慰安婦問題は朝日の構造的体質から生れている
とうとうこの年も終わりです。なんなんだ、というくらい一年が短いのに驚かされます。
ガキの頃には、夏休みが延々とあって、クタクタになるほど遊べて、学校が始まるとヘロヘロになるまで遊んで、子供にとって年間最大のイベントであるクリスマスとお年玉をもらって、また春休みまで精一杯遊んで(おいおい)、ありゃちっとも勉強をしていた記憶がないのはなぜなんだぁ(苦笑)。
しかし、「象の時間、ネズミの時間」といいますが、実感するなぁ。
内的時間は歳によって違うのですなぁ。しみじみ。この調子でいくと、たちまちあの世に行っちゃいそうです(笑)。
などと思っていたら、私より先にPCが壊れました。前々からヘンだったのですが、とうとう起動しなくなりました。
生意気にも、「システム復旧はムリっす」などとほざいています。こんな時期ですからお手上げです。
いま、なだめすかしながらサブ機で打っています。ああ、調子がヘンだ。
PCは実に便利で、田舎暮らしをする必需品ですが、ないとなるとそれはまたスッキリして、いいかもなどと思っています。
年末年始の予定は、元旦の祝賀を除いて4日までお休みします。ただし、パリ同時テロのような事態が起きた場合は別ですが、お願い、起きないでね。
というわけで、本年は大変にお世話になりました。よき年をお迎えください。
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これにて、と思いましたが、せっかくPCの機嫌がいいので、少しだけ。
おおむね、国内の反応は予想どおりでした。右方向の方々は怒り狂っておられるようですが、大方の国民はとまどいながらも平静に受け入れたようです。
朝日がなにを言うのかと思っていたら、一面トップ大活字で「政府責任を認める」ときたもんだ。
朝日は社説で、こんなことを言っています。
※http://shasetsu.seesaa.net/article/431697346.html
「戦時中、日本軍の将兵たちの性の相手を強いられた女性たちをいかに救済するか。政治的な立場を超えて、両政府がともに対処すべき人権問題である。
元慰安婦の1人が初めて韓国で名乗り出て、24年の歳月が流れた。今年だけでも多くの元慰安婦が遺恨を胸に抱いたまま、亡くなった。韓国政府が把握する存命中の元慰安婦は50人を切り、平均年齢は90歳近い。
両政府に残された時間はわずかしかない。両国関係にとっても長く刺さってきたトゲを自らの手で抜くべき時だ」
はいはい、そのトゲを人為的に植え込んだのはあんたたちでしょう。ここまで人間、厚顔無恥になれれば、人生はバラ色です。
朝日は慰安婦問題において、火付けした当事者です。しかも植村記者ひとりのうっかりミスなどではなく、朝日の構造的体質から生じています。
過去記事をベースにして、いい機会ですから、加筆してもう一回振り返ってみましょう。
※過去記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b7c3.html
朝日は日本において、発端を作り上げた当事者だっただけではなく、そのプロパガンダ拡声器の役割を演じてきました。
朝日と韓国の慰安婦団体、マスコミ、そして政府に至るまで、まるで呼応するようにして、この「従軍慰安婦」問題を国際問題に仕立て上げていきました。
それを国家の外交方針にまでしたのがパククネ大統領でした。
朝日がしたことはただの誤報というレベルではなく、まさに火のないところを大火事にした所業だったのです。
未だ慰安婦問題について書かれた膨大な量の慰安婦記事は、「間違っていましたから取り消します」といったたった16本などという生易しい量ではありません。
朝日のデーターベースを検索するだけで、実に7419本、「慰安婦 強制連行」でも1046本もあるのです。
これ全部とり消すのですかぁぁぁ・・・、ボク、気が遠くなりますぅぅぅ。(←エコーかけてね)
だから、吉田清治と植村隆にだけ救出不可能として生贄に捧げて、誤報事件で第三者委員会まで作ったにも関わらず、以後、まったくどこ吹く風とばかりの姿勢を貫いています。
まことに見事なブレのない不動の精神で、逆にいかに慰安婦報道がこの新聞社の根っこの部分から来たものなのかがわかります。
気の毒にもバッシングされまくった植村隆記者などは、しょせんは慰安婦告訴団体幹部の娘婿だったことを会社に利用されて、韓国に送られただけの小者にすぎません。
朝日が本気で守りたかったのは、死んだ吉田清治でもなく、ましてやザコの植村記者でもありません。この慰安婦問題には、社の中枢が関わっているのです。
時系列でみていきましょう。
植村記者が果たした役割は、極めて悪質でありながらも微々たるものです。
上の写真でいかにも詐欺師然とした顔をさらしているのが、かの有名な吉田です。こういう顔した男の「証言」を丸飲みすること自体ナンです。
1980年代初期まで吉田は、慰安婦問題の火付け役のひとりでしたが、まだ日本では左翼出版社から本を出したていどの、無名のヘンな奴にすぎませんでした。
彼を一躍「時の人」にしたのが、北畠清泰大阪本社論説委員(故人)です。
この北畠という人物こそが、この慰安婦問題の日本における伝道師の元締めであり、説教師でした。
