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2016年2月 7日 (日)

命を捨てても、米軍基地はなくならない(再掲)

091
一回削除したのですが、ご要望がありましたので、恥をしのんで再掲します。

青年期の頃のことは思い出したくもあり、思い出すと身震いするほどイヤな時があります。今回は後者のほうです。

                       ~~~~~

私の「テント村暮らし」は、大昔の相模原戦車阻止闘争しかありません。それは相模原補給廠から修理し終わった戦車を、ベトナムに搬出するのを止める闘争でした。 

Photo_7

大分前に記事にしたことがあります。

7年前のものですが、2011年の福島事故前のものですので、今読み直すと、まだしっかりリベラルしていますね。
※関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1_0e52.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_809c.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_bb68.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/4_010c.html 

テントの中で、学生たちは安酒を飲みながら、熱量だけは高い議論に明け暮れていました。 

当時私たちも、三島事件の影響を強く受けていました。 

もうこんな座り込みやデモだけでは基地はなくならない、日常的に米軍戦車はベトナムに送られてしまう、という強烈な焦りがありました。 

そして、当時の私たちの中に芽生えていたのは、身体を張ること、それももはや自死を前提にした米軍基地攻撃しかないんじゃないか、という思い詰め方が登場するまで、そんなに時間がかかりませんでした。 

丸腰で基地に突入して米兵に撃ち殺されれば、この重い扉がわずかに開いて、なにか新しい展望が開けると思っていたわけです。 

思春期から青年期にありがちな、自らの命の重さと「大義」をてんびんにかけて、自分の生命をまるで塵芥のように軽く考えていました。 

思えば、自分の生命が自分だけのものだと信じている当時の自分に、今の私は舌打ちしたくなります。

それはただの青年期特有の近視眼と奢りにすぎません。 

私は私だけで生きているわけでない。自分を育ててくれた両親がいて、それと地続きになった命の連鎖の上に自分がいるという簡単なことに気がつかなかったのです

まったく恥ずかしいほど、幼稚だったと思います。

私は、同世代の人たちがまるで美しいだけの記憶で、70年安保前後の武勇談を語るのを見ると、苦々しい気持ちになります。 

第一、そのような命の捨て方では、米軍基地はなくなりません。 

基地は世界情勢の必然的要請があってそこにいるのですから、淡々とそのまま「そこにいる」だけなのです。 

本気で変えたければ、米軍基地かそこにいなければならない国際状況を少しでも変えていき、その中で徐々に今の矛盾点をひとつひとつ洗い出して、改善していくしかないのです。

時間はかかりますが、青年には私より多くの持ち時間があるはずです。

しかし、直ちに結果を求めたい者には、一時的な状況の突破感があります。

だから怖いのです。 

 

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コメント

再掲ありがとうございます。それと過去記事と。胸が熱くなる、というか締め付けられる感じです。

それに引き換え、昨日の朝日の寂聴さんとSEALDsメンバーの座談会ときたら。
「青春は恋と革命だ!」とか、安保では安倍に負けたけど、またやれば良いとか、
終わりの方では、自由や民主主義は義務や責任に縛られるものではないとか。
寂聴さんもそれでいいの? ここは大人として窘めなければいけないんじゃないの?

反戦というからには大義のために命を投げ出す覚悟がなくては説得力が無いと思いますが。
こんな薄っぺらい奴等を増長させたのは中国? それとも日本?
沖縄運動家の狼藉に通じるものがありますね。

この記事が最初に出た早朝に、私は運良く読んでいました。
すぐに訂正されたのでコメントを控えておりましたが、大変考えさせられ、感じるところがありました。
再アップありがとうございます。

当時のブログ主様は「真」を行なえば「命」をすてるキワまで行かざるを得ず、という当時の青年らしい純粋さでもって切羽詰ってラジカルな思考に支配されつつあった。
これを押しとどめたのは、
>私は私だけで生きているわけでない。自分を育ててくれた両親がいて、それと地続きになった命の連鎖の上に自分がいる、
という事に気づかれたんですね。

この記事が最初に出た日、早朝に読みながら前の晩に、HNふゆみさんがしたコメントを思い出してました。
子供達までブロック積みにかり出す運動を憂い、ふゆみさんが反射的にした事は、まず第一に教育者だった自分の親御さんを思い出した事です。一人一人の児童に真剣に対峙されていたことに思いをはせたんですね。
(これを読んで私は、すべてに反抗的だった私を叩きながら、私を叩いている先生の方が泣きじゃくっていた事を思い出しました。)

