は戦後一貫して国際社会の平和と安定に尽くしてきたんだ。
おいこら、ニッポン。お前らはオレらに負けたんだぜ。胸に手を当ててみやがれ。しっかりと謝罪すれば、70周年の軍事パレードに呼んでやってもいいぜ。アベ、ひざまずいて足舐めろ」
 

まぁ、いちおうこれでも外相なんで、ここまで下品じゃあないですが、似たようなもんです。 

真実含有率ゼロという国家要人の発言というのも、なかなか見ることができないのではないでしょうか。 

国連創設メンバーだというのは中華民国(台湾)だったのでウソ、平和と安定は15回も対外膨張戦争をやった国には言われたくない。 

そして最後に残ったのが、今回取り上げる、日本が中国(中華人民共和国)に負けたというくだりです。 

中国共産党という組織は、共産主義運動特有の白を黒と言い募る体質に、中国古来の白髪三千丈のウルトラ誇張体質が被ってしまったために、もう言った当人も何が真実だかわけがわからないほど歪められてしまっています。 

支配政党が「これが正しい歴史だ」と言えば、それがいかに史料的に矛盾していようが、事実からかけ離れて歪んでいようが、これこそが「正史」になってしまうようです。

通常の国では、研究者によって史料が集められて、分析されて実態が明らかにされていくものですが、中国にはその意味での歴史学が存在しません。

特に共産党が登場する近現代史は,共産党のイデオロギーに背いたことを書くことは不可能です。特に国営ファンタジーに抵触する日中戦争史などは、タブー中のタブーです。

それにしても、国内向けには何を言おうとかまいませんが、国際社会で嘘八百を並べるのは、見ていて快いものではありません。 

さて史料的に見て、中国共産党軍(八路軍・新四軍)が、日本に「勝利」した事実が日中戦争にあったでしょうか。 

ほぼまったくない、と断言できます。 

これは、先日来見てきた蘆溝橋事件から第2次上海事変の日中戦争初期の中で、日本を70万という大軍で攻めまくったのが蒋介石中国、つまり国民党軍だったことからもわかります。 

そして、この後に、逃げる中国軍を追って、日本軍がよせばいいのに南京戦から、徐州、武漢三鎮の制圧まで一気に進んでしまい、ここで激しい戦闘は終了します。 

後は戦争末期に、大陸打通作戦という壮大にして、しゃもない大作戦をしたきりで、あとは防衛庁戦史叢書の題名とおり「北支治安維持戦」という、いたって地味なものになっていきます。 

はい、延々と8年間も、対ゲリラ戦をやっていたというのが実際なんです。当時中国にいた兵隊さんたちは皆、中国にズっといたいと思っていたそうで、南方に引き抜かれるとわかるとドヨーンとなったそうです。 

それはともかく、中国(中華人民共和国)が抗日戦争を語るときに必ず出してくるのが平型関の戦いです。 

中国共産党ふうに言えば、「平型関大捷」と呼ばれ、大捷とは大勝利のことです。別の言い方では、「板倉軍団殲滅戦」、時には「会戦」とすら呼称しているようです。

会戦とは、きわめて大規模な戦闘のことで、通常は数十万対数十万の戦闘を指します。白髪三千丈とはよく言うったもので、日中戦争では発生していません。 

簡単に、ケーススタディしておきましょう。 

まずは中国側の公式発表です。 

「盧溝橋事変から、すぐに日本軍は山西省に進入し、太原を手に入れようと企てた。国民政府はこれに対し太原会戦を組織、八路軍が山西の前線として会戦に参加した。9月に横暴な日本軍が平型関に向けて進軍を開始、平型関の東側に潜伏していた八路軍115師団がそれを攻撃した。この攻撃によって、1,000人 を超える日本軍を壊滅させ、多くの軍事物資を手に入れたが、これは”平型関大捷”とよばれる、中国抗戦以来の大捷(大勝利)であった」中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」 - ようこそ ...

