「言論」と「実践」は違う次元だ
とうとうHN読谷人氏から、この人物らしい殺し文句をもらいました。
「言っちゃ悪いけど沖縄に住んでもいないのに随分と必死で沖縄県の選挙と政治に絡みたがって不思議に思いますよ。
私はあなたみたいに「挫折したー」とかいって沖縄から出ていくことの出来ない人間です
だってムートゥーヤーや亀甲墓をかついでいくことなんかできませんからね。
この土地で暮らしていくしかないんだから政治ってとても大切なことなんですよ。」
いつもいつも、これです。
最後に議論に詰まってくると、ほとんど法則的にと言っていいほどの確率で、このような人たちの口からは、決まって「腐りナイチャーは帰れ」といったむき出しの排外主義言辞が飛び出します。
そのくせ自分のたちの主張をヨイショしてくれる、鳥越氏、金平氏、佐藤優氏などのことは、おなじナイチャーでありながら、この私など比較にならないほど「島の選挙と政治」に口だししていても、都合よくスルーしているようです。
まぁ、ここまでは毎度のことだと思いながら読んできた私も、この2行にはたぶん青ざめていたことでしょう。
この人物は、こう書きます。
「まるで県外から辺野古の抗議に来ている所謂「外人部隊」と呼ばれる県外の人みたいですね。
まあ、ネットでカタカタ書いてるだけの人と実際に行動に移している人を同列な扱うのは失礼かもしれないけど(笑)。」
なにが(笑い)だ。
なにが「ネットでカタカタ書いてるだけの人と実際に行動に移している人を同列に扱うのは失礼」だ。
ふざけるな。
なにが「逃げた」だ。私の島での苦闘など、何ひとつ知らないくせに!
私がどれだけ島に残りたいと思ったのかも知らないくせに!
島に戻るために、どれだけあがいたのかも知らないくせに!
読谷人氏とやら、そんなにひとを傷つけるのが楽しいのですか。
もし読谷人氏が、私を傷つけて喝采を叫びたいのなら、おめでとう。それは充分に成功しました。
さて、私も村の住人です。
ですから、私は沖縄の地を、他人の生きて暮らしている生活の場だと敬意を払っています。
だからこそ、土足で踏み込んで、騒ぐようなまねだけはしないだけです。
百歩譲って、そこが嘉手納基地のフェンスの周辺なら、「人間の鎖」なるものを作ってナルシズムに浸るのもいいでしょう。
「腐りナイチャーの官僚・政治家、そして、島尻安伊子に呪いをかけてください!」 とのサイトから引用
http://ameblo.jp/masaminarita/entry-11913840931.ht...
しかし、そこに現実に人が働いている辺野古漁港に乗り込み、漁民をつかまえてあろうことか、「あんた方、この美しい海を売るのか」などということは私にはできません。
私が漁民ならその場で、殴りたくなるでしょう。
実践と言論は、本質的に違う次元で営まれています。
言論は「行動をしない」というその一点で、それを自制する心において、初めて成立する孤独な作業です。
だから「島の選挙と政治にからみたい」などと思ったことは、ただの一度もありません。
一方、マルクス主義を根源とする左翼思想は、「実践なき言論は無だ」と教えています。
これはマルクス主義が、キリスト教を母胎にして誕生したからです。
私はかつて、マルクス主義の強い影響下で青年時代を送りました。
しかし、最後まで帰依できなかったのが、「実践」運動を唯一無二の絶対条件とする思想のあり方でした。
実践というとなにやら知行合一のようでカッコイイがいいですが、自らの諫めではなく、要は他人に自分たちの思想を押しつけることにすぎません。
左翼用語で、それを「大衆の組織化」と言います。 遅れた無知蒙昧な「迷える羊」を導いて正しい道に連れていくことです。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/image/news/1...
沖縄から少し離れてみましょう。
この「遅れた無知蒙昧な大衆」が、どんな経路で成長しカルト化するのか、ひとつの実例があります。
かつて脱原発を唱える人たちの集団に、大量の自主避難者が生まれました。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-f2f9.html
多くは女性でしたが、彼女たちの手記を読むと、福島事故に対しての怒りや不安が疑似カルトに転じていく様がわかります。
※放射能パニックからの生還=ある主婦の体験から — 自らの差別意識に ...
