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2015年10月

2015年10月31日 (土)

沖縄が日本になった事件

022
素朴な質問をします。沖縄がどうして今、中国ではなく我が国に属してしているのか、考えたことがありますか? 

それは19世紀末に起きた、中国とをめぐるある事件によってでした。

時代は、1870年代、明治維新を経て明治国家が近代国家として、ヨチヨチ歩きを始めた時のことです。 

当時まだ、沖縄は琉球王国でした。日本は薩摩藩による実効支配をしていましたが、それは外交的には「秘密にしておこうね」ということでした。 

バレると琉球を介してやっていた、清朝との貿易ができなくなってしまうからです。 

ですから薩摩藩は、琉球王府に対して、貿易のことはうるさく介入しましたが、内政についてはまったく放任主義に近いものでした。 

要するに、薩摩藩は密貿易が大事で、沖縄自体には関心がなかったんですね。 

さて、こんな状態のまま明治維新を迎えてしまうのですが、この時に沖縄をどうするのかということは、頭痛の種でした。 

というのは、琉球王国の中には、士族階級を中心として強硬な親中派がいたからです。 

彼らは、「日本をやっつけて、どうか中国に併合してください」という密使すら送ったほどです。 
※関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-85e9.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-2d1a.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-aa7e.html

これが私がこのブログでも何度も触れてきた、沖縄の両属性という性格です。 

日本は近代国家を作る上で必須な、国境線の確定を急いでいました。

前近代の時代には、「なんとなく中国ね、なんとなく日本かもね」、で済んでいたのですが、そういうカメレオンは効かなくなってしまったわけです。 

さて、そんな時に大変な事件が起きてしまいます。 

1871年、宮古島の船が大風に合って台湾に漂着したのです。そして、台湾現地住民によって、69名中54名も大量殺害されるという大事件が起きたのです。 

この原住民を清朝は、「生蕃」(せいばん)という呼び方をしていました。別の言い方で「化外(けがい)の民」とも称していました。 

要するに、「清朝の支配の外に住んでいる、わけのわからない野蛮人」ていどの意味です。 

台湾の高地に住む住民で、後に台湾が日本統治になると高砂族と呼ばれるようになる人々です。 

Photo(写真 「生蕃」。当時の台湾はマラリアの猖獗の地で、日本軍は病死者だけで500名を出すことになる。後に極めて親日的になり、私も行ったが日本語ペラペラ)

さて、この時の清朝の表現に注目してください。「生蕃」という概念には「統治外」、言い換えれば、「台湾なんかオレの領土じゃないぜ」という意味が含まれているのです。 

沖縄漂流民を殺害された日本政府は、怒って清国にネジ込みますが、そこで言われたのが、「ありゃ生蕃がやったことですから」というスゲない返事でした。 

そして清朝の総理衙門(外交窓口)のマンダリン官僚は、しゃらとして「琉球の民が殺されたと怒っているが、琉球は中国の属国だぞ」などと、中華意識丸出しのことまで言い出しました。 

日本政府は、この清朝の当事者能力のなさに呆れて、「そうか、台湾はお前の国ではないのだな。では、勝手に討伐させていただく」と、台湾に兵を送りました。 

これが「台湾出兵」という事件です。派遣軍司令官は、西郷隆盛の弟の西郷従道でした。 

Photo_4
この事件の時の日本政府の対応で、ひとつ分かることがあります。

それは当時の明治国家が、宮古島民を日本国民の「同胞」として見なしており、その殺害に対してキッチリ武力をもって報復する気概を持っていたことです。

これを帝国主義だ、日本は台湾を領有したいための口実に使ったんだという左翼歴史家もいますが、私はそうは思いません。

もちろんそういう政治的思惑がなかったなどとは思いませし、当然あったでしょう。

しかしそれ以前に、国民の保護こそが主権国家のイロハのイであり、こういう原則をあいまいにしていると、西欧諸国からナメられることを明治国家が知っていたことです。

これなど、いつまでたっても北朝鮮に拉致された自国民を奪還できない、邦人救出に自衛隊は派遣できないという、どこぞの国とは大違いです。

ちなみに、沖縄が中国でも日本でもなく「琉球王国」として生き残るという選択肢もまったくないわけではありませんでした。しかしそのためには、条件があります。

琉球王国は、明治維新レベルの徹底した近代化をせねばならなかったのです。

この宮古島島民殺害事件は、それが可能かどうかを計る試金石でもあったのです。

この時、琉球王府は自分の軍隊を派遣して、宮古島の漂着民を保護し、加害者処罰をせねばなりませんでした。

しかし残念ながら、自国民保護という近代的国家観はおろか,琉球王府には当事者能力、いや、当事者意識にさえ欠けていました。

それができるだけの近代的開明性を王府が持っていたのならば、後の歴史の展開もまったく異なったことでしょう。

それはさておき、今まで「台湾は化外の地」と言っていたくせに、日本が出兵すると、清朝は怒り始めます。

この辺が情けない。 清国の本音は、「台湾はオレのもの。沖縄もオレのもの。だから国内問題じゃねぇか」というものでした。

19世紀末の帝国主義の時代に、あれだけ諸外国に食い物にされて、なお、アジアには中世的冊封体制が生きていると考える哀しさです。

ズレ切っています。まるで「あさが来た」のねぇちゃんの嫁いだ、老舗両替屋みたいなもんで、あるのは、持て余すほどの大国意識だけです。こういうのが、いちばんタチが悪い。

結局、1874年、英国公使ウェードに仲介を依頼し、妥協を図ることになりました。 

この英国仲介案は同年10月31日、日清両国互換条款として締結されました。

これにより、清朝は日本に対して台湾出兵を「義挙」として認めて、50万両支払い、条約には次の一項を書き記しています。 

「台湾の生蕃かつて日本国臣民らに対して妄り(みだり)に害を加え」 

この瞬間、清国、すなわち中国は、正式に沖縄を日本領として認めたことになります。 

しかもこれは、単なる二ヶ国間の協定ではなく、当時のスーパーパワーだった英国が裏書きしていますから、国際社会が沖縄を日本領として正式に認知したということを意味します。 

これによって、今まで国境が確定していなかった沖縄は、正式に日本領として国際社会に認知されることになります。 

ところが、もう一回ズッと後の時代になって、中国に対して「お前に沖縄をやるよ」と言った人物ーが現れます。 

それが、フランクリン・ルーズベルトです。 

長くなりましたので、今日はここまでとします。  

2015年10月30日 (金)

「管理された戦前」の開始と辺野古移設問題

677

辺野古で工事が再開されました。 

まるでこの日を狙ったようにして、米国の「航行の自由作戦」(Freedom Of Navigation OPeration・ FONOP)が実施されました。 

マスコミは例によってシュアブ・ゲート前の「市民の声」ばかりを取り上げて、あくまでも視野を沖縄と本土政府に限定したいようです。

私は、辺野古移転問題が、単なる移転問題にとどまらず、米軍基地全体の意味を問われる時代に入ったと考えています。

つまり、今、南シナ海で始まろうとしている事態との関連で見なければわからなくなる時代に入ったのではないでしょうか。

フィナンシャル・タイムスはこう伝えています。

Photo_4(写真 ファイアリークロス礁での基地施設建設状況。大型機が発着できる3千m級軍用滑走路が見える。JBpress)

Photo_2写真 ファイアリークロス礁の中国軍事基地。もう完成寸言で、滑走路は舗装され、標識まで記されている。おそらく年内に完成し、戦闘機部隊が移駐すると言われている)

「ラッセンによる作戦行動は、米国海軍が2012年以降、中国が領有権を主張する島の周辺12カイリ内を航行する初めてのケースとなる。狙いは、米国政府は南シナ海の人工島に対する領有権は一切認めないということを示すことにある。
国際海洋法は、国が自然な島の周囲12カイリ内の領有権を主張することを認めているが、人間の建設活動によって海面上に持ち上げられた暗礁周辺の領海を主張することは認めていない。
中国は過去2年間で、岩礁や環礁の周辺数千エーカーを浚渫することで、南シナ海に5つの人工島を建設した。
1つの人工島――ファイアリークロスと呼ばれる岩礁――では、アナリストらが軍用機を扱えると見る長さ3キロの滑走路を建設した。中国は海軍と沿岸警備隊を増強するに従い、南シナ海での巡視活動について強硬になっていった。南シナ海の海上交通路は世界の貿易のざっと30%を扱っている。」
(フィナンシャル・タイムス10月26日)

今回の「航行の自由作戦」は、半年以上前から米海軍はホワイトハウスに実施を要請してきましたが、すげなく却下されてきました。 

その理由は、習近平との米中会談において直接にオバマが習を説得する前に、海軍を動かしたくないという、オバマの気持ちがあったと言われています。 

例によって例のごとく、腰が引けて、状況がいっそう悪化するまで動けない人です。この人物のおかげで、どれほど世界が不安定化したことか。

それはさておき、このオバマの期待は空振りに終わったようで、オバマは習との会談が決裂した直後に、ホワイトハウスから直接、米太平洋軍司令官に作戦の許可を電話したと言われています。

これによって、南シナ海の情勢は、外交的ペンディング状態から、一気にエンジンがかかった「管理された戦前」へと突入したことになります。

ただし、このエンジンは全開ではなく、いわばアイドリング状態にすぎません。それが軍事的に「管理された」と呼ばれる状況で、外交と軍事力行使の中間線だということです。 

現時点では米海軍の狙いは、国際法に則って、国際法を無視し続ける中国に対して、航行の自由を確保することにあって、戦争そのものではありません。 

それは、投入した艦船が、アーレイ・バーク級駆逐艦「ラッセン」であったことでわかります。
アーレイバーク級ミサイル駆逐艦 - Wikipedia  

Photo_3(写真 米海軍イージス艦ラッセン)

産経はフライングぎみに、「日米共同パトロール」とか、「新安保法制の適用」などと言い始めましたが、あまり煽らないで頂きたいものです。 

米国にも日本政府にも、そこまで突っ込んだ軍事行動をする意志はないのですから。 

もし今回、米国が中国の海洋膨張を、軍事的に潰す狙いがあったのなら、初めから空母ロナルド・レーガンを中心とした空母打撃群を使います。 

ただし、シンガポール港には中東から帰還した空母「セオドア・ルーズベルト」が寄港しており、万が一に備えていたようです。

また、「ラッセン」の上空には、P-8ポセイドン哨戒機が飛行して、警戒活動を実施していました。

今回もし、ただの意志表示に終わらせる気ならば、イージス艦を使わずにドック級の輸送揚陸艦でも済んだはずです。 

どちらも使わずに、トマホーク巡航ミサイルを装備し、いつでも地上目標を攻撃できる能力をもったイージス艦を投入したのは、この南シナ海の無秩序をコントロールするのが目的だからです。 

つまり、「空母未満・輸送艦以上」という米国のメッセージは、市民語にすれば、おそらくこのようなものだったはずです。 

「中国さん、オレのほうから攻撃する意志はないが、出方によってはそれなりの対応をするぞ。この海域はいろいろな国が領有権を主張し、シーレーンも通っているデリケートな海域なんだ。だから、お前の好き勝手にはさせないぜ。国際法は米海軍が保証する」 

これを裏付けるように、米国は今回の作戦を周辺国に事前通告してから実施しています。 

フィリピン、ベトナム、マレーシア、日本などの国は、事前に実施を通告を受けいます。

米国は日本と協力して、来月に控えるG20首脳会議と、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、この作戦を担保にして、中国を完全に封じ込めることを狙っています。

もう一点は、作戦実施範囲が予想以上に大きいことです。

当初の予想では、中国が20年前頃より不法占拠しているミスチーフ礁に対して行なうと見られていましたが、暗礁の上に構造物を乗せた人工島のファイアリークロス礁とスービ礁に対しても行なわれています。

Photo_5

上図は韓国の離於島の概念図ですが、水面下に満潮時でも、岩礁が潜っているのが「暗礁」です。

この上にいくら構造物を乗せたり、埋め立てても、とうぜんのことながら国際海洋条約では違法建造物にすぎず、もちろん「領土」とは見なされません。

暗礁の定義です。

「暗礁(あんしょう、sunken rock)とは、水面下に隠れる岩礁のこと。(略)
海図では、岩礁を潮の干満を基準に「水上岩」「干出岩」「洗岩」「暗岩」と区別し記号や数字で表す。この内、水上岩を除くものが暗礁である。暗礁は島ではないため、国際法上国の領有権は主張できない」(Wikipedia)

中国は、スビ礁、ミスチーフ礁などの暗礁の上をコンクリートで固めて、これを「神聖な領土」として半径12海里を「領海」として勝手に定めてしまいました。

そして他国がこの海域に進入するに際しては、中国当局の許可が必要だと宣言しています。

言ってみれば、勝手に他国の敷地に強引に入り込み、コーンをポンポンと置いてロープを張り、これがオレの海だ、と宣言したわけです。

あんた、ジャイアンかって。

Photo_11
中国側にもとりあえず法的根拠があって、それが1992年2月に制定したいわゆる「領海法」です。

この中国領海法第2条にはこうあります。

「中華人民共和国の領海は、中華人民共和国陸地領土と内水(内海)に隣接する一帯の海域である。
中華人民共和国の陸地領土は、中華人民共和国の大陸およびその沿海島嶼を含み、台湾および釣魚島(尖閣諸島)を含む附属各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島および中華人民共和国に所属する一切の島嶼を包含するものとする。
中華人民共和国の領海基線は陸地に沿った水域をすべからく中華人民共和国の内水(内海)とする」
(主席令7期第55号」「中華人民共和国領海および毘連区法)

おいおい。勝手に他人様の領土に線を引いておいて、全部オレ様のものだと宣言するなよ、と周辺国のすべてが思いました。

しかし、猛烈な周辺国の抗議にもかかわらす、軍隊を派遣して勝手に「実効支配」してしまったわけです。

Photo_8(写真 「神聖な領土」の岩礁の上でイチビっている中国軍。どんなに悪いことをした兵隊なんだろうね。この上に兵舎を作り、ブイを周囲に回し、やがてコンクリート工場まで備えた「島」にしてしまった)

この領海法条文に書いてある島嶼と岩礁、暗礁を繋いでいったのが、悪名高き「中国の赤い舌」と呼ばれる南シナ海の海域です。

ちなみにこの海域を通過して、我が国のシーレーンが走っています。

このような水域を国際法を無視する中国に握られることが、一体なにを意味することになるのか、考えるまでもないことです。

Photo_6(図 中国九段線。別名中国の赤い舌。この赤線内はすべて中国領海だと主張している)

まったく無茶ぶりも極まれりですが、仮に百歩譲ってそれを中国の「神聖な領土・領海」と認めたとしても、そこの無害通航権はすべての国に対して与えられています。

国際海洋条約第19条-2は、その領海を民間船は言うに及ばず、軍艦(潜水した状態を除く)すら航行する権利を、無害通航権として認めています。
海洋法に関する国際連合条約

ただし、領空は別で、領空に軍用機は無断で侵入することはできません。

しかし今回は、イージス艦上空を哨戒機が飛行していますから、米国は徹底してこんな自称「領土」は認めないということです。

長々と説明してしまいましたが、これは米国と中国との「新冷戦」の開始を意味します。

「冷戦」である以上、周辺国には中立という選択肢は存在しないことになります。

このような情勢下で、翁長氏の移転反対闘争が繰り広げられているということを、しっかりと私たちは押えておいたほうがいいでしょう。

翁長氏の今後の行動が、中国側についているのか、それとも日本の政治家のものなのか、鋭く問われる時代が目の前にまで来ています。

2015年10月29日 (木)

HNくるみさんのコメントにお答えして 「しぶとい」をめぐって

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HNくるみさんからコメントをいただきました。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-8b47-1.html 

「しぶとい」という表現に、どこか釈然としない引っかかるものを感じられていらっしゃるようです。 

この「しぶとい」という表現には賛否両論あります。同じウチナンチューでも肯定的な方もいれば、怒っている方もいます。 上目線だとも言われました。

私はこの「しぶとい」という表現を、島んちゅうに対する万感の思いを込めた<賛辞>として使っています。 

というのは、沖縄の過酷であった戦中、戦後においてあなたがおっしゃるような「粘り強い」だけでは、時代に耐えられなかったと思うからです。 

Photo_2

沖縄の戦後を少し振り返ってみましょう。

終戦直後の沖縄には、「センカアギ」という伝説のようなものがあったと伝えられています。

当時の沖縄人は、やっと収容所から解放されて村に戻ったわけですが、家どころか村さえも消滅し、コンクリートの滑走路の下という経験をした人も多くいました。

Photo

こういった中で、島の男たらは続々と復員してくるわけですが、家がない、耕す畑がない。お宝のようにしていた水牛もいない。みんな戦争が奪っていったわけです。

そういう時に政府を恨んでもしかたがないわけです。第一、本土政府自体も、ドイツのような解体こそ免れたもののGHQの軍政下にありました。

目の前でふぎゃふぎゃ泣いている子供たちを食わせるために父親たちが考えたのは、米軍基地に忍び込んで、物資をカッパらうことでした。

夜陰に紛れて、米軍基地の柵を破ってかっぱらって、かっぱらって、かっぱらいまくりました。

缶詰やビール、ウイスキーなどといったすぐに換金できるものは当然、果ては停めてあった戦車のホイルさえはずして盗んだという話すらあります。

軍用機の落下タンクなど置いておけば、絶対に盗まれて、日用品に化けました。

落ちた爆弾すら、鍋にしてしまいした。ビギンが「オバー自慢の爆弾鍋」という唄を作っていますね。

私はこの「センカアギ」をした、オジーと親しかったことがあります。「センカアギ」とは、戦果を上げるという兵隊言葉ですね。

当時の島の男の大部分は兵隊上がりだったので、米軍基地に忍び込むカッパライを、戦争当時の切り込み隊に被せてイメージしていたのです。

オジー、島酒をグビグビ呑みながら

「夜になるとさ、背中にばかでっかいモンキーレンチをくくりつけてさ、あ、このレンチも頂戴したもんよ。
顔にはかまどの炭塗ってクロンボーのようにしてさ、匍匐前進よ。こうして身体をやや斜めにして(実際にやり始める)、こらナイチャー、違う!お前、死んでるさ。
フェンス破る時に、小さい声でトテチテター♪と突撃ラッパの口笛吹いてね、目標、前方の敵戦車!トツゲキ!
ものの10分もかからんさ。それ以上かかると、ヒージャミーに撃たれる」

おっといかん、オジーの話は付き合うと、一晩かかったっけ(笑)。

とまぁ、こんなかんじで、盗んだものは、台湾へと売りさばいていたそうです。もちろん密貿易に決まっています。

いまでこそ日本の外れになってしまった与那国は、密貿易で大変な盛況でした。

内戦の真っ最中の台湾に密輸し、台湾から帰り荷で、当時の沖縄が欲していた物品を密輸入しました。

このような時代を「大密貿易時代」と呼びます。沖縄タイムスから、『沖縄大密貿易の時代』という本がでています。大変におもしろいですよ。

この時代に生きた島人たちは、真正面から圧倒的強さを誇る米軍支配と戦うのではなく、いかにもその支配を表面では受け入れる顔をして、裏でアカンベーをしていました。 

それはただの「粘り強い」とは違う気がします。また、左の人たちが言いたがるような「人民の抵抗」とも違う気がするのです。

Photo_3
「人民の抵抗」と言えば、当時の島のヒーローに瀬長亀次郎という人民党の親玉がいました。

後に日本共産党の副委員長になりますが、この人の戦いはたいしたものでした。

現代のような島の富裕層の公務員労組の人たちの「反戦闘争」は、どこか決められた振り付けを踊る歌舞伎みたいですが、瀬長の場合、「オレの背中には、島の全員がついているぞ」という迫力かありました。

センカアギをやっていたスーや、爆弾鍋を振っていたようなアンマーたちが、瀬長を応援したのです。 

上の釈放された瀬長を見る警官たちの顔に、微笑みが浮かんでいるのに気がつきましたか。

今のように形だけは過激でも、なにか生活の匂いのしないものではなく、まさに生きるための汗くさく、泥臭い戦いでした。 

こういう泥臭い戦いを、沖縄は70年の間、なにかしらの形でしてきました。それはセンカアギだけてもなく、かといってセナガのような戦いだけでもありませんでした。

Photo_4
成績が優秀な子供たちは、大濱早大総長の作った自費留学制度で本土に渡りました。その時、彼らが持たされていたのが、屈辱的な身分証明書とパスポートでした。

この大濱の制度のおかげで、沢山の有為な島の若者が本土に渡り、今の沖縄経済界を支えています。

彼らの伝記を読むと、ひたすら頭が下がります。時に涙ぐむほどの感動を覚えます。

彼らの胸に宿っていた思いは、自分の栄達ではなく、「島のために役立つ」ことです。

彼らは島に帰って、米軍との共存の道を選びました。折からの朝鮮戦争による基地拡充は、沖縄経済に強い刺激を与えました。

基地建設をすることで、今の沖縄経済の背骨である建築土木業の基盤が出来上がったのです。

これを米軍ポチのように言うとしたら、それは間違っています。それ以外にいかなる道が沖縄に選択できたのでしょうか。

今のような手厚い振興予算もない、いや日本ですらない、という状況の下で島が蘇るには、米軍基地建設しかなかったのです。

一方、島北部の東海岸の人たちは、米軍を誘致しようとしました。今、騒ぎになっている辺野古地区です。

彼らは島ぐるみ闘争の余熱を背後に受けて、米軍と対等でまさに粘り強く渡り合いました。

いや、そもそもこの島ぐるみ闘争も、イデオロギー的な米軍基地反対闘争ではなく、米軍によりよい条件で地代を出させるかの生きるための闘争だったわけです。

このように、島人は単純に米軍基地反対を叫んでいたわけではなく、時には友人の顔したり、時には真正面から条件闘争を繰り広げるような、強力無比な「弱者」だったのです。

Photo_5

私は、このような沖縄の人を愛おしく思います。

したたかで、決してあきらめず、強さを表に出さない強者。苦しみを笑いに変えてしまう達人。笑いながら泣く名人。そして温かく強い。それが私の知る島人です。 

いかなる「世」になろうとも、アメリカ世だろうとヤマト世だろうと、本質的な自分を変えない。そのためにありとあらゆる手練手管で「戦う」流儀が、沖縄人だと思っています。 

この「戦い」の結果、復帰以降累積11兆円、毎年3千億円の振興予算が島に流入します。 

私は、そのことが今や、島の奥深い部分を狂わせていると思っています。 

と同時に、それが次世代の島を作るグランドデザインに沿って使われるなら、本土の納税者として喜ばしいかきりです。

私が島人を感嘆を込めて「しぶとい」と呼ぶ理由の一端が、お分かりいただけたでしょうか。

 

2015年10月28日 (水)

移設問題 国が代執行に踏み切る

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政府が、翁長氏の「承認取り消し」に対して、代執行で臨むことを決めました。 

「沖縄県の翁長雄志知事は27日夜、那覇市内で記者会見し、政府が米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設先の名護市辺野古埋め立てを知事に代わって承認する「代執行」を決めたことについて、「政府の最後通告だ。不当なのはもちろん、多くの県民の思いを踏みにじるもので、断じて容認できない」と述べた。(時事10月27日)

Photo_6(図 読売新聞九州版10月23日)

正直言って、閣議による代執行にいきなり入るとは、私も予想外でした。

このままズルズルやってもやがては法廷闘争になるのだから、今、受けて立つということのようです。ここには、100%勝てるという国の意志が込められています。

これを受けて、翁長氏はたまげて「最後通告」と言い出しています。彼も予想をはずしたようです(苦笑)。

しかしまぁあいかわらず、芝居がかった大げさな言葉遣いですね、「最後通告」とは。

これでもう交渉はしない、「戦争」だということですよ。 地方行政官が国に向けて使う言葉じゃありませんね。

こういう言葉を安易に使えば、徒に対立を煽っていっそう問題をこじらせ、解決を長引かせるのに、まったく気がつくそぶりもありません。困った人だ。

失礼ながら、翁長氏は地方自治体の首長にすぎません。翁長氏は、休戦期間中に来沖した菅官房長官に向って「普天間基地がなくても抑止が可能だ」とか言っていましたね。 

誰に吹き込まれたのか知りませんが(おおかた前泊博盛氏あたりでしょうが)、日本の中国に対する抑止力は、何度も書いてきているように、日本全土にある横須賀や佐世保、あるいは、厚木や三沢などの多くの基地のトータルな力によって維持されています。 

それを普天間だけ抜き出して、「いる」「いらない」などと問う事自体がナンセンスです。

仮に判断できるとすれば、それは日本の安全保障を全体として構想し、統括し、維持運営している責任者である国だけです。

ですから、そもそも国の安全保障上の案件を、一地方自治体がウンヌンすること自体が、過剰な権限外の介入なのです。

たとえば本土で、神奈川県知事が、「横須賀がなくても日本は大丈夫だ。出て行け」と言ったというような話を聞いたことがありますか。

神奈川県知事は、基地公害や安全措置については、住民の保護から発言しても、「いる、いらない」などという越権行為はしません。

そんな馬鹿なことを平気で言う県など、全国広しといえど沖縄県だけです。

なぜ、沖縄県だけがそういうことを言う権利があると勘違いしているのか、私には理解できません。

根底にそういう勘違いがあるために、今回も「承認」の意味を取り違えています。

先日も書きましたか、承認する主体は沖縄県にはなく、国が公有水面法の中の環境と災害防止だけを抜き出して、県に審査を委託している法的受託事務にすぎないのです。

このことを、マスメディアはきちんと報道しません。

「対立激化」とうれしげに煽るばかりで、そもそも沖縄県が「承認取り消し」をする権限をもっていないことすら報じないのだから困ったものです。

Photo_7
では、そもそも今回焦点となっている公有水面について、法律はどう規定しているでしょうか。そこから押えていきます。

ここで登場するのが、公有水面法です。キモは第4条です。できたのが大正10年4月と戦前ですが、いまだ現役の法律です。

「●公有水面法
第四条   都道府県知事は埋立の免許の出願左の各号に適合すと認むる場合を除くの外埋立の免許を為すことを得ず
 国土利用上適正かつ合理的なること
 其の埋立が環境保全及災害防止に付十分配慮せられたるものこと」

(※http://law.e-gov.go.jp/htmldata/T10/T10HO057.html 原文はカタカナ表記を゛ひらがな表記に変更)

法律というのは一種の問答です。「こういう風に法律を作りましたが、どうなんですか?」と、法は問うているわけです。

公有水面法は、まず第4条-1で利用目的の正当性を尋ねています。

「国土利用上の適正かつ合理的な利用目的」がありますか?」、というのが第1の問いです。

答えは言ううまでもなく、「普天間基地の危険性の除去と、人口が密集しない過疎地への移動」以外ありえません。

これに対して、翁長側が、普天間に居てほしいといったらシャレにもなりません。

第2の問いは審査基準です。第4条-2で、「環境保全・災害防止はちゃんとしていますか?」と問うています。

それに対する答えが、膨大な時間をかけて作られた前知事の承認文書です。

これを否定して、「国の安全保障を審査したら抑止には意味がないので、承認拒取り消しだ」というのが翁長側の言っていることです。

おいおい、そんなこと公有水面法はゼンゼン聞いていないって。法の枠内でケンカしろよ、と言いたくなります。

公有水面法はポジティブリストです。書かれたことだけを禁止する、あるいは、書かれたことだけやれ、と命じています。

ところが真逆に、書かれたこと以外のことしか言っていないのが、翁長氏です。

県が10月13日に提出した「公有水面埋立承認取消通知書」にはこうあります。

「しんぶん赤旗」(10月14日)によれば、その要旨は以下です。
※http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-14/2015101405_01_1.html

「(ア)普天間飛行場が、国内の他の都道府県に移転しても、依然4軍(陸海空軍、海兵隊)の基地があり、抑止力・軍事上のプレゼンスが許容できない程度まで低下しない。
(イ)県内移設の理由として「地理的な優位」「一体的運用の必要性」等は、時間・距離その他の根拠が示されておらず、具体的・実質的証明がなされていない

おいおい、です。呆れますね。これが、地方公共団体が出した公文書だというのですから。

こんな抑止力についての意見は、「オレはこう思っている」という単なる私見にすぎません。

いかにももったいぶった弁護士好みの晦渋な表現で書かれていますが、市民語に翻訳すればなんのことはない、よく地元2紙が飽きずに書いているこんなていどのことです。

「オレは普天間基地がなくても、抑止力は落ちないと思ってるし、第一、海兵隊の一体運用の必要性なんかないし、県内に置いとく理由なんかねぇよ」

なに、勘違いしているんですか。こんなことを審査しろとは、公有水面法にはひとことも書いてありませんよ、翁長さん。

あなたが言っていることが正しいか間違っているかの次元ではなく法律は、「そんなことは聞いていない」のです。

つまり、翁長氏はこの埋め立てを定めた公有水面法の枠中では、なにひとつ国の「瑕疵」を説明できず、法の枠外の安全保障についての翁長氏の私的見解を持ち出したにすぎませんから、無意味です。

