中国に戦争を「売られた」日本
今回の70年談話でマスコミが作った4点セット「お詫び・反省・植民地支配・侵略」のキモは、いうまでもなく侵略です。
侵略したからこそ、お詫び、反省が必要なわけで、韓国が騒ぐ植民地支配に立ち入りすぎると、「何言っていやがる、白人の植民地を解放したのは日本だろう」という保守派の論理に口実を与えてしまうことになりかねません。
では、あらためて「侵略」という概念について考えてみます。
戦後になりますが、国連の「侵略」の定義があります。
●国連総会決議3314(1974年12月14日)
第1条 侵略の定義
侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使
もっと細かくみれば国際法の定説では以下のようです。
①宣戦布告なき先制攻撃
②計画された戦争準備期間
③他国領土、ないしは、それに準じる地域への軍事攻撃
①の宣戦布告なき先制攻撃ですが、「先に手を出したほうが侵略」なのかといえば、それほど単純ではありません。
②のようにA国が他国に侵攻するために、長期間かけて戦争準備のために物資や兵員を集め(動員と集中と呼びます)、ある時突如攻め寄せたとします。
反撃して発砲したのが国境を守るB国で、こちらが「一発目」でした。ではどちらが侵略でしょう。先に手を出したB国でしょうか?
わけはありません。もちろんこの場合の侵略した国は、A国です。あらかじめ戦争準備して攻め寄せたほうが侵略国になります。
ですから、偶発的衝突は「どちらが先に手をだした」という議論の対象にはなりにくく、紛争、あるいは事件として処理されます。
また、宣戦布告は、戦後には宣戦布告なき戦争が一般的になってしまい、宣戦布告自体は必ずしも必須の国際法的手続きではなくなりました。
しかし、宣戦布告という外交手段は政治的には有効な手段です。国際連合で、開戦に至った理由を発表できれば有効な宣伝になりえます。
我が国の立場を説得してまわるには、国際連盟は非常に有効な場で、軽率に脱退したことが惜しまれます。
日米戦争においてこの通告が真珠湾攻撃の前に米国に手交されるかどうか山本五十六が心配していたという話は有名です。
実際に、米国は宣戦布告なき攻撃だとしてスネーク・アタックと呼ぶようになります。
③の「他国領土、それに準じる地域」とは、大戦当時は、本国だけではなく、植民地や租界なども含まれていました。
(写真 上海租界1920年。上海は、中国との条約により、中国の主権の外にあった)
つまり、「侵略」という概念が成立するには、小部隊の小競り合いではなく、先制攻撃の意図をもって、大軍を動員し、他国の領土、ないしはそれに準じる地域を攻撃したという条件か必要なのです。
中国は、いまだに日中戦争の開始を盧溝橋事件に置いていますが、あの事件は現地の警備部隊同士の小競り合いであって、双方に拡大の意志はなく、停戦合意は直ちに結ばれています。
日本、中国共に一切の戦争準備をしていません。あれをして日本の「侵略」と言うのには、無理がありすぎます。
また1931年の満州事変は、非常に問題ある日本の行動でしたが、日中全面戦争よりかなり前の時期に当たり、直接の原因ではありません。
実はこのすべての「侵略」の定義に合致するのが、日中戦争の始まりとなった1937年の第2次上海事変でした。
そして、意外に思われる方も多いでしょうか、「侵略」されたのは日本のほうです。
当時中国の唯一の合法政府であった国民党政府は、先制攻撃の意図をもって70万という大軍を動員・集中し、あらかじめ上海付近に構築した塹壕・トーチカ陣地網に日本軍を誘い込む計画を立てていました。
一挙に陸戦隊もろとも居留民を皆殺しに、大規模版「通州事件」とする計画を、中国側は立てていたわけです。
(写真 ドイツ装備の中国軍と対峙する上海陸戦隊。在留邦人を防衛するために10倍以上の敵と戦い、多くの戦死者を出した。陸戦隊とは日本版の海兵隊である)
