沖縄が日本になった事件
素朴な質問をします。沖縄がどうして今、中国ではなく我が国に属してしているのか、考えたことがありますか?
それは19世紀末に起きた、中国とをめぐるある事件によってでした。
時代は、1870年代、明治維新を経て明治国家が近代国家として、ヨチヨチ歩きを始めた時のことです。
当時まだ、沖縄は琉球王国でした。日本は薩摩藩による実効支配をしていましたが、それは外交的には「秘密にしておこうね」ということでした。
バレると琉球を介してやっていた、清朝との貿易ができなくなってしまうからです。
ですから薩摩藩は、琉球王府に対して、貿易のことはうるさく介入しましたが、内政についてはまったく放任主義に近いものでした。
要するに、薩摩藩は密貿易が大事で、沖縄自体には関心がなかったんですね。
さて、こんな状態のまま明治維新を迎えてしまうのですが、この時に沖縄をどうするのかということは、頭痛の種でした。
というのは、琉球王国の中には、士族階級を中心として強硬な親中派がいたからです。
彼らは、「日本をやっつけて、どうか中国に併合してください」という密使すら送ったほどです。
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これが私がこのブログでも何度も触れてきた、沖縄の両属性という性格です。
日本は近代国家を作る上で必須な、国境線の確定を急いでいました。
前近代の時代には、「なんとなく中国ね、なんとなく日本かもね」、で済んでいたのですが、そういうカメレオンは効かなくなってしまったわけです。
さて、そんな時に大変な事件が起きてしまいます。
1871年、宮古島の船が大風に合って台湾に漂着したのです。そして、台湾現地住民によって、69名中54名も大量殺害されるという大事件が起きたのです。
この原住民を清朝は、「生蕃」(せいばん)という呼び方をしていました。別の言い方で「化外(けがい)の民」とも称していました。
要するに、「清朝の支配の外に住んでいる、わけのわからない野蛮人」ていどの意味です。
台湾の高地に住む住民で、後に台湾が日本統治になると高砂族と呼ばれるようになる人々です。
(写真 「生蕃」。当時の台湾はマラリアの猖獗の地で、日本軍は病死者だけで500名を出すことになる。後に極めて親日的になり、私も行ったが日本語ペラペラ)
さて、この時の清朝の表現に注目してください。「生蕃」という概念には「統治外」、言い換えれば、「台湾なんかオレの領土じゃないぜ」という意味が含まれているのです。
沖縄漂流民を殺害された日本政府は、怒って清国にネジ込みますが、そこで言われたのが、「ありゃ生蕃がやったことですから」というスゲない返事でした。
そして清朝の総理衙門(外交窓口)のマンダリン官僚は、しゃらとして「琉球の民が殺されたと怒っているが、琉球は中国の属国だぞ」などと、中華意識丸出しのことまで言い出しました。
日本政府は、この清朝の当事者能力のなさに呆れて、「そうか、台湾はお前の国ではないのだな。では、勝手に討伐させていただく」と、台湾に兵を送りました。
これが「台湾出兵」という事件です。派遣軍司令官は、西郷隆盛の弟の西郷従道でした。
この事件の時の日本政府の対応で、ひとつ分かることがあります。
それは当時の明治国家が、宮古島民を日本国民の「同胞」として見なしており、その殺害に対してキッチリ武力をもって報復する気概を持っていたことです。
これを帝国主義だ、日本は台湾を領有したいための口実に使ったんだという左翼歴史家もいますが、私はそうは思いません。
もちろんそういう政治的思惑がなかったなどとは思いませし、当然あったでしょう。
しかしそれ以前に、国民の保護こそが主権国家のイロハのイであり、こういう原則をあいまいにしていると、西欧諸国からナメられることを明治国家が知っていたことです。
これなど、いつまでたっても北朝鮮に拉致された自国民を奪還できない、邦人救出に自衛隊は派遣できないという、どこぞの国とは大違いです。
ちなみに、沖縄が中国でも日本でもなく「琉球王国」として生き残るという選択肢もまったくないわけではありませんでした。しかしそのためには、条件があります。
琉球王国は、明治維新レベルの徹底した近代化をせねばならなかったのです。
この宮古島島民殺害事件は、それが可能かどうかを計る試金石でもあったのです。
この時、琉球王府は自分の軍隊を派遣して、宮古島の漂着民を保護し、加害者処罰をせねばなりませんでした。
しかし残念ながら、自国民保護という近代的国家観はおろか,琉球王府には当事者能力、いや、当事者意識にさえ欠けていました。
それができるだけの近代的開明性を王府が持っていたのならば、後の歴史の展開もまったく異なったことでしょう。
それはさておき、今まで「台湾は化外の地」と言っていたくせに、日本が出兵すると、清朝は怒り始めます。
この辺が情けない。 清国の本音は、「台湾はオレのもの。沖縄もオレのもの。だから国内問題じゃねぇか」というものでした。
19世紀末の帝国主義の時代に、あれだけ諸外国に食い物にされて、なお、アジアには中世的冊封体制が生きていると考える哀しさです。
ズレ切っています。まるで「あさが来た」のねぇちゃんの嫁いだ、老舗両替屋みたいなもんで、あるのは、持て余すほどの大国意識だけです。こういうのが、いちばんタチが悪い。
結局、1874年、英国公使ウェードに仲介を依頼し、妥協を図ることになりました。
この英国仲介案は同年10月31日、日清両国互換条款として締結されました。
これにより、清朝は日本に対して台湾出兵を「義挙」として認めて、50万両支払い、条約には次の一項を書き記しています。
「台湾の生蕃かつて日本国臣民らに対して妄り(みだり)に害を加え」
この瞬間、清国、すなわち中国は、正式に沖縄を日本領として認めたことになります。
しかもこれは、単なる二ヶ国間の協定ではなく、当時のスーパーパワーだった英国が裏書きしていますから、国際社会が沖縄を日本領として正式に認知したということを意味します。
これによって、今まで国境が確定していなかった沖縄は、正式に日本領として国際社会に認知されることになります。
ところが、もう一回ズッと後の時代になって、中国に対して「お前に沖縄をやるよ」と言った人物ーが現れます。
それが、フランクリン・ルーズベルトです。
長くなりましたので、今日はここまでとします。
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