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2016年1月18日 (月)

台湾人が国民党の軛から脱出できたことを祝福します

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台湾の総統選挙を続けます。 

今回の結果自体はかねてから予想されていましたが、注目されていたのは、国民党の「負けっぷり」でした。 

「国父」である蒋介石をいただく党で、蒋経国時代まで戒厳令まで敷いていた一党独裁国家でした。 

国民党は、革命党という誕生の性格、独裁体質、軍事優先思想、そして個人崇拝まで海峡を隔てた中国共産党とそっくりでした。

中国共産党も、台湾国民党も共に揃って、「ひとつの中国」という言い方を好んで使っていました。 

私が蒋経国時代に台湾を旅した時、売られていた地図には首都は南京と記されていたのにたまげたことがあります。 

では台北はといえば、ただの「暫定首都」にすぎないのです。

国境線もありません。あくまでもあれは国境ではなく、休戦ラインということのようです。

もちろん、中華人民共和国なんて国名は、姿形もありません。 

ですから、立法院には、中国全土の省からの代表を集めたという形をとっていました。 

といっても、大陸全土は共産党に実効支配されているわけで、各省代表といったところでヨボヨボですがな。 

まぁ、そんな虚構の上にちょこんと乗った島だったというわけです。 

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 この虚構は、戦後まもなく蒋介石が行った「2・.28虐殺事件」に端を発しています。 

日本がポツダム宣言を受諾したことにより、連合国軍指令第一号によって海外に展開していた日本軍は武装解除されました。 

中国においては、当時の中国軍である蒋介石軍(国府軍)に投降したわけです。 

この当時、台湾の行方は国際的には未定でした。なぜなら、台湾は日本の領土だったからです。 

しかし、蒋介石はカイロ宣言を根拠として、いち早く「台湾省行政長官公署」と「台湾警備総司令部」を設立し、陳儀を行政長官兼警備総司令官に任命し、国民党軍2万2千名を送り込みます。 

カイロ宣言は国際条約ではありません。いわば、連合国の内輪の談合ていどのものですから、国民党の強引さが目立ちます。 

そして、米艦に乗って台湾に進駐した国府軍は、後に「猿の軍隊」と台湾人から揶揄されるようなヤクザな軍隊でした。 

おそらく、国府軍にとって、自国に駐屯するのではなく、日本領に侵攻するような気分だったのではないでしょうか。

しかも、台湾は大陸よりはるかに優れたた経済・社会インフラを持ち、住民もまた高い教育ていどと生活レベルを誇っていたのですから、尚更のことです。

その上、国府軍ときたら、士気は最低、軍規はなきが如し、物はかっぱらう、女性はレイプする、何かというと発砲して人殺しをするといったならず者の集団でした。 

それまで厳格な軍規で知られた日本軍しか知らなかった台湾人は、あまりにひどい落差にびっくりしました。 

これが、国府軍による「祖国復帰」の第一歩だったわけです。 

この時から台湾人は、大陸から流れてきた兵隊や官吏のことを、軽蔑的ニュアンスを込めて「外省人」と呼び、自らを「本省人」と呼ぶようになりました。 

これは今も残り続ける、台湾の宿痾です。 

さて、それまで日本の経済圏で生活していた台湾は、その時から強引に中国大陸と統一させられます。 

ちなみに台湾の農村を私は歩いたのですが、台湾の製糖業や稲作は日本の素晴らしい置き土産でした。 

日本統治時代に、日本はこの島を真の「美麗島」にすべく、見事な水利システムを作り上げてきました。 

それはさておき、もっとも台湾を苦しめたのが、日本円から台湾元への切り換えでした。 

国民党は、大陸元と台湾元を別に分けて、台湾元を不当に交換レートを安く設定しました。 

このため、中国からの輸入品はべらぼうな安値となり、今まで戦火も被らず安定した経済が運営されていた台湾は、一挙に経済破局に直面します。 

そこに数万におよぶ「猿の軍隊」が流入し、乱暴狼藉を働いた上に、官吏は官吏で仕事もせずに賄賂ばかり強要するのですから、反「外省人」感情が爆発しないわけがありません。 

多くの知識人たちは、先頭に立って民衆の不満を長官公署に訴えたのですが、なしのつぶてで、いっそうひどくなる一方でした。 

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そしてついに、事件は起きるべくして起きました。1947年2月27日、台北市淡水河沿いの台湾人商店街で、心配された衝突が起きました。
 

