島の異物としての米軍
私は普天間移設問題などに見られる沖縄問題の根深さは、皮膚感覚の違いにあると思っています。
つまり、本土が経験しなかった、本土決戦は沖縄においてのみなされ、その結果沖縄の「戦後」とはそのまま米軍の直接軍政下でした。
いわば軍事占領が継続されたわけです。この「占領」はサンフランシスコ条約によって主権国家に戻った後も継続し、実にその後20年近く沖縄は「占領下」にありました。
私が恵隆之介氏の著作に違和感を覚えるのは、恵氏がいくら軍政下の米軍の「善政」を紹介しても、それが異民族による軍隊によってなされたということを軽く見ているような気がしていました。
米軍基地に対する過剰な依存構造もまた、この時代に生まれたもので、沖縄にとって戦後復興とは米軍基地建設であり、米兵相手のサービス業だったのです。
私も含めて見落としがちなのは、この生々しい皮膚感覚とでもよぶべき感覚です。
この米軍に対するアンビバレンツな感情が底流にあることを見逃して、基地問題を語るべきではありません。
たとえば、翁長氏という政治家の言説が、なぜ沖縄県民に響いているのか見ないと分からなくなります。
たぶんそれは、島の中に連綿と続く土着的な力が、異民族の力のシンボルである「基地」という異物を排除しようとする自然の応力みたいなものではないかと思えます。
ですから、沖縄の基地を単に安全保障という外交・軍事の眼だけで見がちな私たち本土人は、根本的なことで見落としがあるのでないか、と私は思い始めています。
保守にとって守るべきは沖縄なのか、それとも基地なのでしょうか。
時として保守は、日米安保のみが「保守」すべき対象であると見てはいないでしょうか。
今回の移転問題は政策的には小学校算数のようなところがあって、移転反対ならば普天間基地は居つづけるだけです。
私たち本土人にはなんでこんな簡単なことが分からないのかと嘆きますが、それは「ここで移転を許したら、基地が永久に固定化されてしまうのではないか」という県民の恐れの感情を見落としています。
そこに米軍基地の半永久的固定化の匂いを嗅ぎ取るから、県民は翁長氏の言説に皮膚感覚でなびいてしまうのです。
ですから、今回の移転問題において異民族軍隊の半永久的基地を作るのではない、ということを本土政府はきちんと説明すべきでした。
この真正面からの説明を、本土政府はしていません。これは政治の怠惰ではありませんか。
また、海兵隊という存在に対して、県民の土着的な反感は消え去ることはないはずです。
なぜなら、米軍から様々な経済的利得を得たとしても、島の「異物」だからです。
しかも彼らが犯した数々の性犯罪は、95年の小児性愛者によるもののように、唾棄すべきものでした。
保守は単純に県民の犯罪率と米軍人の犯罪率を比較しますが、それは根本的に見誤っています。
県民がしたのと、異民族の、しかも軍人がしたのとではまったく軽重が違います。
外国軍人の異常性愛者犯罪は、日米安保の一方的廃棄通告事由になりえました。一方的廃棄を背景にして、日米地位協定の抜本的改定に進むべきでした。
ところが、本土政府はこの異常性愛者の兵隊を引き渡せとは言いませんでした。そして官僚同士で「好意で引き渡す」こともあり得るという玉虫色の合意を取り付けただけでした。
ふざけるな、と沖縄県民が叫んだのはあまりに当然です。
本土政府が守ろうとしているのは日米安保なのか、それとも沖縄県民なのか、です。
日米安保が守ろうとしているのは国家で、国家の義務は国民の安全を保障することに尽きます。それができない国家は国家たりえません。
国家たりえない国家が結ぶ同盟とはなんなのでしょうか。それは単なる従属、あるいは屈従の言い換えにすぎません。
従属国家に我々を守れるはずがない、彼らがするのは金をバラまくだけだ、これが県民の本音です。
翁長氏という政治家が登場したのは、この県民自身うまく説明できない鬱屈した感情を背景にしています。
私は、米軍基地に対して「期限」をはめるべき時が来ていると思っています。