この上海租界は、当時欧米日によって条約で借り上げられていた地域で、その国の「国土に準じる」扱いを受けていました。
よく左の学者の中に、「一発でも他国で撃ったら侵略だ」というメチャクチャを言う人がいますが、まったく当時の歴史を無視した見方です。
しかし、③当時の国際法においては、上海租界は中国大陸に存在しましたが、「他国」ではなく「自国領土に準じる地域」です。中国がいくつかの条約で主権を手放していたからです。
念のため租界(a concessiona settlement/Shanghai International Settlement)も定義しておきましょう。「
「もと中国にあった外人居留地で、外国人が警察権・行政権を握っていた地域」
租界は帝国主義的不平等条約の産物のように思われがちですが、必ずしもそうではありません。
というのは、中国政府が外国人の土地所有や住居の賃貸すら禁じたために、やむをえなく租界といった狭い場所に暮らすハメになったのです。
また、当時の(今も似たようなものですが)中国の官憲の質は劣悪であり,賄賂や理由なき逮捕拘留などが罷り通っていました。
そのために、主要国で租界内は、各国領事が裁判権を持つことに取り決められたのです。これを領事裁判権といいます。
この結果、租界は治安がよく、栄えているために中国人が多く流入しました。
このような歴史があって、上海共同租界は、国際法上その管理区域は当該国の主権が及ぶ領土と見なされていました。
ですから、そこに暮らす邦人を、日本政府は保護する義務があります。
中国軍は租界内の日本人区を攻撃しましたが、それは他の地域にも及び、その上、日本海軍の艦艇を攻撃しようとした中国軍の爆撃機が租界を誤爆し、居留民に多数の死者を出す事件すら派生し、租界全体に対する攻撃とみなされるようになっていきました。
このように、日中戦争の幕開けとなった第2次上海事変は、①から③までの「侵略」の条件すべてを満たしています。
したがって、国際法上、これを「自衛戦争」と称することは十分可能でした。
ところが呆れたことに、この絶好の機会をあっさりと日本は逃してしまいます。
米内光政内閣はムニャムニャと「これは戦争じゃあありませんよ。上海事変ですよ」という訳の分からない言い方で逃げます。
「事変」とは、「宣戦布告なき小規模な紛争状態」ていどの意味です。英訳すれば、an incidentです。これだと諸外国には「事件」ていどの意味にうけとられてしまいます。
「戦争」としてしまうと、当時石油や鉄を輸入していた米国が当該国に対する戦争物資輸出を止める中立国宣言をしてしまう可能性があったからだ、とも言われています。
そして日本は宣戦布告もしないまま、腰が座らない戦争をエスカレートしてしまいます。
あまつさえ、何を血迷ったのか欧米が大使館を置いている首都南京までいきなり爆撃してしまいまうのですから、血迷うなと思います。
(写真 渡洋爆撃をする日本海軍爆撃機。長距離飛行な上に、護衛戦闘機がなかったために大きな損害を出す。また軍事目標に限定する方針としておきながら、市街地にも損害を出してしまっている)
その理由は、米内が、海軍の将校を上海事変の前に殺害されるという挑発を受けた上に、國府軍の非道な攻撃を海軍所属の陸戦隊単独で受け止めた怒りのためだったといわれていますが、外交オンチにもほどがあります。
自分でインシデント(事変)と言っておきながら、外交交渉なしで相手国の首都を爆撃するセンスがわかりません。
その前にやることがあるだろう。外交的攻勢をかけろよ、国際社会に自衛戦争であると宣言しろよ、中国を交渉テーブルに着けさせるべく米英に依頼しろよ、と叫びたくなります。
主要国は日本に同情的でしたが、これ以上の戦火の拡大は望んでいませんでした。
ですから、この時期に外交攻勢をかければ、日本にとって確実に有利な交渉テーブルに着けたはずです。
しかし、「海軍左派三羽カラス」のひとりの米内光政ですら、この調子ですから、陸軍の拡大派の武藤章(参謀本部作戦課)などは、それ以上の火遊びに走っていきます。