取締員を名乗る広東人ら6名の官吏は、台湾人女性が売っていた密輸タバコを没収しただけでなく、所持金すべてを巻き上げました。 

女性はひざまづいて現金の返却を懇願しましたが、金を返さないばかりか、あろうことか小銃の台尻で頭部を殴打したのです。 

血を流して昏倒した女性に憤慨した周囲の市民たちが抗議すると、この広東人たちは銃を乱射しながら逃げ出し、それに当たって市民が殺害される事態にまで発展します。 

そしてこれが、全島に広がる「2.28事件」へと発展していくきっかけになります。 

当時重慶にいた蒋介石は、この台湾の暴動を文字通りの血の弾圧で潰ぶす決意をします。

それは蒋介石という人物が、今まで大陸で取ってきた「共産匪賊」地域の掃討戦の手法を、そのまま台湾で踏襲したものでした。

すなわち、白色テロ、あるいは皆殺し戦争です。

3月8日、中国から派遣された13,000名の応援部隊が高雄と基隆に到着し、上陸するやいなや、無差別に丸腰の台湾人を虐殺しまくりました。

陳儀行政長官は、応援が投入される前までは、台湾人が作った「二・二八事件処理委員会」と交渉するそぶりを見せていたのですが、直ちに豹変し、これを解散させ、国府軍の蹂躙に任せました。

この国府軍による、台湾人の無差別な殺戮は高雄・基隆から始まり、約2週間で全島を覆い尽くしました。

殺戮には機関銃が使用され、文字にすることすら憚られるような酷たらしい虐殺が大量に発生しました。

さらに、3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始され、粛清対象は、事件に直接関与していない知識人全般に及びました。

知識人はすべて危険人物と見られて、大学教授、教師、弁護士、医者、作家などが、無差別に逮捕され、そのまま裁判もなく虐殺されました。

日本の教育を受けた知識人たちは、「法治」を信じていました。

日本統治下では、台湾に対する差別はあったものの、「法の支配」はしっかりと貫徹していました。

日本統治下では、いくら政府を批判しても、悪法とは言えども治安警察法などの法によって裁判と処罰を受けていました。

しかし、国民党には「法」がありません。裁くのは「鉄砲」だけだったのです。

これは大陸の毛沢東が唱える、「鉄砲から政権が生まれる」という信条とそっくりです。

この毛沢東のセリフを、日本人は比喩的にとらえているようですが、違います。あれは文字通りに解釈すべきで、「逆らう者は殺す」という意味です。

毛沢東はこの信条を大陸で実行し、数千万人を虐殺しましたが、一方蒋介石はこの美しい島で数万人を虐殺したのです。まさによきライバルです。

この知識人粛清によって、台湾の知識階層は、一時期完全に空白となってしまうほどでした。

この前近代的粛清と虐殺の嵐は、約2年間続きました。これが止んだのは、駐台米国大使がこの蛮行に驚いて、抗議したからだと言われています。

この「2.28事件」での、台湾人の死亡者数はわかっていません。

国民党自身の発表によれば、事件後1ヶ月に殺された台湾人は2万8千名と言われていますが、こんな数字を信じる台湾人はいないでしょう。

Photohttp://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/2...

そして以後台湾は、李登輝が解除するまで、戒厳令下におかれることになります。

このようなことをしてきたのが、今回致命的敗北を喫した国民党だということを覚えておきましょう。

私は、台湾が長きに渡った国民党の軛から逃れる道が開けたことを、率直に祝福したいと思います。

 

 

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コメント

台湾の民主主義も血の歴史の上に成り立ってきたのですね。私も今回の結果を祝福したいと思います。沖縄には昔から台湾系の方々が多く暮らしており共存しています。日台交流、沖台交流が今後増々進むことを切望します。

小生が始めて台湾に行ったのは、もう李登輝総統になってからで、それが小生の最初の海外旅行でした。
親戚の、今は亡き叔母が戦前、台中と花蓮の間の今の国道14号線沿いの小さな村で小学校の女教師をしておりました関係で一緒に訪問したのです。
叔母は「この村が私の生まれ故郷だ」と言わんばかりの感涙にむせび、教え子たちと邂逅する姿は感動的でした。
俗に、「~族」と言われる人々の村で、台北の都会人とは風習も言語も少し独特な感じがしたものですが、彼らの挨拶の仕方や礼儀作法、規律正しさなど昔の「良い日本人」を見る思いがしました。

そんななか、「村にも漢人が増えている」と妙な話が出ました。
村の人口は年々減っており、外省人が流入した形跡もないのです。
つまり住民登録上「漢人」として登録し直しておくことで税制上の優遇が得られたり特典があるので、そのような身分に変更する人が増えた、という程の意味でした。
こんなかたちで台湾は「元来より中国人の島」という神話が形成されていったのではないか、と思います。

村の助役は「日本軍が去り、悪いものは全て大陸から来た」と言いました。

当時の台湾の地図について、私が小中学生の頃の社会の授業時には教師がその話を枕に
「こんな無理のあるモノを誇示しないと成り立たない台湾に国としての正統性は最早無い」
「片や中共は計画的に国を発展させ始めている」
「そのような計画性の無さが今の日本の公害を生み出している」
と話を熱くつないでいました。冒頭と末尾以外に確かめようのない情報を下に語られる理想をノートにとるのが社会の授業だったんだなあと苦々しく振り返っています。
検証に耐える質と量の記録を切れ目なく残していくと、この記事のように当時を知らない私達でもある程度の事実把握が出来るのですね。
沖台交流が益々盛んになればと私も願います。

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