HNふゆみさんはある社会的に暗い事件が起こったとき、ご自分のご両親を思い出し、ブログ主様も両親や連関する(自分を生かしてくれている)すべてを思い描いてその結果として無為な行動を思い止まった。
実はこれが、日本のリベラリズムの特徴なのだと思いますね。
両親はじめ他者から受けた思いやり、(先祖たちまでを含めた)自分を取り巻く全てに人々から受けるやさしい矜持が今の日本人を作っているんでしょう。
そして、この「日本のリベラリズム」に左翼は敗れ続けてきたんです。

ところで私は最近、日本の歴史を勉強し直しています。
かつて家永三郎先生やEHノーマンの日本史を十分すぎるほど勉強しましたが、それらの書籍での学習はまったく不十分なものでした。
最近の保守派の本を読むのは癪に障るので、古本で絶版された坂本太郎教授の日本史などを読んでいます。
そうすると概ね日本の歴史は暗い時代と明るい時代を繰り返しながらも少数者を排除せず、むしろその異端から多くを学んでき、為政者は弱いものを対立の対象とみる事はして来なかった。世界でも稀有な歴史が見えて来ました。

かつて私は「日本の歴史と伝統ガ~」などというネトウヨさんの決まり文句は反吐が出るほど嫌いでしたが、(まだ勉強中ですが)現在を生きる私達のマインドや心底に大きく受け継がれ関連している、と思うようになりました。
ネトウヨと言われる人達がどれだけ本当に歴史を理解しているのかわかりませんが、以来「ネトウヨ」と軽蔑的に呼称する事はやめにしました。


初めて投稿します。九州に移住し農業をしながら暮らしています。東北の震災がれき処理の九州への受け入れ処理問題(2012年)の時、本ブログを知って以来毎日欠かさず拝読しています。
管理人さんの情報収集力と分析力に感服していましたが、その背景にこのような青春期があったことを知り、本ブログのさらなる発展の可能性を感じました。

実は私も同じような青春期を過ごしています。3・26三里塚(成田)空港開港阻止闘争に参加していました。と言っても管制塔に突入したく組(党派の組織員)ではなく、フツ―に?ヘルメットと手ぬぐいをかぶりデモをしていただけです。
当時は党派に属しない新左翼(過激派)を自ら”ノンセクトラジカル”とか呼んでいたかと思います。
簡単に言えば全共闘世代の残党で、そんな彼らのかっこ良さにあこがれて?その道に入った次第です。
既に会社員でしたが、当時は本当に恥ずかしい程の正義感にあふれていました。それに少しばかりイデオロギーがあり、”階級闘争”というものの考えを真に受けていました。
私の場合、会社で仕事をしていましたので、その中で世の中の現実というものを少しずつ知っていきました。転機になったのは自分のことを我がことのように考えてくれた、先輩や上司との出会いでした。そして仕事が面白くなり、それを評価され収入も上がり”努力が報われる”ことを体感していきました。

「労働者は搾取され・・・」とその筋の教科書にはあります。「資本家階級の・・・」ともあります。しかし会社のどこをとっても、それこそ社長に至るまで、一人の社員が階段を上がっていった姿しかありません。少なくとも現代の日本は階級社会ではありませんでした。

私も民主党の政権交代に期待した一人です。しかし鳩山さんや菅さんの醜態を見て失望しました。国家を背負う気概も能力も無い人達だったのです。市民運動と政権とは次元がまったく異なります。
私は「自民党の政権が100年は続く」と妻に言っています。

沖縄・辺野古の反対闘争の中心メンバーは階級闘争としてやっているようですね。階級闘争をやっている限り出口はありません。闘うこと自体が目的なのですから。

山路さん、そうですね。それが命を守られ生活を保障されている者の持つリベラリズムなのだと思います。だからこそ、ここをもし読んでいる人がいたら己の幸せを今一度振り返って欲しいと思いながら書いていました。
では親に愛されず、もしくは一家で日々の食事や布団にも事欠き、あるいは親を失った子供達は如何なるか。私の見てきた日本人でそのような人々は左翼でなく右側の反社会組織へと流れていきました。それはイデオロギーではなく一宿一飯の恩義や生きる為に繋がる絆で、善し悪しはともかく日本の革命勢力は彼等を引きつけられなかったのが敗因だと今考えています。
でもヤーさんや極右の下部の鉄砲玉は左翼デモ要員より、ずっとずっと悲惨なのです。
40年前には私も「オジちゃんはカッコええなあお父さんは学校で教えてるだけやん」と言って母親にめったくそに怒られていました。順繰りにそうやって教えてゆけば良いのだと思っています。

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