このように、日中戦争は、中国側の「侵略」から始まり、それを小規模の局地戦で押さえ込めず、外交的処理を過ったために、全面戦争に拡大してしまったのです。
歴史のifを考えるのは好きではないのですが、第2次上海事変以降の戦後処理さえ間違っていなければ、日中全面戦争は勃発せず、戦争は上海の地域に限定されていたはずでした。
さらには、日米戦争の火種は潜在的にくすぶっているとはいえ、ほぼ消し止められていますから、日米戦争も第2次大戦への日本の参加もなく、中立を維持する可能性すらでできます。(ただし、世紀の愚行の三国同盟を阻止できればという前提ですが)
この場合、なんと中国共産党の出番はなしで辺境ゲリラのままで投了ですから、今私たちが見ている中華帝国の勃興はなかったはずです。
日本に罪があるとすれば、この戦後処理を過ったために、中国共産党の思惑どおり、日中戦争を拡大してしまい、国府軍に打撃を与えた結果、毛沢東に政権を握らせる結果になったことです。
こうして、我が国は絶対に負ける戦争の道へと転がり込んでいきます。
このように、日米戦争と日中戦争をゴチゴチャにしてしまうと、歴史の流れは見えてきません。
※お断り 改題しました。
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コメント
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戦後半世紀以上も経ってから、MD構想に「1発だけなら誤射かもしれない」などと屁理屈をこねた左の議員さんがいたのを思い出して笑ってしまいました。
それにしてもこの時代の議会政治が機能不全に陥ってからの内閣はことごとくダメダメですね。
そして軍のなかでもゴタゴタ続きとかもう目も当てられない酷さ。
「天皇の政治利用」にやたらと敏感な意見がでるのは、戦前の流れがあったからですね。
投稿: 山形 | 2015年8月21日 (金) 07時05分
>このように、日中戦争は、中国側の「侵略」から始まり、それを小規模の局地戦で押さえ込めず、外交的処理を過ったために、全面戦争に拡大してしまったのです。
なぜ過ったのか?といえば戦線を拡大していった軍人たちが中国を侵略する気満々だったからですね。だから外交交渉などする気もないし彼らを抑えることができなくなった原因が満州事変にあるのでターニングポイントだとされるのだと思います。
投稿: goblin | 2015年8月21日 (金) 10時25分
goblinさん。う~ん、それほど単純なものじゃないから困ります。
なぜ戦後処理が失敗したのかについては、軍だけの問題ではなく、政府や国民の「民意」が背景にありました。
たしかにおっしゃるように満州事変は、私はするべきでなかったと考えていますが、否定しようとどうしようと、既にこの時点では起きてしまっていることでしたが、まだ日中全面戦争を止めようがありました。
ましておや、領土紛争もなければ、外交的紛争もなかった米国に対して、です。
私はなぜ米国と戦争することになったのか、簡単に考えてはダメだと思っていますよ。
中国の戦争で手詰まりになったから、もっと大きなバクチに手を出したみたいな歴史観がヒダリにはありますが、間違っていると思います。
私が言いたいのは、戦争というのは、後知恵で、あああそこが起点だ、あそこがターニングポイントだと言えるのですが、その時を生きている人たちには分からないものです。
ですが、やはり当時も中国との全面戦争を望まない人たちは日本側にも大勢いたし、逆に日本との戦争を大陸に導き入れたい中国人も大勢いたわけです。
そういった相互の利害関係の絡み合い、葛藤があって歴史は流れていきます。
必ずしも、実験室のように一直線に原因と結果が照合するわけではないのです。
明日にでも書きます。
投稿: 管理人 | 2015年8月21日 (金) 16時37分