吉田という「戦後の設定者」が見たら、今をどう考えるだろうか?
昨日の記事を書きながら、もし吉田茂という日本の<戦後の設計者>が、今の国会審議を見たらなんというだろうかと、ふと考えてしまいました。
ま、あの愛嬌のあるブルドック顔で、葉巻なんぞくわえて、「バカヤロー、いつまでワシが作ったものを後生大事に抱え込んでいやがんだよ。直しとけって、(吉田)学校の生徒には言っておいたはずだゾ」とでも言いますかね。
日本というのは、世界に冠たる天ボケ国家ですが、なかなかどうしてタフな国とみえて、危機の時代には「和を以て尊しとせず」という人物が必ず現れます。
19世紀の後半という帝国主義の荒波が到来した時には、竜馬、海舟、隆盛、晋作、一蔵など、降る星のように「和を以て尊しとせず」という男たちが現れました。
海舟を除き、全員が歴史的使命を果たした後に、非命に倒れています。
(写真 1951年9月、サンフランシスコ講和条約締結に向う吉田と白洲。どのような心中だっただろうか。Wiki)
そして、20世紀中葉の敗戦という未曾有の危機の時代には、おおよそ日本離れした狡猾なまでの怜悧さを持った人物が現れました。
その男は、吉田茂です。
旧軍の亡霊どもを蹴飛ばし、片や進駐軍とはクイーンズイングリッシュを駆使して、GHQ将校たちが呆れるようなタフネゴエーターぶりを見せつけました。
吉田の秘書役を務めていた白洲次郎が、米軍将校に「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」と言い放ったという逸話は有名です。
さて、この吉田が作ったのが、戦後体制、別名<吉田ドクトリン>といわれる「軽武装・経済外交」だと言われています。
吉田はとうの昔に亡くなっていますが、この吉田ドクトリンは健在です。というか、既に半世紀以上の年月を経て、手垢で黒光りすらしています。
日本人の一部に(この私も含めてですが)賞味期限切れだと思わせたのが、アジアの覇権に驀進する中国の勃興でした。
中国の過激な膨張政策に対処するために、さすがに鈍感なオバマもアジア重視戦略(アジア・ピボット)戦略に切り換えたというのに、肝心の日本ときた日には、あいもかわらず、個別的自衛権がどうした、集団的はどーたらという、国際社会がまったく理解できない隠語で動きがとれない始末です。
同じ外敵の脅威といっても、旧ソ連の場合、重厚な冷戦構造の中に羽二重餅よろしく守られていたために、日本人は現実の脅威と感じることがありませんでした。
たとえば、今なお国会に出ばってくる、元内閣法制局長官たちが依拠しているのは、最高裁が集団的と個別的の区別をはずして、「自衛権というのはひとつだ」とした1959年の砂川判決に対抗した法制局72年答弁です。
内閣法制局は砂川判決を覆し、「日本に許されているのは個別的自衛権だけで、集団的自衛権はすべて違憲。個別以外は全部禁止」という答弁を出します。
法制局という内閣府のアドバイザー機関にすぎない官僚たちが、最高裁判例や、国会の多数によって選ばれた政府見解すら超越できてしまう、という摩訶不思議な光景は置くとしても、この72年という時代とは、こんな牧歌的答弁が罷り通る時代だったのです。
社会党は、「平和憲法」という神殿の中で、「非武装中立論」という麗しいポエムを歌っていればよかったという、実にいい時代でした。
思えば、この冷戦期ほど、<吉田ドクトリン>が輝いた時代はなかったのかもしれません。
さて、この<吉田ドクトリン>の設計者自身が、自衛隊をどう考えていたのか探ってみます。
吉田は頑強に再軍備に反対しました。
しかし一方で、吉田は、この再軍備をしないという政府方針が永遠続くのかという質問に対して、こう答えています。
「この説明に対する質疑応答で、『再軍備は未来永劫しないと言っているのではない。現下の状況においてこれを致すことはしない、とこう申しておるだけの話である』と補足している。
また、『講和独立の後に、その国防を米国の巨大なる戦力に託することは、最も自然且つ当然なる順序である。(略)その後今日に至るまで論争の止まざるは、私からすれば馬鹿げたこと、不可解の感を深うせざるを得ない』とも言う」(吉田茂『回想十年』)
つまり、ここで吉田が言っているのは、「今この時期は再軍備の時期ではない、時期の問題にすぎない」ということです。
この吉田の答弁の時代背景を確認します。
昨日紹介した服部卓四郎のような旧軍お化けがクーデターを計画して、吉田を葬り、ハトジジこと鳩山一郎に政権を渡そうと画策したのがのが、1950年です。
吉田は激怒したはずです。、見てきたようなことを言うなといわれそうですが、それ以外に考えられません。
戦前、戦中、外交官として軍部に苦渋を呑まされてきた吉田には、旧日本陸軍の復活などということは、断じて許されるものではありませんでした。
戦前吉田は、一線の外交官として外国勢力の権謀術数渦巻く中国大陸の公使をしていました。
その時に、政府を無視して勝手に政治工作をしたあげく、抜き差しならない泥沼にはまっていく陸軍の姿をしっかりと眼に焼き付けたはずです。
またその後に、大使として赴任したのが、大戦前夜の英国で、ナチスドイツと三国同盟を結ぼうと陰謀を画策する陸軍や、外務省の親独派の唾棄すべき姿も眼前で目撃しています。
そして、戦中は東條によって徹底的に弾圧され、憲兵の監視下で軟禁状態でした。
このような吉田が、旧軍の亡霊たちの復活を阻止するいわば冷却期間として、この講和条約前後の時期を考えていたことは明白です。
