土曜雑感 日本の「正義」愛好家たち
昨日の記事を書きながら、ありゃ日本にも名分論者たちがゴマンといるな、と思い当たりました。
まずはその名分論ですが、さすが司馬遼太郎は見事にまとめています。
「朱子学がお得意とする大義名分論というのは、なにが正でなにが邪かということを論議することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅がせまく鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどにもなくなってしまう。その面積以外は邪なのである」( 『街道をゆく(28)耽羅紀行』)
これは韓国について書かれたものですが、もちろん日本も、かつて朱子学が儒学という名で幕府の官学であっただけに、影響を被っているところがあります。
平時の朱子学は、しょせん誰が主君なのかをハッキリさせるための教養ていどにすぎません。家康が官学としたのも、幕藩体制の秩序安泰を狙ってのことでした。
しかし一転して動乱期や変革期には、名分論はその本領を発揮します。
「さぁお前、正か邪か、どちらかを選べ」みたいな白黒二分法は、時代が暑苦しい時にこそ大いに威力を発揮します。
たとえば幕末の初めなどは、日本全国、津々浦々、名分論だらけでした。
海防が叫ばれたりすれば、武士階級の普遍的教養だった尊皇攘夷というイデオロギーの下に、名分論が鎌首をもたげます。
その結果、「正しい尊皇」、「正しい攘夷」を巡って、わずかな意見の違いから血で血を洗うような抗争に発展していきます。
多くの志士が、志士同士の暗殺に倒れました。開国派などと目されれば、かなりの確率で無惨な死を遂げたのです。
また、先の大戦に突入する暗い時代にも、名分論が叫ばれました。
中国戦線が泥沼化すると、「暴支膺懲」(ぼうしようちょう)という頭に血が昇ったスローガンが、叫ばれるようになります。
こういう言葉が氾濫するようになると、理性的解決はまず絶対に不可能になります。理性的なことを言おうものなら、「お前は敵に加担するのか」ということになるからです。
そして、戦後は逆の左の人達が名分論の虜になりました。
政府に対抗して社会主義を実現するために、ありとあらゆる分野で名分論が飛び出すようになります。
代表的なものは憲法論争です。冒頭の司馬さんの文章は韓国について書かれたものですが、これを「憲法」を入れ換えてみましょう。
「護憲派がお得意とする大義名分論というのは、なにが正でなにが邪かということを論議することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅がせまく鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどにもなくなってしまう。その面積以外は邪なのである」
もはや宗教的護教の域に達した護憲運動は、一字一句の修正も許さない、改憲を考えただけで保守反動・ファシスト呼ばわりです。
いまやこの人たちは、ほとんどのテーマで同じ名分論の体臭を強く放つようになっています。
慰安婦問題、原発、辺野古などのテーマで、名分論は随所に登場しています。この名分論病に罹った人たちとは、理性的な議論はほとんど通用しません。
「針の先ほどの面積の正義」しか許容しないのですから、反対するだけで「邪悪なファシストめ」という眼でにらまれて、唾を吐きかけられることになります。
悪くすると、ブルに引き潰されます(笑)。痛そう。
(写真 安倍氏の頭部の人形を踏みつぶすブルドーザー・デモ。こういう行為自体に吐き気がする。やっている方かよほど、異論を許さないファシストのようだ。こういうことをして喜ぶ体質はどうにかならないのか)
しかし、かつて隆盛を誇っていた反原発主義者の人たちは、あれから、いっそう孤立を深めているようで、いまやただの左翼運動の一部に組み込まれてしまっているようです。
下の記事は、ちょっと前に原発運動の歪みについて書いたものですが、訪問者が多く来られたものです。
一部を修正して再掲します。写真は今回入れたものです。
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ある人からコメントが来ました。
「おまえ、まだ原発推進喚いてるのか。学習能力の欠片もないんだな。
原発は既に世界的に斜陽化だよ。 小泉がいう通り、「諦めるしかない」事に気づけよ、単細胞」
スゴイよね。いきなり見も知らない相手をお前呼ばわりですか。ただ、電気不足を支える発電現場を報じただけなのに、いきなり「原発推進」ときたもんです。
まぁ一事が万事この調子です。まず、自分の主張と違ったら、全部「原発推進派」に決めつけしまいます。ヤレヤレです。
私、漸減派なんですが、今や、再稼働反対を唱えなければ、全部まとめて「推進派」ということのようで、実に乱暴な話です。
漸減というのは、時間をかけて減らしていくことですから、当然再稼働は肯定する立場です。それが気に食わないのでしょう。
このような人たちはこんな「ブルドーザー・デモ」にでも参加しているんでしょうが、70年安保世代として多くの流血をみてきたひとりとしてはゾッとします。