先日の高裁の「抜本的和解案」は、このことを鋭く指摘し、20年後の返還交渉と軍民共用を説いていました。
またかつての、稲嶺知事時代の期限つき移設容認論も同じ文脈です。この時に稲嶺氏に助言したのは、ほかならぬ翁長氏でした。
政府は、外国軍そのものである海兵隊に対して、なんらかの縮小計画をもっと鮮明に明示して、島の未来には海兵隊はこの島から姿を消すという道を示すべきです。
移転が固定化につながるという県民の気持ちに対しても、一笑に付すのではなく、けっしてそうはならないということを、本土政府は説明する義務があります。
その中で、島の安全を守るためには一定の米軍の存在も必要だという理解にたどり着くべきなのです。
本土のためだけに米軍がいるのではなく、沖縄防衛のためにでもあるということを、しっかりと理解すべきです。
迂遠ですが、沖縄県民に対して本土人が「同胞」と呼ぶためには、それが結局は近道ではないでしょうか。
これが、昨日、生煮えでしたが、米軍と基地の縮小計画を私なりに考えた動機のようなものです。ご理解いただければ幸いです。
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いつも貴ブログを拝読しています。
ブログ主様の慧眼卓説には敬服している者の一人です。
島の異物という見解は正鵠を射ていると思いますし、沖縄の人の機微をよく理解されていると思います。
私は革新勢力に与するものではありませんが、今の保守に決定的に欠落している点を実に的確に指摘されたと思います。
普天間の危険性除去は極めて重要ですが、一方、他国軍隊の常時駐留という異常事態を放置し続け、これに蓋をし続けるのでは優れた政治とは言えないとも思います。
このため、沖縄の人は基地問題に関して「治者と被治者の自同性」を全く感じられない状況に置かれ続けているのだと思います。
オール沖縄と称する単なるアジテーター勢力が権力を奪ってしまった悲喜劇もこのために起こってしまったのではないかと。
投稿: | 2016年3月25日 (金) 07時56分
昨日の私のコメントは少々ルール違反というか礼を失していたかな、と反省しております。
ブログ主様には寛容に受け止めていただいたようで幸いでした。
どうも、かつての左脳のラジカルなある部分が突然発作を起こしたようでして。(笑)
また、山形さんはじめ、コメント常連の皆さんに適切な意見や助言をも賜りました。
何かこのブログやコメント欄の非常に小さな取るに足らない世界ですが、幸せを感じてしまいます。
ですが、おそらくブログ主様と私との考えは根本的な部分は一致していると考えています。
それは沖縄県や沖縄県民に対する好意的で感情的な部分が似通っているからだと考えます。
以前、ブログ主様は「曰く言いがたいが沖縄県や県民に引き寄せられる」というような主旨の事をおっしゃいました。言い得て妙です。
沖縄に魅力を感じる多くの本土の多くの皆様は、「素晴らしい自然、沖縄県人が好意的で開放的、誰にでも親切」などという判で押したような表面だけの好評価をします。
おそらく、そう言う皆さんは誤解しておられる。
外面だけの事で本当には理解しておられないでしょう。
沖縄県人の内奥はそう簡単ではありません。
熟知している人が短く答えるなら「曰く言いがたいが~」と言うしかないのです。
私は宮古島市に生まれ、祖父の代からの革新系支持者一家で育ちは本土、浦島太郎状態で再び宮古島に帰りました。
あの頃の沖縄県人は、口の重さは津軽人、頑固さは会津人のようで誠に苦労しました。
そして当地においてだけでなく、一定年齢以上の方は基地問題に関する不満は象徴的なものにすぎず、本土に対する感情に一種特別なものを持っていると言わざるを得ません。
それは単に劣等感といったものでもなく、歴史的なものでもなく、彼我の「違い」を基とした「何か」です。
ここを正確に感じ取れないと、あらゆる施策も意味がないのではないでしょうか。
また、これが翁長知事が選挙に強い所以でもあります。
仮に安全保障上の必要を度外視して考えてみるとします。