この国民が疲弊の淵にいる時期に軍備などはもっての外だと吉田は思い、米国の経済力を取り付けて、まずは経済復興を優先する時代だとしました。
しかし一方で、いわば「大日本帝国の喪」が明けた時期が来たならば、しっかりとした「軍」を所有するべきだとも考えていました。
そのために英国大使時代の部下だった武官の辰巳栄一元陸軍中将を、早くも1946年に、自身が政権を取ると、直ちに軍事顧問として任命しています。
この辰巳は、共に対英米戦争を回避すべく闘った同志でした。
吉田にとって、再軍備は「未来永劫しないと言っているのではなく」「軍備をもつのは時期の問題」だと言っているだけなのです。
吉田は明解に、「タイミングの判断を誤るな」と言っているだけなのです。
しかし、この<吉田ドクトリン>は、作った吉田の意志から離れて一人歩きを開始し、あたかも憲法がその道を辿ったように、自民党「保守本流」の教義として継承されていくことになります。
吉田は、苦悩の果てに何度となく、「吉田学校」の門下生だった自民党の現役幹部たちに警告を発しています。
引退した吉田は1964年に、かつての腹心だった辰巳を大磯の別荘に呼び寄せて、こう言ったと言われています。
「今となってみれば、国防問題について深く反省している。日本が今日のように国力が充実した独立国家となったからには、国際的に見ても国の面目上軍事を持つことは必要である」(『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』)
そして それから数日後、辰巳は吉田の一通の書簡を受け取ります。
「拝啓、国防問題の現在につき深く責任を感じ居候次第は先日申上候通ニ有の、佐藤首相其他にも右親敷申通居候得ども、過日三木自民党幹事長に直話致置候、就ては御都合宜敷時に同氏にも御面談直接御意見御開陳相成度、政党者の啓発に御心懸願上候 十一月十九日」(同上)
辰巳は吉田が現役時に、その命を受けて警察予備隊を作った影の立役者です。
同じ腹心でも白洲が派手な外交の表看板だったとすれば、裏の米軍との情報活動や折衝は、この辰巳が担っていました。
この辰巳は、1954年7月に、自衛隊が設立されると、吉田にこう進言しています。
「自衛隊が国土防衛の任務を与えられた以上、当然憲法第9条が改正されるべきである。隊員は形ができても、精神のよりどころが無い。彼らは有事の場合、命を張って戦わねばならぬ」(同上)
しかし、吉田はまだこの時期ではないとして、辰巳の進言を退けています。
そしてそれから10年後、吉田はかつての佐藤栄作などの吉田学校の門下生たちに、時期が来たという狼煙を上げたわけです。
残念ながら、高度成長のシンボルともいえる東京オリンピックを前にして、現役の「保守本流」には吉田の伝言を聞く耳がありませんでした。
吉田にとって、<憲法・安保>はワンセットで機能する、戦後体制を作るための仕掛けにすぎませんでした。
「平和憲法」は、安保という裏打ちがなければ機能せず、変形軍事同盟の安保もまた、変形であることを止めるためには、憲法を修正せねばならなかったのです。
吉田は見事な政治家でした。彼のような人物が終戦直後に日本にいたという奇跡に、私たちは感謝すべきです。
しかし彼の唯一、かつ最大の失敗は、彼が政権を掌握している時代に、この変形の装置の仕掛けを自らの手で修正できなかったことです。
あるいは、自らの政権でかなわなくとも、その修正のための道筋をしっかりと、後の世代に示しておくべきでした。
事実、改憲を意識していたのは、この吉田学校の門下生の世代までで、後の80年代から21世紀の初めにかけては、むしろ改憲は自民党内ですらタブーにされていきます。
吉田はこの修正の道筋を示すことなく逝きましたが、吉田がこの<憲法・安保>という本来は期間限定でしかなかったはずの装置を作ってから、既に半世紀の時が流れました。
<憲法>と<安保>はその内的なねじれを増大させ、もはや一体として機能しないまでになっています。
もう一回真摯に、この吉田の残した遺産の功罪を考える時期が来ていることだけは確かなようです。
« 「吉田ドクトリン」という知恵 | トップページ | 土曜雑感 グレーゾーン対処について考えてみる »
吉田茂という偉人があの時期に我が国にいたことは、日本にとって行幸でした。
補佐しGHQとの厳しい交渉に挑んだ白洲は、近年ドラマにもなり知られていますが、影であり続けた辰巳は無名であり自らも望まなかったせいもあり表にはなかなか出て来ません。
3人の繋がりの物語が詳しく読み解ければいいですね。
また、その間に自民党が経済イケイケと内部政争ばかりになってしまい、いわゆる「吉田ドクトリン」の本筋から外れていってしまった点は、実に興味深いです。
米軍のベトナム撤退、頭超えの中国接近の時こそが「時」だったのでしょうが、その時代はアメリカに合わせて追従しつつ、中国に急接近になりましたね。
時の総理は、あの田中角栄さんです。
投稿: 山形 | 2015年6月27日 (土) 13時33分
こんにちは。めばると申します。馬淵睦夫さんの本を読み漁っています。ユダヤグローバル金融資本の動きを追いながら、戦前、GHQ、戦後、冷戦後の日本を追いかけています。
日露戦争で日本はヤコブ・シフに借金をし、高金利の返済を終えたのが1986年でした。この借金返済のための吉田ドクトリンという見方もできます。
投稿: 黒めばる | 2015年10月21日 (水) 00時42分