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米軍の土地接収は、時代によってやり方や条件が大きく違う

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翁長氏は、9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。 

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」 

翁長氏は似たようなことを、そこかしこでよく言っています。

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員教会での講演) 

これが、沖縄の定番の米軍基地「銃剣とブルドーザー強制徴発論」です。 

さて、かつて私も住んでいた名護市は、大きくふたつの地域に分かれています。 

Photo

 Google Earthで見ると、左手西側の湾の中心部にある名護市と、大きく脊梁山系によって隔てられた右手東側に、今焦点となっている辺野古があるのがわかります。 

この名護市は復帰前の1970年に旧名護市と、東の旧久志村が合併して誕生しました。 

久志村は東海岸の開発が遅れた貧しい地域でしたが、大きな「地域資産」を持っていました。それが米軍基地です。 

この時、口さがない人たちは、「辺野古軍用地料という結納金を持って名護に嫁いだ」と言ったそうです。 

まぁ、そのくらいに軍用地料が北部の自治体の財政に占める大きさが無視できないというわけです。
※「地域資産」としての米軍基地についての関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-10ca.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-46c3.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-25d0.html
 

では、この旧久志村の米軍基地はどのようにして、この場所に建設されることになったのでしょうか。

その前に、簡単に沖縄の米軍基地建設の歴史を振り返っておきましょう。 

最初の基地建設は、沖縄県民にとって問答無用でした。なんと最初の本格基地である嘉手納基地などが建設されたのは、1945年6月という戦中なんですから。 

Photo_3(写真 1945年の嘉手納基地。奥に滑走路、手前に嘉手納ロータリーが見える)

 この時期、多くの沖縄県民は収容所暮らしをしていて、帰ってみたら自宅や田畑があった場所に基地があったという屈辱的なことがひんぱんに起きます。 

この時期から50年代までを、強制的に土地を取り上げられたとして「銃剣とブルドーザー」の時代と呼ぶというわけです。 

もう少し時代が下って1951年のサンフランシスコ講和条約移行の頃になると、「戦時」から「平時」の切り換えが行なわれました。 

米国も認めた潜在的日本領で、やらずぶったくりで基地を取り上げることなどできなくなったわけです。まぁ、当然です。 

Photo_2(写真 島ぐるみ闘争 当時の沖縄県民にとって日の丸は抵抗のシンボルだった)

この時、米国が提案した軍用地料の一括支払い方式を巡って、有名な「島ぐるみ闘争」がおきます。
 

「土地を取り上げるのか」という沖縄県民の声に押されて、米軍側は当時の評価額の6倍を毎月払うというハメになりました。 

ここにも、そう簡単にやられっぱなしにならない沖縄県民のしぶとさが現れています。 

このような時代を背景にして、1960年前後から、第2次基地建設ブームが起きます。それが第2グループの海兵隊師団受け入れに伴う基地建設でした。 

普天間基地も、この時に空軍から海兵隊に移管されて、現在の姿になっています。 

航空部隊は空軍からもらった普天間でいいとして、かんじんな兵員のキャンプ(駐屯地)はどこにするのかで、米軍は頭を悩ませていました。 

海兵隊の性格上、普天間の航空基地に近く、また基地内に、兵舎だけではなく、訓練場や火薬庫などの付属施設も欲しかったからです。 

そうなると、あるていど大きな面積が必要です。本島中部はデンっと航空基地がのさばっていますから、入る余地がないし、どうしたものか、と民生官レムニッツァー陸軍大将の悩みは深かったわけです。 