こんな薄弱な理論構築で翁長氏が国に勝てたら、そのほうが奇跡というものです。おそらく政府はもう少し、環境問題に突っ込んだ「瑕疵」を指摘してくると思ったのでしょう。

だったら、それに対してひとつひとつ反証を準備せねばなりませんから。

しかし、こんな安保についての幼稚な私見しか出せないならば、問題は別です。一蹴するだけです。

だから、いきなり代執行という選択肢を取ったのでしょう。

いずれにしても裁判になります。翁長氏は最高裁まで争う気かもしれませんが、残念ながら、その間も工事は止まらず、結審まで翁長氏の任期は切れ、その頃には次の知事がひっそりと取り下げているでしょう。

第一、既にそうとうていどまで完成しているかもしれません。

あと残された翁長氏陣営の手段は,総務省の「国地方係争処理委員会」に不服申請することですが、「国の裁決、決定は道委の審査対称からは除外されるために、同委が審査を受理しない可能性もある」(産経10月28日)と言われています。

今頃になって、「最後通告」などと叫ぶなら、もっと手前の休戦期間に、妥協点を探っておくべきでしたが、もう遅い。

県民が保守政治家だった翁長氏に一票入れたのは、硬直した左翼政治家と違って、何か妙案があると思ったからでしょう。

しかし、そんなものはなかったのです。今、翁長氏がしているのは、ただの左翼陣営に向けてのアリバイ作りだけです。まったく愚かしいにもほどがあります。

もはや翁長知事には、なにひとつ解決能力はありません。あんな安手な「承認取り消し通知書」を書くようですから、当事者能力すら疑わしいものです。

あるのはたた、紛争をこじらせ、本土と沖縄を分断する紛争能力だけです。中国にとっては、これこそまさに望んだ思う壺ですが。

■蛇足 沖縄よしもとに、「ありんくりん」っていうお笑い芸人さんがいるそうです(爆笑)。ウチナーグチでしゃべり倒すとか。無条件で応援したくなりますね。
ちばりよ~、ありんくりん!
※http://blogs.yahoo.co.jp/okinawa_yoshimoto_blog/63180971.html

Photo_8※ 左が私です(うそ)

2015年10月27日 (火)

翁長氏の「華麗な変身」の航跡を辿る

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国交省が、沖縄県が出した「承認取り消し」の執行停止をしました。これで、工事は何事もなかったかのように,着々と進捗していくことになります。

予想どおりです。

この後に、沖縄県は、国と地方自治体の紛争処理の場である「国地方係争処理委員会」に提訴するでしょうが、ここでも翁長氏が勝利する確率はゼロです。

確率論的にはゼロはないのですが、どう考えてもゼロとしかいいようがありません。

「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画をめぐり、石井啓一国土交通相は26日、前沖縄県知事による同県名護市辺野古の埋め立て承認を取り消した同県の翁長雄志(たけし)知事による処分の効力を、いったん止める方針を固めた。石井氏は防衛省が行政不服審査法に基づく不服審査請求と同時に行った執行停止の申し立てを、27日に承認する。(朝日新聞10月27日)

さて沖縄はHNひこ~さんのコメントにもありましたように、日本屈指の埋め立て県です。たしか第7位だったはずです。 

では、ざっと県内の埋め立て工事をしている場所を、押えておきましょう。 

埋め立て面積の大きいものからです。太字が軍用がらみです。

・川田干潟        ・・・390h
・糸満干潟        ・・・300
那覇軍港移設     ・・・205.6ha
(第1ステージ18.3haを含む)平成22年3月
・泡瀬干潟埋め立て  ・・・187
・与根干潟         ・・・160
辺野古埋め立て    ・・・160
那覇第2滑走路     ・・・160
・与那原海岸       ・・・142

軍用がらみは那覇軍港と辺野古、そして那覇第2滑走路ですが、これら全部に関わっているある人物がいます。 

誰あろう、翁長氏ですが、ある時は推進、ある時は大反対と、すべてに態度が異なっています。 

まずは那覇軍港移設です。 

29nahaport

これは那覇という過密都市の中心近くにあり、59hあります。中部へ行く国道331沿いにありますから、観光客もよく見る施設です。 

ここは住宅地や商用地が密接しているために、米軍も早めに出て行きたかった場所です。 

復帰そうそうの74年に返還が決まっており、1996年にはSACO合意で移設が本決まりになっているのですが、出て行く先がないままに宙ブラりんで、使用継続施設になっていました。 

すったもんだのあげく、結局、那覇市に隣接する浦添市の牧港補給基地へと着地しましたが、ここで現地の浦添市の強い反対に合いました。 

冗談じゃない、那覇の基地まで引き受けられるか、というしごくごもっともな理由です。

この移設反対を掲げて当選した儀閒光男市長を、宥めすかしたのが、他ならぬ那覇市長だった翁長氏でした。 

これは、移設先が決まらないと、那覇軍港跡地計画が進まないというのが理由ですが、翁長氏は、なんと言っていたのでしょう。大いに興味ある所です。

「決断に敬意を表する。今後、那覇港は県、那覇市、浦添市の三者が一体となって国際流通港湾として整備・管理することになる。振興発展を担う中核施設として整備されるように努力を重ねたい」(琉球新報2001年11月13日)

こんな言い方が「新基地」に通用するならば、今の辺野古移設もこう言ってほしいものです。

「普天間基地が移設されることで、宜野湾は那覇市、浦添市などと一体となった広域首都圏として整備・管理されることになる。普天間基地の跡地が振興発展の中核施設として整備されるように努力を重ねたい」

私は冗談で書いているのではなく、まさにそのとおりで、普天間基地はよく言われるような周辺住民の航空災害だけの問題ではなく、那覇・浦添から膨張し続ける外縁都市の宜野湾市の真ん中にあります。  

構造は同一で唯一違うのは、那覇軍港より普天間基地のほうが危険性が高く、撤去した場合のメリットが高いという点だけです。

さて、儀間市長を陥落させて、浦添市移設が進んだのでしょうか?これが、ノーなのです。

儀間市長は「苦渋の選択」までさせて受け入れを容認したものの、10年間移設自体は放置されぱなしになります。

というのは、この時期には既に移設問題の天王山である普天間移設が座礁していたために、他の返還計画も、それに引きずられるようにして動かなかったからです。

この普天間基地移転計画の座礁が玉突き的に、浦添市のキャンプキンザー(牧港補給地区)という補給・兵站基地の移転計画にも響いたわけです。

Photo
ややっこしいですが、こういう流れです。

<普天間移設座礁⇒牧港補給地区移転座礁⇒新那覇軍港建設座礁⇒旧那覇軍港移転座礁>

と、こういう玉突き現象が起きてしまったわけです。

え、ひとつひとつほぐして解決すりゃいいだろう、って。

はい、まったくそのとおりで、国もそうしたかったのですが、ここであの怪人オナガがまたまた登場します。

Photo_3

2013年2月のこと、儀間市長の4選を巡って、浦添市長選が行なわれ、新人の松本哲治氏が新市長に選出されます。

この時、実は移設問題は争点ではありませんでした。

なぜなら、浦添市側としては那覇市との合意を勝手に破れないために、候補者4名が揃って容認派だったからです。これでは争点になりません。

ところが、二階に上げてハシゴをはずすまねをした人物が出ました。

はい、言わずと知れたあの翁長那覇市長ですね。なんと儀間市長にネジこんで甘言を弄して容認させたはずの当の翁長氏が、今度はいきなり左翼スローガンだった「新基地反対・移設阻止」を叫び始めてしまったのです。

しかも自民党県連重鎮の地位のままで!移設容認の言い出しっぺはお前だろうッて!

この豹変によって、候補者すべてが「移設反対」に回ったために、松本氏も態度変更を迫られることになります。

2013年1月、市長選直前に松本氏はこう述べています。

「12月30日、自民党県連が西原氏推薦を決定します。
1月4日、社民党県連の旗開きで西原予定候補者が「反対」へ方向転回します。
1月12日、翁長那覇市長が「浦添市への軍港移設とは分離」を明言します。
(略)
これまでは『浦添への軍港移設を前提とした西海岸開発計画』を推進してきた関係者が、あきらかな方針転換を決断していただいたお陰で、私たち浦添市 でもこれまで県全体の発展を考えて受け入れてきた「苦渋の選択」でもある那覇軍港受け入れをする必要がなくなりました。
よって、この時点で私自身も『那覇軍港の浦添移設』に反対いたします」

※松本氏ブログhttp://tetsujimatsumoto.ti-da.net/e3650760.html

保革の裏がなかった松本氏は、他の候補者が反対に回る中で、ひとりポツンと取り残されるようにしていた状況がわかります。

その松本氏が公開候補者選びでトップになったために慌てた翁長氏は、松本氏を潰すために、この公開選考の結果を「違法があった」として覆し、さらに保革相乗り候補の西原氏をぶつけてきます。

これが「オール沖縄」の原型です。つまり、2013年1月頃には、翁長氏の「知事一直線」の絵図面は出来上がっていたことになります。

この2013年1月という時期に注目してください。この時期こそ、翁長氏の「革新デビュー」の時期なのです。

2013年1月、翁長氏は自らリーダーとして、県の首長全員に「配備反対」の踏み絵を踏ませて、そればかりではなく、東京まで出ばって直訴行動の指揮を執ります。

Photo_2(写真 2013年1月、オスプレイ配備に反対し、横断幕を手に東京・銀座をデモ行進する沖縄県の自治体関係者ら。先頭に翁長氏がいる。朝日新聞)

これは、さぞかし左翼陣営にとっても驚きの瞬間だったことでしょう。自民県連のボスが、「一緒に戦おう」と共闘を申し出て、その代表まで務めたのたのですから。

ここに、左翼陣営と翁長陣営のウィン-ウイン関係が誕生します。

翁長氏にとっては、知事権力に上り詰めるための戦略として、そして左翼陣営にとっては衰退に歯止めをかけ、反対運動を爆発させるために、という利害関係の蜜月が生じたのです。

と、ここまでお読みになった方は、これで翁長氏の浦添移設に関しての「華麗な変身」は終わったとお考えになるはずでしょう。

ところがこれにはまだ先があります。知事になった翁長氏は、またまた浦添「新基地」を推進する立場に再び変身してしまったのです。

長くなりましたので、今日はここまでとします。

それにしても、翁長氏という人の軌跡を辿ると、彼が米軍基地を政争の道具に使っているために、その時その時でクルクル言うことが変わって頭がグルグルします。

今後は翁長氏を書く場合には、時代と肩書つきで表記しないと混乱しちゃいますね(苦笑)。

※ご指摘を頂いて、那覇軍港移設面積を修正しました。

2015年10月26日 (月)

裸の王様となった翁長知事

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仲井真氏は1年間の沈黙を破って、声を上げ始めました。 

前知事の声は元気な張りがありながらも、時として怒りを帯び、そして重く訴えかけます。
※仲井真氏インタビュー
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-43fa.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-4311.html 

そこには、沖縄の現状にいてもたってもいられない、前知事の心情が読みとれます。 

前知事はこう述べています。 

「(翁長県政は)共産党や社民党など革新政党も与党で、(保守政治家の翁長氏と)考え方が違う人が一緒になってどういう仕事をさせられるのか職員には戸惑いもあるだろう」 

そうです。こここそが翁長県政の最大のネックなのです。 

翁長県政1年の間に、本来知事を支えるべき県職員たちの中に走った亀裂と、とまどいは深刻だったと伝えられます。 

考えてもいただきたいのですが、承認を覆すことは県政の最高責任者が、自ら先頭に立って部下の仕事を頭ごなしに否定することなのですから。 

Plt1507200005p1

(写真 答申なるものを翁長氏に渡す大城浩弁護士)

「有識者会議」と称する、翁長氏お手盛りの素人委員会の審査風景を、再度、議事録から見てみましょう。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-03a3.html 

どうやら委員たちの腹づもりは、職員がうかつに、知事の指示を示唆することを言おうものならば、鬼の首を獲ったように、一気に否認へと持ち込む腹だったようです。 

それが分かる一節です。

「・当真委員 仲井真弘多前知事は普天間飛行場の県外移設を求める発言をしていた。辺野古移設の必要性・合理性との関係で疑問がある。
・職員 知事から発言を前提に審査しなさいという指示はなかった
(産経2015年.7月.20日)

冒頭から、「仲井真氏が承認しろという指示をだしただろう」という見込みで、問い詰めています。これでは第三者もクソもありません。

本来、第三者はレフリーのようなもの。自分で球をゴールに蹴りこもうとして、どうします。

このようなやり口を、日弁連は「見込み捜査」と呼んで冤罪の温床になると言っていたのは、確か沖縄弁護士会も所属する日弁連でしたよね。会長にして、第3者委員会の代表の大城さん。

ダブスタもいいところですね。

おまけに、この当真氏こそ沖弁連で、承認反対声明をとりまとめた当の人物です。こんな人物に「見込み捜査」をさせれば、どんな「捜査結果」をだすのか、初めからわかりきっています。

このどこが「第三者」なのでしょうか。

一方、県職員たちは十数人の職員たちが、実に1年間かけて防衛省に、実に260項目もの質問書を提出して、徹底した洗い出しをしていました。 

それについて仲井真氏は、怒りと共に職員に対する愛おしさも込めて、こう述べています。 

「日本中で埋め立ては行われてきた。埋め立ての法律は内容的にはかちっとして、プロセスもしっかりしている。やり方もみんな慣れている。われわれも1年弱かけて、環境、土木など県庁の担当組織が一生懸命仕事して、大勢でかちっとしたのを作った。瑕疵(かし)なんかあろうはずがない」(青山繁春氏インタビュー)

沖縄県のあまりの徹底した質問ぶりに、防衛省側がカチンと来たというエピソードすら伝えられています。

Photo(写真 沖縄県庁 手前が議事棟)

さてここで改めて、公水面埋め立て承認についての県の権限について押えておきましょう。 

よく県には、公水面工事の承認の可否を決定する権限があるかのようにマスコミが報道していますが、間違いです。 

公水面埋め立て承認は、国から地方自治体に対する単なる委託業務でしかありません。これを「法定受託事務」と呼びます。 

例によって定義を押えます。 

●法定受託事務
または都道府県が本来果たすべき役割に係るものであって、国または都道府県においてその適正な処理を特に確保する必要があるものとして法令で特に定めるものをいう」(ウィキ)

沖縄県に与えられた権限は、国道の管理と並ぶ「第一号法定受託事務」に属します。 

簡単にいえば、「本来は国の仕事だが、あまり細かいので当該県に委託している」ていどの事務処理にすきません。 

つまり、最終的に承認する権限はあくまでも国にあり、その一部の業務(事務)を県に代行させているのです。

当真委員が言うような、「辺野古移設の必要性・合理性との関係」など審査しろとは、ひとことも地方自治法は言っていないのです。

したがって、国は、自治体が違法な手続きをしたと考えれば、それを取り消すことも可能な権限を与えられています。 

それが地方自治法第245条にある、「是正の勧告と必要な措置」であり、さらには当該自治体に代わって代執行する権限すら与えています。

「●地方自治法第245条
ハ 是正の要求 普通地方公共団体の事務の処理が法令の規定に違反しているとき又は著しく適正を欠き、かつ、明らかに公益を害しているときに当該普通地方公共団体に対して行われる当該違反の是正又は改善のため必要な措置を講ずべきことの求めであつて、当該求めを受けた普通地方公共団体がその違反の是正又は改善のため必要な措置を講じなければならないものをいう。
ト 代執行(普通地方公共団体の事務の処理が法令の規定に違反しているとき又は当該普通地方公共団体がその事務の処理を怠つているときに、その是正のための措置を当該普通地方公共団体に代わつて行うことをいう
」※http://www.houko.com/00/01/S22/067.HTM#s2.11.1.1

お分かりになったでしょうか。

よく言われる県の「承認」と称されるものは、それについて裁量権を県知事に与えたものではなく、あくまでも国から業務の一部他移行を処理しているにすぎず、したがって、法令の規定に県が違反した場合、国はその代執行まで含んだ、「是正、または改善のために必要な措置」を取れるのです。

現在、翁長知事は地方自治法上は、明らかに国の専権事項である国家安全保障に関する公水面の委託審査を違法に、事務の処理を怠っている状態と考えられます。  

しかも埋め立ては、沖縄全県でもそこら中で盛んに行なわれており、これの承認作業などについて、県職員はまさにプロ中のプロでした。 

この行政のプロたち十数人が9か月がかりで、あらゆる方向から叩いて叩いて、防衛省からいいかげんしろと怒鳴られたという因縁つきの承認作業に、瑕疵などがあろうはずがありません。

Photo_2(写真 第3者委員会)

それを、ズブの素人がたった数人で短期間で精査するなど、物理的にも不可能です。

地元2紙が叫ぶ「30万票」も「80%の反対アンケート」も、この承認事務手続には、影響を及ぼしません。 

承認基準の判断基準は、唯一、工事の環境評価だけです。 

それは先の審問会で、職員がこう言っている通りです。

知事の政治的考えや選挙公約は審査の前提条件でもない。なぜなら審査基準にそういうものがないからだ」(同)

「政治的当否は審査基準にはない」。余りにまっとうな行政官の言葉です。受託したわけでもない審査外のことを問われて、なんと答えたらいいのでしょうか。

実は翁長氏側もそれはわかっていて、環境問題の専門家を連れてきたわけですが、その桜井氏にして、環境審査とはまったく別次元の「県民の観点」とやらを持ち出すありさまです。

いつ沖縄県民は、選挙で選ばれたわけでもない桜井氏に、「県民の観点」の説教を垂れる資格を与えたのでしょうか。

「・桜井委員 仲井真氏にどう説明したか。
・職員 そのとおり説明した。(承認は)最終的に知事が印鑑を押している」
・桜井氏「あまりストンとこない」
・職員 はい? 公有水面埋立法の観点から審査を進め、知事の政治的スタンスは前提条件に置かないということだ。
(略)
・桜井氏 そのとおりだが、県民の観点からそれではいかがなものかなと思う

この職員の「はい?」のひとことに、故無き糾弾に晒される職員の気持ちが如実に現れています。 

「冗談ではない。オレたちがいいかげんな仕事を1年間やってきたとでも言うつもりか」と、彼は心の中で、この不条理な審問に向って大声で異議申し立てをしています。 

Photo_3

職員の苛立たしさが頂点に達したのは、以下の当真委員とのやりとりの部分です。

「・職員 5百数十件の意見を出し、意見に対する防衛省の見解ということで全部示されている。知事意見を受けて補正した部分がどうなっているかはすべてチェックした。
・当真氏 防衛省の見解をチェックした。それでもう全部OK、500をクリアしたから大丈夫と。そこで出ていないものは問題ないという判断だったのか。
・職員 約9カ月、(埋め立て)申請書の内容を詳細に調べ、関係部局にも意見を照会した。意図的にわれわれにミスがあるかのような言い方をされることは心外だ。審査の結果、環境保全上の支障を見つけられなかったというのが現状だ」

「心外だ!」のひとことは、この承認委託事務に関わったすべての職員の声を、率直に代弁しています。 

翁長氏は、県の行政責任者が、県の意志として遂行したはずの職員たちを、余所から部外者を招いてつるし上げるという前代未聞のことをしたわけです。 

しかも政治目的で!

占領軍気取りで県庁に乗り込み、部下をつるし上げる上司。誰がそんな男についていきますか。

その酬いは、いま、静かに職員の離反という形で現れてこようとしています。

マッカーサー気取りで県庁に入り、なんの行政経験もない安慶田氏を副知事にして県政を牛耳らせた翁長県政は、足元の県庁内部から崩れ始めているのです。

 

2015年10月25日 (日)

名無しことHNユイマール氏のコメントについて雑感

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皆様。この間、ここに投稿に来る名無したちの行状をご覧になったと思います。 

あの人たちが求めているのは討論ではありません。初めから言い負かしてやろう、ヘコましてやりたい、というだけです。 

そのために「30万票」だの、「80%」だの、はたまた「稲嶺15年期限」などの小道具を持ち出してきます。 

この小道具が有効な土俵に持ち込んで、自分の正当性を主張し、勝ちたいの一心です。 

ですから、「どう解決する」という視点が、まったく欠落しています。 

解決方法こそが最大の問題なのにもかかわらず、解決しようという気持ちがないところで、正統性だけ主張されても、鼻白むばかりです。 

私が問うているのは、「いつまでも正統性の主張だけで済むのですか。対案を出して建設的に討論しましょうよ」ということにすぎません。

ですから、私は名無しことユイマール氏にふたつの要求をしました。ルールを守って所定欄にHNを書き込むこと、そして対案を出すことです。

前者は管理人としての余りに当然な要求です。後者は、いつまでも空中戦をしていてもしかたがないので、前向きな議論を呼びかけたのです。

ところが、ものの見事に完全スルーです。一瞬、私もHN「山口」氏のようにこれは挑発かと思ったほどです。

しかし、たぶん違います。

というのは、彼に移設の対案などまったくないだけの話なのです。

簡単に順を追って、整理してみましょう。

まず、普天間基地の危険性について、「このままでいい」のか、「悪いのか」です。これにはその中間項は存在しません。

だましだましやるには、あまりにも時間が立ちすぎました。移転が決められて日米合意があってから既に17年なのです。

これ以上遅延させれば、移転を白紙撤回してクリアゾーンなどを設けての固定化しかなくなるでしょう。

しかし、100%の確率で、反基地派のクリアゾーン阻止闘争が起きて、振り出しに戻ります。

根本的解決のためには、普天間基地を移すしかないのです。ならば、どうするのか、です。

これには3ツの選択肢しかありません。

①国外移転
②県外移転
③県内移転

名無し氏などには、このどれでもいいですから、3ツから選んで対案を出してみて下さいと言ったのです。

しかし、見事にスルーして、あいかわらず「イナミネ時代に・・・」などと10年以上前のことをくどくどと繰り返している始末です。 

たぶん、まじめな移転についての議論などしたくないのです。一回もまともに考えたことなどないのでしょう。

かつてのコメントで,ある反基地派に、「安全保障は国の専管なんだから、対案など国が考えればいいことだ」と言われました。 

おいおい、です。

ならば、国の専管事項を外国にまで持ち出して騒いでいる翁長知事は、一体何者なんでしょうか。

「移転工事をするなら独立だ」と叫ぶ人は、一体なんなんでんでしょうか。 

これは単なる、ご都合主義一般ではありません。わかって言っているのです。

ですから、ユイマール氏たちの普天間基地の危険除去についての「解決方法」は、、④として「ずっと反対運動をし続ける」ということのようです。

のように移設反対って、一枚皮を剥ぐと、ふにゃふにゃとして実態のないユーレイのようなものなのです。

日曜写真館 秋桜と湖の朝

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ぜひクリックして、大きな画面でご覧ください。色彩がまるで違います。

2015年10月24日 (土)

仲井真前知事インタビュー全文 (産経版) 翁長氏はこの1年政治闘争以外なにをしたのか?

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前沖縄県知事であった仲井真弘多氏の、青山版に続くインタビューです。青山氏版と合わせて読むと、仲井真氏が主張していることは明解です。

ひとことで言えば、翁長氏に知事としてのまともな仕事をしろということ、です。

知事は就任から1年になろうとしていますが、なんの成果も上げていません。

経済も教育も、インフラ整備もすべてがストップし、振興策を共に協議すべき国とは全面対立の関係に立ち至ったまま、ひたすら共産党、社民党と共に政治闘争に明け暮れています。

特に仲井真氏は、南北鉄道計画がまったく動かない状況を危惧しています。

また、北部の名護に建設する計画が持ち上がっているUSJ沖縄についても、県はむしろ反対なような口ぶりすらしているありさまです。

これは、菅氏が2013年8月に訪沖した際に提案されたものですが、これを翁長氏は「お前らはオレを懐柔する気だろう」とばかりに関心を寄せませんでした。

一事が万事です。翁長氏の関心は政治闘争だけで、経済にはなんの関心もないのです。

事の是非はとりあえず置くとして、カジノを中心とした統合リゾート計画もありましたが、はかばかしい進捗がありません。

この構想は、県が独自に作ったものではなく、政府が構想段階からバックアップしています。 

官邸の沖縄担当である菅氏は、2013年8月の盆休みに、お忍びで沖縄を家族「観光」しています。

その時に、名護のホテルで秘かに会ったのが仲井真氏と県商工会議所連合会会長の国場幸一氏、琉球放送の小禄邦夫氏でした。

菅氏は仲井真、国場、小禄の3氏に、振興予算3460億円とセットで、この統合リゾート計画の原案を提示しています。

また、県が独自の財政支出が可能なように、振興予算のうち1671億円は一括交付金としています。

そしてこれをUSJやカジノの誘致、あるいはMICEに当てて、さらに別枠の公共事業費1417億円で南北鉄道建設に当てたらたらどうなのか、というのが菅氏の提案であったと思われます。

これは空約束に終わらず、その後官邸との協議のために上京した仲井真氏に対して首相のお墨付きが与えられて、正式なものになっていきます。

いや、いくはずでした。ここから状況は一気に暗転します。

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ここまでは、菅、仲井真氏の見事なまでに息の合った沖縄経済起爆計画でした。

当然ですが、この前提には、仲井真氏がかねてからの持論であった移設容認に戻ることがあります。

この大収穫を懐にして沖縄に帰った仲井真氏を待ち受けていたのが、地元2紙が音頭を取った、「金で沖縄を売った男」という大キャンペーンを張られました。

これに呼応し、共産党、社民党などが中心となって、百条委員会を設置し、病身の知事に対して連日に渡る「喚問」が始まりました。まさにリンチです。

この時、いままで一枚岩で保守系知事を支持してきた経済界に激震が走ります。

それは、かねてから仲井真憎しを公言していた、「かりゆしグループ」の平良朝敬氏と、国場組憎しで凝り固まった金秀の呉屋守将の両氏でした。

この両人は、このまま進行すれば、この巨大利権は、国場組を中心とする親自民党勢力に独占されると危惧しました。

これを仲井真ごとぶっ潰し、翁長氏を知事にすることで、自らで独占するというのが、彼らの目論んだ下克上の絵図でした。

その野心を隠すために作った包装紙が、「辺野古の美しい海を守れ」で、その御輿にかついだのが他ならぬ仲井真氏の右腕だった翁長雄志氏だったわけです。

かねてからクーデター計画を練っていた翁長氏は、知事選の前哨戦であった名護市長選では、子飼いたち那覇市議を自民党候補の切り崩しに派遣し、共産党、社民党との結びつきを固めていました。

おそらくこの時期には既に、平良・呉屋・翁長の欲ボケトロイカに、共産党、社民党の左翼勢力が「共闘」するという呉越同舟の相乗り関係が生れていたはずです。

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そして勝利した翁長氏が、まずしたことは、論功報償としての利権の配分でした。

翁長氏は地元2紙が完全に沈黙していることをいいことに、ためらう様子もなく、金とポストを精力的に配りまくりました。 

まず翁長氏は、毎年50億円もの観光予算を扱う沖縄コンベンションビュロー(OCVB)会長職を、翁長氏の選挙対策本部を支えた、かりゆしグループの平良朝敬氏に渡します。

次いで、翁長氏は、2万人収容予定の沖縄のMICEを、強引に金秀・呉屋氏のホームタウンである東浜(あがりはま)マリンタウンに建設することを発表します。 

このMICEの選定は、県内関係者に大きな衝撃を与えました。東浜の立地がMICEにまったく向いていない不適格地なことは明々白々で、誰の目にも明らかな利益誘導だったからです。

このようなマネを翁長氏ができたのは、本来これをチェックすべき報道機関が、完全にだんまりを決め込み、その上これが保守系知事だったなら、大騒ぎを演じるはずの革新陣営もまた、見て見ぬふりをしたからです。

いかに彼らの倫理観が、ご都合主義か分かろうというものです。

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さて、もうひとつの翁長氏の御輿の担ぎ手が共産党、社民党、そして官公労でした。

彼らに対しても手厚いご褒美が与えられます。それが、県政の柱に辺野古移設阻止を据えるというありえない政策でした。

Photo_4(写真 日本共産党の知事選チラシ。沖縄物産公社社長になった島袋氏、MICEを得た呉屋氏の顔が見える。欲の皮がつっぱった呉屋、平良氏を推すのが共産党というのが、「オール沖縄」の姿であることがわかってしまう哀しい一枚http://maesato5688.ti-da.net/e6931959.html

このようにして、仲井真氏が敷いた経済振興路線は完全に葬られ、たったひとつ残ったものは、移設反対闘争という寒々とした政治闘争だけだったのです。

そしてもうひとつこの1年で暴露されたことは、翁長氏が度し難い経済オンチだったことです。

仲井真氏はこのインタビューで、「選挙のことだけ一生懸命考える政治家」と断じています。

翁長氏は、「経済」とは単なる振興予算利権の配分にすぎず、自分の一党に金と権力をばらまき、政策は真面目に考えたことがないという自民党の中でも古いタイプの政治家だったのです。