米軍の全軍撤去、自衛隊基地すらも沖縄から撤去したとしましょう。
しかし、これらがすべて実現したとしても沖縄は変わりません。
むしろ、本土との紐帯が薄くなるだけだと思ますね。
誤解をおそれずに言えば、海兵隊による数々の性犯罪はきっかけに過ぎず、あれらの事件が無かったとしても大きな方向性は変わってはいなかったでしょう。
この事の解決は現在以降、なお数十年の時間だけが成し得る業だと考えます。
それまでは将来に向けた無理な計画などは沖縄に約束せず、つかず離れず静かに寄り添って行く他ないのだと思います。
本来なら、キャンプシュワブ陸上案がよりよい案だ、という考えはブログ主様と同じです。
しかしそれが程よい時点で沖縄県側から能動的に出ることがなく、結局は辺野古を埋め立てる事になるのは誠に残念です。
政治は実効性を担保したものでなければ意味がありませんが、県に対するある種のおもんぱかりが逆に悪い選択をしてしまった。
悲劇としかいいようがありません。
前言を翻すようですが、今直ちに県側から陸上案に転換して一致推進する、として国や米軍がこれを受け入れないとすれば私は翁長氏を支持します。
ただし、交渉云々ではなく県側の自主的能動的な発意による場合のみです。
これだけ明かな事がなぜできないか? この原因は県民中のサイレントマジョリティー層がある意味抑圧され、声を上げられない状態にあるのも事実でしょうが、それだけではありません。
彼ら自身の中にも問題があるのです。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年3月25日 (金) 14時11分
私は以前、「いわゆる基地左翼ではない一般の沖縄県人で翁長氏を支持している人たちの生の声を聴きたいが、新聞、TV等のメディアでは報じられないのが残念」という趣旨のコメントをさせて頂いたことがありますが、本日のブログ記事や山路氏のコメントをみて、少し納得しました。
一般の沖縄の人たちの生の声を拾い上げて本土に伝えるような報道を期待したいと思いますが、実際は基地サヨクにインタビューして、「この沖縄の声を首相はどう受け止めるのでしょうか?」などとやっているのを見ると中々難しいのかなと思います。
投稿: 山口 | 2016年3月25日 (金) 16時37分
管理人さんのおっしゃる「皮膚感覚」しっくりきます。「公務中」の米軍がなんかやらかしても沖縄は手出しできない。そういった小さな積み重ねが常にあります。米軍の善政だってあったのはわかる。公衆衛生に力をつくしたり、教育もそれなりに重視して琉球大学を維持し、優秀な人材を米国留学させたり(左翼系の方もいますね)もしてます。それも米軍・米国が統治しやすいようにコントロールするための施策という面もあったと思います。
沖縄はB円経済の時代がありました。1ドル360円の時に1ドル120B円という超円高の様な状態にされ、製造業は成り立たない状態になり、経済的にも日本と分断され米軍に依存せざるをえない状態にされました。経済的にも心理的にもまさに占領されたのです。
http://www.sokuhou.co.jp/library/uehara/uehara03.html
生きていくには金を稼がないといけないのですから米軍に依存せざるえなくなれば、そりゃ基地周辺に人が集まります。それをしたり顔で「勝手に集まってきた」なんて言われれば私でもむっとはします。ただやたら強調されるように危険なめにあったことがないという証明にもなってしまってますが。それでも冲国大へのヘリ墜落事故が起きると危険が現実のものと認識されることになりました。最悪なことに被害者たる宜野湾市、沖縄県が事故処理にまともに関与できないという現実もさらしました。
下地幹郎氏も提唱していた嘉手納統合案は個人的にはいい案だと思っていました。しかし、実のところ沖縄では米軍自体の事情で無理じゃない?と、思われているふしもあります。Air ForceはMarineを一段下にみていることは結構知られています。もちろん嘉手納基地でも共同訓練はするでしょうが、Air Force側としては「軒先貸してやるくらいはいいけど、同居とか絶対無理」ってとこです。そんなあんたらの事情なんてこっちは知らんと言いたいんですけどね。これもある意味「皮膚感覚」でしょうか。