民生官とは、当時の沖縄の統治権者です。いわば「総督」のようなものだと思えばいいでしょう。 

このレムニッツァー大将のところに、嬉しい報告が来ます。そのいい便りとは、本島北部久志村の村議会全員の署名つき嘆願書を持った比嘉敬浩村長たち一行でした。 

久志村村議会は、正式に海兵隊基地を誘致したわけです。これを米軍側は大喜びで受けて、かくて辺野古に今もあるキャンプシュワブか出来上がることになります。 

これは地元と米軍にとって、ウィンウィン関係となりました。

米軍にとっては、普天間の飛行場の近くに海兵隊の兵舎だけではなく、付属施設ごと収容できるまとまった大面積を得られます。

一方、地元にとっては、この土地の4分の1は民有地なため地元民に転がり込む地代だけで馬鹿にならない上に、共有地であったために地元久志村を大いに潤したからです。

しかも、この提供した軍用地の多くは、傾斜地ばかりの耕作放棄地でした。つまり、使い道がほとんどないのです。 

それをまとめて借り上げて、傾斜地だろうと平坦地であろうと、同じ値段で借りてくれるなどというのは夢のような有利な条件でした。 

もちろん、初めから有利な条件を米軍が提示したわけではなく、執拗に粘って粘った交渉の結果、米軍側が降参して地元有利の条件を呑んだようです。 

私たち本土人がえてして忘れがちで、つい沖縄県民は被害者に甘んじる存在だと思いがちですが、とんでもない。島人は実に驚くべきタフネゴシエーターなのです。

かくして、産業らしいものがなかった久志村は、経済的に大いに潤い、電気すら通っていなかった村には、米軍基地からの電線が敷かれ、水道も供給されるようになりました。 

これを横目で見ていた隣の金武村(きんそん)も負けてはならじと、積極的誘致活動を展開します。 これが今のキャンプハンセンです。

Photo_4(写真 辺野古青年会と海兵隊の交流の歴史は古い)

B1544c77(写真 抗議行動をする反基地運動家たち。地元の人はいないが、今や全国の反戦反基地運動のメッカとなって巡礼者が絶えない)

これをして、占領初期の「銃剣とブルドーザー」と呼ぶには、余りに無理がありすぎませんか、と私は言っているだけです。

米軍の土地接収は、時代によってやり方や条件が大きく違っています。

それをひと括りにして土地の暴力的強制収奪だったと言ってしまうのは、やはりプロパガンダだといわれても仕方がないでしょう。 

米軍が「有事」の占領軍だった時代。それが「平時」の民生に戻った時代。島ぐるみ闘争によって占領軍の言うがままをはねかかした時代。そして日本復帰。

これらの時代に応じて米軍の有り様は変わっています。それにつれて、土地接収の方式も、軍用地料支払い方法も変化しているのです。

「銃剣とブルドーザー」は、そのもっとも初期の、まだ戦争の傷跡が生々しい時代にあったことであり、それをあたかも普遍的に、一貫してそうであったとする翁長氏の言い方は欺瞞です。

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コメント

確かに読んで字の如く「銃剣とブルドーザー」で問答無用、無理矢理にキャンプシュワブが出来た訳では当然ありません。しかしながら管理人様の解説による久志村長一行による嘆願書によって「誘致」は明らかな誤解です。
辺野古地区の住民は伊佐浜などの強制接収を目の当たりにしてます。そして肝心なのは既に以前から辺野古地区にも土地収用令が出ています。そう言った背景からすれば、強制接収される位なら自ら交渉して有利に事を済ませるべきだと当時の住民は考えたのでしょう。賛成と容認は意味合いが全く違います。現在の辺野古区民も同様で心情も考えれば背景はハッキリ説明するべきです。

投稿: | 2015年10月 1日 (木) 08時20分

名無しさん。HNをつけて下さい。識別できません。よろしくお願いします。

おっしゃることはわからないのではありません。「伊佐浜などを見て」という要素もありえたでしょう。
歴史とは、なにも積極的な意思によってのみ動くのではなく、おっしゃるようなネガティブな「気分」,あるいは「思惑」も含めて進んでいくものだと思います。
結局、保守理念でもなく、反基地主義でもない普通の人たちの集合が作り出すのが「歴史」なのではないでしょうか。

だから広義の「強制徴用だ」というのはいいずぎで、逆に広義の「ウェルカム米軍」だと言うのも、またまちがいでしょう。

久志の人たちは、限られた厳しい条件の中で、ギリギリの判断をしたというのが真相なのではないでしょうか。

米軍としても、軍用地は欲しいが、占領直後のように「銃剣とブル」でなどという乱暴な方法が通用する時期ではなくなっていました。

また、決定的だったのは、50年代後半の島ぐるみ闘争以降、米軍と住民の力関係は大きく変化しています。
つまり安易に強制収容できるような力関係ではなくなったのです。

そして、51年のサンフランシスコ講和条約以降は、日本の潜在的施政権もまた考慮せねばなりませんでした。
このような状況で「銃剣とブルドーザー」での強制収容は不可能です。