これなど、かなりすっきりまとまっているほうで、中国社会科学研究部会の資料など、3行読むと頭痛がし、一頁読むと鼻血が出て、一冊読む頃には半死半生といったシロモノです。

全編これ、共産党讃歌と毛沢東個人崇拝の修辞、口汚いを通り越してカルト的日本呪咀の文が延々続いています。 

嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列(1937年,朝日新聞社)

 (写真 嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列。1937年。朝日新聞社撮影。おお、。朝日も従軍記者を派遣していたんだ) 

では実態はどうだったかと言えば、日中両軍が激戦を繰り広げた相手は、ここでもまた国民党軍(山西軍)でした。

共産党軍(八路軍※欄外参照))が参戦したのはそのごく一部の局面で、丸腰の補給部隊をゲリラ襲撃して、物資を奪ったていどのものです。もちろん彼らの補給部隊襲撃など、その後の戦局にまったく影響を与えていません。

320pxeight_route_army_soldier_with_(写真 八路軍 完全に共産党軍でありながら、形式上は、第2次国共合作により蒋介石国民党政府軍に組み込まれたために、ややっこしいいことには中華民国旗を持っている)

概観しておきます。 

日本軍第5師団(板倉兵団)は、1937年9月11日、河北省の蔚県を攻略して山西省に侵攻しました。 

平型関は、下のGoogle Earthの写真をご覧いただければわかるように険しい渓谷の間を道がうねるという、守るに堅く、攻めるに難しい地形でした。 

Photo       (平型関 険しい山道が続いていいるのがわかる。Google Earth)

ここに山西省を守る国民党軍・閻錫山5万の兵が、三線にわたる防衛線を敷いていました。 

9月22日、板垣兵団は、平型関の正面から攻撃を開始し、以後7日間にわたって激戦が繰り広げられました。 

地の利を得た国民党軍によって、一時的に後方を遮断されて、包囲されかかるのですが、援軍を得て包囲から逃れています。 

このとき、板垣兵団救援のために関東軍察哈爾派遣兵団(東条兵団)が、平型関の後背を攻撃し、9月30日に日本軍は平型関を突破することができました。 

この1週間ほどの激しい戦闘で、日本軍の損害は死傷者1500名以上を数え、一方、国民党軍もそれを数倍する戦死傷者を出したといわれますが、詳しくは分かっていません。 

さて、え、どこにわが共産党軍は出てくるんだと王毅閣下がお嘆きになるかもしれませんが、ご安心ください。ちょっとだけ登場します。 

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(写真 中国共産党のプロパガンダ写真。当時八路軍には報道班員がおらず、後に別の場所で宣伝用に撮られたといわれる)

ただし、先に述べた激戦にはまったく出てきません。出てくるのは、平型関戦の末期の9月25日の頃です。 

日本軍を攻撃した八路軍は、後に国家副首席となり、毛沢東の粛清を恐れて逃亡中に死亡したる林彪閣下です。

若き林彪が率いる第115師は、平型関の北東約5キロの位置にある関溝村と小塞村に出没し、丸腰の招集兵を中心とした日本軍の自動車隊と輜重隊を襲撃しました。 

攻撃を受けたのは、負傷者の後送と補給品受領のために霊丘へ帰還途中の第6兵站自動車隊と、冬服や食糧・弾薬の輸送に従事していた歩兵第21連隊の行李隊でした。 おそらく板垣兵団中、最弱の兵たちだったでしょう。

なにせ日本側の詳細な戦闘詳報によれば、武装は護衛と救援の2個小隊だけ、自動車隊で特務兵2人につき一丁の割合で支給されていた騎銃ぐらいて、ほぼ丸腰だったからです。

日本軍側の戦死傷者は、約250名ほどです。 

行李隊の生還者による襲撃時の凄惨な様子は、日本側の歩二一会編『浜田聯隊史』(1973年)という戦友会報に掲載されています。一部を抜粋します。 

「谷間は前後方とも敵に包囲され、人馬ともほとんど戦死という悲惨な状態で、午後三時頃には敵に向かう者は一人もなく、敵は凱歌をあげて、谷間の将校行李、衣服、食糧等を掠奪して行った。また夕方までに敵は何回もやってきては、戦死者の腕時計、その他目ぼしい貴重品はほとんど掠奪して行った。負傷した者で辛うじて生き残っていた者、戦死体の下に横たわっていて助かった者は僅か数名に過ぎず、ほとんど戦死という悲惨な状況であった」

また『広島師団史』には、このような記述も見られます。 

「阿鼻叫喚の断末魔の姿」「(中共軍兵士が日本兵の)遺体をあるいは射ち、あるいは刺して歩いた」 

死体から金品や時計を盗むですと?お前ら山賊か?