翁長氏は自民党にいてこそ、なんとなく大物感があっても、到底ピン政治家ではなかったようです。

そんな彼に、多くの政策を伴う仲井真氏の策定した「沖縄21世紀ビジョン」など継承できるはずがありません。

その上、翁長氏の与党である共産党、社民党の基盤は官公労です。彼らは景気がよかろうと悪かろうと、鉄板に喰える階層で、政治活動だけが「仕事」です。

しかし、この政治闘争も、今や完全に行き詰まり、どこまでも続く法廷10年闘争へとなだれ込もうとしています。

そして、その間にも工事は確実に進んでいき、政府との距離は縮まるどころか、回復不可能な様相を呈しています。

左翼陣営にとっては、これこそ待ち望んだ状況でしょう。しかし、一般の人々にとって、これが翁長氏に託した夢だったとは思えません。

一体いつまで沖縄県民は、この欲ボケ・トロイカたちと左翼のお祭騒ぎを見ていなければならないのでしょうか。

沖縄は憂鬱な楽園になりつつあります。

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2015年10月.23日 産経新聞

インタビュー詳報 翁長知事の対応に喝「こんなことやっては駄目だ」「選挙に役立つこと考える政治家」

沖縄県の仲井真弘多前知事は産経新聞のインタビューに応じ、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先である名護市辺野古沖の埋め立て承認を取り消した翁長雄志知事の対応を批判した。インタビューのやりとりは次の通り。

 --知事時代に行った埋め立て承認の審査は厳正に行っており、瑕疵(欠陥)はないと

 「審査が厳しいため防衛省の担当者はカッカしていたぐらいだ。特に環境面は何度も(書類を)突き返した。県はすべてオープンにしてやるから、審査に通るものを持ってこないと承認は無理だと防衛省に伝えていた」

 「審査基準に適合していれば承認、適合していなければ不承認。基準に適合しないものを承認する気はなかったし、そういうことをするのはあり得ない。知事の裁量もないに等しい。とにかく公正にやり、職員はきちんと審査し、防衛省の担当者も一生懸命だった

--審査にあたった職員は承認取り消しで自分たちの結論を否定され、誇りと尊厳を傷つけられたのでは

 「そう思う。こんなことをやっては駄目だ。知事が代わっても基本的な仕事は継続させるべきだ。政治的な(意図で)指示をされると職員の士気も下がるのではないか」

 「(翁長県政は)共産党や社民党など革新政党も与党で、(保守政治家の翁長氏と)考え方が違う人が一緒になってどういう仕事をさせられるのか職員には戸惑いもあるだろう」

 「日米安保だけでも県政与党の間で考え方が異なる中、基地はいらないという極端な方針を打ち出している。だが、本来、その方針が現実的かどうかを判断するには相当議論をしないといけないはずだ」

 --改めて辺野古移設に関する認識は

 「辺野古移設は手間も時間もかかっており、知事時代には可能であれば県外移設の方がよいと模索してきた。ただ、普天間飛行場の危険除去はなるべく早くやるべきで、事故が起きると大変なことになる

今のところ辺野古移設しか解決の道はない。県民の命と暮らしを守るのが知事の仕事の一丁目一番地だが、翁長氏はなぜそれをやろうとしないのか。行政とは現実的に課題を処理していくことだ

 --翁長氏は辺野古移設による米海兵隊の抑止力維持を重視しておらず、中国の脅威にも触れない

 「今の(日本周辺の)情勢を考えると、沖縄を含めて日本国内に米軍を置く応分の負担は必要だ。特に南西諸島をめぐり中国は何を考えているか了見が分からないところがあり、それへの対応は日本だけでは十分ではなく、米軍の存在は欠かせない。米軍がきちんと機能することも重要だ。基地問題を考える上でも、そこは再確認しておかなければならない」

 「実は、そういうことは石垣市民が一番よく分かっている。(尖閣諸島をめぐり)火の粉が降りかかりかけているから現実的な考え方をする市民が多い」

--基地の整理・縮小は一気には進まない

 「基地は多すぎるが、ステップを踏まないと物事は進まない。基地の整理・縮小もそうだし、事故や騒音の問題もそう。その中で先月、日米地位協定の実質改定となる環境補足協定に署名したことは画期的なことで、日本政府はよくやってくれた。政府との信頼関係があれば、より良いものに改善していくこともできるだろう

 --翁長氏は辺野古移設阻止を唱えるだけだ

 「那覇市長も務めていたが、政策を遂行したり物事を解決したりするためにプランを作り、ステップを踏んで進めていくということを一度もやったことがないのかもしれない」

 「(市議や県議など)議員歴が長い方は選挙が第一で、政策は二の次という傾向がある。翁長氏も選挙に役立つことを一生懸命考える政治家だ。とても考えられない相手とも一緒に組む。良くいえば弾力的だが…」

--翁長氏は辺野古移設阻止で手いっぱいの状態。仲井真氏が発案から策定まで手がけた振興計画「沖縄21世紀ビジョン」を翁長氏は継承したが、展望は

 「21世紀ビジョンにとって大事な時期で、ここで停滞すれば行く末に大きく響く。沖縄は県民所得にせよ産業振興にせよ成長曲線に入りかけたところで下がることを繰り返してきた」

 「産業振興に向け、道路など交通システムのインフラ整備が遅れており、港や鉄軌道の整備も必要だ。普天間飛行場の返還後の跡地も産業振興に充てる。辺野古移設の問題だけで政府と対立していては経済にとってマイナスで、沖縄の発展のためには時間を浪費することは許されない」

2015年10月23日 (金)

仲井真前知事インタビュー全文 青山氏版

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本日は二本立てです。

いままで、翁長氏に裏切られて野に下った仲井真前知事は、いままでまったく公的なインタビューを拒否してきました。

その仲井真氏が元気な姿を見せて熱く語りかけてくれました。

移転問題以外なにもせず、すべての知事の仕事を放棄しているかに見える翁長氏に対して怒りをたぎらせておられます。

仲井真氏はこう述べています。

「子供たちの問題、教育の問題、産業の問題、山のようにある。これを1つ1つ克服し、日本国の一員としての役目をちゃんと果たす。沖縄は日本国の一翼を担っているという、意味のある貢献をしているし、そういう期待に応えられるようにやっていくべきだ」

まさにその通りです。

まずはお読みください。


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■「沖縄独立論なんて笑い話。なのに大まじめに言う人が…」
産経10月23日

 沖縄県の仲井真知事は22日夕、ニッポン放送のラジオ番組「ザ・ボイス そこまで言うか!」に出演した。仲井真氏は独立総合研究所社長、青山繁晴氏らの質問に応じる形で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画をめぐり、政府と対決姿勢を強める翁長雄志知事を厳しく批判した。概要は以下の通り。

 --翁長知事が辺野古の埋め立て承認を取り消した

 「とんでもない話だ。日本中で埋め立ては行われてきた。埋め立ての法律は内容的にはかちっとして、プロセスもしっかりしている。やり方もみんな慣れている。われわれも1年弱かけて、環境、土木など県庁の担当組織が一生懸命仕事して、大勢でかちっとしたのを作った。瑕疵(かし)なんかあろうはずがない」

 「今回の場合は、沖縄県防衛局、つまり防衛省が埋め立ての申請をしてきたのを受け付け、条件に合うかどうかをみて審査した。法律の中に項目があって、これに合っているか合ってないかをチェックした。質問もやりとりもけっこう(県と防衛局で)いったりきたりした。全く予断を入れず、法律の目的にそっているかそってないか、オープンでやった。マルならマル、バツならバツと。徹底したオープン主義で、きちんと詰めてこの結果を出した。その結果がマルだったということだ」

「私もそうだが、沖縄県民は基本的に、普天間飛行場の移設については、望むらくは県外がいいという思いは常にある。しかし県外だけでは現実的に時間もかかるし無理だとなれば、県内もやむを得ない。私は自分の(知事選の)公約でも、県外を一生懸命やるけれども、県内も否定しなかった。そういうことでいろいろ考えた結果、県内やむなしという結論だ。法律上もそういう方向が出た。私は自信をもって、信念をもって承認したつもりだ」

 「(米軍の)ヘリが学校(沖縄国際大学)に落ちたことがあった。あれからもう20年たっている。危険性の除去をどうやって早く実現できるかというのが私の視点の第一だ。辺野古は県内だが、これはやむを得ず、ということだ。県民の理解を得られると思っていた。今も思っている。普天間の危険を除去する。そしてまるごと返してもらう。後利用する。ここへ持っていきたいということだ」

 --仲井真氏は沖縄への鉄道建設に取り組んだが、翁長県政で政府と沖縄の関係が悪化し、宙に浮いている。鉄道について今、どういう考えか

「どうしても必要なインフラだ。(沖縄の)道路は縦にも横にも大変だ。道路予算は難しくなり、そう簡単には付かない。いつ完成するか分からない道路もいくつかある。混雑も日本一に近い可能性がある。南のから北に向かっての鉄道、ないし一周鉄道に近いものはどうしても必要だということで県も勉強してきた。整備新幹線方式であれば、ほぼ採算が確保できるという結論を出している。この時代にぜひともスタートして完成していただきたい」

 --翁長県政の問題点は、何もかも基地問題になり、それが障害になって他が進まないことだ

 「翁長知事は辺野古反対だけを掲げ、『後は仲井真君の時代と一緒だ』なんて話を(知事)選挙のときからやっていたが。やらなければいけないことはいろいろある。港湾、教育、産業。TPP絡みで農業関係もいろいろある。辺野古反対だけが仕事じゃない。あれは僕は仕事だと思ってない。翁長知事がどう他のことに手を付けていくのか、今のところ見えない」

 --沖縄独立論をどう考えるか。沖縄にとっての1つのロマンか

「ロマンというか、酒飲み話のようなものだ。独立論は昔からあるにはあった。仲宗根源和先生という大先生もおられた。だが、われわれにとっては本当に酒飲み話みたいな感じのものだ。例えば産業の力一つとっても、まだまだまだまだ、しっかりした力を持っていない。独立論うんぬんという話はとてもとても。われわれは半分、笑い話で、酒飲み話だとしか考えてなかったが、どうも最近、そういうのを大まじめに言う学校の先生とか、そういう人々がいるようだ。どういう背景で出てきているか分かりにくいが、沖縄で県民投票しても全然ダメだと思いますよ、こんな話は」

「それよりも、まず今の沖縄の現実だ。子供たちの問題、教育の問題、産業の問題、山のようにある。これを1つ1つ克服し、日本国の一員としての役目をちゃんと果たす。沖縄は日本国の一翼を担っているという、意味のある貢献をしているし、そういう期待に応えられるようにやっていくべきだ」

翁長氏の「民意」は薄氷の勝利だった

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コメントにもありましたが、なにかというと反対派の皆さんは、「翁長氏に30万票与えた民意」という表現をしたがります。

翁長氏を批判しただけで、「恐れ多くも民意サマに逆らうのか。控えィ、この右翼め!」と言われそうな雰囲気です。 

翁長氏は沖縄の民意のンボルなんだ、というわけで、地元2紙はもちろんのこと、本土マスコミも移転問題を報道する時の枕詞にしています。 

たとえばこんなかんじのニュースを、あなたも聞いたことがおありでしょう。 

「沖縄県民の民意に反して強行されている辺野古移設が新局面を迎えました。建設を強行したい安倍政権は、うんぬん・・・」 

翁長氏も、ことあるごとに、「県民の8割が移設反対だ、オレは沖縄の「民意」の代行者なんだ」という言い方を好みます。 

その裏付けとして出てくるのが、例の「36万票」というアイコンです。

しかし、翁長さん、知事選の有権者は109万人いるんですよ、そのうち36万取って、どうして8割になっちゃうんでしょうかね。 

そこで、もう一回知事選の選挙結果を見てみましょう。 

●沖縄県知事選開票結果
・翁長雄志 ・・・360,820 (得票率約33%)
・仲井真弘多・・・261,076(約23%)
・下地幹郎 ・・・  69,447(約6%)  
・喜納昌吉 ・・・   7,821 (約0.7%)
・棄権    ・・・400,000 
 

私は、この選挙速報を聞いた時に、あれだけ壮絶なバッシングにあい、また経済界を呉屋氏と平良氏によって2分されながら、仲井真さんはよくここまで健闘したな、というのが印象でした。 

沖縄からのコメントにもありましたが、ここで公明党票が乗ったというのもあるでしょう。

まぁ、なぜか「幸福の●●」には手厳しい左翼陣営の皆さんは、友軍の創価学会=公明党には目をつぶっておられるようです。 

Photo(写真 ケヴィン・メアアメリカ合衆国那覇総領事を歓迎する下地 ウィキより。キャプションも同じ)

それはさておき、ここでちょっと押えておきたいのは、第3位の下地氏の存在です。彼は、移設について、どう考えているのでしょうか。 

下地氏は知事選直前の11月に、自由報道協会のインタビューにこう答えています。 

「米軍基地の辺野古への移転について、下地氏は「県民投票」で決断すべきだと語る。賛成でも反対でも、県民の意志で決断した方向に進んでいく覚悟を語った。
 辺野古「反対」となった場合、下地氏は、移設先は辺野古・普天間を除く「県内」のどこかになるという。「段階的に小さくしながら最終的に県外にというのを実現していきたい」と主張し、「中国や北朝鮮を見定めながら丁寧に減らしていかなければならない」と現実的な基地削減をアピールした」
※http://iwj.co.jp/wj/open/archives/182367

県民投票を、反対のために言っているわけではないのに、注目してください。それは後段の、彼の持論の基地段階的縮小論でわかります。

つまり、下地氏は、「こういう島を2分することは、県民投票で決めろ」と言っているわけです。

私は県民投票は沖縄が本土にぶつける「最終兵器」だと考えていますから、使うとしても最後の最後だと思っていますので、それは横に置いておきましょう。

下地氏は、鳩山内閣の時の閣僚時に、「移設先が5月までに決まらないなら、自分は議員辞職する」(※)と言っている人なのです。
※2010年3月1日衆院予算委員会

下地氏は、ハト氏の「国外・最低でも県外」という公約が非現実的だとわかっていました。

下地家の家業は米軍基地建設も手がけた大米建設ですし、そもそも自民党にいた人ですから、その辺で非現実的になったらおかしなくらいです。

ちなみに大米建設は、県内第8位に堂々とランキングされる大手建設業会社です。

Photo_2(図 2012年度県完成工事高ランキング 10億円以上 3位の金秀の呉屋氏は翁長陣営の選対部長を務めた)

こんな下地氏は、基地と振興予算の関係について裏の裏まで知り尽くしていたはずです。

下地氏は、閣僚時にこういうやや露悪的な発言しています。

「基地というムチに対する振興策というアメを主体的に受け入れてきたのは沖縄県当局であり、名護市当局だ。アメをもらったということは、辺野古移設実現に向けて努力するというメッセージを日米両政府に送っていることになる」 

こんな下地氏が、左翼陣営と同じ単純反対派なはずがありません。むしろ、下地氏の立場は結局のところ、仲井真氏と同じく消極的「容認」だと見ていいでしょう。

ただし、「お前は容認だろう」と決めつけられれば、バッシングを恐れて必死に言い逃れするでしょうがね。

しかし消極的容認なら、仲井真氏も一緒です。やむをえず、普天間基地の危険性を除去するためにやるのです。

となると、移設についてはこういう図式が成り立ちます。

・翁長 ・・・反対-36万票
・仲井真・・・容認-26万票
・下地  ・・・容認-7万票
・喜納  ・・・反対-8千票

すると、反対と容認はこのような数になります。

・反対・・・約36,8万
・容認・・・約33万

なんだ、3万8千票差程度は接戦の類です。

これをして翁長氏が、「県民の8割が反対」「オレが沖縄の民意のシンボルだ」というのは、まったくの誇大な強がりにすぎません。

もし知事選時に、地元2紙と本土マスコミが狂ったような仲井真バッシングをせずに、石破幹事長が公明党の寝返りを締め、さらに下地票を仲井真氏に呼び込む選挙戦術を展開できたら、選挙結果はどう転んだか予測不能になります。(それにしても石破さんのケンカ弱さにはあきれますが)

またそのような流れによっては、物言わぬ40万票の棄権票がどちらに動いたかも予測がつかなくなります。

この選挙戦を観察していたあるベテラン政治記者が、「実は仲井真氏が勝ってもおかしくなかった。沖縄自民が自壊しても仲井真氏はあれだけ迫ったのだ」と評したのもうなずけます。

念のために書いておきますが、私はよく朝日新聞がやるような、「得票率合計では自民が負けていた」などという類のことを言っているのではありません。

自民は負けたのです。負けたことを深刻に総括すべきです。

ただし、「勝った」翁長陣営に対しては、「奢るな。あんたの勝利はきわどかったんだ」と言いたいだけです。

このように翁長氏の勝利は、「民意」を体現しているどころか、考えられるよりはるかに薄氷の勝利だったのです。

2015年10月22日 (木)

宜野湾市民訴訟 翁長氏の終わりの始まり

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翁長知事が、とうとう宜野湾市民たちに提訴されました。

「訴状などによると、仲井真弘多前知事の埋め立て承認に法的な瑕疵(かし)はなく、取り消しは知事権限を乱用した違法な処分と主張。県が承認取り消し通知書で「海兵隊の抑止力維持の根拠や、辺野古移設の具体的な説明に乏しく公有水面埋立法の要件を満たさない」としたのに対し、抑止論は国の安全保障に関わる事項だと指摘。地方自治体が抑止力の有無を判断する余地はないとした」(沖タイ10月21日 欄外参照)

驚いたことには、沖タイが記事にしています。 

そちらのほうがトピックになるような「支配的空気」の中での提訴に踏み切られた、宜野湾市民の皆さんに拍手を送ります。 

宜野湾市民訴訟団の提訴は、沖縄県民の心の底に生じ始めた、翁長氏に対する深い疑念から生れています。

沖縄県民が翁長氏に、知事の座を与えたのは一体なぜなのでしょうか? 

それははっきりしています。「普天間基地が撤去され、辺野古移転もなくなる」という希望の陽が見えた気がしたからでした。 

ハト氏のちゃぶ台返しから蒸し返された普天間移転問題に、なにか翁長氏に特別のびっくりするような秘策があるのではないか、と信じようとしたのです。

それが現状固定にしか見えなかった仲井真氏に対する「気分」の温度差として、露になりました。

Okinawa_chiji_1

(写真 翁長氏の当選風景 右手に金秀の呉屋氏、ひとりおいて有名な左翼運動家の糸数慶子氏。なんとも不気味な光景。これを「オール沖縄」と呼ぶらしい)

皆さんはもうお忘れになったかもしれませんが、知事選前まで革新陣営は青息吐息でした。

革新陣営は、既に一回負けて手垢のついた伊波洋一氏や、糸数慶子氏といったバリバリの左翼候補を今さらのようにぶつけても、仲井真氏には勝てる見込みはゼロに等しかったわけです。

最後、太田元知事が推す学者候補の高良鉄美氏を立てるしかカードしか残らなかった時に、突如天から舞い降りたのが、仲井真氏の大番頭だった翁長氏でした。

翁長氏に対する県民の願望は、「ひょっとしてこの人物ならば、隠し球のひとつやふたつあるんじゃないか」、という切ないものであったわけです。

ここで、皮肉にも、後ろ足で砂をかけてきた保守陣営の大立者だったという翁長氏の過去が、妙に光ることになりました。

たとえば、こんな感じでしょうか。

翁長氏には実は、旧経世会系大物政治家が裏に着いていて、電話一本で、和服姿で池のコイにエサをやっているような「ご隠居」が動いてくれて、こうおごそかに言うわけです。

「アベの小僧、やりすぎたな」(←マンガの見すぎだ)

すると、あらあら不思議、政府がどんどん弱腰になっていって、移転は白紙化、普天間は県外にサヨーナラーと、こんな「夢」を見られたのです。

もちろん、そんなドラエモンのポケットみたいなものは、ありませんでした。もちろん冗談です、念のため。

翁長氏には自民の大物などついてはおらず、永田町につながる電話線も切れていたことがシビアに分かっただけです。

翁長氏には移転白紙化についてなんの秘策はおろか、普天間撤去についての方針すらなかったのです。

それは、政府がわざわざ設けた1カ月間の休戦期間を、まったく無為にしてしまったことで暴露されました。

あの時、政府の移転問題司令官である菅氏が、直接に毎週来るというのに、なんの対案を揉むわけでもなく、「いかなる基地建設も認めない」なんて棒を呑んだようなことを言うに至っては、交渉能力すら怪しくなります。

この時、翁長氏にはカードが3枚あったはずです。

一枚は、仮処分申請です。彼がやらずとも、「平和団体」にでも那覇地裁に工事差し止め仮処分申請を出させることです。

うまく、地裁に溝口裁判官のような怪人がいれば、法的に工事を停止することが可能です。

もう一枚は、県民直接投票です。これは法的な拘束力はありませんが、移転反対が勝利した場合、これを押して政府が工事を継続するのはそうとうに難しくなります。

しかし、このカードは切ったら最後、政府との全面戦争すら覚悟せねばなりません。振興予算はボロボロ、交渉窓口すら閉鎖になる可能性もあります。

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最後の一枚は、新たな候補地にシュアブ陸上案(小川案)を、沖縄県側対案として出すことです。

実はこれがいちばんの良策でした。私はひょっとしてこのシュアブ陸上案を出すのかと思って見つめていましたが、その気配すらありませんでした。

シュアブ内部に作れば、ただの基地施設の増設にすぎませんから、「新基地反対」という公約違反にはなりません。

あくまでも公約したのは「新」基地であって、「既存基地の増設」ではないからです。

この対案を翁長氏が出した場合、政府は簡単に拒否できなくなります。せっかく沖縄県が歩み寄って妥協点を探ろうとしているのに、頭からムゲにハネることが難しくなるからです。

しかし現実には、現地漁協や地区に対しての補償問題を取り下げるわけにもいかず、名護市の稲嶺市長がなんでも反対な以上、実現は限りなく不可能です。

政府は実現不可能だが、簡単に蹴ることもできない中釣り状態になり、再び状況は膠着します。その間、工事は停止させるしかありません。

交渉しながら工事を進めたら、それこそ信義違反だからです。

こういう状況を将棋でいう千日手と言います。どちらも動けない、拮抗した状況です。焦って動いたほうか負け。

しかし、動かなくても困らないのは、沖縄県のほうです。なにせ公約どおり工事は止めているのですから、事実上凍結のようなものです。

このまま時間がたてば、有利になるのは翁長氏のほうでした。

その間に、振興予算の上乗せや、日米地位協定の改訂、基地縮小など、いくらでも有利な交渉ができるはずでした。

ところが、ここで翁長氏は、実は自分が保革のどちらからも相手にされていない、ただの根無し草であることを暴露してしまいます。

強気で見せても、独自の岩盤の支持基盤がないムード男の哀しさです。

こんな対案を出せば、永久に闘争をしていたい左翼陣営は、そんな「新基地」には断固反対するでしょうから、まとめきれるわけがありません。

かくして、追い詰められた翁長氏は、承認撤回という下策に追い込まれます。

これの行方はやる前から分かりきっています。総務省でハネられ、国交省でハネられ、裁判所は、最高裁にいくまでに10年かかりますから、それまでに翁長氏は辞めています。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-d546.html

とうぜん、その間工事は止まらず、普天間基地もそのままとなります。

つまり、翁長氏というトリックスターには普天間基地を動かす力もなければ、移転を阻止する能力もないのです。

本来、保守政治家だったこの男に望まれていたのは、腹に一物あるようなしぶとい交渉だったはずです。ただのスローガンを叫ぶだけなら左翼政治家でもできます。

ところが、翁長氏がやったのは、いかにも悪しき保守政治家らしい利権配りだけ。かんじんの交渉ひとつできず、後はハッタリじみたパーフォーマンスだけです。

こういうのを俗に「公約詐欺」といいます。

翁長氏が口からでまかせを言っていたことは、どんどんと今後、白日に晒されていくことでしょう。

その第一歩が、この宜野湾市民訴訟だったのです。

翁長氏の終わりの始まりが、とうとう開始されました。 腹芸ができないタヌキは、裏の藪に捨てるしかないようです。

                   :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

 

■宜野湾市民が沖縄知事提訴 辺野古取り消し「権限を乱用」
沖縄タイムス 2015年10月21日
 

沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題で、飛行場周辺の宜野湾市民12人が20日、翁長雄志知事の辺野古埋め立て承認取り消しで飛行場が固定化し住民の生存権が脅かされるとして、県に対し取り消しの無効確認を、県と翁長知事に計1億2千万円の慰謝料を求める訴訟を那覇地裁に起こした。市民側は、12月をめどに約100人の追加提訴を目指す。
訴状などによると、
仲井真弘多前知事の埋め立て承認に法的な瑕疵(かし)はなく、取り消しは知事権限を乱用した違法な処分と主張。県が承認取り消し通知書で「海兵隊の抑止力維持の根拠や、辺野古移設の具体的な説明に乏しく公有水面埋立法の要件を満たさない」としたのに対し、抑止論は国の安全保障に関わる事項だと指摘。地方自治体が抑止力の有無を判断する余地はないとした。
 元
宜野湾市議の平安座唯雄原告団長(70)は「翁長知事は辺野古の代替地を示しておらず、普天間の固定化につながる」と訴えた。
 県と知事側は「現時点でコメントできない」とした。
 

■知事の承認取り消し「違法」…宜野湾市民が提訴
読売新聞 2015年10月20日
 

 沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設を巡り、 

翁長雄志知事による移設先の埋め立て承認取り消しで同飛行場が固定化し、周辺住民の生存権が侵害されるとして、宜野湾市民12人が20日、取り消しの無効確認と、県と翁長氏に総額1億2000万円の損害賠償を求めて那覇地裁に提訴した。
原告団によると、原告数は最終的に100人以上に増える見通しという。
 

 訴状では、「辺野古に移設する根拠に乏しい」とした県の判断について「安全保障に関わる事柄で地方自治体が判断する余地はない」と指摘。環境保全措置も公有水面埋立法の要件を満たしており、「法的な瑕疵のない承認を違法に取り消す処分で、知事権限の乱用」と主張している。その上で、日米両政府が合意する2022年度以降の同飛行場返還が遅れ、騒音や事故の危険性などで生存権が侵害されるとし、1人当たり1000万円の損害賠償を求めた。
提訴後に記者会見した原告団の平安座唯雄団長は「一日も早く普天間飛行場を撤去したい。取り消しで(返還時期が)先延ばしになるのは大変なことだ」と訴えた。県海岸防災課は「訴状が届いておらずコメントできない」としている。

 

2015年10月21日 (水)

普天間基地に居続けてもらわねば困る人たちの不思議な論理

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問題を整理しながら進めています。 

まず、この移転問題を考える上での、大前提を押えておきましょう。 それは普天間基地周辺の住民の安全性の確保です。

普天間基地をこのまま住宅密集地に置いておいてもいい、というならば、移転などという巨額の税金を使って、不便になる所にわざわざ移転する必要はないのです。 

実は移転しないというなら、やりようはあります。 

「クリアゾーンは米連邦航空法に基づいて米軍が作成した基準(AICUZ海軍作戦本部長指示)で設定されており、「事故の可能性が高く、土地利用に制限がある地域」(環境レビュー)です。
同基準の前提となった調査によれば、重大事故の75%は滑走路やその延長線上で発生。米国では居住や経済活動が全面的に禁止されています。
(略)
ところが宜野湾市の場合、07年時点でクリアゾーンに小学校や保育園・公民館などが18カ所、住宅約800戸が存在し、約3600人が居住しています」
(しんぶん赤旗2012年6月25日)
 

Photo_3(写真 以下赤旗によるキャプション「『環境レビュー』に明記された普天間基地のクリアゾーン(太枠)。米軍の基準によれば、滑走路の両端から幅約460㍍×長さ約900㍍×幅約700㍍の台形になっている。図は米軍資料を一部加工」) 

これはオスプレイ反対運動の旗振りをしていた中心人物であった、伊波洋一宜野湾市長がスッパ抜いたものです。 

赤旗の記事は、「危険機」オスプレイだから、米国がクリアゾーン(CRZ)を設けるように言っていたような口ぶりですが、もちろん違います。 どんな機種でも同じです。

クリアゾーンは、米国の航空安全基準に準拠したものにすぎません。 

問題をなにがなんでもオスプレイ配備反対に結びつけるから、わけがわからなくなるのです。 

オスプレイはむしろ安全な機体で、いままでの引退間際だったポンコツ寸前のCH53やCH46よりよほど安全です。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/20-e3fd.html 