北畠は、1992年1月23日付け夕刊コラム「窓・論説委員室から」に、このように吉田を取り上げて、一躍「時の人」に仕立て上げます。
一読すればお分かりのように「吉田証言を」一切の裏取りをしないまま、丸のまま紹介して、それをあたかも事実のように報じています。
おそらく北畠は、「日本の過去を断罪する」という朝日の社是にドンピシャではまった男が出てきたことに狂喜したのでしょう、こう書いています。
「記憶のなかで、時に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張する。総督府の50人、あるいは100人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。
木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。一つの村から3人、10人と連行して警察の留置所に入れておき、予定の100人、200人になれば、下関に運ぶ。
女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られて行った。吉田さんらが連行した女性は少なく見ても950人はいた。
「 国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」(1992年1月23日朝日新聞)
これが日本における、吉田清治のマスコミデビューです。
実は、吉田は自分のファンタジー原稿を扱ってくれるメディアを探して、そこここのマスコミにあたっていました。
北畠が記事にする10年も前の82年に、朝日東京本社支局に勤務していた前川恵司記者にも接触しています。
また、後述しますが、同時期に吉田は大阪本社の清田社会部長にも接触しています。
前川の「慰安婦虚報の真実」によれば、前川は、吉田の証言が整合性がなく虚言であることを見破り、記事にすることを拒否しています。
ですから、北畠が慎重にウラ取り取材すれば、社内情報だけで吉田などといったペテン師に引っかからなかったはずてす。
ところが北畠は、この慰安婦問題が一貫してそうであったように、裏を取ると虚構だと分かってしまうために、あえて目をつぶっています。
後に朝日は、それを意図的に公然と行うようになり、「軍が悪事を働いていたことはほんとうなんだから、多少の間違いも大義のまえの小事にすぎない」という歪んだ社風を作っていきます。
その先鞭をつけたのが、この北畠でした。言うまでもなく、この最初の段階で、既に北畠はジャーナリスト失格です。
北畠について、朝日新聞元記者であった長谷川煕(ひろし・上写真)記者の証言が、最近出ました。
長谷川のことは、「松岡利勝と美しい日本」という優れたノンフィクションの作者として知っていましたが、今回は渾身の内部告発となっています。
その名も「崩壊-朝日新聞」です。私もさっそく取り寄せて、いま読んでいるところです。
長谷川は、この本が出る前に週刊文春(2014年9月18日号)のインタビューに答えてこのように述べています。
「私(長谷川)は北畠がヒソヒソ電話で語り合っている場面を度々目撃しました。その相手こそ(略)吉田清治氏だったのです。
北畠は、「(吉田氏のような人は)世間の圧力が強くなると日和ってしまう」とか、「違うことを言い出す」とか、概ねそのようなことを言っていました。
「取材するこちらが常に手綱を強く持っていないといけない」という趣旨のことも話していた」(※記事中は北畠はXと表記されている)。
つまり、吉田の「手綱を強く持っていた」のは、朝日新聞大阪本社幹部の北畠だったのです。
また、この北畠が共産党員だったことも、長谷川は証言しています。
この北畠のみならず、大阪本社内部が、「共産党員にあらずんば記者にあらず」といった空気に支配されていたとも述べています。
私は共産党員が職場にいたとしてもそれ自体は問題ないと思いますが、しかし党の方針とマスコミ報道を混同することがあったとしたならば、それは強く批判されるべきです。
当時創刊されたばかりのAERAの立ち上げ編集部にいた長谷川は、本社とは違った自由な言論空間を作るつもりで、この慰安婦問題にも取り組んだそうですが、それらはすべて握りつぶされました。
「北畠は『AERA』の職場に来た時、「朝日新聞に左翼でない人間なんているのかなあ」と話したり、ある記事が原因でモスクワから追放された経験がある木村明生のことを、「ああいうとんでもない奴がいるんだ。ひでえ野郎だよ。けしらからん」と罵倒していた」
さてもうひとりの重要人物に、北畠と同じ大阪本社社会部幹部だった清田治史がいます。植村はこの清田の社命で慰安婦証言を取るべく韓国に渡っています。
実は、注目を浴びませんでしたが、北畠記事のはるか以前の82年9月の時点で「吉田証言」を書いたのが、この清田です。
元朝日新聞記者で、当時清田氏の部下だった長岡昇は、自身のブログでこう証言しています。
「1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。
この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。
その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。