いまの辺野古もたしか反対は2地区だったと思います。賛成は、当然カネ絡みです。
それと同時に、長年の米軍との良好な関係も背景にあります。
前者と後者は不可分であって、それを賛成と呼ぶか、容認と呼ぶかは、主観の差としかいいようがありません。

私は辺野古住民が、日米同盟を強固にするために進んで用地を提供したなどという幻想は持ちませんが、逆に、翁長氏のように「いままで自主的に提供したことはいちどたりともない。銃剣とブルでとられた」」という言い方もまた、真実からは遠いと思っています。

投稿: 管理人 | 2015年10月 1日 (木) 08時48分

背景があったとしても久志村をあげて誘致し、自分たちに有利な条件を米軍に飲ませる交渉(営業)をしたわけで、翁長知事の好きな「沖縄の全ての基地が銃剣とブルによる…」こそ誤認させる言葉だと思います。

6月30日の県議会で照屋議員は久志村や金武町の誘致やその当時の契約書の存在をあげ、知事の発言の間違えを指摘。
知事は「当時の歴史的背景を踏まえたら、契約は無理やりされたと思われる。なので、強制接収されたようなものだ。」の一点張りの答弁だったとか。

米軍自ら不利な条件の契約を久志村に無理矢理サインさせたそうです。
おらっ!この契約書にサインしないと銃剣とブルだぞ、要らない斜面も借りてやらぁ(笑)

こんなことがあったのに同じ言葉をいまだに吐く知事にヘドがでます。

投稿: 多摩っこ | 2015年10月 1日 (木) 21時58分

辺野古に「土地接収令」が出てた?

地元民ですが初耳です。聞き捨て出来ませんね。ソースを出して下さい。
誰からいつ発令されたんですか?
地元の誰も聞いた事のない話を何であなたが知ってるんですか?

私も区民の海兵隊(当時は岐阜に基地があった)誘致運動を全て知っています。
一言で言うと、区民総意の能動的誘致運動だった。

>強制接収されるくらいなら自ら交渉して有利に事を済ませるべきだと当時の区民は判断したのでしょう。

間違い。

憶測で事実を曲げるな。

ソースを早く。

投稿: 辺野古出身の豊原区民 | 2015年10月 2日 (金) 11時26分

名無しさん。なにが不服なのかしらないが、きみの主張は公平に扱っているつもりだ。
HNをつけてくれといっても聞いてもらえない。
ひとこともなしに貼り付けただけ、なんだい、こりゃ。
礼儀をわきまえよ。

投稿: 管理人 | 2015年10月 2日 (金) 16時51分

1951年のサンフランシスコ講和条約後は銃剣とブルドーザーではないと管理人様は説きますが、1955年の伊佐浜、伊江島正に銃剣とブルドーザーそのものです。
別に翁長知事を擁護する訳ではありませんが知事は主に島ぐるみ闘争のきっかけとなったこの事件を指しているのだと思います。潜在的施政権はあったにせよ、肝心の米側にその意識は薄かったようです。当時の米軍のやり方だと在日米軍の74%を沖縄に集中する事が出来た理由が分かる気がします。

投稿: | 2015年10月 2日 (金) 16時53分

不毛ですな。
何度もHNをつけてくれと言われてるのにそれすらできない。
白は白、黒は黒と決めつけて信じている相手が事細かに根掘り葉掘りつついてるだけ。世の中、そんな単純なことじゃないでしょうに。青いなあ。
翁長の擁護をするわけではないと予防線らしきことを言ってますが、まさに翁長擁護そのものですよ。
ブログ主は沖縄在住体験と客観的事実を持って冷静に話をしているだけなのに…。
残念ながらこれでは話相手にもならんね。

投稿: 山形 | 2015年10月 2日 (金) 19時03分

私は不勉強で土地収用令について知らなかったので、「土地収用令 辺野古」で検索してみると、辺野古移設反対派の人たちの書いた記事(ブログ等)がズラリと並び、中身を見ると、「土地収用令の紙切れ一枚で持って、銃剣とブルドーザーで・・・」といった内容ばかり。
残念ながら客観的な立場から書かれたものを見つけることはできませんでした。
実際のところはどうなのでしょうか?