それはさておき、クリアゾーンを純粋に航空機の安全対策として考えた場合、有効な手段には違いありません。 

というのは、航空機事故の発生確率が高いのは、離陸時と着陸時に集中するからです。 

ICAO (国際民間航空機関)の 統計では、離陸時が21.5%、着陸時が48.3%です。

このことから、離陸滑走開始後の3分間と着陸前の8分間を合わせた11分間を「魔の11分間」と呼んでいます。 

ですから、航空機事故の大部分は離発着直後に起きていて、滑走路両端の数キロに落ちています。 

ここにクリアゾーンつまり無人地帯を作ることは、安全上大変に有効な手段だといえます。 

ならば、さっさとクリアゾーンを行政が作ればいいじゃないか、という話です。 

米軍基地の安全基準を遵守しろと伊波市長か叫ぶのならば、逆に、宜野湾市や沖縄県がどうしてその移転工事を進めなかったのかが問われてしまいます。 

なぜなら、伊波氏は、米軍を責めているようですが、米軍には基地の外の人家を撤去することができるとでも思っているのでしょうか。 

あたりまえですが、それが出来るのは地方自治体です。沖縄県が、防衛施設庁に諮って、予算を取り付けた上で、施設庁と協力しながら実施するのが筋です。 

その場合、当該自治体の宜野湾市は、戸別に回って立ち退きの了解をとる矢面に立つことになります。

伊波さん、それを他人ごとみたいに言わないでくださいよ。 こういう「糾弾政治」をすることが首長の仕事なんでしょうか。

現実に、神奈川県ではこのクリアゾーンを、名称は違いますが実施しています。 

神奈川県は厚木基地の米軍機墜落事件によって、これまで11人の民間人が亡くなり、家族が巻き込まれたこともありました。 

そのために、基地周辺の地主が日本政府に対して土地の買い上げを求めた結果、政府も被害の重大性を認め、2度に渡って土地の買い上げを行っています。

その結果、滑走路から数キロに渡って無人地帯が設けられ、大和市、綾瀬市の基地周辺の262戸が1970年までに集団移転しています。  

ではなぜ、沖縄では厚木基地と同じようなクリアゾーンを設けなかったのでしょうか。 

理由は、沖縄独特の事情があったからです。 

その原因は、皮肉にも基地反対運動でした。

それが明らかになったのは普天間第2小学校移転問題の時です。この普天間2小は、反対運動の間では、いまも基地公害の象徴的な場所として、再三取り上げられます。

普天間第2小学校の位置を確認しておきます。基地のフェンスと隣接しています。信じがたい環境です。

Photo_4
次に普天間2小の校庭の写真をみます。

この写真ではまるで学校上空を飛行しているようですが、そういうわけではなく小学校は滑走路北側の延長から西北にはずれた位置にあります。

Futenma2es2
普天間2小が創立されたのは1969年で、普天間基地が出来てから24年目でした。ですから、学校は基地があることを知って建てられたのです。

2小という名前が示すように、児童数が急増して建てられたことは想像できます。

しかし、なぜこのような場所に児童が通う学校を建てたのか、理由はわかりません。

というのは、県道81号線には、後に返還されることになる西普天間住宅地域があって、そこに建てれば、少なくともクリアゾーンには入らなかったと思われるからです。

というわけで、ここに立てられた理由は分かりませんが、いまでもここにある理由はわかります。

1983年のこと、かねてから普天間2小の危険性を憂慮していた校長や安次富盛信宜野湾市長は、安全な場所への移設計画を立ち上げます。

市長は直接米軍と交渉し、今ある学校敷地から1キロ離れた米軍家族用地の8000坪を沖縄防衛施設庁などに仲介してもらって返還を約束させ、さらには移転費用30億円も、政府が負担するところまで話を進めました。

危険性が明瞭に存在し、それを除去しようとする行政の計画があり、そして土地と移転資金も手当てしたわけです。

ここまでお膳立てして、よもや反対されるとは、安次富氏は夢にも思わなかったはずです。

しかし、なんとここに横やりが入ります。自称「平和団体」の人たちです。

Photo_8写真はこの普天間2小とは関係ありません)

彼らの反対理由は、「移転することは、普天間の固定化につながる」というものでした。そして「身体を張ってでも阻止する」と息巻きました。

ああ、猛烈な既視感がありますね。

この人たちの論理は、あまりにもネジれているので箇条書きにでもしないと理解できません。 

①普天間第2小は危険だ
②危険なのは米軍基地があるからだ 

はい、ここまではそのとおりです。さて、ここからたぶんこの人達でなければ理解不能な、ハイパーロジック空間に突入します。注意してください。頭がグルグルしますよ。 

③小学校を移設すれば、それは普天間基地を固定化することにつながる(え、なんで?)
④移設せずに現状で改築すべきだ(航空機事故に耐えるような、分厚いコンクリートで校舎を固めますか?)
⑤普天間基地固定化阻止のために,普天間2小移転を阻止するぞ! (はいはい)

う~ん、なんか思いっきりネジれましたね。圧縮すれば、こういうことになります。

「子供の危険性は、基地撤去の日までそのままにしておけ!」

最優先されるべきなのは、子供たちの安全なはずですが、どうも違うようです。

そこはなぜかパスしてしまうくせに、運動ではさんざん「基地があるために子供たちがこんなに苦しんでいる」と叫び続けています。

子供が爆音に耐えて耳を押えている写真を使ったパンフを撒いておきながら、肝心な子供の安全と健康はほったらかしなのです。

これではまるで国会前の乳母車デモと一緒です。子供を人質にして、政治運動をしているにすぎません。

しかもこの後に、校舎が老朽化した折も移設話がでましたが、二度目も「平和団体」の反対運動に潰されています。

安次富氏はこう述べています。 

「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」 

実はこの構図こそ、今の辺野古移設問題の原型なのてす。 

先の第2小「移設反対闘争」のケースと重ね合わせてみます。

①普天間基地は危険だから撤去すべきで、固定化は許さない

まぁ当然の要求です。問題はここからです。 

②辺野古に移設すれば、新しい米軍基地を作ることになる(「新基地」ではなく、シュアブの延長にすぎず、県全体では縮小になります)※この部分間違っていましたので訂正しました。
③だから移設に反対する(では代案はなんでしょう)
④普天間基地固定化は許さない (普天間の固定化しか選択肢が残りませんから、これで元に戻りました)

これでは、なんのことはない①から④までの永遠ループです。このような論理構造を循環論法と呼びます。

普天間2小が基地の真横にあっても移設に反対する。 普天間基地が市街地の真ん中にあっても、移設先の建設に反対する。

このクリアゾーンも、本気で伊波市長が実行する気なら、オスプレイ反対運動のプロパガンダなどに利用しないで、まじめにクリアゾーン撤去のための代替地と予算措置を講ずればいいだけなのです。

それをしないで、政治的プロパガンダにのみ興じるから、解決は永遠に遠いてしまいます。

そうならそうと、翁長氏や伊波氏は、はっきりこう言えばいいのです。

「普天間2小と同じく、普天間基地にはここに居てもらわねば困る。児童や住民の安全?知ったことか。彼らは人質なのだ」、と。

普天間基地とは、彼らにとって巨大な「普天間2小」なのです。

■追記 普天間2小移転問題については、宮本記者の誤報だという異説があります。詳しくはコメントをお読みください。

■テーマと無関係なことを長文でダラダラ書き込む荒らしもどきが来たために、この記事のコメント欄は閉鎖します。どうしてこういう人は、こだわったらそれっきりで、建設的議論ができないのでしょうか。うんざりします。

 

2015年10月20日 (火)

普天間移設問題 米軍にだって要望はある

056
まずは、前日に上げた普天間基地移転のみっつの条件を、おさらいしましょう。 

①移った先で第2の普天間問題を引き起こしたらシャレになりませんから、人家の少ない過疎の地域であることは絶対条件です。
できたら安全上は内陸よりも、離発着時に事故を起こしても海の上の海岸沿いがベストでしょう。
 

②地元の了解があること。これか最大のネックです。 

③米軍の合意があること。 

①②の条件を満たしたのは、消去法で辺野古地区しかありませんでした。

では、今日は③の「米軍の合意」について考えてみましょう。 

というのは、今や移設問題は、翁長沖縄vs本土政府という対決構造になってしまったので、もうひとりの当事者である米国の事情など、ほとんど誰も考えてくれません。 

しかし、米軍がノーと言えば、なにせ当事者ですからねぇ。

米軍の本音はスッキリ、「動きたくない」、です。

Photo_3
そりゃ決まっています。半世紀以上同じ場所に居たら動きたくないですよ。そのあたりは、一般ピープルの住居と一緒です。 

一方、同じ海兵隊でも「キャンプ〇〇」とついた陸上兵員がいる基地は、比較的簡単です。要するに、宿舎と訓練場だけですから。 

キャンプとはそもそも、恒久的な基地(ベース)ではなく、一時的に文字通りキャンプしている場所なのです。

ですから、私は沖縄海兵隊は、アジアがキナ臭くなくなったら、さっさと引き上げると思っていますよ。一日も早くその日が来ることを祈っています。

それはさておき、航空基地は宿舎だけじゃ済みません。それ以外に、滑走路はいうまでもありませんが、駐機するためのエプロン、誘導路、レーダー施設や、格納施設、燃料施設、火薬庫、管制施設などが付帯する複雑怪奇にして、膨大なシステムをもっています。 

しかも、海兵隊が沖縄にいる目的は、中国軍に張りついて、習近平におかしな気を起こさせない(これを「抑止」と呼びますが)ための実戦部隊ですから、引っ越し期間中もちゃんと機能していなければなりません。 

引っ越し作業をしながらも、一般企業と違ってお休みというわけにはいかず、1年365日営業中でなければならないのです。

複雑かつデリケートな機材を引っ越しさせながら、中国や北朝鮮に対する警戒看視活動もせにゃならんというのは、私たちが想像するよりはるかに大変なことなのです。 

ですから、あのイヤな事件で辞めさせられたロバート・エルドリッヂさんも言っていましたが、「移りたいというマリーンはひとりもいない」そうです。 

それに、この普天間基地の移転先は、どこでもいいわけじゃないのです。 

ハト氏は迷走中に、やれ徳之島だとか、果ては馬毛島という小さな島まで登場しましたが、あれらは検討するまでもなく、米軍がノーと言うに決まっていました。 

ハト氏は高学歴低知能な人なので忘れていたようですが、海兵隊というのは、陸軍海軍空軍の戦力を全部コンパクト化して、ひとつにギュっと詰め込んだ「オールインワン」の軍隊なのです。 

それを「空輸」の部分だけをアッチ、「陸」の部分はコッチでは、本来のオールインワンの機能は果せません。

ハト氏のアサハカさは、ただ滑走路だけのスペースを探しているだけで、よもやハンセン・シュアブまで面倒みなきゃいけなかったとは、夢にも思わなかったことです。

え、これじゃあ沖縄海兵隊の丸ごと移転と一緒じゃないかって、ハイ、そのとおりです。

だからこそ、普天間基地を動かすことは非常に難儀なことなのです。

ハトさんはノータリンな上に不勉強なので、甘く見すぎていました。

このように、海兵隊は、よく勘違いされているような、上陸専門部隊じゃないのです。それは大戦中までのこと。今は、総合的有事即応部隊なのです。

その意味で、陸自が今鍛練している真っ最中の水陸機動団は、よく日本版海兵隊と言われていますが、離島の防衛に特化した部隊にすぎませんから、本質的には別物です。

Photo
海兵隊の有事における行動イメージはこうです。 

有事発生⇒駐屯地で装備を準備⇒近隣の航空基地へ移動⇒オスプレイで出撃⇒戦闘⇒航空基地に帰還⇒駐屯地に戻る 

強襲揚陸艦に乗るというオプションもありますが、ともかく船はのろいですからねぇ。 

九州の佐世保軍港から回航している間に、状況がどんどん悪化して手に負えなくなります。 まだボヤのうちに消し止めるのが、海兵隊の仕事なのです。

ですから、今の海兵隊の出動の基本は、あくまでもオスプレイが第1です。 

このオスプレイを置く航空基地と、キャンプは文字通りお隣でなければならないのです。これが絶対条件です。 

すると徳之島と沖縄本島の距離は260㎞で、自衛隊が使っている大型ヘリ・CH47の巡航速度270㎞ですから、約1時間というところでしょうか。 

馬鹿げていますね。普天間基地ならあっという間なのにね。 

では、逆に兵隊のキャンプを徳之島に持っていったらいいだろうって? 

そうなると、キャンプハンセンとシュアブも、普天間と一緒に移転しなければならなくなります。 

もう、大引っ越し大会もいいところです。

第一、そんな平坦な大面積は、徳之島にはありません。

Photo_4(写真 徳之島 平坦地がないのがわかる)

ハト氏は当然忘れていましたが、普天間基地は有事には米本土からの応援を得て400~500機にまで膨れ上がるのです。

今でさえ狭いのに冗談ではない、というのが米軍の意見です。

そもそも、米軍はキャンプと航空基地をバラバラにされるのを非常に嫌がります。それは「オールインワン」という海兵隊の最大の特徴が死ぬからです。

ですから、「なにが哀しくて行かにゃならんんのか、オレはここが気に入っているんだ」と言うのが本音です。実際に徳之島案が浮上したときは、そう言って一蹴したそうです。

ですから、同じ理由で、九州に移転するのも難しいのです。

森本さんや石破さんが、こー言った、あー言ったと地元2紙は得意気に書き立てていますが、そんなことがほんとうに可能なら彼らが現職の防衛大臣やっている時に実行しています。

森本さんなど、辺野古に再着地させた時の防衛大臣でしょうに。無責任な。御両人、辞めてからいい顔するもんじゃありません。

■皆さんの激励、ほんとうに身に沁みました。ありがとうございます。がんばります。

 

2015年10月19日 (月)

改めて時系列で普天間基地と周辺を見てみよう

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ひさしぶりの、故無き炎上です。 支えて頂きました多くの方に、深く感謝いたします。 

かつて、放射能風評被害について書いた時に、罵詈雑言の嵐に遭遇したことがありました。 

その時は、社会のマスヒステリア状況に対して一石を投じる内容でしたので、「やはり来たか」みたいな気分がありました。 

今回は、あの時と較べて、「よもやこの記事に対して」というこちらの気持ちがあったために、ある意味、放射能騒動の時よりショックが大きいものでした。 

土曜日の「普天間基地の成り立ち」記事は、私は極力中立的な立場に立っていました。
※http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-8b47-1.html 

読んでいただければお分かりになるように、いわゆる翁長氏とそれを支持する人たちへの批判を意図したものではありません。

むしろ百田氏などにみられる、本土側のがさつな認識を諫めたものだったからです。 

それに対して来た「名無し」氏はこうコメントしてきます。これがこの嵐の前触れでした。この人物はその日、くり返し執拗な投稿してきた人物です。 

「基地が先か、住民が先か、新聞が右か左かなんて沖縄の基地問題を語る上で今更論じる意味もない」 

やや唖然としました。私は地元2紙についての政治的スタンスへの論評など、一行たりとも書いていなかったからです。 

書いていないことを「書いた」と言われるほど困ることはありません。しかも存在しない標的に対して批判しているわけですから、ただの自分の意見の開陳ということになります。 

もうひとり「牛タン」氏という人物も飛び出します。この人は、名無し氏とは別人です。 

この人物は、私が「自説に引き寄せて都合よく解説している」として、こう述べています。 

「宜野湾市だけの航空写真だと、あたかも基地周辺に住宅ができたように見えるので、ミスリードしてしまいます」 

記事には確かに、宜野湾の1944年45年の二枚の米軍の航空写真を乗せてありますが、公平を期する意味で、その後に琉新の引用を使って、記事半分を費やして当時の村の風景や地図も載せた上で、百田氏の「水田だけだった」という説について、こう結論しているはずです。

「水田があるということは、必ず近在にそれを耕す農家もあれば、寄り合い場、公民館、郵便局、学校、小学校などの公共施設も付随しているものなのです。
これを「水田だけ」と言われると、村の人間としてはムッとなりますね。 人の暮らしも田んぼには付随しているものなのです」

このように私は、記事中前半部分を通して、むしろ百田氏の「水田しかない場所に普天間基地が作られた」という、保守系論壇の通説が間違いだと明確に書いています。 

一方で私は、翁長氏のこのような言説も批判しています。 

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員協会での講演)  

このような翁長氏の言説は、下のような写真とワンセットで宣伝されています。 

Photo_6

 (屋良朝博氏の講演会資料によるhttp://nisiyamatookinawa.web.fc2.com/back/okinawa_1101_89.htm 

反基地運動家たちが、この写真をひんぱんに出すことには、目的があります。 

それはまるでこの住宅地のど真ん中に基地が「銃剣とブル」で民家を潰して作られた、という誇張された説の論拠だからです。 

この説は今や通説化していて、普天間問題をよく知らない人の間には、まるでこの密集した住宅街に米軍が割り込んで基地を作った勘違いをする大元になっています。 

ここから、「米軍はけしからん」「米軍横暴」という声が出てくるわけですが、もちろんこれは途中経過を省いています。 

つまり、基地ができた戦争中の1945年と、70年間も隔たった現在を一挙にワープしているのです。 

改めて時系列で、基地周辺の航空写真を並べてみます。基地周辺の緑の部分と住宅地にご注目ください。 

Photo_2

 1944年戦争中の米軍の偵察写真。丘陵に拡がる水田やサトウキビ゙畑、多くの人家、松林の街道らしきものも通っているのがわかります。 

Photo

 1945年、米軍が戦争中にもかかわらず、2400mの滑走路のある基地を作りました。これが翁長氏がいう「銃剣とブルで民家を潰して基地を作った」時代のものです。 

続いて1977年、国交省が撮った復帰から5年後の普天間基地北側の写真です。

縮尺が異なっているで分かりにくいのですが、基地北側から基地に沿って走る道路を注目ください。 

Aという赤矢印が指し示す部分には、緑地がまだ残っているのがわかります。当時は嘉数台地の展望台からは、今の住宅地はなく、農地が見えました。 

Photo_4
1977年、同時期に国交省が撮った普天間基地南側です。赤矢印B、Cにはまだ緑地帯が存在します。 

Photo_5
そして2005年です。基地北側写真を見ると、1977年には道路から西には住宅がなかったものが、道路を越えて基地にまで迫ってきています。 

Photo_2
最後に2015年現在のものです。今朝グーグルから引っ張ったばかりのホヤホヤです。

Photo_6(Google Earth)

さらに宅地化が進んでいます。もうお分かりでしょう。翁長氏たちのいう「世界一危険な基地」が出来上がった原因は、基地建設後の宅地化によるものなのです。

これは宜野湾市の人口動態でも証明されます。

・1946年(昭和21年)   ・・・6820人(宜野湾市教育委員会副読本 平成12年度版による)
・2015年(平成27年現在)・・・9万7062人(宜野湾市)

この70年で、宜野湾市の人口は約10倍に膨れ上がっています。これは沖縄県の人口が増加したのと見合っています。

Photo_7(ウィキより)

上の写真と同時期の人口はおおよそこのようなものです。

・1945年・・・約30万人
・1977年・・・約110万人
・2005年・・・約138万人
・2015年・・・約142万5千人

このように県全体の人口が5倍弱にまで膨れ上がり、100万人を突破した70年代から、那覇近郊の交通が便利な宜野湾市へと押し出され、さらには住宅が基地周辺にまで接近する今の風景を作り出したのです。

一方普天間基地は、基地返還交渉が実って復帰後に徐々に縮小しています。

・1977年3月31日・・・ 10.9haを返還
・1977年4月30日・・・ 0.3haを返還
・1977年9月30日 ・・・ 2.4haを返還
・1992年5月14日 ・・・ 道路用地等として1.5haを返還

復帰後には米軍は基地の周辺に対しては、一切の発言権がありません。

この基地のフェンス付近まで宅地化したのを、安全上の理由で規制すべきは沖縄県でしたが、沖縄県も手つかずのままに放置されていました。

地元2紙はよく、「なぜ街の真ん中に基地があるのか」という言い方を好みます。

翁長氏も、まるで住宅密集地のど真ん中に「銃剣とブル」で基地を作ったような言い方をしていますが、これは、その設問自体が間違っています。

正しくは、「なぜ基地の周辺にまで宅地が拡大するのを、ここまで放置してしまったのか」です。

誰が、どうしてこの危険な状況を知りながら、長期間にわたって放置したのか、です。

してもうひとつ。どのようにしたらこの危険な状況を解決して、住民の安全な暮らしを回復するか、です。

とりあえず責任追及は暇になったらやって下さい。今、急ぐべきはなんですか?

「米軍基地のない平和な島」という理想はよく理解できますが、それは残念ながら、中国の軍拡か止み、東アジア情勢がもっと平和にならねばなりません。

アジアが不安定な限り、米軍は好きか嫌いかは別にして、「いる」のです。

私はこれを解決するには、たったひとつの方法しか存在しないと思います。

そうです。普天間基地をできるだけ速やかに移設することです。それ以外に危険性の除去するには、方法がありません。

ただし、この時に条件が三つあります。

第1に、移転先が市街地であれば、また第2の普天間問題が引き起こされるために、必ず人口の希薄な土地でなければなりません。
第2に、その受け入れ側の地元が、納得して受け入れる地域である必要があります。
第3に、移転する店子である米軍の合意が必要です。

この三つの条件が揃わねば、移転先は定まりません。

いくつか候補が上がっています。24カ所もありますが、すべてが帯に短し襷に長しで却下されました。

これについてはそのうち詳述しますが、スッタモンダのあげく着地したのが辺野古地区だったのです。

ここはすべての条件が揃っていました。

第1に、人口過疎な漁村にあり、第2に伝統的に基地と共存を果たしてきた土地柄であって容認する住民が大部分を占めていました。

また当時の名護市も、条件つきで賛成しています。

ですから、米軍も渋々ですが移転に合意したわけです。

長くなりますので、次回に続けますが、改めて投稿のルールを明記しておきます。

①HNは絶対につけて下さい。名無しが2名いたために非常に困惑しました。
②礼節を守って下さい。罵倒語を連発するようだと、警告の対象になります。
③原則として連投はやめて下さい。ただし、私が管理人として制止するまではどうぞ。

ともかく、記事をちゃんと読んでからコメントを下さい。

2015年10月18日 (日)

日曜写真館 湖の秋の夕暮れ

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クリックすると大きくなります。なにとぞ、大画面でご覧いただきますように。

2015年10月17日 (土)

普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう

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昨日、ちょっとだけ触れた「普天間基地の昔」の事実を淡々と見ていきましょう。 

この「淡々と」というのが、案外大事です。というのは今のように対立が政治がらみで先鋭化すると、その政治力学の狭間に落ちて、肝心なニュートラルな事実関係が忘れられてしまうからです。 

ちょっと前に百田さんが「普天間基地は水田ばかりの場所に建った」と発言して物議を醸しました。 

沖縄2紙は自分が批判されたこともあって、逆上気味に反論していました。 

では、普天間基地が作られていく状況を、時系列で見ていきましょう。 

まずは、1945年に戻っていただきます。今の普天間基地のあたりです。 

Photo_2(写真 1944年9月、米軍が上陸用に撮影。宜野湾市による) 

学校や役場も見えますが、おおよそは緩やかな丘陵地に連なる松林と畑地、サトウキビ畑のように見えます。 

この写真は、普天間基地の空中写真としてはもっとも古いもので、米軍が1944年(昭和19年)9月という上陸作戦7か月前に軍事目的で撮影したものだということです。 

米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。民家もたくさんありますが、広大な畑が広がっている様子がわかります。 

地上の写真も残されています。大変に見事な松林の道です。この写真を掲載した琉球新報はこうキャプションをつけています。

「1932年の松が並ぶ宜野湾並松。1932年には「宜野湾街道の松並木」の名称で国の天然記念物に指定された(1910年ごろ(写真集じのーんどぅーむらより)」

これらは沖縄戦で失われました。実に残念です。今残っていれば、人々に憩いと涼を与え、いい観光スポットにもなったでしょう。 

Photo_3(写真 戦前の見事な松林。琉新2015年6月30日http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-245002.html

このような見事な松林街道があったのは、普天間という場所が、南部と北部を結ぶ交通の要衝だったからです。

※参考資料 宜野湾市 普天間基地の歴史・成り立ち:普天間基地@米軍飛行場がある暮らし 

街道沿いには宜野湾、神山、新城などの集落がありました。いわゆる散村形態ですので、畑やキビ畑に混じって、学校や役場などが点在していたと思われます。 

次の航空写真は、もう少し時系列が下がって1945年です。米軍は、近隣の読谷から上陸し、当時の宜野湾村を制圧しました。 

今でも基地を眺めるスポットになっている嘉数台地は、沖縄戦を代表する激戦地でした。今もまだ多くの将兵の遺骨が残されています。 

ここに米軍は、2400mの滑走路を作りました。それは本土に対する上陸作戦用の航空基地でした。 

Photo(写真 1945年当時の普天間基地。米軍撮影) 

さて、この基地が作られた場所を改めて確認しておきましょう。琉球新報がいい地図を作ってくれています。Photo_6(図 琉新2015年6月30日より)

 松林の街道に沿った宜野湾、神山、中原、新城などの集落が、基地になってしまっています。 

これが軍事接収でした。米軍は沖縄戦の真っ最中から基地建設のために土地接収を開始します。 

当然、彼らにとっては敵地で、しかも戦闘中ですから一切の補償もクソもなく、文字通り「銃剣とブルドーザー」で奪い取ったものです。 (もちろん、戦後に地代を払っていますが。)

これが既に日本軍の飛行場があった嘉手納基地などと違って、民間所有が多くなった原因です。 

ちなみに戦後、地籍簿が焼失し、所有者の自主申告に任せたために、それらを累計すると、普天間基地は海の中まで出てしまうという笑い話があります。 

それはさておき、ここまで読まれて、百田さんが言うように「普天間飛行場はもともと田んぼだった」(琉球新同じ)のか、地元2紙が言うように「米軍によって排除され、基地周辺で生活せざるを得なかったことは歴史が証明している」(琉新同じ)のが正しいのか、いかが思われるでしょうか。 

私は、双方とも事実の片面だけを見ていると思います。 

百田さんが言う「水田だけ」というのは、やや大げさな表現だと思います。 

大都市大阪の人らしい視点ですね。大阪人風に言えば、「なにもないやろー」ということですが、ちゃうねん。 

大阪人たちにかかると奈良すら、「なにもないやろ。鹿しかおらへん」ということらしいので、農村なんかまったくの田んぼと思うようです(笑)。

私は農村に住んでいますが、水田があるということは、必ず近在にそれを耕す農家もあれば、寄り合い場、公民館、郵便局、学校、小学校などの公共施設も付随しているものなのです。 

これを「水田だけ」と言われると、村の人間としてはムッとなりますね。 人の暮らしも田んぼには付随しているものなのですよ。

Photo_7(写真 5月18日、大名高地で戦闘中の第1海兵師団第2大隊アメリカ海兵隊員。Wikipediaより)

一方、地元2紙が言うような「村を銃剣とブルで潰して作った」というのも、事実としては当時はそうだった、ということです。 

ここで地元2紙は、普天間基地が誕生したのが、沖縄戦の真っ最中で、まだ大戦はおろか、南部では日本軍が強固な抵抗をしていた時期だという状況を忘れています。 

戦闘中の軍隊が、敵地で平時と同じ接収方法をするわけがありません。 

戦後も、普天間基地は拡大を重ねていくのですが、戦中ほどではないにせよ、占領軍独特の強引で暴力的方法で接収を重ねていきます。 

これがいわゆる「銃剣とブル」の時代です。私はこのような時期があったことを、まったく否定しません。 

ただし、これは1950年代末から60年頃まで戦われた「島ぐるみ闘争」までの時期だったということを忘れないで下さい。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-e46c.html 

この米軍占領下の時期が永続して、今もなお続いていて「植民地のようになっている」と主張するのが、地元2紙と翁長氏です。 

翁長氏は、9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」

翁長氏は似たようなことを、そこかしこでよく言っています。

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員協会での講演)

さすがに、これは無理筋な論理展開でしょう。

翁長氏は、普天間移設問題を基地の危険性の除去という政府の論点からズラしたいために、「いかに奪われたのか」という部分のみを強調しようとしています。

「自ら提供した土地はない」というのはウソです。翁長氏は、キャンプ・シュアブやハンセンなどの地元の誘致運動の事実を無視しています。

他の基地に関しても、自分の主張にとって都合のいい、1950年代までしか見ようとしません。

そりゃないよ、翁長さん。

 翁長氏は都合よく、米国の統治の仕方が戦時から平時へ移行したことを忘れているのです。 

1951年のサンフランシスコ講和条約移行の頃になると、占領下にあった沖縄でも戦時から平時への切り換えが行なわれました。  

米国は沖縄が「軍事占領下」である」としていたわけで、裏返せばそれは潜在的に日本領だと認めていたことになります。 

それが講和条約後に響いてきます。今までのような「銃剣とブル」で基地作りというわけにはいかなくなったのです。 

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そして地代の支払い方法を巡って、「島ぐるみ闘争」というのが行なわれる頃になると、米軍のほうがタジタジとなって、県民の主張を丸呑みするようになってきます。 

私はこういう沖縄県民のしぶとさが大好きです。やられっぱなしにはならない、いつか必ずハネ返してやる、ころんでもタダ起きない、そこいらのものを掴んで懐に入れて立ち直る、という強さが沖縄人の血の中にはあります。 

戦うといっても、武器がない以上、平和的な条件闘争になるわけですが、沖縄県民ほどこの条件闘争におけるタフネゴシエータはいないと思います。

稲嶺さんや仲井真さんたち歴代の「保守系」知事たちの、「言語明瞭・意味不明」の発言には、本土政府はずっと泣かされていました。

稲嶺さんなんか、普天間移設はOK、ただし15年ポッキリで閉じろなんて言ってましたからね(苦笑)。

仲井真さんに至っては、「県外移設・ただし移転承認」というアクロバティクなことを言って、金平氏に「お前は、日本語が出来るのか」と怒鳴られていましたっけね(爆)。

ある意味「言語明瞭・意味明瞭」のバリバリの左翼だった太田知事や、左翼転向組の翁長さんのほうが本土政府にとって、かえって相手しやすいんじゃないかな。

それはさておき、最後にもう一枚現在の写真を見ておきましょう。 

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これが反基地運動家をして、「沖縄基地はギネス級」といわせる現在の写真です。 

