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2015年8月 4日 (火)

朝鮮半島の「暴風雨」にさらされた日本

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昨日からの続きです。 

戦争は突然にやって来ました。1950年6月25日、日曜日午前5時早朝。 

北朝鮮の戦車軍団は、前夜からの嵐を止むのを待つようにして、韓国に侵攻しました。開戦暗号名はいみじくも「暴風雨」(ポップン)。 

一斉に北朝鮮軍の猛烈な砲撃が開始され、わずか30分後には10万を越える完全武装の兵士が、当時の最新鋭戦車T34を先頭にして、韓国になだれ込みました。 

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 『吉田茂とサンフランシスコ条約』(三浦陽一)によれば、韓国軍の指揮官は記念の宴会に酔いしれ、日曜日のために兵士は兵舎にすらいませんでした。 

兵士の多くは、田植えのために帰宅していたからです。仮に韓国軍がまともに待ち構えていたとしても、まったく勝ち目はなかったでしょう。 

なぜなら韓国軍には、大砲はまったくなく、戦車はわずか91門、航空機は作戦機がゼロ、練習機しかないというありさまでした。戦争をするしないという次元ではありません。 

大統領への報告は、遅れに遅れ、実に奇襲後6時間たってから伝達されるありさまでした。 

そして大統領・李承晩は、雪崩のようにソウルに押し寄せる北の軍隊を見るや、漢江の橋梁を爆破し、我先に逃げ出しました。

先だってセウォル号事件で見た船長さながらです。 

まだ渡河している多くの難民や兵士は、橋もろとも爆破され、取り残された者たちには悲惨な運命が待ち構えていました。 

このような韓国軍の自壊によって、北朝鮮軍は難民の群を蹴散らすようにして、一気に半島南端の釜山にまで、残存する韓国軍と少数の米軍を追い込みました。 

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この朝鮮戦争は、東アジア有事を考えるケーススタディとして、今でも興味深いものですが、今回のテーマは当時のわが国の動向ですので、この戦争の推移については別の機会に譲ります。 

さて、この朝鮮戦争の勃発を知って、昭和天皇は「火はもう門前に迫っている」と思われたと、岸田侍従長は『侍従長の昭和史』の中で述べています。 

激動の昭和の戦争を知り尽くされた天皇にとって、わが国の平和が戦後わずか10年で、再び瓦解していく姿を予感されたのだと思います。 

吉田茂の脳裏に浮かんだ風景もまた、このようなものではなかったのでしょうか。 

敗退した米軍が九州に逃げ込み、それを追って中ソの支援を受けた共産軍が上陸し、わが国を「貸し舞台」にした地上戦が激しく行なわれるだろう。

街は焼け野原になり、人々は難民として逃げまどう。そして日本国民を保護すべき自国軍隊は憲法によって存在を禁じられ、国民を守るのは中古拳銃しか持たされていない警官しかいない。

しかし警官の拳銃による抵抗など、外国の侵略軍によって軽々と蹴散らされ、日本民族は滅亡に瀕する。

このようなシナリオを描いたのは、日本の吉田だけではありませんでした。米国国務長官ダレスは、朝鮮半島を視察後にワシントンに戻ると、このような分析をしています。

「共産主義勢力の真の標的は日本列島にある」(『ダレス覚書』)

随員としてダレスに同行したアリソンは、ダレスがこのように判断していたことを証言しています。

「日本が米国との反共産軍事同盟に入らないように圧力を加えるのが、共産主義者たちの目的なのだ。このままでは日本への武力侵攻もありえる」(三浦前掲書)

そしてトルーマン大統領もまた、朝鮮半島を当時同時期に勃発していたギリシャの共産軍との内戦に重ねて、こう述べています。

「朝鮮は極東のギリシャである。それ自体は重要ではないが、今、譲歩すればその影響は波及し全アジアに及ぶ」

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気の毒なコリア。パククネさん、聞いたかぁ。トルーマンの頃から「朝鮮などは重要じゃない」ってさ(笑)。

一方、吉田は1950年7月14日の国会の施政方針演説で、こう発言しています。

「赤色侵略者がいかにその魔手をふるいつつあるかは、朝鮮事件によって如実に示されておるのであります。かかる事態に直面いたしても、いまなお全面講和とか永世中立とかいう議論がありますが、これはまったく現実から逆行した言論であります」

ここで吉田は、いままで延々と野党、新聞、文化人学者たちが主張すしてきた、「共産主義国家とも仲良くして、永世中立の非武装国家でいるべきだ」という空論を完全に潰すしかないと決心したのです。

信じがたいことに、これら新聞と文化人はこのような朝鮮の現実を前にしてもなお、「朝鮮戦争を仕掛けたのは米国だ。戦争反対。中ソと国交を結べ」と叫んでいたのです。

なんだか猛烈に既視感がある発言ですね。

それもそのはず、サンフランシスコ全面講和派の考えは、今の安保砲声反対派の思想のオリジナルです。昨日も紹介した鳥越俊太郎氏はこう言っています。

「最近、領土問題が議論され、北朝鮮が弾道ミサイル実験などしていると、勇ましい意見が必ず出てきます。アメリカと一緒にあいつらたたきつぶせ、と。だけど絶対、戦争はしてはならない。僕は最後の1人になっても、どんな状況になっても「NO」と言い続ける。それが僕が自分の胸に突きつけているあいくちです」(2011年1月10日東京)。

そして彼は、9条護持を叫び、現政権を戦後最悪と決めつけています。彼らの脳味噌には「第9条」と書かれた紙が一枚だけしか入っていないのでしょうか。

Ckccefsumaatqf8(写真 デモの前で演説する鳥越俊太郎氏。こういう齢になって、いささかも変化せずに子供じみたことをいう文化人のなんと多いことよ。年寄りの仕事は、若者を煽ることではないはずである)