「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです」(2014年9月「慰安婦報道、一番の責任者は誰か」)
http://www.johoyatai.com/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=1136
後に清田は、植村記事が誤りだと分かった時に既に東京本社外報部長にまで出世しており、秦郁彦の済州島調査で慰安婦報道が根も葉もない誤報だとわかった後も、この誤報をもみ消しつづけた張本人のひとりです。
長岡は、こう述べています。
「清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです」(同上)
そしてもうひとり。ソウル支局長として慰安婦誤報を拡散した人物が、市川速水東京本社編集局長です。
市川は2006年に、既にこう述べています。
「僕の取材でも、腕を引っ張られて、猿ぐつわはめられて、連行されたという人は一人も現れていません。だから、強制的ではなかった、さらに慰安婦問題はなかったとさえ言う人がいるわけです。でも、そうじゃなくて、証言の共通項を見ていくと、あの人たちは貧乏な家で、女衒にだまされて、気がついたら戦地に行かされて、中国などで慰安婦をさせられた。僕は10人くらいかなあ、実際に細かく証言を聞いたけど、もちろん好きで行った人はいない」(『朝日vs産経lソウル発』)
これを読むと市川は、吉田偽証が間違っていることをよく知っています。
そして慰安婦の多くが貧困により慰安婦になるか、女衒にだまされたこともわかっています。今、朝日が取り消したような誤報は、ことごとくウソだととっくに知っていたのです。
つまり、なんの裏付け証言も証拠も存在しなかったが、「好きで行った」わけではないから強制連行だというのですから、たいしたもんです。
この拡大解釈が、強制連行を論破された後の「性奴隷」プロパガンダの基本ロジックとなっています。
その市川が8年後にしたことが、池上彰の原稿を抹殺することでした。
当時、東京本社編集局長という要職にいた市川は、自分がソウル特派員時代に、吉田証言が偽証だと知っており、もちろん挺身隊との混同が誤りだと知る立場にいながら、池上氏の記事を削除するという報道管制を敷いたわけです。
まさに言い訳の効かないジャナーリズムの自殺そのもので、この池上事件が朝日の墓穴を掘る直接のきっかけとなってしまいました。
そして4番目に登場するのが、ジャーナリストというよりもはや左翼運動家として有名な松井やより東京本社社会部記者です。
松井は、朝日の現職記者のまま、1992年8月に開かれたメウルYMCA会館での慰安婦集会(アジア女性連帯会議)を福島瑞穂と主催した人物です。
彼女が果たした役割は、社会部時代に、それまで大阪本社が主に扱っていた慰安婦問題を東京本社に持ち込み、大々的に取り上げ、さらに運動にしたことです。
当時、朝日は慰安婦報道を逃げも隠れもできない「生存者のいる旧日本軍が犯した犯罪」として大々的に報じており、その運動家だった松井は編集委員になります。
ちょっと入り組んでいるので、登場人物を整理しておきましょう。
●朝日新聞「慰安婦」問題を作った人物たち
・北畠清泰(故人)・・・大阪本社論説委員・1992年1月に吉田清治を大阪版「窓・論説室より」で紹介し、世に送り出す立役者となる。
・清田治史・・・1982年に大阪版社会面で紹介し、1992年に植村記者をソウルに派遣する。後に東京本社外報部長時の1997年に誤報と知っていながら握りつぶす。取締役へと出世。もっとも深く慰安婦問題にかかわった人物。
・市川速水・・・2003年~06年、ソウル特派員として慰安婦誤報を拡散。後に東京本社編集局長。池上事件の張本人のひとり。
・植村隆・・・1991年8月、大阪本社社会部時代に清田の命令でソウルに派遣され、義母のコネで慰安婦の歴史的大誤報を書き、慰安婦誤報の象徴的人物とされてしまう。
・松井やより(故人)・・・1992年慰安婦のソウル集会を福島瑞穂と主宰し、東京本社社会部時代に大々的に拡散する。後に編集委員。
このように見ると、慰安婦問題は植村のようなただの平記者が起こしたものではなく、大阪本社中枢、そして東京本社中枢まで絡んだ構造的なものだったことがわかるでしょう。
前出の元朝日記者長岡は、このように書いています。
「慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません」(前出)
これらの、論説委員、外報部長、編集局長、編集委員といった錚々たる朝日新聞のまさに中枢に位置する人物たちが絡んでいるのが、この慰安婦問題の特徴なのです。
このような、「過去の日本を断罪するためなら虚報も許される」という朝日の体質と、韓国の「反日なら何をしても許される」という反日無罪の韓国の異様な体質が増幅し合って、この慰安婦問題を作り上げたのです。
いろいろの人も言っていますが、10億のうち9億9千万円くらいは朝日が払ってバチがあたらないでしょうね。
朝日さん、築地の社屋売りなさい。
※文中敬称略
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-772b.html
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