まぁ、ひと目見てスゴイですね。特に驚かないのは、私のような厚木基地の真横で育った者くらいでしょうか。 

では、これらの学校がいつ出来たのか調べてみましょう。 

こうして、普天間基地周辺の学校の出来た時期を見ていくと、基地があってその周辺に学校や住宅を建てたのがわかります。

よく反基地運動家の人が言うような、「住宅地の中に銃剣をつきつけてブルドーザーで民家をぶっ壊しながら建てた」わけじゃないのです。

米軍ヘリが墜落したことで一躍「有名」になった沖国大は、大学創設は1972年です。その前身である琉球国際短期大学の創立は1959年です。

普天間基地が出来て実に14年後のことです。ということは、ここに基地があるのを十分知りながら、ここに大学を設置したことになります。

これをどう評するべきでしょうか。 

保守派の百田さんは、「普天間基地があって、その後に住宅が出来た」ということを強調したいあまりに、実際に「銃剣とブル」で接収した時代もあったことを無視しています。これはフェアではありません。

一方、翁長氏や地元2紙は逆に、「住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかして、家も壊して今の基地は全てできている」(翁長氏)と言いたいために、いま基地周辺にある学校や住宅は、基地が出来てから集まったことを、都合よく忘れています。

接収されたのは半世紀以上前の、しかも戦時であって、今の普天間基地の危険性とは直接になんの関係もありません。

この人たちは、移設問題の発端が「普天間基地の危険性の除去」だという事実から目をそらしたいために、接収方法のみを声高に言っているにすぎません。

事実を認めると、「では動かすには移転するしかないな」となって、反対運動ができなくなるからです。

判断はそれぞれにお任せしますが、私は百田さんと地元2紙双方とも、自説に引き寄せて,都合よく歴史を切り取っているようにみえます。

ただ、個人の作家にすぎない百田さんと、翁長氏のような知事という公職に着く人間や、報道機関が発言することでは、その重みがまったく違うのは確かですが。、

2015年10月16日 (金)

「支配的空気」から我に返るには

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飯田泰之さんという経済学者が、『ダメな議論-論理的思考で見抜く』というおもしろい本を書いています。 

日本に溢れる、なんか違うんじゃないというダメ論理をリテラシーする本です。リテラシーとはこの場合、「読み解く仕方」くらいの意味でしょうか。 

この中で飯田さんが上げているひとつに、「場の空気の支配」というものがあります。 

「ある事実が多くの人の心にかなう(好みに合う)もので、それに対する批判が行なわれない状況が続くと、『常識』は論壇や政策論争の場を支配する『空気』になります。
常識の支配力が強力になると、言説の可否を決めるものは論理や根拠ではなく、『なんとなく形成された常識』に近い雰囲気をもっているか否かになります。『科学的根拠』自体が『空気』に適合するように再構成されるようにすらなるでしょう」
 

こういう同調圧力を持つ「空気」というのは、「常識」の仮面を被っていますから、実にやっかいなものです。逆らうと、ホント居心地の悪い扱いを受けるからです。 

なんとなく漂っている支配的な「空気」は、その正体がただの「空気」であるだけに、議論の俎上に乗せることもしんどいものになります。 

多くの人が怪しげな定説をコロっと受け入れてしまうプロセスは、こんなかんじです。 

<気分がかなうという理由で納得する⇒なんとなく常識化する⇒動かし難い空気となる⇒社会が特定の思考や言論で支配される> 

一回この負のプロセスに突入するとなかなか抜け出すのが困難です。イケイケドンドンで盛り上がり、気がつくと破局ということになります。 

たとえば、日本民族の20世紀最大の失敗である先の大戦などは、まさにこのパターンで進行しました。 

政治家や朝日のようなメディアが煽ったのも事実ですが、むしろ彼らは大衆の「空気」に便乗し、迎合しただけなのです。

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たとえば、大戦への別れ道だった第2次上海事変の時に、そこで戦争を停止すれば、その後の展開は決定的に異なったはずです。

しかし、政府は一回燃え上がった、「中国許すまじ」という「空気」を押えることができませんでした。

そしてその後、する必要のなかった南京爆撃から南京戦へと進んでいきます。

この後、2回あった和平もすべて日本側が壊してしまいます。

その原因は近衛文麿という「昭和の鳩山」のせいもありますが、当時日本を支配していた国民の「ここで和平してしまったら、それまでに亡くなった英霊に申し訳がたたない」という「気分」が背景にあります。

そして、その結果破れて悲惨な目に合うと、これまたコトの始まりがただの「空気」なだけに、憑き物が落ちたようになって、下手人探しをしたりすることになります。 

もっともこれは日本人だけに特有の現象ではなく、20世紀最大最悪の実例は、何といってもナチスドイツです。 

日本以上にボロボロに破れて、国まで分割されたドイツ人は、「我に返って」国家犯罪のすべてをナチスになすりつけました。 

では「我に返る」には、いちいち破局していなければならないのでしょうか。 

そういうことはありません。飯田さんはこの「場の空気の支配」を打ち破るためのチェックポイントをいくつか教えています。 

そのひとつに、単純なデータ観察をリテラシーすることがあります。 

なかなか実際のデータにあたらないために、メディアが作り出したセンセーショナルな事件によって「支配的空気」が作られてしまいがちです。 

ここから「我に返る」には、元データに帰ることが大事です。 

たとえば、飯田さんはワイドショーなどでひんぱんに登場する「凶悪な少年犯罪が激増している」、という報道を例に上げています。 

実際は昭和期よりも激減しているそうです。少年人口1万人当たりの殺人は1960年に0.4人だったものが、近年は0.1人を切っています。強姦も4.1人から0.2人へと激減しています。 

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Photo_2(図 少年犯罪データベース

 グラフで明らかなように、激減したために目立っているだけで、実際は少年の凶悪犯罪は減ってきているのです。 

こういった元データに当たらないと、「日本には猟奇的な少年犯罪が蔓延している」というワイドショー好みの「空気」にミスリードされてしまうことになります。 

そして懐古的な人は、「昔は兵隊に行って一人前の男になったんだ。若い奴らを自衛隊に入れろ」と言い、一方左翼チックな人は「政府がまたアベ・ヒトラーの下で改憲して戦争が出来る国にするために徴兵制を企んでいる」と考えます。

Photo_7http://blogs.yahoo.co.jp/tt23vd8m/13437244.htmlより。なかなかすごいサイトで、しっかりとカルト的な空気を楽しめます) 

Photo_8(上のようなことを言う人たちか集まるとこうなる。主義主張ではなくて、この雰囲気、ちょっとコワイ)

やれやれ。現実の自衛隊はといえば、「今の新人教育で手一杯だ。冗談もいいかげんにしろ。自衛隊は教育機関じゃないぞ」と言っているのにです。

というわけで、自分の気分に適い、なんとなくそんなイメージかなぁ、と納得しかけた時には、面倒でもまずせねばならないのは、関連データの収集と検討なのです。 

極端なことを言う人が支配的「空気」を作り出した場合、その論拠となるデータを洗い出せば、かなり見えてくるはずです。

Photo_9(福島取材をして、鼻血を出す山岡。これで「名作」美味しんぼはオワッタ)

あのね士郎くん、というか雁屋さん、放射線で鼻血がでるのは急性被曝といって、「もう、お前はもう死んでいる~」くらいの高線量被曝した場合だけなのです。 

放射線被曝に対して発言するなら、それは常識です。はい、ビタミン剤、出しておきますからね。お大事に。

私も、福島事故以来の、「東日本は住めない。40万人がガンで死亡するゾ」と煽った者が大量に発生した放射脳騒ぎ、あるいは「わずかな低線量被曝で大変なことになる」というゼロベクレル騒動とは、当時からデータを出して徹底的に戦いました。

テッテイ的にやりすぎて、2年間ほどこのブログは脱・脱原発ブログと化していたほどです(苦笑)。

さて、沖縄の「動かし難い空気」は、米軍基地です。皆さんもよく見聞きするでしょう。

これなど飯田さんの言い方を借りれば、「科学的根拠自体が空気に適合するように再構成された」ものです。

好むと好まざるとに関わらず、これが沖縄の「論理や根拠ではなく、なんとなく形成された常識」なのです。

おそらく翁長氏を支持する人たちは、これらの論説を無批判でコピーしているはずです。

しかし、このように一見客観的データや数字が散りばめられて説かれると、うっかり納得しかねません。

しかも悪いことには、このような言説を、運動家がコピペして拡散し、それをまた地元2紙が県内くまなくバラ撒くために、「世論」となり、そして翁長氏を生み出す「民意」に成長していきます。

それは、沖縄県民のこう見たいという「好み」にかなっているからです。

もともと沖縄社会の中に、「米軍は悪だ」「沖縄だけがいじめられている」、という「動かしがたい常識」に反していないために、それを裏付ける「科学的根拠」に見えてしまうというわけです。

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上は沖縄タイムス(2011年3月6日)が乗せている解説図ですが、「洋上展開しているのを除く」として、横須賀を「母港」とする第7艦隊の兵員数1万3千人を意図的に落しています。 

第7艦隊の1万3千名は、日米合意で「母港」扱いではないので(実際は母港ですが)統計から政治的理由で外されているからです。 

なに?いつもは洋上で、本土にいないだろうって。いえ、だいたい3か月間周期で横須賀にいます。 

沖縄の海兵隊も、ローテーション配備といって、強襲揚陸艦に乗ったり、アフガンに行ったり、ハワイや本国に帰ったりしていて、いつもは3分の1くらいしか沖縄にいません。 

つまり、統計数字は沖縄マリーンも、横須賀ネービーも、いつも丸々統計上の兵員数が常駐しているわけじゃないんです。 

いわば、本籍地みたいなものなのです。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-a93c.html 

そもそも、兵員数を住民数で割ること自体に、一体どのような意味があるのでしょうか?税負担じゃあるまいに。 

これとワンセットで登場する、有名な沖縄県の基地面積占有率に関しても、最近は各所から指摘されたんもんで、必ず「米軍専用」と断ってはありますが、その意味を説明しません。 

それは説明すると、沖タイなどのような人にとって都合が悪いからです。だって、沖縄の米軍基地が100%「占有」なのに対して、本土のほうは9割が日米共有ですからね。 

そりゃ、「占有」だけ取れば多くなります。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-974e.html 

私は沖縄の基地負担が少ないなどと言う気は、みじんもありません。実際、全国一米軍基地が多いのです。 

ただ誇張しすぎです。プロパガンダ数字を使いすぎです。 もし、本土の人が「我に返ったら」、沖縄側の発言すべてを丸ごと信用しなくなります。 

そのほうがダメージが大きくありませんか。 

Photo_6(屋良朝博氏の講演会資料によるhttp://nisiyamatookinawa.web.fc2.com/back/okinawa_1101_89.htm 

こんなにアブナイ普天間基地!しかし、基地か先か、住宅地・公共施設か先か考えないといけませんね。 

ちなみに1945年に、普天間基地が作られた当時の写真は下です。私は百田さんのように「水田ばかり」という気はありませんが、現在とは大違いなのは事実です。 

Photo_10(写真 1945年の出来た当時の普天間基地) 

結果、沖縄ではこのような「支配的空気」になってしまっています。

Photo_12
このような、沖縄にある支配的な「常識」について、いたずらに「沖縄は韓国と一緒だ」と叫んでも、かえって国民の分断を深めるばかりです。

だから、ういう「支配的空気」をカモす人たちには、時間はかかりますが、まずはしっかりとデータを上げてリテラシーしていき、ひとりでも多くの沖縄県民にほんとうの事実を知ってもらわねばなりません。

この方法のほうが「嫌沖」を叫ぶよりよほど大変ですが、やっていかねばならないでしょう。

おっと、枕を書いていたら、枕だけで終わってしまった(笑)。

2015年10月15日 (木)

翁長知事、とうとう承認取り消しに追い込まれる

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とうとう翁長氏がやってしまいましたね。承認取り消しです。 

翁長雄志知事は13日午前、県庁で記者会見し名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したと発表した。前県政の承認の手続きに「瑕疵(かし)がある」と判断した。翁長知事は「承認は取り消すべき瑕疵があると判断した。今後も辺野古に新基地は造らせないという公約実現に向け、全力で取り組む」と述べ、新基地建設を阻止すると強調した。承認取り消しで、沖縄防衛局は埋め立ての根拠を失い、辺野古沖での作業ができなくなる」(沖縄タイムス10月13日号外)
※https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=136905 

Photo_2(こちらは琉新号外)

これを聞いて反対派はこんな檄を飛ばしてはしゃいでいます。

「遂にその日がやって来た! 感無量! そして 身が引き締まる。奮い立とう、いざ! これから更なる一歩。一歩、一歩、ひるむことなく、階梯を登り詰めよう!」http://blog.goo.ne.jp/takashien/e/b809bbc87a78d8bb4529f222a0e1ab10

「遂にこの日がやってきた」ときたもんだ。おお。大東亜に朝が来る!まるで、開戦の詔を聞いた当時の国民みたいね。

それとも「奮い立て、いざ」はインターナショナルの一節だったっけか。まぁ、どっちでもいいや(笑)。

せっかく盛り上がっているのに水を差して申し訳ないですが、承認取り消しは、翁長氏が袋小路に自分で飛び込んだってことですよ。

あれはやるぞやるぞ、という示威だから効果があるんで、実際やってしまえば竹光なことがすぐにバレるようなしろものです。 

翁長氏は沖縄県の政治家なのに、「抑止」ということをまじめに勉強しないからこういうことをしてしまうのです。

私は、翁長氏が承認取り消しをバックにして、なんらかの妥協を政府から引き出すつもりかと思っていましたが、とんだ買いかぶりだったようです。

Photo_3
政府はわざわざそれを察して、1か月の休戦を申し出て、毎週菅氏を沖縄現地に通わせるという譲歩をしました。

それまでの翁長氏の言い方には含みがあって、「新しい基地建設は認めない」という表現をしていたはずです。

じゃあ、「新しくなけりゃいいんだな」と、政府も首をひねったでしょう。ひょっとしたら、「既存の基地内なら、考えてもいいぞ」と取れなくもありませんものね。

これは翁長氏の政治的シグナルなのか、とも考えたはずです。

ならば、やりようは残っています。シュアブ基地内部に陸上案を復活させることです。

しかし呆れたことには、首相が官邸内でもっとも沖縄県に同情的な菅氏を派遣しているのに、翁長氏ときたら棒を呑んだような顔をして、「いかなる基地建設も認めない」と言い出したのには呆れました。

たぶんいかなる妥協も許さない、と叫ぶ硬直した左翼陣営を説得するだけの力量がなかったからでしょう。

知事になる直前、翁長氏は朝日(2012年11月24日)とのインタビューでこんなことを言っていました。
※http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm

「苦渋の選択というのがあんた方にはわからないんだよ。国と交渉するのがいかに難しいか。
革新勢力は、全身全霊を運動に費やせば満足できる。でも政治は結果だ。嫌だ嫌だで押し切られちゃったではすまない」

そのとおりです、翁長さん。あなたは革新陣営と長い間戦ってきた保守政治家として、「全身全霊を運動に費やして満足」を得ることが、政治の役割じゃないと喝破していました。 

そして翁長氏は、「政治は結果を出すことだ」と大見得を切って、知事になったわけです。

彼がもっと強力なカリスマ的指導者だったなら、この貴重な休戦期間にもっと柔軟な手段を繰り出したはずで、そのほうが政府にとっても難題だったと思います。

たとえば先に述べたシュアブ陸上案などを翁長氏が、チラっとほのめかせたら、今まで進行してきた辺野古埋め立て方針が全部ひっくり返ってしまいます。

渡してしまった漁協への補償金はどうする、埋め立て案で納得していた県内土木業はどうやってなだめる、名護市の稲嶺市長は認めないぞと、難題山積です。

しかしせっかく県が歩み寄ったのに、コレを捨てていいのかと、政府は混乱するはずでした。

しかも、シュアブ陸上案を交渉テーブルに乗せてしまえば、現況の埋め立て工事は一時凍結のやむなしになります。

別案があるのに、工事していたら政府の誠意が疑われるからです。翁長氏にこのようなクセ球をなげられると、政府はそうとうに困ったはずです。

ムゲに突っぱねれば、「なんだ歩み寄ったのに」と言われ、本気でやろうとすると、今度は名護市長が狂信的に反対します。

どっちにころんでも、翁長氏にとっておいしい話になった可能性があったのです。

しかし、そんな高等戦術を理解するほど、左翼陣営は頭が廻らなかったようです。あの人たちの脳味噌には「闘争」だけしかなくて、他に何も入っていないようだからです。

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翁長氏もがいみじくも言うように、「全身全霊運動に費やせば満足」するような人たちにとって、解決しないほうがいいのです。

解決は日和見であり、許しがたい妥協だからです。イエスかノーか、これ以外ありません。

まるで駄々っ子ですが、先日の「戦争法案」反対運動を見ていて、憑依されたような人たちの怖さを感じませんでしたか。

ズっと反対運動をしていたい、ズっと死ぬまで闘争していたい、解決されれば組織とともに生き甲斐がなくなっちゃうじゃないか、というのが左翼陣営の本音なのです。

なんかスゴイね。翁長氏は左翼陣営に片足を置いてまで、仲井真さんに勝ちたかったわけで、その報いを受けるですな。

これで政府と翁長氏の話し合いの段階は事実上終わった、ということになります。政府は翁長氏を見切りました。これは菅氏の口ぶりにも現れています。

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もはや辛抱強い菅氏も、今まで控えていた翁長氏に対する怒りを隠しません。

「『県議当時、一日も早く県内移設をしてほしいと(当時の)首相と官房長官宛ての要請決議をしていた…』
 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐり、かつては県内移設の旗振り役だった翁長雄志知事が、移設反対に転向した“変節”ぶりを暴露した」(産経10月13日)

翁長氏は、最後のカードを屑籠に捨て、とうとう本心はやりたくなかったはずの承認取り消しに入ったのです。

これは島の左翼陣営が与党づらしてヤレヤレとうるさかったものですが、一回やると後戻りできません。

対話による交渉はできなくなり、交渉ができねば政府は撤回など絶対にしないからです。

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そしていったん承認取り消しをしてしまえば、「闘争」の場は法廷に移り、その間は沖縄県は何もできなくなってしまいます。

つまり、最高裁まで争うのは勝手ですが、裁判で争いながら、県民投票などすれば、裁判所無視と受けとられても仕方がありません。

結果、翁長氏は裁判で不利になるでしょう。

したがって、最高裁判決が出るまでどれだけ時間がかかるかわかりませんが、その間にも、工事はまったく止まりません。

11月の本体着工は予定どおり行なわれるし、22年完成まで淡々と工事は進むだけです。

サジを投げた政府は、さっそく第1の手を打ってきました。

「承認を取り消したことへの対抗措置として、同法を所管する石井啓一国土交通相に取り消し処分の効力停止と処分の取り消しを求める行政不服審査を申し立てた。
石井氏は沖縄県の意見を聞いた上で防衛省の主張通り効力停止を認める公算が大きい。早ければ1週間程度で結論を出す見通しだ。
 防衛省は、申し立ての理由として(1)仲井真弘多前知事による承認に不合理な点はない(2)嘉手納基地(嘉手納町など)以南の返還など基地負担軽減を着実に実施(3)ウミガメやジュゴンなどの保全に万全を期している-と主張。翁長氏の取り消し処分は違法だとした」(産経2015年10月15日)
 

追い詰められた翁長氏は、総務省の「国地方係争処理委員会」に駆け込むしか手はなくなります。

「防衛省は石井氏が効力停止を認め次第、移設作業を再開し、工事にも着手する方針。一方、翁長氏は効力が停止されれば、総務省が設ける国地方係争処理委員会への不服申し立てなどをする見通しだ」(同)

ここでも100%翁長氏の言い分は、蹴られます。

というわけで、翁長氏側は後は地裁に訴え出るしか方法がなくなりました。しかも工事は止まりません。どんどん既成事実は積み上がる一方です。

もはや翁長陣営に残された手は、唯一法廷闘争しかありません。

あえて他にあるとすれば、辺野古で外人部隊と平和センターに暴れさせて、流血事件を引き起こすていどです。

しかしこれも今や県警と海保によって、完全に封じ込められつつあります。

まさにかつて自分が言っていた最悪の負けパターンである、「嫌だ嫌だで押し切られ」つつあるのです。

というわけで、承認取り消しが、実に悪手(あくしゅ)だとお分かりになったでしょうか。 これで翁長氏は、鼠取りに自分から飛び込んでしまったというわけです。

 

2015年10月14日 (水)

コメントにお答えして エサ米は市場原理から逸脱している

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今日は、「農経初心者の大学生」さんにお答えする形で、お話していきます。 

頂戴したコメントは、私がエサ米・米粉などの転作について批判した理由を尋ねています。 

「(1)補助金の政策効果に対し、財政負担が大き過ぎるため。
(2)減反の維持こそが補助金の目的であり、減反の維持に反対であるため。
(3)飼料用米・飼料稲への補助金について、仮に財政負担の大きさの問題は棚上げしたとしても、飼料(の一部)を自給しようという考え方に反対であるため。あるいは、飼料(の一部)の自給には反対しないが、それをコメで行うことに反対であるため。
(4)その他
※(1)は費用負担の視点、(2)と(3)は政策の目的の視点です」
 

答えから言っておきましょう。 

(3)の国産自給飼料という理念は、私自身も長く追及してきたものです。ですから、反対なわけはありませんが、それと減反を絡めるなと言っているだけです。

ですから「政策効果に対する費用」という費用対効果の次元ではなく、政策目的そのものが歪んでいるからダメなのです。 

費用と言う点から考えてみましょう。

エサ米は農業経営の合理性に基づいて制度設計されていないために、多額の税金の竹馬を履かせてやっと成り立っています。 

2014年度には、収量10アール(1反)あたりの最大の補助金給額は、10万5000円でした。

ここで質問です。皆さんは、一般的な10アールあたりのコメの収益はどのくらいか、ご存じでしょうか? 

分かるわけないよね(笑)。答えは、「新規就農ガイドブック」によれば、平均的な1反当たりの売り上げは14万2000円ていどです
http://www.pref.okayama.jp/soshiki/detail.html?lif_id=10456 

ここから、生産コストを引くと、おおよそ5万3000円程度となります。もちろん年に1回の収穫ですから、これがコメの10アールあたりの年間所得となります。 

5万3000円しか所得にならないものに、2倍の最大10万5000円くれるというのですから、ウハウハです。 

しかも、補助金は、そこから生産コストを引かねばならない売り上げ額と違って真水です。これが丸々貰えちゃうんだから、豪気なもんだよな、お国は。 

ただし、この法外な補助金が、農水省のお役人さんのポケットマネーから出ているならの話、ですが。 

だから、兼業農家を先頭にこぞってエサ米に転換を開始したのは事実です。 

エサ米がどんなに馬鹿げた制度設計かわかりましたでしょうか。こんなことは一般の民間企業なら絶対にやりません。 

まぁ、考えるまでもないでしょうが、こんな逆ザヤをやったら、一瞬で潰れるからです。 

つまり、エサ米は、農業の市場原理から大きく逸脱した制度なのです。ここが根本問題です。 

私の友人の農家は、数十ヘクタールの水田を耕作している大規模農家ですが、エサ米と聞くとふふん鼻先で笑ってこう言ってのけました。 

「あんなものを作るようになっては、農家は補助金乞食になる。あれは農業とは呼ばない。いかにうまいコメを作るか、日々研究しているオレたちに無礼だろう」 

Photo_3(写真 米国のエサ用トウモロコシ畑)

一方、畜産農家の立場で考えてみましょう。今の日本の飼料の8割以上は輸入に頼っているのがは現実です。
 

その輸入飼料の大部分は、トウモロコシです。 

日本では夏の風物詩ですが、輸出先の米国や南米では家畜のエサです。トウモロコシ自体の品種が、そのまま食べても食えたものじゃない飼料用トウモロコシだからです。 

米国では、トウモロコシを自動車用エタノール(バイオエタノール・略してバイエタ)にして、燃やすというバチあたりなことをしています。 これを「燃料生産農業」と呼びます。

このバイエタが飼料を圧迫する原因にまで成長して、今や米国では社会問題にまでなっています。 

Photo_2
上図を見るとバイエタの価格が上昇すると、連動してレギュラーガソリンの価格も上昇するのがわかります。このように、ガソリン価格とバイエタは比例関係にあります。

そしてトウモロコシの価格動向と、 他の穀物の大豆、小麦、コメなどの相場も連動しています。 

Photo_4(図 九州大学大学院農学研究院伊東正一教授による)

トウモロコシばかりではなく他の飼料用作物も含む国際穀物相場全体が、原油高騰と並行して上昇していくのがわかります。(上図参照)

つまり、ちょうど玉突きのようにして、原油価格高騰⇒バイエタ価格上昇⇒トウモロコシ価格上昇⇒小麦、大豆価格の作付け拡大⇒穀物相場全体の高騰、という負のスパイラルを辿っているわけです。 

そしてこのバイエタは、今や食糧生産を凌ぎつつある勢いです。

Photo_5

http://www.gamenews.ne.jp/archives/2008/05/73945.html

これが世界の食料事情に悪影響を与え、トウモロコシを餌とする先進国の畜産価格、小麦などの高騰をもたらし、そしてもっともそのしわ寄せを喰ったのが貧困国でした。

先進国の燃料生産農業が、発展途上国の人から食糧を取り上げたのです。 

今や多くの難民を出しているチュニジア、エジプトなどの背景には、この穀物相場の上昇があるのです。 

上図のグラフには、飼料用を減らして、バイエタに回されている状況がはっきり現れています。

残念ながら、このバイエタは欧州まで巻き込んだ大きな流れに成長し、肥大化する一方です。しかもブラックジョークのように、そのお題目は「エコ農業」ときています。

飢餓と難民を生み出す原因が、「地球に優しい」ですと! 