ただことさらその「皮膚感覚」を匂わせるようなこともしたくありません。私達沖縄県民も同じ日本人です。皆がお互の立場を思いやって知恵を働かせていくことがいい方向に向かうものと思っています。ともかく政府には基地協定に本気でとりくんでもらいたいと思います。
ここのところ、当ブログのコメントのレベルが高すぎておじけづいています。それでもまた、つまらいコメントすると思いますがご容赦ください。
投稿: クラッシャー | 2016年3月26日 (土) 00時45分
山路さん、ありがとう。内容的にはちょっとかんがえさせて下さい。
このテーマ、自分でふっておいてなんですが、重いですね。
昨日の記事は、通常の私の記事と違って、結論ができていて、書いているわけでもないので、ご意見をいれて変化する可能性もあります。
今日の記事に関しては、私の沖縄観の底にあるものです。
同じことを言うにも、分かった上で言うのか、分かろうともしないで言うのか、ではまったく違うと思います。
本土のバカなネット保守は、分かろうともしないで、言っている者が多すぎます。
クラッシャーさん、おひさしぶり。そんなこといわずに来て下さいよ。
島の若い人の意見はすごく刺激になります。また、お待ちしています。
投稿: 管理人 | 2016年3月26日 (土) 03時49分
皮膚感覚の違いについて、在沖の方々のご意見をなるだけ多くうかがいたいです。これは何が正しいとか答えの出るものではないので反論とか気にせずに、書いていただければ嬉しいです。管理人さん、勝手にコメ欄で願い事はまずければ止めて下さいねf^_^;)
投稿: ふゆみ | 2016年3月26日 (土) 10時23分
拝読いたしました。いつもの記事と違って、もやっとした読後感が残る記事でした。
もやっとした理由のすべてが自覚できているわけではありませんが、一つには日米同盟の不対称性を解消して日米同盟を真っ当な軍事同盟にするには、自衛隊を普通の国と同じような軍事組織に増強することが不可欠ということがあります。防衛費はNATO諸国並みのGDP比1.5~2.0%にしないといけないでしょうし、若年者を中心に人員も増強することになるでしょう。
GDPの0.5%分の財源に必要な税収は消費税であれば1%の増税になります。景気に与える悪影響はGDPを0.6%くらいは押し下げるくらいのものにはなるでしょう。さらに、軍事同盟を機能させるには憲法9条第2項の廃止という問題も出てくるでしょう。これは本土側に相当な覚悟を強いるため、実現可能かどうか大いに疑問です。
さらに、そうやって自衛隊を増強して沖縄に配備し、米軍の一部と置き換えたとして、沖縄の人はそれでOKしてくれるのか、そこがもやっとする第二の要因です。私の勘繰りに過ぎないとは思いますが、立川同様に自衛隊員の本人と家族を含めた住民登録拒否という人権侵害までやってのけた沖縄だけに、自衛隊もまた沖縄にとって「島の異物」と思われていないか、そこが心配です。
そうした「もやっとした気分」を扱いかねていたところ、私の沖縄県民に抱いている印象を、山路さんは見事に表現してくださいました。山路さんの仰る、「口の重さは津軽人、頑固さは会津人のよう」、「本土に対する感情に一種特別なものを持っている」、「彼我の『違い』を基とした『何か』」という表現は、まさに私が感じていたことそのものでした。
もしかしたら誤読しているのかもしれませんが、お互いに隔意を持ってしまっている現状を改めて自覚させられ、大変重いテーマであることを再確認させられてしまいました。
投稿: knorimoto | 2016年3月26日 (土) 10時25分
knorimotoさん。記事で答えます。
投稿: 管理人 | 2016年3月27日 (日) 05時00分