後に極端に美化される八路軍の実態は、わざわざ「三大規律八項注意」として、「ものを盗むな。婦人に乱暴するな」などという注意事項が連なっており、いかに軍規が乱れていたのかわかります。

それはさておき、八路軍は9月26日、南京政府および中央日報社に宛て、次のような極端に誇張された戦勝報告を送ります。 

「九月二五日、わが八路軍は晋北平型関で敵1万人と激戦を展開、何度も勇敢に突撃し、侵攻してきた敵をすべて撃滅し、平型関以北および辛荘、関沙、東跑池一帯などすへての陣地を奪取した。撃ち殺された敵兵の死体がいたる所に散らばり、敵兵の一部は捕虜となった。さらに鹵獲した自動車、戦車、銃砲や他の軍用品はすこぶる多く、目下整理中である。現在残敵は敗走し、わが軍によって四方を包囲されている。八路軍参謀処 九月二六日」(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか) 

太字の部分がウソです。

日本軍側は「1万人の正規軍への攻撃」ではなく、後方から来る年配者が中心の2度目のお勤めの兵でなる、負傷兵まで抱える非武装のショボイ補給部隊でした。

もちろん戦車などは初めからあるはずがなく、トラックは日本軍が敵に渡るのを防ぐために日本軍自ら火を放ったものです。

戦利品についても「小銃1千丁」としていますが、ありえません。第一そんな数の小銃は日本軍にありませんでした。その理由は先ほどものべましたが、ほぼ丸腰だったからです。、

したがって、、鹵獲された車輌はゼロて、しかも八路軍は戦闘終了後に負傷者も全員殺害してまったために、捕虜はひとりも出なかったのです。

生存者は幸運にも死体の山の下で生き延びて、後に友軍に救助された人達です。

他に「百団戦」という名前だけは勇猛な戦闘が有名ですが、これも同じような鉄道輸送を狙った散発的ゲリラ攻撃にすぎません。

というわけで、中国と日本の不幸な戦争において、戦争の初めから終わりまで一貫して好敵手だったのは中華民国であって、中国共産党はほぼまったく何もしておらず、したのは小規模の補給部隊襲撃ていどだったのです。

なおこの後、山西省を制圧した日本軍は、1945年8月の日本敗戦まで駐屯しますが、国民党軍に対して共産党軍が攻撃をしかける事件が相次ぎ、ついに1939年12月には大規模な戦闘に至っています。(晋西事件、山西新軍事件)

このような中国側内部での内戦はあいかわらず続いており、それを避けるために、日本側地域に逃げ込む中国人が絶えませんでした。

台湾立法院(国会)外交・国防委員会・林郁方氏が、王外相発言についてこう述べています。

「共産党軍が戦ったのは後方と辺境のゲリラ戦だけだ」(9月16日)

まさにそのとおりです。

※八路軍(はちろぐん・パーローグン)
日中戦争時に
華北方面で活動した中国共産党軍紅軍)の通称である。共産党直轄軍。1937年8月、中国工農紅軍が国民革命軍第八路軍として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた。現代の中国自民解放軍の前身。現代も本質的には変化しておらず、「共産党の軍隊」、すなわち「私兵」であるが、国際的には正規軍として認識されている。

 

参考資料

防衛庁『北支治安戦 二』
歩二一会編『浜田聯隊史』歩二一会,1973年
山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会編『山口歩兵第四十二連隊史』1988年
沢田久一編『宇都宮輜重史』1973年
陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会編『広島師団史』陸上自衛隊海田市駐とん部隊修親会,1969年
謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年

謝辞 日華事変と山西省

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コメント

彼等は帝国軍が残虐非道とアピールするけれど、実のところ、あの『南京大虐殺』などのリアリティーは自分達の所業をそのまんま付け替えたからこそ可能な表現だったのですね。
日本人の発想には無いものばかりですからね。

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