再稼働反対というのは、何度か言っていますが、即時ゼロという意味です。
つまり、安全性を規制委員会から認められた原発を稼働させながら、社会を壊さないようにして時間をかけて減らしていくという漸減すら認めないわけです。
つまり、今ただちに代替があろうとなかろうと、化石燃料に9割なろうとなるまいと、電気不足などこれっぽっちも考えずにゼロというわけです。
現実にその結果、どのようなことが社会で起きているのか見ようとするのも「推進派」だそうで、はい、話になりませんな。
このような極端な形に純化した人たちは、同じ脱原発をテーマに掲げていても、他者の意見や、立場が違う運動を認めませんから、そこかしこで「敵」を量産していきます。
「純化」という言い方はふさわしくないかもしれません。はっきりとカルト化と呼ぶべきでしょう。
再エネの指導者だった飯田哲也氏はこう警告します。
「挙げ句の果てに運動の『セクト化』が進み、互いを罵る悪循環に陥った。まるで革命を目指しながら、内部分裂と暴力で崩壊した連合赤軍のようだ」
『最初はみんな熱く盛り上がるが、熱が冷めて自分たちが少数派になるにつれ、運動が純化し極論に寄ってしまう』」
(ニューズウィーク 2014年2月11日号)
あるいは、福島県出身の社会学者関沼博氏の表現を使えば、もっと手厳しいこのような表現もあります。
「あたかも宗教紛争のようだ」(同)
今回のコメントや、「美味しんぼ」騒動記事の一部の書き込みをみると、その「空気」の片鱗がわかります。
ろくに私の記事を読まない。一カ所気に食わないと延々とこだわり、相手をやっつけるまでネチネチ執拗に続ける。
そもそもあのような人達にとって、建設的議論を交える気など初めからなく、揚げ足をとったり詭弁を弄してでも、相手を叩き潰すことが目的なのです。
(双子のように似ているが、たぶん脳味噌も双子。右が山本、左が中核派全学連前委員長・織田陽介。彼は中核派系反原発団体NANZENの代表。山本の選挙の事務局責任者だった)
このような脱原発運動の党派化の現状の象徴的人物が衆議院議員・山本太郎氏です。
私は山本太郎氏という人物を、決して嫌いではありませんでした。
女の子の尻を追うのが好きで、デカイ図体で隙だらけ、天皇に直訴する意味も知らない猪突猛進の「愛すべき野人」といった彼の姿を微苦笑で眺めていました。
しかし、「ニューズウィーク」(2014年2月11日号)での彼の発言を知ると、そうとも言っていられなくなりました。
山本太郎氏はこう述べています。
「脱原発派だけどTPP賛成というのは嘘つき」「TPP推進派は『向こう』に行ってくれたらいい。逆に『こちら』の空気を醸し出しながら中立を装うのが一番怖い。それでは第2、第3の自民党だ」(同)
TPPは私も一貫して反対していますが、それと原発はどう関係あるのでしょうか。ここまで「仲間」の枠を狭めて、意見が違うものは「あちらに行け」というわけです。
下の写真は、1969年の大学紛争時のものですが、全共闘と共産党は共に変革を唱えながら、血で血を洗う内ゲバに明け暮れていました。
彼らのエネルギーの大半は、大学当局や政府に向けられるのではなく、本来は味方であるはずの学生側に向けられました。
日常的な暴力闘争や、リンチが横行し、多くの学生が、学生自らの手で傷つけられて、キャンパスを去っていきました。
(東大紛争における内ゲバ。右が日本共産党の民青。左が過激派各派。傍目には意見の違いはまったくわからないが、お互いに自分こそは「正義」だと信じきっているために、すぐに流血の騒ぎとなった。子どもの時から勉強だけしてきた東大生が暴力に走ると、加減をしらない。今この人たちは社長、会長世代)
山本氏の表現にある、「第2、第3の自民党」という表現も、70年安保世代の私は引っかかります。
山本氏が所属していると噂される中核派は、かつて、内ゲバ殺人を正当化するために「第2民青〇〇センメツ」という表現をしてきました。
これは、運動の仲間を増やすのではなく、絞っていき、絞っていき、最後は自分のセクトに入れるか、あるいは殺すかする時に使う表現です。
中核派は「絞る」ためだけの内ゲバ殺人で、百人以上を殺害しています。 まさにISILを彷彿とさせる暴力主義カルトそのものです。
「脱原発派科学者の筆頭だった飯田でさえ自然エネルギーの穏やかな転換をとなえただけで隠れ推進派として攻撃される」(同)
もちろんそんな純化運動をしてみたところで、現実に原発がなくなるわけはないのは、あの脱原発アイドルの藤波心さんもよく理解しています。
彼女すら「原発推進派」と誹謗されたそうです。
「事故当時は女子中学生で、運動参加者から脱原発アイドルと呼ばれる藤波心も『なぜか原発推進派』と批判されたことがある。『こだわりすぎて自分の活動に酔いしれるだけでは原発はなくならない』と藤波は指摘する」(同)
純粋な藤波さんには気の毒ですが、あなたを誹謗した脱原発過激派は、「原発はなくならない」ということなどとうに折り込み済みなはずです。
原発がなくならない限り運動対象は不滅ですし、なくならない以上永遠に脱原発運動も組織も存在価値があり、党勢拡大の手段になると思っているからです。