そこには彼女が告白しているように、「脱原発を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされ」た心理的背景があります。
このSさんの場合、中年期特有の家族問題をかかえていました。
そのような時に、福島事故が起きたわけです。これはのしかかる苦しみであり不安であると同時に、彼女にもうひとつの福音を与えました。
つまり、脱原発を唱えることで、「自分探し」ができることに気がついたのでした。
当時、武田邦彦、岩上安身、上杉孝、早川由紀夫といった悪質なデマッターたちの宣伝によって、無数の主婦の脱原発サークルが生まれていました。
この小サークルの内部にいる限り、事故前に抱いていた不安心理から解放される気がしました。
サークル、「円」もしくは「環」と訳すことが可能なこの言葉は、言い得て妙です。まさにそれは閉鎖的な「環」なのです。
「居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました」という気持ちの安らぎは、まさに宗教が与える法悦感そのものでした。」(手記より)
これがカルト宗教特有の絶対的帰依心理です。
もちろん一般的な宗教においても似た真理は存在しますが、オーソドックスな宗教では安易な覚醒を「生悟り」として排する歯止めが存在しています。
帰依した者のみが「救済」されるのですが、それは大変に少数のエリートに限定されます。
ここで生まれるのが、「自分たちだけが覚醒した選良だ」という、ねじくれたエリート意識です。
そして「選良」がなすべきは、無知な大衆に真理を外部注入することです。
周囲に「回心」を迫り、いままでの罪深い社会を捨てて、真理に目覚めて、共に救済されましょう、と呼びかけることになります。
これをキリスト教においては、コンバージョンconversionと呼びます。
共産主義を生んだマルクス主義もまた、実はまったく同一の内部構造を持っています。
人類解放の真理である共産主義に絶対的に「帰依」し、覚醒した同志だけで作る「選良」が党を作り、愚かな大衆を「回心」に導く、というわけです。
共産党員が、そこはかとなく新興宗教に酷似した雰囲気を持つのは偶然ではないのです。
共産党こそ疑似宗教、即ちカルト宗教の元祖だからです。
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/225.html
かくして、彼らは嬉々として国会前で布教活動をすることになります。
よく誤解されていますが、彼らはほんとうは怒っているのではありません。擬似的「自己解放」、あるいは「自己実現」の喜びに全身を浸して、法悦して布教しているのです。
読谷人氏は、沖縄の反体制人士をカルト宗教呼ばわりしますが、一回でも真面目にカルトを考えたことがあるのでしょうか。
読谷人さんは、どうやらフランスのライシテを知らずに、創価学会を揶揄していました。こう彼は書いています。
「この前の宜野湾市長選では佐喜眞を公明党が推薦していたが、それでもアレがオール沖縄の重要な一角を担っていると言えるのかね?
アレをカルトではないと言い切れるなんて管理人さんは信者に囲まれて折伏されたことのない幸せな人なんですねー」
きちんと勉強することです。勉強して批判しなさい。
別に創価学会を擁護する気はありませんが、彼らはもはやカルト宗教と非難するには難しい「既成宗教」に脱皮しています。
ライシテに関しての関連記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-0051-1.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-73f2.html
http://hi-hyou.com/archives/3432
今、私は江崎氏や我那覇氏たちを「反体制人士」と呼びましたが、日本全国を見渡しても、これほど苛烈な差別と言論弾圧にあう人たちはいないでしょう。
もしネット言論が存在しなかった10年前だったら、彼らの声はまったく封殺されていたはずです。
「オール沖縄」は自分たちこそが反権力だと信じて疑わないようですが、笑止です。
読谷人氏のような人は、ただの多数の「民意」に奢る体制に安住する者にすぎません。
もし違うというならば、実名で登場し、ただのひとりの人間として発言することの深甚な恐怖を味わってからにすることですね。
私は左右のカルト、即ち疑似宗教に対してきわめて冷淡です。
もし我那覇氏が突然、「ご霊言によれば」みたいなことを言い出したら、支持するのをやめますがね(笑)。
ただし、背後に宗教団体があろうとなかろうと、ひとつの言論活動としてそれをなすなら、その限りではありません。
いくらでもお話し、その議論がまっとうならば、称賛しますし、くだらなければ批判します。
ただそれだけです。
私が我那覇真子氏の活動を評価するのは、彼女の活動が徹底した言論活動であることがひとつ。
そして彼女たちの言論活動が、島全体を疑似カルトにしたかのような「オール沖縄」の同調圧力と真っ向から戦っているからです。
そして彼女が、基地問題を民族問題にすり替えた翁長氏の偽善を鋭く暴いたからです。
読谷人さん、フランスの「ライシテ」とは、他者が己が宗教を批判する<自由>を許容する苦痛に満ちた受忍のことなのです。
あなたは、それが分かっていましたか?