「非食料由来の第二世代バイオ燃料が将来は現在の第一世代バイオ燃料にとって代わるとの観測はありますが、米国でもEUでもバイオ燃料の供給目標は第一世代の大幅な生産増に将来第二世代が上乗せされるという前提で設定されていますから、食料由来のバイオ燃料が相当長期にわたって中心になります。「燃料生産農業」は後退しないとみておかなければなりません。世界の農業は新しい局面に入ったのです」(JA総研)
※http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu100113-7630.html

すいません。バイエタの方角に逸れそうで慌てていますが(笑)、実は日本のエサ米も同じ矛盾を抱えているのです。

日本の畜産は、好むと好まざるとに関わらず、国際的穀物市場の枠組みの中で動いています。
 

ですから、このイビツな国際穀物市場から、一定の自由を勝ち取ろう、という発想自体は間違っていません。 

問題は、それを人間の食糧になるものでやるな、ということです。そんなコトを始めたら、米国のバイエタが辿ったことと同じ道になる、と私は思っています。 

そもそも米国で、トウモロコシからバイエタを取り出すという、クレージーな「燃料生産農業」が始まったきっかけは、トウモロコシの余剰に原因がありました。 

余って泣きっ面のトウモロコシ農家を見て、ブッシュ大統領が農家票の取り込みのために打ち出したのが、「地球にやさしい」(うそこけ)バイエタだったわけです。

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今の日本のエサ米は、ちょうどブッシュ大統領が急に「地球にやさしく」なったのと同じように、「国産飼料自給」という美しい包装紙に包まれていますが、中身は一緒です。

米国ではトウモロコシが余り、日本ではコメが余ったというだけの違いです。

その解決法として、米国は食糧を燃やし、日本は主食のコメを家畜のエサにしようと思いたったというだけの違いがあるだけです。

今から45年前、農水省はこのコメ余りを本質的に解決しようとせずに、作付けを減らす減反政策という彌縫策で解決しようとしました。初めのボタンのかけ違いが始まったのです。

その結果、減反政策によって、40%の水田で稲作が放棄されていきました。

全国の340万ヘクタールの水田のうち、コメの減反政策のためだけで100万ヘクタールを失っています。

実に、全水田の3分の1を、減反政策で潰してしまったことになります。

そのために減反に追い込まれた水源涵養のための谷津田は急速に荒廃し、水害が頻発する原因のひとつになっています。

Photo_6(写真 谷津田)

農水省は、ふた言めには、「コメを守れ。コメの多面的機能に着目しろ」と説教を垂れますが、実際彼らがやってきたのは、日本の水田潰しだったのです。

こうして日本農業を弱くしたツケは、減反にかかる膨大な補助金費用負担として国民が税金で負担しています。

日本のコメ産業は、約2兆円産業といわれていますが、納税者でもある消費者負担は約1兆円にのぼります。

実に半分が減反という名の財政負担で、国民が背負っているわけです。

このような愚かな減反政策は2018年度にはとりあえず終了すると農水省は言っていますが(あたりまえだ)、それに代わる新たな農業政策が見えてこないのが、現状です。

それにしても、こんなエサ米の終わり方を、一体農水はどうするつもりなんでしょうね。

農家以外の国民に対して、日本農業を強くするために財政負担をお願いします、というなら道理が通ります。

しかし、減反を守るためのエサ米などは、農業を弱くするためのお願いにすぎないのです。

※お断り よくやるんですが、改題しました。

2015年10月13日 (火)

日本農業の宿痾 減反制度

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昨日の記事は、私としては「さぁ来い、批判コメント」、と思って待っていたので、やや拍子抜けしております(笑)。

「TPP大敗北」という言い方をする農業関係者やマスコミがいますが、内心本気でそう思っていたら、逆に驚きです。

あれは単なるTPPに対する農業補償をブン取りたいための、条件闘争の枕詞でしかありません。

「いやー、よくガンバったね、甘利さん」なんて言おうもんなら、補償金額を値切られると思っているだけです。

私はこのテの同業者の嘘泣きが嫌いです。もっと冷静に分析すべきで、まずプロパガンダを飛ばすというのはいかがなもんでしょうか。

さて、かつては、減反廃止・コメの直接支払いを唱えただけで、裏切り者よばわりされたもんです。

農業の世界は概念そのものが一般にはなじみが薄いので、分かりにくいと思いますので、噛みくだいてご説明しましょう。

まず、私が日本農業の宿痾だと思っている悪名高き「減反」から始めましょうか。

減反とは、文字通りコメを生産管理して「反」(たん)を減らすことです。反とは10アールのことですが、ここでは象徴的に使われています。

減反政策とは、政府が国家規模のカルテルを結んで、米価を一定の水準に保つ仕組みで、70年頃からコメ余りなった結果、食管制度(食料管理制度)が財政的に持たなくなったために生れました。

Photoんとこの時代は、作れば全量をお国が買い上げてお金を支払ってくれるという夢のような時代だったのです。

こんな無茶ぶりな制度を作ってしまったのは、戦後の食料難の時代に、なんとしてでも主食のコメを確保しようと考えたからです。

今では信じられませんが、1970頃まで一家に一冊、米穀通帳なるものがあって、消費すら一定の枠があったという時代です。

ちなみに、この米穀通帳は身分証明書代わりにもなりました。

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だから、生産奨励の意味もあって食管制度を作りました。ところが豊かな時代になると、コメは余り始めます。

米穀通帳まで作って、喰いすぎるなと言っていたのが、もっと喰ってくれという悲鳴が上がるようになったのです。

下図をご覧ください。

Photo_2(図 農水省米改革の取り組みよりhttp://www.maff.go.jp/j/wpaper/w_maff/h19_h/trend/1/t1_1_1_02.html

グラフのオレンジ線がコメの個人あたりの消費量です。1960年代から較べて2007年には約半分です。政府は食管制度を持たせるために、備蓄しまくっていました。

グラフ下の棒グラフを見ると、1960年代から70年代かけては700万トンという凄まじい量を備蓄して、古米、古古米の山を築いていました。

こんな備蓄を抱えながら、なお全量買っていたのですから、そりゃパンクするわな。これに音を上げた政府が1970年から始めたのが、減反です。

つまり、これが政府指導の生産調整である「減反」制度です。

Photo_4(図 東京新聞2013年11月8日より)

今は表面的にはとりあえず、「食管はなくなったことにしよう」「減反もないことにしよう」ということになっています。 

正式には、2018年度に完全廃止ということになっています。

それは日本もWTOなどに行けば、こんな前近代的な農業保護をいまだしていることで不利になるために、肩身が狭かったからです。

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しかし現実に今でもコメは、農水省が生産調整を行なったり、備蓄米を放出したりすることで、官僚のコントロール下にあります。

村や地域などには生産調整の枠があります。それに合わせて、過剰になったコメは米粉にしたり、あるいは、その分エサ米に転換したりしています。

協力しないと、補填金を受けられません。この補填金というのも、一般には分かりにくいものでしょう。

日経の(2015年6月15日)の記事をご覧ください。

「農林水産省は5日、2014年産コメの価格下落を受け農家に総額514億円(計5万8千件)の補填金を支払う見込みだと発表した。07年に発足した収入減少影響緩和対策制度に基づく支払いで、07年の313億円を上回り過去最大となる。
 補填金は国と農家が3対1の比率で拠出している。減収額の9割までを補填する仕組みで、コメ以外には麦や大豆なども対象となる。14年産コメの60キログラムあたりの収入額は全国平均で約1万2千円で、過去5年間の標準的収入を3千円程度下回った。60キログラムあたり約2500円が農家に渡る見込みだ。
 国は15年度予算で802億円を計上しているため、支払いに問題はないという」

これは農水省が、今年の米相場が悪そうなので「収入減少影響緩和金」を800億用意しているよ、という心強いニュースです。

これがコメの補填金です。農家も3分の1払っていますが、国が3分の2出して、事実上国の価格補助政策です。

いちおう食料管理制度(食管)がなくなったことになっているので、「減反」という分かりやすい名前が変わりましたが、なんのことはない、内実は一緒です。

「生産調整」という名の減反、作りたくても作れない仕組み・・・、この国で農業だけは唯一、社会主義計画経済が生き残っています。

しかし、これが始まって半世紀。もはや村の「和合」の象徴のようになっていました。

この場合の「農家」というのは、パートタイム農家、つまりは兼業農家も含みます。

野菜や畜産、果樹では勤め人が片手間にやることは不可能ですが、コメは農業全体を見渡してももっとも機械化が進んだ分野なので、わずか2週間程度の労働で出来てしまいます。

兼業農家も先祖からもらった水田を持っていますから、作らないでペンペン草を生やしていると村内で肩身が狭いのです。

まして改良区と言ってパイプラインで大面積を給水する大規模水田に、自分の田んぼを持っていようものなら、やらないと隣の農家の視線が痛いわけです。

だから、コメではまったくといっていいほど儲からないのに、兼業農家は泣くような思いで、トラクターやコンバインを買って、コメを作っているのです。

コメを作ると悪いことのようで、減反割り当てが、たとえば36%と決まると、減反の消化で本業の農業がおろそかになるほどです。なにせ36%なんてザラです。

耕作する水田の実に4割弱を「作るな」というのです。

冗談ではない。こんな馬鹿なことを農家にやらしている国は、自慢じゃないが、世界広しといえどわが国だけです。

立派な価格カルテル行為です。公取委なんとかしろ。

昔は青刈りといって植えてまだ実が入らない前に刈り取っていましたが、余りに農業者の評判が悪いので(そりゃそうだ)、何か植えることにして「転作奨励」という形にしました。

そこで、登場したのが当初は大豆などでしたが、農家にやる気が出ずに品質劣悪でダメ。

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次に登場したのがエサ米(飼料用米)といって、人が食えるシロモノでないコメが大量に出来る品種を作って、家畜にやるのが流行っています。

もう笑うきゃありません。ここまでして「減反」やらなきゃならないのか、と私は思いました。

官僚の作ったエサ米のお題目は、笑えることには「家畜飼料の国産自給」です。これには腹を抱えました。

税金の補助が大部分の竹馬を履かせて、なにが「国産飼料の自給」なんだか。

官僚諸氏は、こういうカッコイイ言い訳がうまいですね。家畜飼料か外国依存なのは構造的な問題で、一朝一夕にかわりません。

それを捉えて、一見先鋭な消費者団体が好きそうな「国産自給」と絡ませて、実は減反奨励でしかないエサ米を拡げようとします。

内実はなんのことはない、税金まみれの減反対策、すなわち、コメを作らせない国家カルテル維持の手練手管にすきません。

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次なる流行は米粉でした。粒が揃った艶やかな新米を、こともあろうに磨り潰して粉にしろというのですから、頭のネジがハズれたのかと思いました。

ピンっと一粒が立ち上がるような世界一のコメを、うどん粉よろしくなんと粉にしてしまうんですから、なんともかとも。

そして最大の悩みは、あろうことか、こんなうどん粉みたいなコメ粉は売れないときています(苦笑)。

そんなバカな減反があるのは、「赤信号、皆んなで渡れば怖くない」とばかりに、先の兼業農家を大量温存をしてしまったからです。

そしてそれを集荷するJAにとってみれば、コメの扱い手数料は馬鹿になりません。

かといって、JAが儲かっているかといえば、そういうふうにも見えないので、なんのことはない、こんな馬鹿げた農政も大量に利害関係者がいれば合理化できるというわけです

これは誰かが作った人工的構造ではなく、自然にできてしまったしがらみのような構造的宿痾ですので、それを半世紀もやってくればもはや各層の利害でがんじがらめで、身動きがとれなくなってしまったのです。

コチラが減反縮小といえば、アチラが反対というわけです。

しかも最大の農業団体であるJAが、兼業農家(※)をたくさん抱え込んでいて、しかもそれが皆揃って村の衆なので、切り捨てるわけにもいかないので、大反対というのですから、これはキツイ。 ※単協によって差があります。一般論です。 

この減反は、農業者のやる気を著しく削ぎました。説明する必要もないでしょう。パートタイム農家も、20ヘクタール、50ヘクタールやっている本気の農家も減反割り当ては一律なんですから。

この減反を墨守するために、外国からの安価なコメと価格競争しないように、高関税が必要だったのです。

農業以外の人たちに誤解していただきたくないのですが、こんなおかしな制度はコメだけです。

よく知ったかぶりのコメンティターが、「高関税で守られている農家のために、都会の消費者は世界一高い農産物を食べさせられているんですよ」などと聞いたようなことを言っているのをみると、情けなさでがっくりきます。

そりゃコメだけだろうって。

ひたすらコメが、若い人の集団に混ざった年寄りよろしく、平均を押し上げているだけで、全体は主要国としては平均値です。

Photo_8(図 主要国関税率比較)

だから、コメを他の品目と同じ扱いにしろ、と私はかねてから主張しています。

そのためには、関税というブロックではなく、各農家の工夫と努力に対して支払われる直接支払い制度が望ましいと思っているわけです。

さまざまな方法が考えられます。担当省庁は農水省の専管である必要はまったくありません。

というか、農水からもぎ取って、各省庁断にするほうがかえって今までの農政とのしがらみがないだけ自由です。

とえば農地の規模に対しては、コメなどでは、いままでのように減反.したら補填されるのではなく、逆に農地を集積して大規模化した農家に対しては、10ヘクタールにつき一定の直接支払いをする方法もできます。これは農水。

棚田などの伝統的な農法による景観の保護のための直接支払いも、素晴らしいと思います。これは環境省向き。

あるいは、水源保全や水利を目的とした谷津田などに対しても、国土環境保全目的での支払いもできます。これは国交省。

もちろん、有機農法やアイガモ農法などの環境保全型農業には、おしまに支援をすべきですう。これは環境省と農水省。

ちなみにこれは私の専門分野なのですが、いままで国はビタ一文の支援も惜しんできました。やったのは、多大のコスト負担を農家に被せたJAS有機だけ。

初めてついた有機農業支援法は、鬼女・蓮舫議員が一瞬で仕分けてくれました。

海外輸出を目指す者には、なんらかの補助金で応援してもよいでしょう。※ただし輸出補助金はWTOに触れます。

このように、農業者のやる気を出させる支援をせねば、税金は捨て金となってしまいましす。

いままでのように、「削れ、作るな」と均一に減反させるのではなく、「智恵を絞って儲けよう」に転換せねばなりません。

もちろん政府もバカじゃありませんから、いままでの戦後の名残のような制度が先行き真っ暗なのはわかっています。

ここで、登場したのが、先日クソミソに言った石破さんの新型農政だったのです。

長くなりましたので、今日はここまでにします。

2015年10月12日 (月)

TPP交渉大筋合意 「完全敗北」だって?

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まぁ、予想どおりの農業界と野党の反応がきています。 

10月6日付のJA準機関紙である日本農業新聞の1面トップは「『聖域』大開放」の大見出しですが、この見出しは、予定原稿かと思うくらい、記事の中身はボルテージは存外低いものです。
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=34918 

気を吐くべき解説では。「まさかここまではと思っていなかったろう」と書きながら、かんじんの個別具体的分析には至らず、「相応の需要を奪われる可能性を否定できない」と書くに止まっています。 

あとは、「重要5品目の聖域の約束に違約しただろう」というものですが、これは建前であることは、とっくにJA自身もわかっていたはずです。 

1800品目12ヶ国の多国間協議を2年間やってきて、日本の要求だけが満額で通る道理がないことなど、子供じゃないんだから分かりそうなものです。 

Photo (写真 WEDGE Infinityより)

民主党はこんなことを言っています。
 

「今回の『大筋合意』なるものは、とうてい国益にかなっているとは思えない」民主党の玉木雄一郎衆院議員がこう述べている。衆院農水委員会理事を務める玉木氏は、10月1日にはアトランタに立ち寄り、会合の様子を観察してきた。「この時、日本の代表団はとてもヒマそうにしていた。すでに“闘い”を放棄しているように見えた。守るべきところを守らず、攻めるべきところは攻め切れていない」。確かにその内容を見ると、「完全な敗北」といっていい」(東経10月12日)
」※http://toyokeizai.net/articles/-/87681 

「完全敗北」ですか。責任がなければ、なんでも言えますね。

TPP交渉参加国で、自分の要求だけを完全に勝ち取った国はありません。

あの米国ですら、「歴史的功績」といわれる反面、ヒラリーやトランプに叩かれています。他国において、おやです。

玉木氏が、10月頃に訪米した時に日本代表団が「とてもヒマそうに見えた」のは、日米で合意の筋道ができてしまい、あとは米国vsオージー+NZとの協議が最後まで残ったからにすぎません。

そこに至るまで、フロマンUSTR代表は、米韓FTAを引き合いにして、自動車の安全基準や環境基準を引き下げようとし、怒った甘利氏が「日本は属国ではない」と机を叩く場面もあったといいます。(産経2014年12月14日)

これが国益をかけた交渉なのです。戦時における「完全勝利」のゼロサムゲームがない代わりに、「完全敗北」もまたないのです。

妥協と折り合いをどこでつけるのか、という利害のせめぎ合いの産物なのです。

ですから、今回の結果を「大勝利」という奴がいたら馬鹿ですが、一方「大敗北」という人がいたら、それもまたプロパガンダなのです。

Photo_4(写真 2010APEC横浜会議でTPP参加を対外公約してしまった菅首相。国内はおろか、与党内部でさえまったく議論がない独走だった) 

民主党は、共産党と「反自民民主統一政府」でも作りたいようですから、思い出させてあげましょう。

TPP協議参加へと舵を切った張本人は、他ならぬ民主党政権ですよ。もう忘れましたか。 

2010年11月、APEC横浜会議で、「日本は鎖国している。第3の開国だ」とぶち上げたのは、民主党菅政権です。

菅氏は、東日本大震災や福島事故がなければ、やる気満々でした。

「焦点となっているTPPへの交渉参加に向けて「国内の環境整備を早急に進めるとともに、関係国との協議を開始する」と表明し、「自由貿易を進めるとともに、農業改革を進める」と語った。農業については「このままの状態では将来の展望が開けない。質の高い食品を海外に輸出することができる競争力のある農業をめざして改革を進めていく」との考えを示した」(ロイター 2010年11月13日)
TPP「協議開始」を表明、「平成の開国」めざす=菅首相| Reuters 

菅政権がやれば、「完全勝利」だったとでも(笑)。馬鹿いっちゃいけない。もっと惨憺たるものになったはずです。 

そもそも民主党には、自民党に輪をかけて農業政策そのものが欠落しています。 

政権時にやったことと言えば、「農家戸別所得補償政策」という税金のバラ撒きだけでした。それも内実は財政的裏付けがなかったために、ただの旧態依然たる減反奨励金の復活に終わりました。 

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一方、自民党農水族はこんな状態のようです。 

「農村に地盤を持ち、来年改選を迎える自民党の参院議員からは、「これでは選挙は戦えない」との悲鳴が聞こえている。
「大筋合意」に関しては、野党は秋の臨時国会での審議を求めているが、これには与党は消極的で、11月9日から11日までの閉会中審査のみを提案している。これはゆゆしき国会軽視、日本国民軽視だと玉木氏は主張する」(東経同じ)
 

自民党農水族、つまりは事実上のJA農水族のことですが、今のままの農業でやっていけると本気で思っているなら、どこかがおかしいと思います。

日本農業=JAではないのです。JAは確かに日本農業の背骨のひとつですが、すべてではありません。

JAが大量に抱え込んでいる兼業農家(※)を保護することが、日本農業を守る唯一の道ではないのです。自民党農水族は、いつもその混同をしています。
※JA単協により、兼業農家の比率は大きく異なります。ここでは一般論で書いています。

とっくの昔に無関税でやってきた養鶏家の私など、輸入枠が5.6万トン(13年目以降は0.84万トン上乗せ)増えた程度で、何をこうまで騒ぐのかと思いますね。 

おそらく、とうに無関税同然で元気な野菜や果樹農家も同じ意見でしょう。 

この民主党農水族玉木氏は、こう言っています。

「いまは日本の食用米が余っている。農家に1アールあたり10万5000円の補助金を出して、わざわざエサ米を作らせている状況だ。これ以上外国から食用米を輸入すれば、備蓄バランスが大きく崩れ、最終的にはコメを安価に大量放出しなくてはならず、その差額は税で埋めることになる。これではかつての食糧管理制度に逆戻りになってしまう」

私は、こういう玉木氏のような農水族の、「日本農業壊滅論」は聞き飽きました。 

エサ米なんていう転作奨励をしたために、かえって地域の米のブランド゙力が落ち、今まで味と品質にこだわってきたものが、エサ米で捨て作りまがいに転落したとも聞きます。

こんなものは、時間と金をかけた日本農業の自殺、いや安楽死です。 

米玉木氏のように「食用米が余っているから、エサ米に」という発想そのものがダメです。

こんな姑息な彌縫策でなんとかなるほど、日本の米作りが抱えた矛盾は小さくはないし、これではただの兼業農家維持政策でしかありません。

農水省は、兼業農家の自然減を待っているのですよ。 

そもそも、今のようなコメの高関税は、国が生産カルテルを結んで事実上の減反政策を続行しているから生れたのです。 

こんな米だけ馬鹿げた高関税にしておくから、日本農業全体までもが鎖国していると見られて、経団連から邪魔者扱いされたり、外国からの攻撃対象になってしまいました。まったく迷惑な話です。 

その上、中途半端に食管制度をハズしたために、本来、関税に代わって別の支持制度を作らねばならないはずなのに、肝心なそこがおろそかになりました。 

このような「日本農業壊滅論」は、農業界の永遠の繰り言のようなもので、今まで繰り返し何かの節目には登場します。 

91年の牛肉自由化、94年のガット・ウルグァイ・ラウンド交渉から明らかなように、農産物は何度も自由化を経験してきていますが、政府がなんの手も打たなかったことはこれまで一度もありませんでした。 

ウルグアイラウンドはその象徴です。その時に、農業界を黙らせるために投じられたのが、実に6兆100億円です。 

日本の国防予算が単年度で4兆9801億円ですから、いかに馬鹿げた巨額な税金を「農家なため」に使ったのかわかります。 

ここまでして結局、農業は強くなったのかといえば、ノーです。これは農水省も認めるでしょう。

農家数を見れば分かるように農家数は減少に歯止めがかかるどころか、いっそう激しくなっています。

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(図 農水省農業経営動向)

強くなるどころ4兆円かけて、弱くかっているのです。

こしかし、これは農家数にのみ着目した数字で、農業を年に2週間ほどやっているにすぎないパートタイム農家、つまり兼業農家が減っただけなのです。

Photo_2(図 福井県大野市HPより)

上図は米所の福井県の1970年と2010年の専業農家と兼業農家の推移を比較したものですが、専業農家は1970年と比較して約2倍に増えていますが、兼業は激減しています。
  

全国的にも、専業数は維持されており、一方兼業は急減しています。これがよく「日本農業壊滅論」者が言う、農家数3分の1以下になったと言う根拠です。 

つまり、兼業は激減しましたが、日本農業の中核部隊である専業農家は少しずつですが増えているのです。 

これを「農家数の激減」と言いくるめるほうが、現状の農業を知らなさすぎます。 

あえて言いますが、サラリーマンが片手間でやる米作りが減ったから潰れるというような日本農業ならば、そのようなものに生き残る価値はありません。 

村のしがらみでイヤイヤやっているような今の兼業農家ではなく、今後10年先までしっかりと後継者が継げる農家経営こそ大事にすべきなのです。 

彼らに対しての支援は、惜しんではなりません。それが直接支払い制度です。

今までのように薄く広くパートタイム農家までにバラ撒くのではなく、重点的に支出せねば死に金になります。 

ヨーロッパや米国はとうの昔からこの直接支払い制度で鎧おっています。日本だけが「皆んなで渡れば怖くない」という<高関税-減反-兼業農家依存>というぬるま湯を続けてきたのです。 

玉木氏は「差額を税金で埋める」と言いますが、財政負担と直接支払いのどちらが税負担が大きいのでしょうか。 

有力なTPP反対論者の鈴木宣弘東大教授は、TPPによって巨額な財政負担が生じ、農業全体で4兆円、米だけで1兆7000億円必要となる、と主張しています。 

一方、農水省はTPP反対の根拠数字として、関税が撤廃されると、農業全体の生産額は4.1兆円減少すると試算しています。 

農水省が言う4.1兆円の生産額減少分を維持するために、鈴木教授は4.兆円の財政負担となると言っているのです。

私は思わず、笑ってしまいました。 

つまり、農水と鈴木教授の言うとおりなら、差額0.1兆円で売り買いできる農産品を、4兆円もかけて税金で維持している、ということになります(苦笑)。 

こういう言い方を、再び農水族はTPP以後の農業補償要求で出して来ると思われますが、悪いことは言わないからお止めなさい。 

「守るべきは守る」というならば、むしろ政府支援の重点を、既存の兼業農家から、経営感覚をもった専業農家に重点配分した農業改革を進めるべき時なのです。

「守れ、守れ」の籠城戦で、守れたためしはありません。 

2015年10月11日 (日)

日曜写真館 早朝の土浦港散歩

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いちばん上の明け方の写真に月と金星が写っています。
今、月、木星、火星、金星が直列しています。
数十年に一度の現象だそうです。

2015年10月10日 (土)

速報 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の要旨

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TPPの概要がわかってきましたので、速報します。

ひとことで感想を言えば、よく米国がこんな内容を呑んだな、という感じがするほど、想定されていたよりはるかに日本に有利な結果になっています。 

最大の懸案になっていたコメは、米国と豪州を除く国に対しては基本的に「国家貿易制度」、つまり関税が維持されます。 

特別枠は、米国5万トン、13年目以降は7万トン。豪州に至っては、13年目以降でも1万トンていどというわずかな量です。 

我が国のコメ生産量は約860万トンですから、当面は0.1%にも満たない量で、これで日本のコメが壊滅するということはありえません。 

なんか裏プロトコルでもついてるんじゃないかと勘ぐりたくなるくらい、日本の勝ちです。 

牛肉関税は現行の38.5%から発効直後に27.5%に10%下がりますが、致命傷にはならないでしょう。9%になるのは16年先です。 

牛肉は、輸入牛肉との棲み分けがほぼ完了しつつある分野ですから、これで打撃になるとは考えにくいと思います。 

豚肉関税に関しては、前々からリークがあったために、予想されていた線です。 

現行の関税制度は維持しつつ、高価格帯の関税率は現行の4.3%から段階的に引き下げて、10年目以降はゼロになります。 

低価格帯は1キロ482円を段階的に下げ、10年目以降は1キロ50円となります。セーフガードは維持されますが、12年目以降は廃止されます。 

豚肉分野は打撃があります。豚肉は畜産の主力のひとつですので、今後いかなる支援策があるのか、注目しなければなりません。 

北海道などの畜産業を直撃すると思われていた乳製品に関しては、現行関税を維持し、バターと脱脂粉乳の優遇輸入枠を新設しました。 

優遇枠は、発効当初は生乳換算で6万トンから6年目以降は7万トンとされています。 

北海道さんのご意見を受けねばなりませんが、私は正直ほっとしました。 

沖縄がらみで心配されていた砂糖は、ココア以外では完全防衛です。これも実によかった。 

一方工業分野は、日本からの輸出品にかかる関税は11カ国全体で99.9%の品目で撤廃という大戦果です。

これで、円安と相まって、製造業の国内回帰は強まるでしょう。 

自動車、米国にとって日本のコメに相当する品目ですから、必死さが違います。完成車2.5%枠はとりあえず死守し、25年かけて撤廃するとのことです。 

これも予想された線です。

自動車部品は、全品目の81.3%(輸出額ベース)で即時撤廃となります。 

薬品分野の知的所有権は実質8年とされます。これがジェネリック薬品にどのような影響を持つのかについては、後日を待ちます。 

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以上ざっと見てきましたが、この時点では日本側は交渉に勝った、といっていい内容だと思われます。

まだ細部でいろいろと出てくると思いますので、注意は必要ですが、現時点では甘利さんが命を削って交渉した結果が出ていると思います。ご苦労様でした。 

いずれにしても、共産党や山本太郎氏、三橋貴明氏が叫んでいたような、日本農業壊滅、米国の植民地に転落という、地獄絵図の到来は避けられたようです(笑)。

               ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。 

共同 

■環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の要旨
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/151007/mca1510070500004-n1.htm 

【協定の意義】 

 ・モノの関税だけでなくサービス、投資の自由化を進め、さらに知的財産、国有企業の規律など幅広い分野で21世紀型のルールを構築。 

【コメ】 

 ・政府が輸入を管理する国家貿易制度と枠外関税(1キロ当たり341円)を維持。 

 ・米国、オーストラリアに無関税輸入枠を設定。米国は発効当初5万トンで段階的に引き上げて13年目以降は7万トン。オーストラリアは発効当初6000トンで13年目以降に8400トン。 

【小麦・大麦】 

 ・国家貿易制度と枠外関税(小麦は1キロ当たり55円、大麦は同39円)を維持。 

 ・優遇輸入枠を設定。関税に当たる「輸入差益」を9年目までに45%削減し、新設優遇枠にも適用。 

【砂糖】 

 ・ココア調製品などに一定の無関税枠。 

【牛肉】 

 ・関税撤廃を回避。輸入急増時に関税率を戻す緊急輸入制限(セーフガード)を設けた上で関税を削減。 

 ・関税は現行の38.5%から発効直後に27.5%、段階的に下げて16年目以降は9%。 

 ・16年目以降、4年間発動がなければセーフガードを廃止。 

【豚肉】 

 ・現行の関税制度は維持。 

 ・高価格帯の関税率は現行の4.3%から段階的に引き下げ、10年目以降はゼロ。 

 ・低価格帯は1キロ482円を段階的に下げ、10年目以降は1キロ50円。 

 ・セーフガードを導入するが12年目以降は廃止。 

【乳製品】 

 ・現行の国家貿易制度を維持。 

 ・バターと脱脂粉乳の優遇輸入枠を新設。 

 ・発効当初は生乳換算で6万トンから6年目以降は7万トン。 

【水産物】 

 ・アジ、サバは12~16年目までに関税を撤廃。主要なマグロ類とサケ・マス類、ブリ、スルメイカなどは11年目までに撤廃。 

【工業製品】 

 ・日本からの輸出品にかかる関税は11カ国全体で99.9%の品目で撤廃。 

 ・自動車は米国が完成車に課す2.5%の関税を25年かけて撤廃。 

 ・自動車部品は全品目の81.3%(輸出額ベース)で即時撤廃。 

【ルール分野】 

 ・バイオ医薬品の開発データの保護期間を実質8年とする。 

 ・著作権の保護期間は作者の死後、少なくとも70年とする。 

 ・海賊版など著作物の違法な複製を告訴なしで取り締まれるようにする。

                                                以上

2015年10月 9日 (金)

翁長というミニモンスターを作った男 石破茂

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今回の第3次安倍政権の組閣のおもしろさは、テッテイした「党内対策」と、翁長シフトです。 

お題目の「1億総活躍社会の実現」なんていうキャッチコピーが無内容だとか、マスコミは言っているようですが、無視します。

別にあんな総花的なコピー自体に意味はありません。

なんかつけないとカッコつかないから、つけただけです。ホントは「政敵封じ込め内閣」ってしたかったんでしょうが、まぁ、できませんよね。

そんなネーミングより、党内対策と言ったのは、ひとつには、安倍氏の「抱え込んで封じ込める」という党内戦略がはっきりしたことです。

小うるさい党内の反安倍勢力を、閣僚にすることで、その任命権者になってしまい、座敷牢に入れてしまうという高等戦術です。

党の要職につけるのも一緒で、放っておくとナニをやり出すかわからない親中派の二階氏や、増税方針で完全に異なる谷垣氏を四役につけたのは、この伝です。 

この方法は、総理・総裁に絶対的自信がないかぎりとれない方法で、ヤワな奴がやれば自爆するだけです。

一方、抱え込まれたほうに自力があればおもしろい展開になりますが、まぁならんだろうな、と思うくらい「抱え込まれた」連中はひ弱そうな人物ばかりです。

たとえば、自民党より社民党にいるほうが似合いそうな脱原発派の河野ジュニア。閣僚になった瞬間、ブログ゙が閉鎖されて「目指すものは安倍さんと一緒」だそうです。
親父が泣くぞ(笑)。

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古賀氏に踊らされた野田聖子氏を、自派閥に抱える岸田外相は、菅官房長官に自派閥をもう少し入れてくれと懇願したようですが、ゼロ回答だったようです。

しかしなんと言っても、「抱え込まれた」最大の大物はやはりこの人、石破茂氏でしょう。 

Photo(写真 野党幹事長で、民主党を追い詰める石破氏。う~ん、こわい。子供が夜泣きしそう。この顔で翁長に対すれば、いまの混乱はなかったかもしれない)

私はそこそこに、彼のファンでした。 本も何冊か読んでいます。特に集団的自衛権について書かれた、『日本人のための集団的自衛権入門』は、テキストとして使えるほどよくできていました。

