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2015年9月 5日 (土)

日中戦争の「平和」だった実態とは

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日中戦争の大部分は「平和」だった。日本軍はインフラ作りに専念していた、などと書くと暴論といわれるでしょうね。

先日の抗日70周年戦勝軍事パレードにおける習近平首席演説の冒頭部分です。全文を産経が掲載しています。
http://www.sankei.com/world/news/150903/wor1509030048-n2.html 

「中国人民の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争は、正義と邪悪、光と闇、進歩と反動の大決戦だった。この惨烈な戦争中、中国人民の抗日戦争は最も早い時期に始まり、最も長く続いた。
侵略者に対し、中華民族の若者は不撓不屈の精神で、血を浴びながら奮戦し、徹底して日本軍国主義の侵略者を打ち負かした。中華民族の5千年以上も発展してきた文明の成果を守った。人類の平和事業を守り、戦争史上まれにみる中華民族の壮挙を作り上げた。 中国人民の抗日戦争勝利は、近代以来、中国の外敵の侵入に対する抵抗の最初の完全なる勝利だった。この偉大な勝利は、日本の軍国主義の中国を植民地とし、奴隷のように酷使しようというたくらみを徹底的に粉砕し、近代以来、外からの侵略に対する戦いで連戦連敗だった民族の恥辱をすすいだ」
 

144139158439323927179(写真 世にも不機嫌な表情の習近平。何があったのか知らないが、主催者の顔じゃないよね)

私の亡父は北支派遣軍の兵士でしたが、一度として「パーロー軍(八路軍)と戦った」という話を聞いたことがありません。 

というか、中国軍が「見えた」のは初めのほうだけらしいのです。あとは、「山賊との戦いみたいなもの」(父の表現)だったそうです。

話を聞くと、意外に平和な話ばかりで、どこで飯を食った、中国の便所は汚かったからの見張りを立てて野糞をしたほうがよかったとか、中国人の墓は土饅頭で、豚を買いに行くと水ばかり呑ませてあって騙されたとか、そういうしゃーない話ばかりだったような気がします。 

当時、本多勝一の『中国の旅』の良き読者だった私は、父が言うに言えないような残虐行為を働いたンだろうと勝手に決めつけていましたから、根掘り葉掘り問うたのですが、父は煙草をふかしながらこう言ったものです。 

「なぁお前、シナ事変なんて、初めだけだったんだよ。初めの徐州会戦なんかは死ぬかと思ったが、後はあんがいノンキなもんだったさ」、

実際、日本軍は逃げる中国軍を追って戦線を拡大しました。 あ、この「中国軍」っていうまでもなく國府軍、いわゆる蒋介石軍のことです。 

クリントン政権で国防総省中国部長を、ブッシュ政権では国務次官補代理をつとめたランディ・シュライバー氏はこう述べています。

「私たちの友邦であり安保上のパートナーである台湾は、日本との戦争における役割、功績を中国に奪われている。戦時中、中国側の死傷者の90%は中華民国の人間だった。人民解放軍が日本軍と戦闘することはほとんどなかった」(外交専門誌「ザ・ディプロマット」8月31日号)

習のいう「中国人民」とやらが蒋介石軍ならばともかく、それが共産党軍(八路軍)ならば、姿形が見えません。

Moutakutou(写真 長征時代の毛沢東。要するに落ち武者である。逃げ回っているのを「長征」・ロングマーチと呼んでしまう神経が、さすが共産党)

というのは、中国共産党は、長征というカッコイイ名を自分でつけていますが、「長征」といっても後ろに進撃していたのです。

延々と逃げ回ったあげく、延安というとんでもない辺境の洞窟に逃げ込んでいたからです。

これを、アグネス・スメドレーやエドガー・スノーらの共産党員ジャーナリストたちが徹底的に美化してしまったために、虚名が世界に宣伝されただけで、実態は敗残兵の巣窟にすぎませんでした。

彼らが戦争中にもっぱらやっていたのは、「延安整風運動」という共産党内部の粛清でした。

「最終的には、中国共産党による迫害同然の運動となった。運動は毛沢東の権力を背景に進められ、一般の中国人民も運動に加わるよう強制された。運動の過程で、1万人以上もの人民が殺害されたと言われる
整風運動 - Wikipedia

共産党は現代の習政権を見てもらえばお分かりのように、常に内部抗争に力の8割を費やしています。そして敗者は殺されます。

504083537628(大紀元は台湾系のメディアであるが、この整風運動の生き残り証言を集めているhttp://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d54579.html

「二〇世紀四十年代の延安整風運動、幹部審査運動、鋤奸運動(漢奸粛清運動のこと)党員の反省資料は大体3~5回に及んで書き直された。
一部の反省資料は13回まで書き直された。それは審査にクリアできなければの恐怖の心理そのものである。
運動を行った日々、党員幹部たちはみな緊張焦りの下で、寝食に不安となり、党員幹部たちは強烈な暴力の脅威と理論攻撃により、長い精神的試練の結末、肉体的にも精神的にも震えながらも「党」の強権の元へ屈した」(大紀元 前掲)

まるで連合赤軍の惨殺事件の起きた妙義山キャンプか、ポルポト時代のカンボジアのようです。事実、彼らは皆、毛沢東主義者でした。

共産党は日本軍とは戦わず、もっぱら辺境でこんな内部粛清に興じていたようです。

いちおうこの舞台となった、延安の場所を確認しておきますね。 

Photo_2
ついでに、日本の支配地域も乗せておきましょう。
640pxjapanese_occupation__map(図 Japanese_Occupation_-_Map)