他者にカルトとレッテルを貼るあなたこそ、実はカルトかもしれないんじゃありませんか。
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昨日は朝から夜中まで凄いことになってましたね。
嫌がらせ専門の小者ゲリラ相手ばかりでしたが、相手をイライラさせるのには効果的でしたね。
気分を代えてドイツ記事にでも戻りたい月曜日だったでしょうが、まだそうもいかないようで…。管理人さんお疲れ様です。
結局はいわゆる沖縄サヨクの人達は自分達だけの「正義」とやらだけが心の拠り所で排他的なカルト化していることばかりが強調されることばかりでした。残念です。
このような浅はかなコメントを見ていると沖縄の左翼さんが言う「島」って、ヤクザの「俺達のシマ」で他人が口出しすんなやぁ!のシマと同義じゃないのかと…。
今日の記事にもあるように、マルクス主義やカルトについては管理人さんのほうがはるかに造詣が深い。もうお話にも成らないほどの差です。国会議事堂前で去年から「アベ政治を許さない!」などと叫んでいる連中と、それに乗っかる野党幹部の面々。あれこそカルトの政治利用ですね。
こんな事件(いや被害者を思うとこんななどと言うのは極めて不謹慎ですが、これは全国どこでも起こりうる事件です)何を言っても「基地があるから犯罪が起こった!NO BASE!」とプラカード持って嘉手納に集結してる方々、
同じ論理だと「TBSがあるから坂本弁護士一家は殺害された」ことに異論はありませんよね?
長くなりましたが殺伐としてきたのでちょっとしたヨタ話を。
ロシア革命に大きな影響を与えたサンクトペテルブルクでの演説の頃、シベリアに巨大隕石がほぼ同緯度に衝突。これがツンガースカ大爆発。
もし4時間ほど遅れていたら…人類史が大きく変わっていたことでしょう。
投稿: 山形 | 2016年5月30日 (月) 07時58分
コメント欄の荒れ方、今朝の記事を読んであっけに取られました。
沖縄に生まれ育ち、沖縄の現在と未来を担う努力を続けている者として、読谷人氏の言い草を恥ずかしく思います。
管理人さんはいつも誠実に対応しておられますが、いささか誠実過ぎるのではないか、これでは心身が持たないのではないか、と心配です。
どうか外野の暴言に心折れることなく、これからも秀逸な記事を読ませてください。応援しています。
投稿: ミィ | 2016年5月30日 (月) 08時19分
知行合一(陽明学)、義を見てせざるは勇なきなり(母親が教えてくれた戦前の言葉)にもあるとおり、行動を伴わなければホントは駄目だと私は思っております。そして、その行動は美しくなければならないと思いますね。美しいとは、他人が見ても自分が見ても納得のいくものだということでしょう。
左翼の行動は私は美しくないと言いたいのです。付和雷同、感情的であり、不法行為が多すぎる。これは、彼らの行動のもとにあるべき「知」がおかしいので、行動もおかしくなるのではないか。
沖縄の新聞社も「知」の部分で間違っているので、おかしな方向へ進んでいくが、これを新聞社自身では決して気づくことはない。気づかないからいつまでも独善でいられるし、沖縄を混乱させ続ける。
左翼から右翼に転じた人々は、左翼の「知」の部分の誤りに気づいた者が多い。また、左翼の行動の部分で、美しくないと気付いた者も多いという感じだ。
投稿: ueyonabaru | 2016年5月30日 (月) 09時31分
> そして彼女が、基地問題を民族問題にすり替えた翁長氏の偽善を鋭く暴いたからです。
沖縄人は現実遊離の発想、行動をすることが多いという感じがありますね。本土と陸続きでないことも影響して、沖縄を独立国のようにどこかで思っており、これが現在も過去でも芽を出してきたような感じです。
数日目に友人と話したのですが、沖縄がかつて独立国の体をなしたことがあるのかという話題になりました。私たちの結論は、沖縄が独立国であったことはないんではないか というものでした。詳しく琉球歴史を学んではおりませんが、1609年に薩摩の支配下に入ったのですが、それ以前にも近代でいう独立国家の概念では、独立国ではなかったように思いますね。独立国とは主権があり、それを守る軍事力があるはずですが、十分な国家防衛の軍事力はなかったようです。また、その必要もなかったはずです。なぜなら、中国の庇護のもとに朝貢貿易で生存できたのですから。
この極東のこの地域で、そしてこのような小さな島では完全な主権国家は存在できなかったでしょう。生存のためにはどこかの大国に寄り添うしかなかったのでしょう。これは、今後もそのような道を辿るのだだということでしょう。翁長さんは、中国の朝貢国であることを今心の奥では夢見ているかもしれませんね。
中国に編入されるのはイヤです。日本国の沖縄県で十分満足です。大和族の血を引いているというではないですか。この国で頑張っていきたいですね。