また、農水相時の4品目横断政策や、関税を直接支払いに移行させる試みは、先見性に満ちたものでしたし、有事法制などの成立にも尽力しています。

大変な勉強家で、テクノクラートとしては出色に優秀な人ではないでしょうか。ただし、使う人がいれば光るというタイプで、自らボスに座るタイプではありません。 

私が、石破氏に政治家として大きく欠けたものがあると思ったのは、2014年の「翁長の反乱」があった時のことです。 

当時、辺野古移設の天王山である知事選の前哨戦と考えられていた名護市長選で、「翁長党」が寝返ったのです。 

当時、自民沖縄県連や国会議員までが、ハトのちゃぶ台返し以降の、「自民党というだけで悪玉扱いだった」空気に耐えきれず、実現不可能な県外移設を口にするありさまでした。 

これに慌てた、当時自民党幹事長の要職にいた石破氏は、国会議員を東京に呼びつけてネジを巻き直します。 

Photo_3(写真 自民党沖縄選出議員を前に演説するゲル幹事長。国会議員は職員室に呼ばれた生徒みたい)

しかし、もっとも東京に呼んで、聞かないならば除名も辞さないという強い意志で、膝詰めの説得をすべきだった最重要の人物を忘れていました。 

それが他ならぬ、いまや沖縄のミニモンスターにまで成長した翁長雄志氏です。 

Photo_4(写真 翁長党の皆さん。手前から金秀の呉屋氏、翁長氏、稲嶺名護市長、かりゆしGの平良氏)

翁長氏は当時、那覇市長で、自民党那覇市議団「新風会」という翁長党すら持っていました。 

しかし、当時の彼はまだ小心なユダにすぎませんでした。彼は自民党中枢からの統制からはずれたことをもっけの幸いに、名護市長選に暗躍します。 

そのやり口は、とかくエゲツなくなりがちな地方選挙でも、特筆大書されるべき汚さでした。 

なんとあろうことか、自民党県連幹事長まで務めた男が、手下の翁長党新風会を名護に送り込み、社民党、共産党と一緒になって自民党推薦の末松候補の切り崩しを図ったのです。 

敵対陣営のトップがひそかに寝返って自陣を切り崩す、などというのは聞いたことがない醜聞です。  

いうまでもなく重大な利敵行為で、自民党がまともな公党ならば、抜く手も見せずに除名追放まで含む厳重な処分を出すべきでした。

しかし、おとがめなし。あの人はコワイのは顔だけなのか、と私は嘆息しました。

確かにここで翁長氏と市議団を切り捨てれば、彼らを左翼陣営に追いやることになるのは目に見えていましたが、それは読み込み済みなはずです。

彼らはこれだけの反党行為をする以上、革新陣営とは既に通じていたはずでした。

問題は残った自民党県連の人達です。国会議員も呼び出されて怒られたが、まだ揺らいでいます。

本音は島内の空気に逆らわず、「県外移設」のポビュリズムに走りたいのです。支持者に至っておやです。

彼らのために、自民党中央が移設に関してこれだけの決意をしている、という強力なメッセージを発する必要があったのです。

ここでしっかりと翁長問題にケジメをつけて県連を再建しないために、前哨戦の名護市長から始まった自民党の負け戦は、知事選そして衆院選と、延々と敗北の連鎖を続けていきます。

まさに自壊自滅を絵で描いたような光景です。さぞかし、左翼陣営は狂喜したことでしょう。

これもすべて翁長氏という沖縄自民の大黒柱を、敵陣営に渡したことから来るのであって、この大元の翁長問題に筋を通さななかった石破氏に問題があったのです。

Photo_7(写真 名護市長戦時の末松候補のちらし。こういうものを配ればどうなるのか、わかりそうなものだ)

結局、彼がやったのは、名護振興基金500億の積み上げなどといった彌縫策でした。沖縄地方紙はここぞとばかりに「金で心を買うのか」と書き立てました。当然です。

自陣営すらまとめきらず、金をバラ撒いて勝てると思うほうがおかしいのです。 

そして結果は、ご存じのように名護市長選は危ういと見られていた稲嶺候補が勝ち、外堀を埋められた格好になった仲井真氏は、移設承認まで持ち込んだものの、翁長氏に破れます。 

Photo_8(写真 当選でバンザイを叫ぶ翁長陣営。選対委員長の呉屋氏、右端にはこれ以上の左はいないという糸数慶子氏が並ぶ。経済界と左翼の同床異夢がよく分かる一枚)

そしてもうひとつの失敗が、公明党対策です。

自民党は、翁長ショックで麻痺状態。連立与党の公明党県連は公然と県外移設を叫んでいました。

なんとか中央で調整してほしいとの現地の要請に対して、石破氏は「県連同士の話に中央が口を突っ込めない」と拒否してしまいます。

実は石破氏自身が、仲井真氏擁立にこの段におよんでも慎重だったのです。

かくして、翁長氏の反乱の芽を摘むことに失敗し、かえって大きく育て上げ、その上に公明党との調整もせず、仲井真擁立すら腰が引けてしまっては、知事選に勝てる道理がありませんでした。 

翁長氏というただの利権政治家を、今のような思い上がったミニモンにした最大の功労者は、他ならぬ石破氏です。 

その後、石破氏は本来、有事法制の責任者として担うべき防衛大臣の要請を断っています。 

何かささいな考え方の違いが首相とあったというのですが、ならば総裁選で「安全保障観が同じだ」として、決戦で安倍氏と連合を食わねばいいではないですか。 

万事この調子です。遅いのです、決断が。 

いったん安倍氏と組んだ以上、口では「全力でお支えします」と言っている以上、もっとも汚れ役になることが決まっている防衛相を引き受けるのは当然です。 

なにせ彼は、自民党だけではなく、政界一の安全保障政策通です。このややっこしい安保法制を、法律的整合性をもって答弁できるのは、彼しかいなかったはずです。 

しかし、逃げる。石破シゲルではなく、いっそ石破ニゲルと改名したらどうでしょうか。 

逃げるなら逃げるで、「無党派で」などと言い訳していないで、さっさと自分の派閥を作って安倍降ろしに邁進すれば光明が見えたものの、それもしません。

あげく常総水害の当日に旗揚げし、自分が投げ出した安保法制も終了し、総裁選不出馬を決めた後になって、「水月会」という派閥を作る始末です。

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水月とは水に浮かぶ月のようにグニョグニョと姿を変える様子のこと、よくこんな自虐的な名前をつけたものです。 

結局、今回の組閣の目玉は、「1億総活躍担当相」を新設し、その責任大臣に腹心中の腹心の官房副長官・加藤勝信を据えたことになりました。

本来、地方創世相の石破氏が兼任すべきポストです。

ここに腹心の加藤氏を持ってくれば、流れの主体は一億活躍相に移り、石破氏はただの伴食大臣に転落します。

これなら、入閣せずに野に下りて、シコシコと地方回りでもしていたほうがよかったでしょう。 

おっと、石破さんだけで紙数が尽きてしまいましたが、ほんとうの目玉は、島尻あい子(安伊子)氏の沖縄・北方大臣への起用です。
※http://shimajiriaiko.ti-da.net/d2011-02.html

これほどはっきりした、翁長知事へのメッセージはありません。彼女については次回に続けます。 

※お断り 「封じ込められた男 石破茂」から改題し、大幅に加筆しました。

2015年10月 8日 (木)

コメントにお答えしてその2 消滅しつつある沖縄への「同情と共感」という資産

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沖縄は他県にない「資産」を多く持っています。それは美しい海、情に篤い人情など、触れることができるもの以外にも存在します。

それが、本土人の沖縄への憧憬と共感なのです。

そしてこの共感には、沖縄戦に対する本土人の慙愧の気持ちと、後に本土から切り離して異民族支配に置き去りしてしまったこと、そして復帰後も過重な基地を押しつけたことに対する゛沖縄への深い同情があります。

コメントにあったような、本土の冷淡非情というのは当たっていないと思います。

実は、年間約3000億円、累積11兆円にも達する振興予算は、むしろこの「同情と共感」を原資にしています。

もちろん基地と基地負担がらみなのは、言うも愚かです。しかし、基地だけでは半分しか言っていません。 

少なくとも、復帰から相当期間は、本土の沖縄に対する贖罪意識でした。 

だからこそ、復帰以降、社会資本の投資にしても、生活関連の補助にしても、全国最高度のものが惜しげもなく投下されました。  

Photo_6(写真 現在の石川ドーム。振興予算をつぎ込まれて作られた。沖縄県の社会インフラの整備状況は全国有数である) 

Photo_7(写真 かつての石川闘牛場。私はこっちのほうが好きだ。闘牛はハマります)

 振興予算は気がついてみれば、累積11兆。一国の国家予算に匹敵する額が既に投入されています。 

しかし、それにもかかわらず、沖縄県民に豊かになったという気持ちが湧かず、感謝の言葉も聞かれないのも事実です。

感謝どころか むしろ、沖縄を自ら植民地と呼び、異民族支配にあえいでいるという「沖縄独立論」すら登場するありさまです。

最近の翁長氏の演説など、歴史の恨み節全開です。まるで、沖縄のパククネです。 

まるで、本土政府がいくら謝罪しても千年たっても許さない、と言っているようにすら聞こえます。 

さて、今やこの年間3000億円を越える、膨大な振興予算は仕切り直しの時期に来ています。

今までのように、本土の贖罪意識に乗った基地との見返りで、青天井で支払われていた時期は終わりつつあります。  

基地を材料とすれば無限の如く金が湧きだすような時代は、今や終了しつつあったのです。

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(図 沖縄タイムスによる

上図をみれば、振興予算が06年から11年にかけて右肩下がりになっていくトレンドに気がつかれるでしょう。

12年からまた増加し、再び3000億円を超えたのは、仲井真前知事が移設容認をした見返りでした。

Photo_2(写真 左翼に転向したばかりの翁長氏。右隣が稲嶺名護市長。まだ赤ゼッケンとシュプレッヒコールが似合わない。それもそのはず、かつてはデモをかけられる立場だった)

つまり、振興予算は、今後進むはずだった普天間基地の除去、北部訓練場の返還などで、いっそう進む基地縮小に合わせて減額の方向にあったのです。

3000億円に乗せたのは、移設承認の御祝儀がわりでした。

本土政府には、今後もこんな馬鹿げた振興予算を垂れ流す気はないという時代の変わり目に現れたのが、かの翁長氏でした。

翁長氏の登場とは、基地関連の振興予算の減少に危機感をもった利権政治家の焦りから始まっているのです。

翁長氏がやっているのは見かけは左翼的な「独立」論ですが、一皮むけば、振興予算利権の永久化でにすぎません。

もし、彼が本気で「琉球独立」をしたいのなら、今のギリシャ以上の厳しい歳出削減が要求されるはずです。

ならば、身の丈の経済に合わない振興予算の竹馬を捨てねばなりません。

島の貧しさから突き抜けて、ひとり豊かになった公務員の賃金や雇用数の削減は避けて通れないはずです。 

しかし、翁長氏がそれに手をつける気がないのは明らかです。なぜなら、翁長陣営とは、公務員労組である官公労と沖教組こそが、支持母体だからです。 

そしてもうひとつの振興予算の支出先は、公共事業でした。他県と比較しても異様に大きな割合を占めています。 

今までも振興予算は実感の乏しい金と言われてきました。その理由は、大部分が公共投資という形で社会インフラ整備に投入されてきたからです。 

それは沖縄の土木業者と、そこから派生した観光業者のみに恩恵を与えていました。 

念のために言っておきますが、私は土建業か悪いなどという立場にはたちません。 

土建業は沖縄の基幹産業中の基幹であって、土建業資本から観光業やスーパーなどのサービス産業が生れてきています。 

それらの抱える雇用者は、裾野まで含めると膨大でなものがあります。否定できるはずがありません。 

しかし一方で、なんのために社会インフラを作っていくのか、というグランドデザインがないところでの公共投資は、いたずらにハコモノを増やしただけだったという批判があります。

また、出せば出すほど、伝統的な沖縄の暮らしや環境を破壊しているという面も多く見られるようになってきています。  

それは、振興予算の受け手である沖縄自身が何をしたいのか、どんな沖縄を作りたいのかさっぱり見えてこないからです。  

たとえば、北部に金融特区を作ろうとして、名護にのみ認められている金融・情報特区を利用した「きんゆうIT国際未来都市・名護」という構想がありました。  

これもあえなく頓挫しています。このプロジェクト委員だった小西龍治九大大学院教授はこう述べています。

「金融特区に過大な期待を寄せるのではなく、沖縄が自分で考えていかないと沖縄は変われない。他人が現状を変えてくれるものではない」

そしてこう小西氏は続けます。

「沖縄の精神構造をむしばみつづける利権構造に思いが至ったとき、悔しいですが『かなわない』と思ったのです。
『なぜ立ち上がらないのだ。なぜ身を売ることを続けて、薄情卑劣な政府にすがってばかりいるのだ』というやり場のない怒りがありました」

私は小西氏と違って本土政府は「薄情卑劣」どころか、基地と贖罪意識が故に、腰が引けて腫れ物にさわるように沖縄に接していると思っていますが、この小西氏のワジワジとする気分は理解できます。

ワジワジとは、沖縄弁で「ジリジリする」ってニュアンスでしょうか。

かつての若き日の私も、沖縄の自立を助けようと沖縄に農業者として飛び込んだ経験があるからです。

翁長氏がこの公共事業の分野でしたのは、自分の派閥の金秀と「かりゆしグループ」に利権を配分するだけでした。 

つまり、翁長氏には県民の鼻面に「民族自決」というニンジンをぶら下げてナショナリズムをくすぐるだけで、かんじんの「沖縄をどうしたいのか」というグランドデザインが欠落しています。

本土政府もグランドデザインがありませんが、それに牙をむく翁長「沖縄権力」の側にもないのです。

こういう相互の「大きな絵」がないところでの争いは、反対運動の戦術の過激さを増すだけとなります。

そして過激さが増せば増すほど、沖縄県外の国民の沖縄を見る目は冷やかになり、今まで沖縄の見えない資産であった「共感と同情」を葬り去っていくことでしょう。

2015年10月 7日 (水)

コメントにお答えして 返還交渉の厳しさを知らないで、恨んでばかりでいいのか?

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Stella さんとおっしゃる方から、このようなコメントがありました。 

「あなたが歴史をどのように学び、考え、解釈したのか分かりません。しかし、歴史を語るなら、まず、多角的な分析を行ってから、解釈してほしいものです。円錐形も、上から見れば円ですが、横から見たら三角になります。見えているものだけが事実であるとは限りません。下に沖縄戦後の歴史の一部を添付します。“なぜ”沖縄が“切り捨てられた”と感じるのか、“なぜ“沖縄に基地があるのか、沖縄返還合意は何だったのか、考える一端になれば幸いですが」

 コメントされたのはこの記事です。
翁長氏の歴史偽造 日本は沖縄を「切り捨て」てなどいない

おっしゃるとおりです。ある人たちにとっての「正義」は、別の人には「悪」だったりします。

その上で言うのですが、ならば歴史なんて真実はないのかといえば、 そうではありません。

テーマをあちらこちらに拡散させるから、分かりにくくなるのです。テーマを「返還」の一点に絞ってしまえばスッキリ焦点が絞られてきます。

この方が言いたいのは、「本土はそのつもりでも、沖縄側はそうは受けとっていないよ。米軍とよろしくやっていたんだろう。ほら、やはり捨てたんじゃないか」ということのようです。

では、当時の日本がどのような状態であったのかといえば、1951年の主権回復までは主権を奪われていました。 

そしてこの時期までに沖縄は、軍事占領が固定化されていきます。沖縄基地の今に残る原型ができたのです。嘉手納、普天間などがそうです。

おそらく米国には、返還する気などまったくなかったでしょう。 

軍事占領とは、血を流して敵国の領土を奪うことです。ですから、それを返すということは米国にとっても大きな心理的抵抗感があるはずです。

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歴史的にも世界で、軍事占領した地域を平和的に返還した事例は極少例なはずです。

だから、当時の日本人も驚いたのですが、佐藤栄作首相(以下佐藤)は「平和的に領土を返還させた」としてノーベル平和賞を授与されたのです。

この占領者である米国の意志や気分を押えないで、日本側内部で「捨てた、捨てられた」という議論をしても無意味ではないでしょうか。

1967年、佐藤は訪米し、ジョンソン大統領と会談、数年以内に返還することで大幅合意します。 

佐藤は、かつて兄・岸信介が経験した第1次安保闘争を、自分も70年安保の責任者としてくぐらねばならないことを覚悟していました。

そしてその焦点は沖縄であることは明白でした。佐藤はこの沖縄返還に、自身の政治生命のすべてを賭けます。

沖縄を返還することには日米が、「大筋合意」しました。しかし、問題はそれからなのです。

ここで浮上したのが、コメントにもあった辺野古弾薬庫にあった核兵器の存在です。

沖縄返還は、初め「本土並み」のみで、「核抜き」は難しいと考えられていましたが、佐藤はあくまで「核抜き」にこだわり、それが交渉の大きなウエイトを占めるようになります。

佐藤は「核つき返還」ではほんとうに返還されたことにはならない、と考えたのです。

米国側はこう書いています。

「ニクソンは沖縄のことをいつ爆発するかもしれない火薬ダルだと評した。アメリカは日本側が受け入れられるような主張をしなければならないと考えていた。1969年1月、国家安全保障会議は対日関係の見直しを開始した。1969年3月、国家安全保障会議は、日本の要求をこばめば、琉球列島と日本本土の双方で基地を全く失ってしまうことになるかもしれないと報告した」(シャラーによる)

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このような米国の不安心理を佐藤は逆手に取ります。佐藤は米国にこう言っているのです。

もちろん推測です。公文書でこんなセリフが、残っているはずもありません。しかし、おそらく佐藤はこう思っていたはずです。

「70年安保闘争は、沖縄まで巻き込んで大爆発するかもしれないぞ。その場合、基地は敵意ある沖縄民衆の中に孤立する。
お前らが恐れる火薬ダルの大爆発が現実になる。
その時に返還交渉がゼロ回答ならば、日本政府は何もしてやれない。

なぜなら、「核つき返還」など、日本国民は許すはずがないからだ。そんなことを唯々諾々と聞いたら、オレの政権が潰れる。
さぁどうする、ニクソン。「核ぬき返還」に応じるか、拒んで、オレの政権を潰して、一緒に安保まで潰し、沖縄と日本の基地まで同時に失うか」

このように佐藤は安保闘争という、戦後日本型ナショナリズムの爆発すらバックに据えて、沖縄返還交渉を進めているのです。 

コメント氏が出してきたコザ暴動ですら、当時のこの佐藤にとって返還交渉を有利に運ぶネタにしかねなかったと思われます。 

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同時に、米国が、1960年に始まったベトナム戦争で泥沼状態になり、既に50億ドルの財政難になっていることも交渉材料として、米国の繊維産業を圧迫していた日本の輸出にも制限をかけることも提示しました。 

ちなみに、当時の日本の繊維製品は対米輸出の花形でした。 

これを制限することと、沖縄返還を引き換えにしたのですから、国内業者からは怒りが沸き起こったのは言うまでもありません。

佐藤はなんと日本の主力輸出品すら犠牲にして、沖縄を取り返したのです。いまでいえば、自動車輸出を犠牲にして沖縄返還交渉をするようなものです。

まだ復興なったとはいえない60年代に、国内の反対を押し切ってまで「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と言ってのけた佐藤の胆力に感嘆します。 

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こうした硬軟に渡る厳しい交渉の結果、基地を日米安保下の管理として残すことを引き換えにして、返還が成ったのです。

このような佐藤のタフネゴシエーターぶりがなければ、、おそらく米国は返還交渉のテーブルにもつかなかったはずでした。 

日本がコメント氏が言うように「切り捨てる」気だったのなら、今頃沖縄は、プエリトリコのような準州になっていたかもしれません。

コメント氏は、返還交渉に裏面があったことを書いていますが、このような大きな外交交渉に裏プロトコル(議定書)がついてくるのは、外交交渉では少しもで珍しくありません。

民主党の岡田氏は、外相時代にこの返還交渉を暴露することばかりにご執心でした。

こういう裏プロトコルを一方的に暴露することが、どれだけ日米間の信頼を損なうのか、岡田氏は少しも考えてみなかったようです。

私からすれば、このような難しい返還交渉の裏密約がついて来るのはむしろあたりまえで、ないほうが不思議なくらいです。 

確かにそれは屈辱的であったり、許しがたいものであったとしても、それを呑まねば返還されなったということもまた事実なのです。

では、米国の要求を全部蹴飛ばして、正々堂々と返らなかったほうがよかったのでしょうか?

もちろん復帰前には数限りない屈辱や危険と隣合わせでした。それはわかっています。
そして深く同情しています。
 

それについては次回に続けます。

※お断り アップした後、あまりに長いのと、内容的に別なことなので、分割しました。いつもすいません(汗)。

2015年10月 6日 (火)

TPP交渉大筋合意 新冷戦の視野で見ないとTPPは分からない

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TPP交渉が大筋合意しました。(※) 

「環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に参加する12か国は5日朝(日本時間5日夜)、共同記者会見を開き、交渉が大筋合意に達したとする声明を発表した。
 2010年3月に始まったTPP交渉は5年半を経て終結し、世界の国内総生産(GDP)の約4割を占める巨大な経済圏が誕生することになった。
 記者会見に先立ち、甘利TPP相は記者団に「TPPは21世紀型のルール、貿易のあり方を示す大きな基本になる。この基本は世界のスタンダードになっていく」と意義を強調した。議長役のフロマン・米通商代表部(USTR)代表は記者会見で、「成功裏に妥結したと発表できることをうれしく思う」と述べた」(読売新聞 10月5日)

とうとうというか、やっとというか、私自身複雑な心境です。  

さて、このブログにおつきあい頂いている方はご存じのように、私は数年前までかなり強硬な反対派でした。 

現在の私は、慎重論的容認派に変化しています。 

思えば、実際に日本が参加したのは2013年からですが、その参加をぶち上げたのは、あのクレージー・カンでした。

今、再び反原発運動家に戻って、山本太郎氏などからいじめられて、さぞかし肩身が狭かったことでしょう(苦笑)。 

彼の吐いた、「日本市場は鎖国している。第3の開国だ」という浅薄な理解によるミスリードによってTPP議論が始まってしまったことは損失でした。

以後、マスコミによる「バスに乗り遅れるな」論と、「農業は遅れている」論が吹き荒れました。 

これによってTPP=農業バッシングという構図が出来上がってしまい、まるでTPPとはイコール農業問題であって、農業の利権構造を潰せば解決するという安易な空気が生れてしまいました。

農業団体がこぞって反対になったのは、既得権防衛というより、むしろこの農業バッシングに対する抵抗という側面もあったのです。

私が反TPPの論陣を微力ながら張ったのは、この時期でした。 

また、当時の民主党政権は円高とデフレ容認、増税という恐るべき経済政策の持ち主でしたから、もしあのまま民主党政権が続いていた場合、ちょうどこの10月から三党合意で第2次消費増税が始まっていたことになります。 

中国経済崩壊とシンクロして、素晴らしいタイミングで我が国経済をさらなるデフレの凍土の下へと封印してしまったことでしょう。 

それはさておき、TPPの推進は民主党から安倍政権に移ったわけですが、当初の日米首脳会談で、TPPがなんの為にあるのかという目的が示されました。

これはTPP交渉を大きく性格づけたという意味で、大変に重要です。

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安倍首相は、日米会談後の会見で、こう述べています。
2013年(平成25年)年2月23日内外記者会見、安倍普三内閣総理大臣内外記者会見

「TPPの意義は、我が国への経済効果だけにとどまりません。日本が同盟国である米国とともに、新しい経済圏をつくります。そして、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国々が加わります。
こうした国々と共に、アジア太平洋地域における新たなルールをつくり上げていくことは、日本の国益となるだけではなくて、必ずや世界に繁栄をもたらすものと確信をしております。
さらに、共通の経済秩序の下に、こうした国々と経済的な相互依存関係を深めていくことは、我が国の安全保障にとっても、また、アジア・太平洋地域の安定にも大きく寄与することは間違いありません」

ここで安倍氏はTPPは、経済だけに止まらない、新たな環太平洋圏の共通ルール作りが、大きな意味での安全保障へとつながっていくのだ、という認識を示しました。

当時の私は、尖閣などの狭い意味での安全保障問題でしか、この意味をとらえられていませんでした。不明を恥じます。

しかし、世界は急速に新たな冷戦構造へと、シフトを開始し始めていたのです。

旧ソ連の崩壊、中国の開放改革路線によって、冷戦は終了したと思われていました。冷戦は過去のもの、もう東西のにらみ合いは起きないと、誰しも考えていたのです。

仮に、紛争が起きるとすれば、東西の冷戦構造で押さえ込まれていた宗教対立や部族対立で、局地的に対処するしかないと思われていました。

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ところが違ったのです。この認識は翌年2014年に発生したロシアのウクライナ侵攻によって破られることになります。

次いで、ロシアと示し合わせたかのように、中国の大規模な南シナ海への海洋軍拡が開始されます。

Photo_6(写真 ベトナム領を埋め立てて作られた中国軍基地)

かつての冷戦は「自由主義vs共産主義」でしたが、そのメンバーは同じながら、新冷戦においては「独裁型管理国家vs自由主義国家」、経済的に見れば、「独裁型資本主義国家vs普通の資本主義国」という対立構造が生れました。

ロシアはかつての共産主義建設に失敗して亡国の苦渋を嘗めた後に、民主主義にも失敗し、結局はプーチンを戴く民族主義的帝政国家へと回帰していきました。

一方中国は、「金持ちたちによる、金持ちたちのための、金持たちの共産党」が支配するイビツな資本主義もどきを作り出し、中華帝国の再興を公然と口にするほどの台頭を示しました。

この中露二ヶ国の「遅れてやってきた帝国主義」によって、「21世紀の新冷戦」が始まることになります。

オバマにとってTPP交渉は、当初、国内向けの経済実績作りていどしか考えていなかったはずですが、新冷戦が開始されたことによって、その位置づけを大きく変えざるをえなくなりました。

AIIBのような中国のオレ様ルールで作る中華経済圏作りを阻止し、日米が主体となったTPP経済圏を作らねばならない必要が生れたのです。

この背景には、中国に対抗する米国のアジアを重視政策であるリバランス(再均衡)政策があります。

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ちょうどこの時期の2014年4月に訪日したオバマは、安倍氏との共同声明「アジア太平洋及びこれを超えた地域の未来を形作る日本と米国」で、明瞭にこのアジア回帰を謳っています。
※外務省HPhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page3_000756.html

共同声明にはこう述べられています。

「日米両国は,開かれた海を依り所とするグローバルな貿易網を有する海洋国家として,航行及び上空飛行の自由を含む国際法の尊重に基づく海洋秩序を維持することの重要性を強調する。
日米両国は,事前に調整することなく東シナ海における防空識別区の設定を表明するといった,東シナ海及び南シナ海において緊張を高めている最近の行動に対する強い懸念を共有する。日米両国は,威嚇,強制又は力による領土又は海洋に関する権利を主張しようとするいかなる試みにも反対する」

日本のマスコミは尖閣が日米安保の範疇内だと大統領に言わせるどうかばかりに注目しましたが、ここで、共同声明として、さらに尖閣の先まで見通した「海洋秩序」に言及しているのは興味深いことです。

この「共同の海洋秩序防衛」は、さらに今年4月の日米防衛ガイドラインを経て、安保法制の整備へと具体化することになります。

Photo_2(写真 甘利大臣とフロマンUSTR代表。これほどやり合った仲も珍しいだろうが、いまや冗談を飛ばし合う関係に。今回の交渉で甘利氏は、驚くべきタフネゴシエーターぶりを発揮した)

また、経済連携に関してはこう述べています。

「日米両国はまた,貿易自由化を前進させ,経済成長を促進するため,多国間の金融及び経済フォーラムにおいて緊密に連携する。
両国の共同の取組は,自由で,開かれ,透明であり,技術革新を推進する国際的な経済システムを支持することに基づいている。
経済成長を更に増進し,域内の貿易及び投資を拡大し,並びにルールに基づいた貿易システムを強化するため,日米両国は,高い水準で,野心的で,包括的な環太平洋パートナーシップ(TPP)協定を達成するために必要な大胆な措置をとることにコミットしている」

この日米共同声明は、焦点となっている尖閣にとどまらず、アジアの海洋秩序の自由を守り、米国の中国との領土紛争を抱える諸国への支援にも日本が関わっていく、と言っているわけです。

そしてそれの貿易・通商の共同のルール作りとして、TPPが存在するのだとしました。

TPP交渉は、日米双方とも、当初は自国の貿易上の利害にのみ拘泥すればよかったのです。

しかし、その時代は終わりました。いまや大きな機軸の転換が行なわようとしています。

三橋貴明氏や中野剛志氏などは口を極めて安倍氏を罵るでしょうが、この外部情勢の変化を見ないで、TPPを語るのは無意味です。 

※追記 「成立」と書きましたが、正確に言えば「大筋合意」です。成立するには、国会批准の手続きが必要ですので修正しました。

2015年10月 5日 (月)

中国が軍縮に向うだって?