結局、私のように、時間をかけても本気で原発をなくそうと考えるような人間は「向こう側」であり、結局「原発推進派」であって、つまりは「敵」・打倒対象なのです。
このような「向こう側」と「こちら側」を線引きして、原発、安保、沖縄問題、TPPすべてが一致できない限り「向こう側」という発想に脱原発運動は陥っています。
この基準にあてはまる左翼の支持者だけです。では、左翼しか脱原発を唱えてはいけないということになります。冗談ではない。
(どのデモでも、出てくる人は一緒。ほとんど金太郎飴状態。言うことも一緒。センスも一緒。)
再エネがいきなり全部の代替エネルギー源になることはありえません。代替として2割に達することすら難しいでしょう。
ドイツでさえ、巨額な国費をかけて十数年かけてようやく20%に達し、あと数十年かけてようやく60%になる遠大な目標を立てています。
つまり時間がかかります。この移行のための過渡期的期間がいるのです。
なぜなら、今のドイツが半数の6基残しているように、過渡期においては一定数の原発は社会インフラ維持のために残らざるをえないからです。
仮に全原発が停止した場合、代替は今の日本のように9割を火力に頼るしかありません。
そうなった場合、電気料金は値上がりし、大停電の恐怖に脅えながら二酸化炭素の排出権売買でいっそう国富は減り続け、国民経済は疲弊します。
だから時間をかけて移行しないと、社会的・経済的損失が厖大になってしまいます。
ですから、本来この過渡期に徹底した国民的議論が必要だったはずです。
しかしそれがなく議論はベタ凪、表現方法や行動様式のみが先鋭化していく、それが実態です。
今や脱原発派は、具体論を展開しません。強いて言えばドイツ流再エネだけです。
(共産党系の護憲デモ。「憲法を守れ」以外の意見は、ヒトラー・ファシズムとなる。いいかげん、こういう二元論的決めつけはやめて、具体的議論ができないかと思うが、名分論者なので、無理)
いや彼らの空気としては、むしろそんな具体論などは日和見主義であって、ともかく「即時原発ゼロ」、それ以外は「原発残存に道を開く隠れ推進派」くらいに考えています。
実現可能か不可能かなどと考える思考形態自体が既に、「第2自民」だというのです。
なまじな具体案など示せば、「向こう側」=敵の土俵上で相撲を取らざるをえないことを恐怖しています。
単に勉強不足で、ちょっと勉強すれば、世界有数の工業国である日本で、即時ゼロなどは簡単に成り立たないのが分かってしまうからでしょうか。
本来は「向こう側」の土俵、言い換えれば現実のフィールドで政策論として争わなければ脱原発など実現するわけがありません。
ところが、脱原発派には、エネルギーの専門知識を持った人材がいないのです。
(嘘を吐きまくって大金持ちになった武田邦彦。こいつだけは今でも許せない)
いっけん明るく入りやすい外見にダマされて脱原発運動に入ったとしても、運動家が求める左翼的立場で意見が一致するはずがありません。また、する必要もありません。
あくまでも脱原発をいろいろな立場の人達が、知恵を絞りながら考えていけばいいのであって、その中には自民党支持者がいてもいいし、共産党支持者がいてもいいでしょう。
いや、むしろ自民党政権の中に具体的に脱原発を構想する人が出てくれば、ほんとうに脱原発の流れは進展するでしょう。
実際、脱原発運動がいちばん盛んだった頃には、自民党支持者も大勢デモに駆けつけたではありませんか。そうなってこそほんとうの「国民運動」なのです。
それぞれの立場で、それぞれの考えを大事にして、少しずつでも原子力に頼らない社会をめざして行くべきです。
「まず『向こう』と『こちら』と線引きして敵味方を分け、相手ばかりではなく『妥協は悪』とばかりに自分の仲間までを攻撃する。『空気』に左右され、熱狂と忘却を繰り返す」(同)
どうしてこんなあたりまえのことを繰り返し説かねばならないのでしょうか。
おそらく遠からず彼らは私の世代が陥った深刻な挫折を経験するはずです。そしてその中から、本物の銃器や爆弾を持ったエコ・テロリストが生れるでしょう。
彼らはたぶんこう叫ぶでしょう。
「いくらデモをしても原発は動いた。このままではすべての原発が動き、元通りになってしまう。チンタラデモではなく、直接に青年の怒りを原発と政府にぶつけよう!」
私はそれを恐れます。なぜならそこまでもう一歩だからです。
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愛好家の方々って、自分たちがちょっと気に入らないと有無を言わさず一方的に叩きまくるくせに、
ことが安保関連や社会保障などになると毎度「議論が尽くされていない」と言い出すお約束。
マスコミも同調しちゃうし。
むしろ阿倍が取材や局に強い圧力とか言いながら、民主党時代の酷さを知らせないのね。
投稿: 山形 | 2015年3月21日 (土) 06時07分
30代男です。ホントそうですね。
浅間山荘事件の映画を観た後に反原発デモにさんかしている群衆を見ると、それは山荘に閉じこもった学生運動の残党達と重ねて見えて仕方がないのです。
投稿: ゲスト | 2015年3月21日 (土) 15時11分