百田発言を整理する
百田発言の炎上が止まりません。百田氏の応援組と、これを「言論弾圧だ」とするサイドで、バトルロイヤル気味になってしまっています。
少し整理しておきましょう。
まずは、主催者です。 「自民党」とひと括りにしないで、どこの誰の発言なのでしょうか。
主催者は、木原稔党青年局長が代表の「文化芸術懇話会」というものです。
「青年局」という機関名が被っていますが、正式な会議ではなく、若手の代議士たちの自主的勉強会です。
民主党政権の場合、かつての小沢氏が政権与党の幹事長にいた頃は、党幹事長室がすべての権力を掌握していました。
県連ですら、自主的に陳情は受けられず、党本部幹事長室に一括され、すべての部会は廃止されて、これも幹事長室に一括されました。
すべての与党権力が、小沢氏ひとりに集中する民主集中制という、共産党もどきのものができてしまいました。私は秘かに「スターリン・オザワ」と呼んでいたくらいです(笑)。
それに対して、自民党は日本人好みのボトムアップそのもので、県連や各種部会から揉まれながら政策が上がっていき、政調会長がまとめて、さらに政府案と揉むという仕組みが確立しています。
まぁ、好きかキライかは別にして、ワンマンが通りにくい下からのムラ民主主義と言えます。実に日本的です。
その意味で、安倍官邸は、野党などより党内の諸勢力との戦いに神経を使っていると思われます。
それがこのような失言問題のような、脇の甘さとして表に出てきてしまいます。
え、問題となった青年局がないって。
はい、青年局はこのいかなる縦のラインにも属さない、横のいわば親睦組織に毛が生えたようなものです。
※自民党青年局http://youth.jimin.jp/
昔風に言えば、「陣笠議員」という奴で、当選回数がものを言う議員の世界では、使い走りの足軽です。
ですから、やることは、ひたすら勉強と幹部の遊説の下回りで、前の石破幹事長の時には、この鬼軍曹にテッテイしたしつけを受けたそうです。
というわけで、青年局には何ひとつ権限がありません。
いくら、「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。不買運動を経団連などに働きかけてもらいたい」(大西英男衆院議員)、「テレビの提供スポンサーにならないということが一番こたえる」(井上貴博衆院議員)と吠えたところで、ただの「言っただけ」にすぎません。
ちなみに、言った内容自体は、昨日も書きましたが馬鹿丸出しで、論評の価値もありません。豆腐の角で頭をぶつけて死んだほうかましです。
このような発想をすること自体、議員としての素質を疑わせます。ただし、幸いにも、こんな愚かな意見は、いかなる意味でも執行部に採用されません。
したがって、「自民党の言論弾圧」と呼ぶような大げさなものではありえません。
この両氏の発言が、かつての世耕弘成自民党広報本部長あたりが口走っていたら、そうとうに危険ですが、しょせん大西氏も井上氏も、揃って2期めの「若手」にすぎません。
彼らが、身内だけの討論の過程で口を滑らしてしまったとしても、ただそれだけのことで、地元2紙のように、「自民党の言論弾圧が来る」とリキむような性格ではないのです。
この表現は、まるで自民党が政権党として、気に食わないメディアを潰すと宣言したかのような錯覚を、読む者に与えかねない印象操作です。
さて次に、この勉強会自体は非公開で、質疑の時間には記者たちは退出を指示されていていました。
百田発言とされるものには、講演とその後の質疑の部分がありますが、例の「沖縄2紙を潰せ」うんぬんという問題発言は、この質疑の時に言ってしまったことです。
この百田発言の部分は、有体に言えば盗聴されたものです。こんなかんじです。
このような非公開の集会を盗聴して記事にするのなら、発言者がどのような意図で言ったのかを発言者に取材してからにするべきです。
問題発言と思うならいっそうそうすべきで、それなしで、いきなり「言論弾圧」をブチ上げて、今の安保法制とからめて「軍国主義がやってくる」とするのはかなりイヤらしいやり口です。
取材倫理としてはかなり問題視されるべきというより、むしろ、これはあらかじめ待ち受けていた所に願ったりの発言をしてしまったからです。これは偶然ではありえません。
憶測の域をでませんが、新聞記者の日頃のやり口から見て、彼らは歩く失言男の百田氏が自民党の若手に呼ばれた時に、しめたと思ったはずです。
デスクはこう叫んだでしょう。「百田は絶対においしいことを言う。聞き漏らすな」。そして百田氏が述懐するように「沖縄の・・・」の部分のみを切り取ってスクープに仕立てあげたのです。