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中国の抗日70周年軍事パレードについて朝日新聞(2015年9月3日)は、「中国、兵力30万人削減表明 戦勝70年「覇権唱えず」と題して、こう報道しています。 

中国共産党と軍、政府は3日、「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念式典を北京・天安門広場で開いた。兵士1万2千人による大規模な軍事パレードも行われ、最新兵器を披露した。習近平(シーチンピン)国家主席は演説で、列強の侵略を受けた歴史からの決別と、平和的な台頭を目指すという中国の立場を強調し、中国軍の兵力30万人削減を表明した」 

この時期に朝日は本音としては、中国の大規模な軍事的示威など絶対に止めてほしかったことでしょう。 

というのは、日本では、朝日が煽りに煽った反「戦争法案」示威のほうが、宴もたけなわだったからです。
※「デモ・抗議開催情報まとめ(戦争法・アベ政治等) 

Photo_7(写真 シールズのデモ風景。奥田クンに脅迫状を送るなどというバカなことは絶対に止めてほしいもんだ。共産党が喜ぶだけじゃないか)

7月から8月にかけて大規模なデモが連日行なわれ、9月には全国の憲法学者や文化人たちの反対声明が出揃ろおうか、という時期に当たっていました。 

朝日としては、「安倍の強権主義が平和憲法を破壊する」という内向きの視点でキレイにまとめたかったわけです。

「今回問われている問題の本質は、実は、集団的自衛権の解禁の是非というよりも、憲法は守れ!という立憲主義の擁護です」(小林節慶大名誉教授)

このように安全保障問題を次元の異なった、「立憲主義か改釈改憲」か、「平和主義か戦争主義」かという問題にすり替えることによって、朝日は半ばその意図を成功しかかっていました。

朝日からすれば、仮に法案は通っても、安倍政権を崩壊させ、衆院選に持ちこんで反安倍政権を作れれば万々歳、と読んでいました。

これに対して政府は、衆院の失敗に懲りて、衆院審議では外交上の理由で触れなかった中国の覇権主義について、一転して厳しい批判に転じました。 

まぁ、衆院では、民主党がホルムズ海峡や徴兵制復活といった派手な場外ファールを連発していましたからね(笑)。我慢できなかったんでしょうね。 

これでグっと、国民には分かりやすくなったのは確かですが、中国はこの政府の説明方針の変化に敏感に反応しています。

「中国の程永華(チョン・ヨンホア)駐日大使は23日の記者会見で、安倍政権が進めている安保法案をめぐり「日本が専守防衛・平和的発展の道を変えるのではないか」との疑念を表明した。
日本問題の専門家からは「日本はこのところ、中国に的を絞って攻撃を仕掛けてくる。これは歴史問題で深く反省しようとしない安倍政府に対する国際社会の目をそらし、その視線を『中国の脅威』に持ってこさせようとするもの」との見方が出ている。(略)
(スイスの学者の言葉を借りて)日本の軍国主義が復活しつつある。安倍首相の選択がアジアを戦争にいっそう近づける。安倍内閣の半数以上が、米国による戦後の占領と平和憲法で日本が骨抜きにされたと考えている。一切を顧みない排外主義が日本の政治体制の中にはびこっている」(レコードチャイナ7月26日)

例によって、あんたにゃ言われたくないよという内容です。日本が軍国主義だって?わ、はは、よー言うよ。

しかしこには中国がぜひこの法案を潰してほしい、切ないまでの気持ちがよく現れています。

こんな中国にとっては、これほど嬉しいことはないという反対デモが盛り上がっている真っ最中に、中国は「では景気づけに、我々からも連帯の挨拶を」とばかりにイチびってしまいました。

それが抗日70周年ナンジャラ軍事パレードです。 

Photo(写真 日本を射程に納める東風21弾道ミサイルの行進)

これではさすがに平和ボケのわれらが同胞も、「やっぱりアベさんがいうように、中国の覇権を目指しているのか」と思ってしまいます。

困った朝日が焦って出したのが、冒頭の習の演説垂れ流しの記事です。

では、ほんとうに朝日が言うように、この抗日70周年なんじゃらは、ほんとうに「中国の平和な台頭を目指すための軍事パレード」なのでしょうか。

Photo_6(写真 パレードする女性部隊。ファッションモデルを大量に入れたことがわかって恥をかいた)

まず、今回中国が初めて「軍縮」をするわけではないことは知っておいたほうかいいでしょう。 

今まで中国は、1985年に10万人、1997年に50万人、2003年に20万人、そして今回30万人と、4回削減されてきています。 

一貫して削減されたのは、陸軍だけだったことに注意してください。 

この30万人削減について、記者会見に臨んだ中国国防部の楊宇軍報道官は、削減理由を問われるとこう答えています。
(以下、北京週報 人民日報、新華社などによる。訳文が晦渋なので、適時分かりやすく書き改め) 

「兵員削減を通じ、中国軍は、規模をさらに調整、最適化し、より能力を高め、軍の構造がより科学的になり、中国的特徴を持った近代的な軍事システムを構築することになろう」
削減されるのは、時代遅れの武器を装備した部隊、事務職員、非戦闘部局の人員である
「兵員削減は、リソースのプール、軍の情報化のスピードアップと改善に資するであろう。中国軍の縮小が中国の国益を守る能力を低下させない」(太字引用者)

つまり、中国が削減するのは旧式装備の陸軍の一部と、非戦闘員の事務職などにすぎないわけです。 

新華社は軍事パレードについての論評について、習の政治的意図をこう解説しています。

「改革のプロセスに抵抗する『特殊利益集団』である軍の構造に揺さぶりを与え、利益を調整する処置が既に動き出している。軍のオーバーホールは後戻りできない段階に入った」
中国海軍は役割拡大を求めているが、『陸を海より重視する』との伝統的な考え方を変更することについて、海空に対して優位を享受してきた陸軍の軍人からの厳しい抵抗に直面している
 

ね、わかってきましたね。

習がしようとしているのは、楊宇軍報道官が言うような、「国際的な武器管理と軍縮を進展させようとする」ようなキレイゴトではなく、陸軍をスリム化して、その余剰になった予算を「中国海軍の役割拡大」に回すことなのです。

海洋膨張とアジア全域の海の覇権を目指す中国が、海軍と弾道ミサイルに予算を回すために、今、使い道がなくなった巨大陸軍を削減して、覇権拡大の尖兵になっている海軍と空軍に予算を回すということです。

そしてもうひとつの習の政治的意図も絡んでいます。それは目障りな反習一派を軍から追放することです。

そのために、「特殊利権集団」と化した人民解放軍の反腐敗摘発をさらに進め、反習派を一掃し、習の権力を軍内部まで浸透させることです。

Photo_5(写真 元党中央軍事委員会(軍委)副主席郭伯雄将軍)

この習の政治的意図を裏付けるように、軍事パレード前夜、党中央軍事委員会副主席郭伯雄将軍が検査対象として拘束された、との報道がありました。

このポストは、人民解放軍制服組の最高のポストです。

共産党軍事委というポスト自体が、自由主義国には存在しないので、比較がむずかしいのですが、軍人による国防大臣のようなものだと思えば、そう遠くないかもしれません。

このポストは既に同じ軍委副主席であった徐才厚が逮捕され、病死したと伝えられています。

000037(写真 逮捕された徐才厚。薄熙来、周永康とも関係があった)

また習は、軍に対して贅沢禁止、規律強化の名目で、2015年2月には、「全軍財務工作大清査」を指示しています。

これは、軍を対象とした全面監査、会計検査で、2013年度と2014年度の2年度分の領収書を全部出させて、会計検査をするというものです。

自衛隊なら、別に驚くことではありませんが、人民解放軍はホテルや貿易会社まで経営するような巨大企業集団な上に、階級を金で買うという習慣が定着していました。

そんな腐敗の温床である軍に、まともな帳簿なんかあるわけがないのを知り尽くした上で、習は出せと命令したわけです。

こんな「不正なプール金の有無」「内部接待の状況把握」「予算外慶すの管理状況」を調べ上げれば、一体どうなる結果になるかは、中坊でもわかります。

かくて習は、反習派を腐敗分子として逮捕追放し、自分の息のかかった幹部と大量に入れ換えて、軍の粛清を完了するのです。

このような中国の海洋へと向う覇権主義と、醜悪な軍の内部事情にひとこともふれずに朝日は、「中国、軍縮。覇権唱えず」と報じたわけです。

「覇権を唱えず」ですか、こリゃおもしろい冗談です。ただし、笑えないのがちょっと残念ですが。

 

 

2015年10月 4日 (日)

日曜写真館 湖の朝

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2015年10月 3日 (土)

単純化させると歴史的事実が見えなくなる

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名無し氏と、当事者である辺野古地区「豊原区民」さんにも投稿いただいての討論になっています。 

沖縄はその置かれた苛烈な運命にもかかわらず、猥雑で明るく、しぶとく矛盾の海を泳いできました。 

ところが翁長氏になって様相が代わりました。翁長氏は沖縄県民は一枚岩だというのです。 

「オール沖縄」という、オール阪神・巨人みたいなネーミングを自分の陣営につけて、とうとう国連人権委では「民族自決権を侵されつづけた」とまで口走り始めました。 

こんな沖縄ナショナリズムを煽れば、カウンターとして当然本土のナショナリズムも起きて、ナショナリズム同士の衝突コースに入ります。 

本来は年ふりた老練政治家の翁長氏あたりが、まぁまぁといなすべきなのに、その翁長氏が先頭切ってアジテーターになっているのですから、困ったもんです。 

翁長氏は、虚構の「琉球民族」というナショナリズムを煽るために、極端な単純化をしました。 

単純化というのは、不利なことを全部捨て去ってしまって、自分に有利なことしか言わないことです。

とうぜん、ずいぶんとバランスの崩れた子供じみた言い分になるのですが、単純なだけに妙な迫力があって、それなりにダマされる人も大勢出ます。

特にインテリ文化人はこれに弱いようです。 

ところで、ナショナリズムを煽るもっとも有効な方法は、古来から「被害者意識」を刺激しまくることと決まっています。 

翁長氏は「被害」の例証として、米軍基地の集中や、収容方法を出してきました。 

たとえば、先だっての9月2日に翁長氏が国連でやったスピーチです。冒頭からこんな感じです。 

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません。
沖縄の面積は日本の国土のわずか0・6%ですが、在日米軍専用施設の73・8%が沖縄に集中しています」
 

後段の0.6%の土地に、74%の米軍基地という主張についてはここでふれません。
※土地数字トリックについての関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-974e.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-dd3e.html 

では、前段の土地収用はどうだったでしょうか。 

私はこれもありえないと思います。この土地収用問題でも翁長氏陣営は、得意の<有利な一点を上げて、それだけを主張する>という極端化の手法を用いています。 

米軍基地は、嘉手納基地に典型なように、既に戦争中から建設が開始されています。 

航空基地の大部分は、戦前からあった日本軍基地の上に作られました。その他の付属する施設群は、半ば強制的に収容されました。これは事実です。 

とくに敗戦後、島の6割を基地に収容された伊江島では、阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)氏をリーダーとして、激しい反対運動が起きました。 

これが沖縄における反基地闘争の原点です。この時代を、「銃剣とブルドーザーの時代」と呼ぶことは、あながち間違いではありません。 

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これに刺激されたのが、本島全域で起きたいわゆる「島ぐるみ闘争」です。 

これは軍用地料の支払い条件をめぐる闘争でしたが、結局、住民は評価額の6倍と毎月支払いという要求を米軍に呑まして勝利します。

ここで大きく彼我の力関係が変化します。

今まで軍政の強みで自由に接収できると思っていた米軍の力は大きく後退し、住民との長期間の交渉なくして接収が不可能になったからです。

つまり、翁長氏がいう「銃剣とブル」の時代は60年頃には既に終わりを告げ、琉球政府を介した条件闘争へと変化していっているのです。 

さて、ちょうどこの阿波根氏が「乞食行進」を本島で続けていたほぼ同時期、その陰で進行していたのが、海兵隊駐屯地交渉でした。

この後にキャンプ・シュワブと呼ばれる辺野古地区が、粘り強い条件闘争に入っていたのです。 

名無し氏の主張である、「辺野古も強制性がある」という主張のソースとして提供いただいた、「沖縄学講座 基地が沖縄にもたらしたもの 名護市辺野古区を事例に」(熊本博之)には、こう述べられています。
http://www.hi-ho.ne.jp/hirokuma/okinawagaku-kouza080425.pdf 

「1955 年1 月、米軍は辺野古岳、久志岳一帯の山林野の接収を宣告
当時の辺野古における主要な収入源は、山からとってくる薪だった。それゆえに辺野古
区は接収を拒否。
しかし琉球政府は辺野古区との交渉の中で、「これ以上反対を続けるのならば、住民が住んでいる集落地域も接収し、強制立ち退きの行使も辞さず、一切の補償も拒否する」と強硬に勧告してきたこともあり、強制収容によってすべてを失うよりも、水道、電気、ガスの設置や、新しい集落をつくるための土地の造成、完成した基地への地元民の優先的な雇用などの条件をつけた上で受け入れたほうが賢明であるとの判断から、56 年12 月に米軍との土地賃貸契約を締結」

確かにこれだけを読むと、軍政下の琉球政府が強制立ち聞きを命じたから、不本意だが承諾したと受けとれます。

これをして、名無しさんは、間接の強制収容だと言いたいわけです。

これに対して、現地の「豊原区民」さんは、こう反論されています。

実弾演習場(久志岳、辺野古岳)と、基地(シュワブ)は全然別の話ですよ。基地については区民が誘致運動をしたんです

Photo(写真 沖縄が反基地の島だと一面的に見ている人が見ると仰天するだろう、青年会と海兵隊チームとの交流野球大会)

「豊原区民」さんのおっしゃる通りです。ここでこれを書いた熊本氏は実弾演習場と、基地本体を混同して記述してしまっています。

そのために実弾演習場で「強制収容するからさっさと提供しろ」と琉球政府が言ったから、基地本体もそうだと思い込んでしまっています。

ところが「豊原区民」さんが言うように、キャンプ・シュワブはあくまでも、旧久志村の辺野古住民たちが誘致したものなのです。

ちなみに、この熊本博之氏という人物のツイッターを読むと、移設反対や反原発、反安保法制といったことが大量に出てくる運動家的学者のようですから、やはり思い込みを前提にして対象を分析することをしてしまったようです。

この熊本氏はこんなことを主張しています。

中国の脅威を引き合いに出して沖縄の国防上の重要性を強調したり、沖縄経済の基地依存的状況に言及したりする」(太字は熊本氏による)
http://politas.jp/features/7/article397

浅い!こんなていどの知識で米軍基地問題を語る神経がわかりません。

中国の海洋膨張を頭から無視する人が、沖縄の基地問題を論ずるべきではありません。

中国の脅威かなければ、米軍基地が沖縄にある理由など、しょせんこの人の言うように「本土人のエゴ」に過ぎないからです。

むしろそれなら話は簡単なのですよ。そうではないから、これだけ混み入った話になっているのです。

それはさておき、これが名無し氏が主張するように、「強制収容をチラつかせての収容」だとしても、問題はこれを「広義の強制性」と取っていいか、です。

Photo_2(写真 海兵隊は現地のハーリーにも招待されている。米兵と仲良くすることを積み上げていくことが、彼らの犯罪の抑止になると、現地の人達は知っている)

Photo_4(写真 毎日、罵声を浴びせ、フェンスにしがみついて唾を吐きかける基地反対派。どちらが、米兵犯罪の抑止につながるのか、素朴に疑問におもわないのだろうか。しかしこの「平和運動」の人たちの好戦性には辟易する。もう少し平和的にできないものか)

名無し氏の手法には、見覚えがあります。

かつての慰安婦問題で、強制連行派が実証的に論破された時に突然言い出したのが、この「広義の強制連行」でした。

「自らの意志に反して慰安婦になった」という、「意志に反して」の部分だけを恣意的に拡大解釈して、当時の貧しかった時代に娼婦に売られたことすべてを「広義の強制性」としてしまったのです。

そもそも「日本軍の奴隷狩り」があったということでセンセーショナルに喧伝されたのに、それを貧困による身売りにまで拡大してしまったら、慰安婦問題そのものが成立しなくなります。

このような具体的事実を踏まえずに、広義な解釈を許してしまうと、なにが歴史的事実なのかが不明瞭になっていきます。

シュワブ建設で言えば、歴史的事実は、あくまでも旧久志村議会の総意による誘致であって、それはしたたかな条件闘争でした。

ある意味、基地などない南部や本土から来て、「キレイな海を守れ」と気楽に叫ぶ人たちより、はるかに必死な「住民運動」だったはずです。

それが左翼の人たち好みの、「絶対反対・断固阻止」を前提としないものだっただけで、それは地域が生きるか死ぬかをかけた壮絶な「戦い」だったのです。

※参考資料【辺野古】-沖縄県名護市辺野古区のホームページへようこそ

2015年10月 2日 (金)

シリア難民とドイツの偽善

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メルケル首相がノーベル平和賞候補だそうです。それも最有力とのことです。 

その受賞候補理由は、難民の受け入れに積極的に門戸を開いた、ということのようです。

もし、ほんとうならば、これはノルウェイ人の皮肉かと思ってしまいます。 

ご存じのように、もはや民族移動と表現すべき難民がEUに押し寄せています。そのゴールはドイツとイギリスですが、途中のルートに当たる国々は恐慌状態です。 

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東欧諸国は通過するルートだけ開放して、国境を閉じています。ハンガリーでは非常事態を宣言し、難民に催涙弾を使ったと非難されています。 

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この難民と呼ばれる人々は、シリア内戦から発生しています。

いまやシリアは自国民の頭上にナパーム弾を落すアサドと、ISなどのテロリスト勢力によって分断されてしまっています。

自己解決能力はとうに失われていますし、国際社会は利害対立を起こして腰が引けています。おそらく解決は不可能でしょう。

国民は、狂った独裁者とISから逃れるために必死で国外に出ようとしています。

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シリアは、あんがい知られていないのですが中東の大国で、人口は2300万人ほどいます。 

そのうちほぼ半数の1100万ていどが、難民化しているのではないか、と国連は見ています。

ハフィントンポスト(2015年9月8日)はこう述べています。
※http://www.huffingtonpost.jp/japan-association-for-refugees/syrian-refugees_b_8098966.html

「シリア内戦がはじまって4年半、戦乱を逃れて国内外に避難したシリア人は全国民(2240万人)の実に半数以上にのぼる。逃れる手段がないために国内にとどまる人(国内避難民)は760万人。
国外に避難した人(難民)は408万9千人だが、9割以上はトルコ、レバノン、ヨルダンなどの周辺国にあって、大多数が難民キャンプに入ることもできず劣悪な環境で困窮を極めている。
シリア難民のうち欧州にたどり着いたのはわずか36万人、全体の6%に過ぎない。周辺国とUNHCRは、欧州をはじめとする各国政府に受け入れを増やすよう要請している。(数字は2015年8月末現在、国連高等弁務官事務所〔UNHCR〕の統計)」

ハンガリーの人口は990万人ですから、東欧2ヶ国分の人口が難民化しているという想像を超えた事態になります。 

さらに、これに政情不安のエジプトやリビアといった北アフリカ難民が加わると、1億人近い難民のヨーロッパへの流入が開始されることになります。 

というか、それは既に始まっているとみるべきでしょう。 

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そのきっかけを作ったのが、他ならぬメルケルです。

「メルケル首相は今年、80万人と予測される難民のうち半分は定住するとの見通しを述べた。ドイツが債務危機を乗り越え、脱原発を実現した実績をあげ、難民の受け入れを「成し遂げる」と決意を語った。
一方、難民への攻撃や収容施設への焼き打ちには「国家として厳しく対応する」として「人間の尊厳を傷つけるものは容赦しない」と極右ネオナチなどの難民排除の動きを批判した」(毎日新聞9月1日)
 

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メルケルの思惑は、難民を好景気のドイツで不足する60万人程度、移民労働者として受け入れようというものでしたが、蓋を開けてみれば1000万単位の難民が我先にとドイツを目指すことになってしまいました。 

メルケルがやったことは、シリア難民の大群の前で、60万枚の当たりくじをヒラヒラさせたようなものでした。

彼女はこの「理想」も、脱原発のようにうまくいくと確信していたのです。

これは戦後ドイツが、ナチス犯罪に対して行なってきた「弁明」に対する、いかにもドイツらしい論理的結末でもありました。 

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上のユダヤ人狩りの光景を、笑いながら楽しげなショーのように見ている子供や一般市民の姿に注目ください。クリックすると大きくなって、右端の子供の笑い顔まで見えます。

これが、ホロコースト(ユダヤ民族絶滅政策)の真の姿でした。 

ホロコーストはひと握りのSSがした悪行ではなく、社会から隣人たるユダヤ人を狩りたてて、強制収容所に送り込んでいった「一般ドイツ国民」が背後にいたのです。 

こここそが、戦後ドイツが全力で隠蔽したい事実でした。そのために作り出したのが、ヴァイツゼッカーによる「謝罪神話」でした。 

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この余りに有名な1985年5月のドイツ連邦議会における大統領演説で、ヴァイツゼッカーはこう述べています。 

「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険にも陥りやすいのだ。
 若い人たちにかつて起こったことの責任はないが、その後の歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任がある。若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないように。敵対するのではなく、たがいに手を取り合って生きていくことを学んでほしい」

実はこの言葉には、大きなトリックが隠されていました。後のパラレルにはこうあります。 

「しかし日一日とすぎていくにつれ、5月8日(※ドイツ降伏の日)が解放の日であることがはっきりしてきました。(略)ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります」

 ヴァイツゼッカーは、単純な第2次世界大戦への謝罪を述べたのではなく、巧妙にドイツ民族、あるいは国民一般もまた、ナチスの被害者だったのだと言っているのです。 

このようにドイツ人は「歴史の罪は背負う」と言いながら、「集団の罪」は否認し続けて、一切の罪をナチスにのみ被せました。

ドイツ人にとって、歴史の流れは1945年5月8日で断絶しており、 それ以前は<巨悪のナチスが支配する暗黒社会>であり、敗戦以降は<ナチスから解放された善良なドイツ人が住む明るい社会>なのです。 

このようにでも意識操作しないことには、ドイツ人の存在自体を世界が許さなくなるからです。それほどまでに巨大な「悪」でした。

この自己欺瞞を、ドイツ人はえんえんと70年間後生大事に持ち続けてきました。

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そしてこのドイツの良い子ちゃん病が、シリア難民の爆発的流入を前に、前代未聞の形で起動してしまったというわけです。

本来なら、こうなる前に難民を局所化する方法もあったでしょうし、難民キャンプの生活を向上させていくことに力を注ぐべきでした。

しかし、メルケルが良い子ちゃん病を発症し、「ドツイに来れば移民として受け入れる」と言ってしまったばかりに、もはや収拾のつかない事態にまで発展してしまいました。

この難民の流入による破滅的事態の責任は、メルケルにあることは明らかです。

そしてこれは、メルケル自慢のEUという名の「第四帝国」を、最終的解体に追い込む序曲になるはずです。 

 

2015年10月 1日 (木)

米軍の土地接収は、時代によってやり方や条件が大きく違う

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翁長氏は、9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。 

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」 

翁長氏は似たようなことを、そこかしこでよく言っています。

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員教会での講演) 

これが、沖縄の定番の米軍基地「銃剣とブルドーザー強制徴発論」です。 

さて、かつて私も住んでいた名護市は、大きくふたつの地域に分かれています。 

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 Google Earthで見ると、左手西側の湾の中心部にある名護市と、大きく脊梁山系によって隔てられた右手東側に、今焦点となっている辺野古があるのがわかります。 

この名護市は復帰前の1970年に旧名護市と、東の旧久志村が合併して誕生しました。 

久志村は東海岸の開発が遅れた貧しい地域でしたが、大きな「地域資産」を持っていました。それが米軍基地です。 

この時、口さがない人たちは、「辺野古軍用地料という結納金を持って名護に嫁いだ」と言ったそうです。 

まぁ、そのくらいに軍用地料が北部の自治体の財政に占める大きさが無視できないというわけです。
※「地域資産」としての米軍基地についての関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-10ca.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-46c3.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-25d0.html
 

では、この旧久志村の米軍基地はどのようにして、この場所に建設されることになったのでしょうか。

その前に、簡単に沖縄の米軍基地建設の歴史を振り返っておきましょう。 

最初の基地建設は、沖縄県民にとって問答無用でした。なんと最初の本格基地である嘉手納基地などが建設されたのは、1945年6月という戦中なんですから。 

Photo_3(写真 1945年の嘉手納基地。奥に滑走路、手前に嘉手納ロータリーが見える)

 この時期、多くの沖縄県民は収容所暮らしをしていて、帰ってみたら自宅や田畑があった場所に基地があったという屈辱的なことがひんぱんに起きます。 

この時期から50年代までを、強制的に土地を取り上げられたとして「銃剣とブルドーザー」の時代と呼ぶというわけです。 

もう少し時代が下って1951年のサンフランシスコ講和条約移行の頃になると、「戦時」から「平時」の切り換えが行なわれました。 

米国も認めた潜在的日本領で、やらずぶったくりで基地を取り上げることなどできなくなったわけです。まぁ、当然です。 

Photo_2(写真 島ぐるみ闘争 当時の沖縄県民にとって日の丸は抵抗のシンボルだった)

この時、米国が提案した軍用地料の一括支払い方式を巡って、有名な「島ぐるみ闘争」がおきます。
 

「土地を取り上げるのか」という沖縄県民の声に押されて、米軍側は当時の評価額の6倍を毎月払うというハメになりました。 

ここにも、そう簡単にやられっぱなしにならない沖縄県民のしぶとさが現れています。 

このような時代を背景にして、1960年前後から、第2次基地建設ブームが起きます。それが第2グループの海兵隊師団受け入れに伴う基地建設でした。 

普天間基地も、この時に空軍から海兵隊に移管されて、現在の姿になっています。 

航空部隊は空軍からもらった普天間でいいとして、かんじんな兵員のキャンプ(駐屯地)はどこにするのかで、米軍は頭を悩ませていました。 

海兵隊の性格上、普天間の航空基地に近く、また基地内に、兵舎だけではなく、訓練場や火薬庫などの付属施設も欲しかったからです。 

そうなると、あるていど大きな面積が必要です。本島中部はデンっと航空基地がのさばっていますから、入る余地がないし、どうしたものか、と民生官レムニッツァー陸軍大将の悩みは深かったわけです。 

民生官とは、当時の沖縄の統治権者です。いわば「総督」のようなものだと思えばいいでしょう。 

このレムニッツァー大将のところに、嬉しい報告が来ます。そのいい便りとは、本島北部久志村の村議会全員の署名つき嘆願書を持った比嘉敬浩村長たち一行でした。 

久志村村議会は、正式に海兵隊基地を誘致したわけです。これを米軍側は大喜びで受けて、かくて辺野古に今もあるキャンプシュワブか出来上がることになります。 

これは地元と米軍にとって、ウィンウィン関係となりました。

米軍にとっては、普天間の飛行場の近くに海兵隊の兵舎だけではなく、付属施設ごと収容できるまとまった大面積を得られます。

一方、地元にとっては、この土地の4分の1は民有地なため地元民に転がり込む地代だけで馬鹿にならない上に、共有地であったために地元久志村を大いに潤したからです。

しかも、この提供した軍用地の多くは、傾斜地ばかりの耕作放棄地でした。つまり、使い道がほとんどないのです。 

それをまとめて借り上げて、傾斜地だろうと平坦地であろうと、同じ値段で借りてくれるなどというのは夢のような有利な条件でした。 

もちろん、初めから有利な条件を米軍が提示したわけではなく、執拗に粘って粘った交渉の結果、米軍側が降参して地元有利の条件を呑んだようです。 

私たち本土人がえてして忘れがちで、つい沖縄県民は被害者に甘んじる存在だと思いがちですが、とんでもない。島人は実に驚くべきタフネゴシエーターなのです。

かくして、産業らしいものがなかった久志村は、経済的に大いに潤い、電気すら通っていなかった村には、米軍基地からの電線が敷かれ、水道も供給されるようになりました。 

これを横目で見ていた隣の金武村(きんそん)も負けてはならじと、積極的誘致活動を展開します。 これが今のキャンプハンセンです。

Photo_4(写真 辺野古青年会と海兵隊の交流の歴史は古い)

B1544c77(写真 抗議行動をする反基地運動家たち。地元の人はいないが、今や全国の反戦反基地運動のメッカとなって巡礼者が絶えない)

これをして、占領初期の「銃剣とブルドーザー」と呼ぶには、余りに無理がありすぎませんか、と私は言っているだけです。

米軍の土地接収は、時代によってやり方や条件が大きく違っています。

それをひと括りにして土地の暴力的強制収奪だったと言ってしまうのは、やはりプロパガンダだといわれても仕方がないでしょう。 

米軍が「有事」の占領軍だった時代。それが「平時」の民生に戻った時代。島ぐるみ闘争によって占領軍の言うがままをはねかかした時代。そして日本復帰。

これらの時代に応じて米軍の有り様は変わっています。それにつれて、土地接収の方式も、軍用地料支払い方法も変化しているのです。

「銃剣とブルドーザー」は、そのもっとも初期の、まだ戦争の傷跡が生々しい時代にあったことであり、それをあたかも普遍的に、一貫してそうであったとする翁長氏の言い方は欺瞞です。

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