吉田は、日本が自由主義陣営の一角に参加し、その防衛ブロックに属することで日本の安全を守ろうと明確に決心したわけです。

ここから吉田は、サンフランシスコ講和条約と、日米安保条約、自衛隊の創設にまで一気に駈け抜けます。

明日は、陛下をして「門前の火」と思わしめた、朝鮮戦争への日本の関わりをお話します。

それにしても、当時の野党と新聞や文化人は、60年前からただの一歩も進歩していないことに、逆に驚かされます。

ある意味、スゴイ。生きているゴンベッサ。 

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コメント

だいたい世界分割のために始まったばかりの国連で、ソ連の棄権で派遣された国連軍でしたしねえ。

トルーマンはスターリンに誇示するために核独占を誇示しまくって高圧的態度を取り続けて、いざソ連が原爆開発に成功したとたんに慌てふためく。
開城に原爆攻撃しようとしたマッカーサーを解任。
国共内線に形をつけた中国は人民解放軍の「義勇兵」の大量派遣。バックにはソ連。
今の『休戦状態』に至ります。
そんな時期のまだ貧しかった日本政治ですから、吉田茂の舵取りは実に困難を伴ったことでしょう。
緊急避難的に安保の空白が生まれたというのも皮肉な話ですね。

先日のNHKではトルーマンの孫の広島訪問の旅をやってましたが、なかなか興味深い話でした。また、原爆投下の日を知らない日本人が多すぎるというアンケートやら…平和ボケですなあ。と、言いながら原爆投下は許せないと、戦争終結のためには仕方なかった(未だに多数のアメリカ史観)が拮抗。
少しは歴史を学べと。学校でも近現代史はスッポリ飛ばしまくりますからなあ。
慰霊の日にわざわざ取材にやって来ては「自分の国の被災者にお辞儀をして悲しみに暮れる日本人は被害妄想の自分勝手な国」とかやるKBSなんか論外。あれはそういう場だ。土足で入って来るな!


おまけ。
TBSの60周年記念ドラマ「レッドクロス」は酷かった!観た人なら分かるでしょうから、内容は割愛しますが、最後は人民解放軍ありがとう!でした。


私は新憲法発布の頃に限っては、9条盲信は仕方ない
んだと思っています。それだけ多くの人が死んだ。

大日本帝国があまりに酷かったことが、大勢の民衆に
までバレてしまった。東條閣下が死に損なった、という
のは決定的だった。私が当時生きていれば、9条にマジ
涙を流していたかも・・

発布直後、9条をおもわない者は心が無い。その後は、
9条を盲信する者はアタマが無い。もう、早よ変えてよ!

以前、韓国の戦争をしらない世代は朝鮮戦争が日本との戦いだと思ってると聞いて驚いたり、竹島(彼らは独島だと)はその時に日本から奪い返したってのには呆れました。

日本も近代史をキチンと教えないと同じような感じになります。


山形さん、レッドクロスはそんなエンディングでしたか…見なくて良かった。
永遠の0は見ましたけど。

原爆投下の日、2年前にうちの子供らに質問したら答えられませんでした。
広島→長崎の順もあやふやでしたね。
受験に関係ないからサラッと流す程度のようです。

多摩っ子さん。一回削除しました。近々、もう少しまとめて記事にします。
私にとっても当時のことは、恥多きことの上に、40年たってもいまだ疼く傷です。さっと短く書き流せるような類のものではないので。

山形さん、管制塔事件で爆死したというのは伝説ですね。亡くなったのは山形大学の某党派の責任者だったN氏で、応急手当て施設のスタッフとして従事していた折に、ガス弾(あるいは投石)の流れ弾を頭部に受けて死亡したものです。

母校でもそういうことになっているのですね。彼ら、70年前後に起きた100名を越える大量の青年の死者たちは、いつしか名すら消えて歴史としてすら書き残されないまま消えていくのでしょうかね。

そして生き残って、いまでも変われぬ鳥越氏や坂本氏のような老人たちが、無責任に青年を煽動するわけです。
あの時代を知る者としては、眼を眼向けたくなるような醜さです。

管理人さん。

成田の件からだいぶ年月が経っていましたから…そんな話になってて、山形大学の先輩から10代の時に伝え聞いておりました。その先輩も含めて皆冷めて聞いた噂話。当時は中核も民青もただの危ない過激な左翼グループで、そのくせやたら仲が悪い、程度にしか認識してませんでしたから。
今やネットの時代ですし、ちょっと調べればいいのに、軽く書いてしまいました。反省。

また、どうやって「伝説」が誕生するのかがよくわかりました。話が伝わるうちにデカくなって、早い話が「尾鰭付き」ってヤツですね。

管理人さん、なんか古傷に障る感じがしますけど興味深い事柄です、筆は重いでしょうがよろしくお願いします。

えっと、誤解無きように指摘しておきますが、地元なんで山形大学には詳しいですし知り合いも多いですが、私は卒業生ではありません。

高校の先輩達は、まさに偉大!
左翼大学生達の「君らも一緒に権力と戦おう!」 という押し掛けを断固拒否。『一歩でも入ったらどうなるか分かるよな!』と、逆に脅して撃退した返す刀で、筋を通した上で生徒会が教員と折衝。長い話し合いの末に校則改定を飲ませて、制限あり(Gパンは不可とか、シャツは面積規制ありのワンポイントまで。襟無しシャツは禁止)ながら、私服登校などを勝ち取りました。
おかげで私達は学校の公式イベント以外は夏場はチノパンにダンガリーシャツでした。

偉大な先輩がいたものだと。
当時の先生も称賛してました。

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