ぜんぜん重なりませんね。これでは、抗日戦争のやりようがありません。中国共産党はハナから戦う気もないし
、その能力もなかったのです。

国共合作といいながら、実際にやっていたのは、國府軍を背後から襲撃するようなことでした。(1939年晋西事件、山西新軍事件など)

あとはひたすら國府軍の消耗を待つだけでした。

結局はこの「果報は寝て待て」作戦が図に当たって、フロックのようにして共産党は政権を手に入れます。

これは、先日来見てきた蘆溝橋事件から第2次上海事変の日中戦争初期の中で、日本を70万という大軍で攻めまくったのが蒋介石中国、つまり国民党軍だったことからもわかります。  

そして、この後に、逃げる中国軍を追って、日本軍がよせばいいのに南京戦から、徐州、武漢三鎮の制圧まで一気に進んでしまい、ここで激しい戦闘は終了します。  

後は戦争末期に、大陸打通作戦という壮大にして、しゃもない大作戦をしたきりで、あとは防衛庁戦史叢書の題名とおり『北支治安維持戦』という、いたって地味なものになっていきます。  

はい、このように実は日中戦争は延々と8年間も、対ゲリラ戦をやっていたというのが実際なんです。

イラクの米軍に似ていなくもないですが、違うのは、経済建設まで日本軍がやってしまったことです。

父によると、当時中国にいた兵隊さんたちは皆、中国にズっといたいと思っていたそうで、部隊が南方に引き抜かれるとわかると、ドヨーンとなったそうです。 

つまり、國府軍はひたすら逃走・撤退を重ねる、それを日本軍が追う、くたびれて停止して、支配地域の安定を図るために膠着状態になるいうのが、この戦争の通常パターンでした。 

ですから、日米戦争のような正規軍が正面衝突を繰り返す戦闘は、父が言っていたように初期の南京戦までです。 

共産党軍などは脇役というのもおこがましい、せいぜい「通行人A」ていどです。

気の毒にも台湾は、日本との戦争における功績を一切合切、ぜんぶ共産中国に奪われています。

戦時中、中国側の死傷者の90%はシュライバー氏が言うように中華民国の人間で、共産軍が日本軍と戦闘することはほとんどありませんでした。

したがって激戦がないために、戦死者はゲリラ戦での小競り合いによるものでしたので、犠牲者も軍人が中心で、住民を巻き沿いにした戦闘は非常に少なかったようです。 

一方、日本が中国大陸に介入するまでの国民党軍と共産党軍との内戦は、階級闘争ですから、食うか食われるかでした。 

ある都市を國府軍が包囲すれば、赤色区の住民は赤化住民として皆殺しにするということを平気で行なっていました。 

逆に、共産党軍も、地方の農村での地主階層への容赦ない粛清をもっぱらとしていました。

なお、 中国共産党用語における「粛清」とは殺害することです。

後に、中国はこれらすべてを日本軍による犠牲者として計上しています。 

では、日本軍が大戦中に何をしていたのかといえば、もっぱら鉄道を通して、それをゲリラの破壊攻撃から守ることでした。 

日本軍の鉄道建設部隊は、大戦中でありながら、実に1千キロにも及ぶ新路線を作ってしまっています。日本陸軍には鉄道連隊という専門部隊までありました。

250px101(写真 鉄道連隊)

もちろん、中国のためにしたのではなく、日本軍支配地域での物流の改善のためですが、これは「解放」後の中国の貴重なインフラになりました。

なんともすごい鉄道好きな民族性ですが、華南では、港湾建設までしています。

なにも日米戦争やっている時に、中国大陸で千キロも鉄道建設するこたぁないと思うぞ(笑)。 

なんのことはない日本軍が支配地域でもっぱらしていたのは、こんなインフラ作りと治安維持、そして経済活動だったのです。 

このように書くと、「いやそんなことはない。中国共産党は1937年9月に平型関で板垣兵団センメツ戦をしているぞ。ああ偉大なるかな、中国人民解放軍!」といった習の声が聞こえてきますが、ありゃただの宣伝です。

ま、映画「カイロ会談」で省。蒋介石の代りに毛沢東が出席して主役張っていたなんていう、トンデモ映画を平気で作る国ですからね。

もちろん、カイロ会談に中国を代表して出席していたのは毛ではなく蒋介石です。よーやるよ、まったく(苦笑)。

Cn2015093

平型関戦については、一度詳述したことがありますので、詳しくはそちらをご覧ください。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-b7ff.html 

実際の戦闘は国府軍5万人が担い、共産党軍はゲリラ部隊ていどが非武装の輜重部隊を襲撃して、丸腰の兵隊を殺し、物資の略奪を行っただけです。

この戦闘全体にはなんの影響もなく、やったことといえば、死亡した日本兵の金品を略奪しただけでした。まこと立派な抗日戦です。

これをして遊撃戦の勝利、毛沢東思想に基づいた偉大な人民戦争と言うのですから、まぁなんともかとも論評のしようがありません。

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コメント

昔、友人の家にあった「毛沢東と日本軍」というマンガを思い出しました。見開きでドカーンと毛沢東が蒋介石と固い握手を交わす熱いプロパガンダ劇画だったのですが、持ち主は日中戦争研究の国立大学教授でした。デタラメだろうと理想の為には必要なんだと本気で思っている方(故人)でした。
あの狂った?熱さを思い返すと今なら未来を話し合うきっかけくらいはあるかしら?と思います。甘いかな…

お父様の体験談、実に面白いです

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