と言っても、青年局のうかつさが免罪されるわけではありません。ことあれかしを狙って、耳をそばだてているブン屋たちの前で、こんなことを言えば、時期が時期だけにどのようなことになるか、考えないでもわかりそうなものです。
そもそも、今どき気のいい浪速のオッチャンを呼べば、何を言いそうかわからなかったらおかしいので、企画自体がバカです。
マスメディアのリアクショの色分けを見ます。ここでもいつものとおり、きっちりメディアの反応は二分しています。
「在京6紙で「問題がある」としたのは毎日新聞と朝日新聞だった。毎日の小泉敬太・編集編成局長は「言論・報道の自由をないがしろにする発言が、政権与党の会合の中で出たのは重大な問題だ」とした。毎日は26日朝刊社会面に問題の発言を掲載し、27日朝刊では1面、社会面を含めて報道して、社説で「まるで戦前の言論統制への回帰を図る不穏な空気が広がっているかのようだ」と指摘した。(略)
読売の27日社説は米軍普天間飛行場の移設を巡り、「沖縄2紙の論調には疑問も多い」とした上で「百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか」とした。
産経新聞は29日まで社説を掲載していない。26日に百田氏の発言を報じ、27日5面に与野党の対応をまとめた。28日5面には百田氏の「一言だけ取り出すのは卑劣」との反論を載せた」(毎日6月29日)
まぁ、安保法制に対する社論どおりに分かれたというだけです。
安保法制を潰したい朝日・毎日は、糾弾し、安保法制に賛成する読売・産経は言い過ぎを批判しつつも、問題視するのは避けたということです。
まとめておきます。
①主催者の自民党青年局は、なんの政策権限も持たない組織であり、この勉強会は単なる若手議員の自主研修だった。
②したがって、自民党の「言論弾圧」とするのはオーバーであり、印象操作である。
③メディアは百田氏の「失言」を待ち構えていた。
④発言内容自体については、軽率、不勉強、不見識で擁護すべき内容ではない。
⑤メディアが、百田発言を今の安保法制と絡めるのは反対派の意図的短絡である。
ところで、百田氏の発言について、私の感想を言っておきましょう。
私は百田氏『永遠の0』の主人公である宮部久蔵がこの百田発言を聞いたらと、考えてみざるをえませんでした。
おそらく久蔵は百田氏を殴り倒します。久蔵は、「臆病者」「命を惜しむ卑怯者」と同僚に罵られ続けました。当時「臆病者」と呼ばれるのは「売国奴」と呼ばれるに等しいことでした。
久蔵はその誤解を訂正しようとはしていません。確かに自分は命が惜しいのだし、それは妻に「片足になってでも帰る」と言い残しているからです。
狂ったような時代が、青年たちに生き急ぐことを命じる中で、「死なない」という個人の原則を守り通すことは「売国」でした。
しかし彼にとって卑怯とは、絶望的状況下で人間でありつづけようとする意志そのものだったのです。
こんな久蔵からすれば、百田氏のように安易に「売国」だの「反日」だのというレッテルを貼りたがる人物を唾棄したはずです。
なぜなら久蔵は、レッテルの外で生きようともがき、そして最後には沖縄のために死んだのですから。
特攻作戦は、この作品でも容赦なく批判されています。特攻作戦は、疑う余地なく、非人間的で、偽りに満ち、若い生命をどぶに捨てるような作戦でした。
なにひとつとして、特攻を合理化できる要素はありません。
ただし、その特攻作戦がいかに愚かであっても、それにいやおうなく巻き込まれていった人々までもが、同じく愚かなわけではありません。これは別けて考えねばなりません。
このことはあの物語のなかでも、作者が「特攻隊員はテロリスト」だと批判する朝日の記者に対して、生き残った特攻隊員の口を通して反論させていたことで、この作品のテーマともいえることです。
あの作品が人々の心を打ったのは、この戦争という不条理の中で、人として生きることがいかに大変なことなのか、家族を愛するということがいかに崇高なことなのかを、教えていたからです。
久蔵は、最後まで特攻という「作戦の外道」を拒否し続けながら、最後に故障機を友に譲ります。
それがこの陰惨な戦争機械のあぎとから脱出できる、唯一の当たりくじだったにもかかわらず。
その理由は想像するしかありません。
ただひとつ、忘れないで下さい。久蔵は、沖縄に向けて飛んだのです。灯籠の斧だと知って戦ったのです。
このような優れた物語を書いた作者は、自らの言葉を惜しむべきです。
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