投稿: 山口 | 2015年10月 2日 (金) 23時16分

いつ、誰が辺野古に「強制収用令」を出したのかを尋ねたんですよ。

これのどこが証明ソースですか?
どこにも「強制収用令」が出たなどと書かれてはいないじゃないですか?

あのね、実弾演習場(久志岳、辺野古岳)と、基地(シュワブ)は全然別の話ですよ。
基地については区民が誘致運動をしたんです。
これは事実。
認めたくないのだろうけど・・。

それからね、「在日米軍の74%が沖縄に・・」などと言ってる時点で、すでにここの読者に笑われてるよ。

何故かは自分で考えてね!!

投稿: 豊原区民 | 2015年10月 2日 (金) 23時30分

豊原区民さん
私の実家は、伊佐浜なので 伊佐浜の件は知ってましたが、失礼ながら 辺野古の誘致運動については 恥ずかしながら最近知りました。この様な情報は、左翼二紙や学校でも教えてくれません。普天間基地を抱える宜野湾市民としては、辺野古近隣区民の皆様が、移設を条件付きにしろ 容認して下さっている事に関しては、頭の下がる思いです。被害を被っているのは地元区民であるにも関わらず、ほぼ被害が無く人口の多い西海岸住民の民意が優先されている事、数年前まで 先頭に立って移設容認の旗を振った人物が市長と言い、まさに沖縄全体の縮図ですね。
管理人様 毎日拝見させて貰い、自分の思いが間違ってはいない事を再認識しています。

投稿: 宜野湾市民 | 2015年10月 3日 (土) 03時28分

宜野湾市民様

現名護市長は、昔から一坪反戦地主にも名を連ねる、生粋の左翼。
移設容認をしたことはありませんよ。

某知事と混同していませんか?

(笑)

投稿: 豊原区民 | 2015年10月 3日 (土) 07時20分

豊原区民さん
辺野古移設の一番の当事者である辺野古区の大城康雅区長によると、稲嶺氏は名護市教育長時代から旧知の仲で、一緒に辺野古埋め立ての事業計画を練り、辺野古の発展を計画した「基地容認派」だったという。これはデマなんですか?

投稿: 宜野湾市民 | 2015年10月 3日 (土) 09時19分

宜野湾市民様

すみません。
現名護市長が容認派だったとは、地元民ながら知りませんでした。
今度、大城前区長に聞いてみて、ご報告します。

投稿: 豊原区民 | 2015年10月 3日 (土) 09時53分

稲嶺が反対派になったのは市長選挙で候補者を一本化するため共産党の主張を飲み移設反対側に回ったという記事がありましたので参考までに

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/848fd490ad10e8bcab63ed25ffb981dc

投稿: 多摩っこ | 2015年10月 3日 (土) 12時30分

宜野湾市民様

大城前区長ではない関係者から話を聞きました。
おっしゃる通り、5年前の市長当選以前の教育長時代は容認活動をしてたそうです。

政治に関わっていた父や島袋前市長や大城前区長、稲嶺さんたちと一緒にビーチパーリーにも行ってた、と母から聞いた時はビックリでした。
バリバリの容認派じゃねえかって・・
うちで風呂まで入ってから帰ったらしい(笑)


ただ、10数年前に暴露された一坪反戦地主名簿にも名を連ねている事からわかる様に、根本は反日反米主義者であるという事です。
しかしながら、移設容認派の前市長の行政機構の一員としては、内面を封印して容認活動をせざるを得なかったのではないかと、僕は推察します。

結果、宜野湾市民さんのおっしゃるように、
稲嶺市長は以前は移設容認であった模様です。


投稿: 豊原区民 | 2015年11月 1日 (日) 19時56分

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