投稿: ueyonabaru | 2016年5月30日 (月) 10時29分
山形さん、イスラム教があるからテロが起きるとモスクや頭に巻いてる人を襲撃するのも同じ論理ですね。
私は個人的に、人の恨みつらみは一代限りで継ぐのは恨みでなくファクト(なぜか事実と日本語で書くと真実と混同する日本人が多いです)だと考えています。
先日沖縄と広島を並べて書き批判を浴びましたが、違いはあれどもどっちが長く酷く苦しんだか比べるのは詮無いのは沖縄の方々も承知されているのではと思います。
広島は戦後米軍が何十年も占領こそしませんでしたが、被爆者は何十年もかけて苦しみながら死に続け、その様子を治療法もないまま人体実験として米軍はデータ収集にいそしんだのです。
更にピカがうつると差別を受けながら必死で復興を遂げ、平和と核廃絶を願ってきました。
占領軍が居座っていないから許せるんだ、という訳ではなく、殆どの被爆者が長生き出来ていない事と、恨みを語り継ぐのではなく悲惨な事実を継ぐ事で子孫が前向きに生きていけるよう、2代3代かけて成功したのだと理解しています。
占領期が長かった沖縄県、もう一世代かかるかもしれませんが、ともに子孫繁栄を願って助け合える土台を冷戦後生まれの世代が築けるよう、年長者はいしずえとなるべきと考えます。
沖縄のおばぁ、さんはお元気になられたかな。
同じお気持ちなのではないかな、とここ数日お会いした事もないのに思い浮かべています。
投稿: ふゆみ | 2016年5月30日 (月) 10時32分
読谷人氏に猛烈に違和感を感じる。今時、沖縄から離れて本土に定住して、そこで生涯を閉じるであろう人なんて珍しくもない。自分の身内にも友人にもそういう人はいる。沖縄を捨てたわけでも裏切ったわけでもない。トートーメーを受け継ぎ、基本的に祖先崇拝で他宗教に寛容というより無頓着なのが大方の沖縄人だ。特定宗教に固執する様は異様だ。実は沖縄に受け入れられたくて沖縄人になりたい人なのだろうか。その手段が反米軍運動になってしまっているとでもいうのならなんか納得できないでもない(あくまで私の中ですが)。
投稿: クラッシャー | 2016年5月30日 (月) 12時37分
事件を政治利用し、勢い付いている
辺野古ゲート前の現状です。
山城が反対派のリーダー (オール沖縄の
実力者)恥ずかしい限りです。
完全に履き違えています。
https://www.youtube.com/watch?v=Pys7VroxWyk
投稿: 宜野湾市民 | 2016年5月30日 (月) 13時20分
事実なのかどうか確認は出来ませんが、こういった情報もあります。
「マスコミが報道しない、沖縄国道58号線で頭を下げる人々」
http://netgeek.biz/archives/74251
『「沖縄と共に悲しんでいます」は幸福の科学が主導していたという疑惑が浮上するもガセと確定』
http://netgeek.biz/archives/74327
投稿: 山口 | 2016年5月30日 (月) 13時27分
こんな下らない人間の発言、相手にする必要もないですよ。
管理人さんは、名前も顔もわからないけれども、僕が最も尊敬する方の一人です。是非これからも素晴らしい記事を読ませてください。
投稿: むらぴー | 2016年5月30日 (月) 13時51分
沖縄タイムス、琉球新報、沖縄TV、琉球朝日放送、琉球放送、NHKおよび沖教祖と、情報発信権力が総力をあげて長年に渡り情報操作してきた成果(完成形)が、彼ら(読谷人ほか)なのでしょうね。
悲しいかな沖縄の40歳以上の方、特に60代以上は純粋に彼らのような思考回路しか持ち合わせていない方が多く存在するのも事実です。
誰々から聞いた、読んだ、テレビで見た。自分であらゆる調べ方をして自分の考えを導きだす代わりに、見て聞くだけの楽な正義の方へと流れて行ってます。
それに加えて全国の在日帰化朝鮮人および韓国人が、沖縄の声代表と称してうちなんちゅよりも声高々に基地の無い平和を訴えています。
私が一番危惧してることは、管理人さんのように屈辱的な逆境に怯むことなく事実を踏まえ他人の意見にも耳を貸す、そんな大人の方が居なくなることです。
我那覇さんについて、強力なバックが付いてるのは、ちょっと考えれば分かることですが、今の沖縄にこのような行動する発信源は他にありませんね。批判するなら左右双方向にするべき。
だから私は語彙が足りないけど、時々コメントにて「この記事以外の過去記事も最低3年分はコメント含めて読みやがれ‼」を連呼してました。
それくらいやる誠実さが無ければこの愛情と労力のこもったブログに書き込む資格は無いと私は思います。
投稿: ナビー@沖縄市 | 2016年5月30日 (月) 14時14分
実践者たちのアメリカの親子が乗る乗用車やスクールバスを囲み子供たち相手にヘイトスピーチをする様、在特会と何が違うのか。
彼らの日本、いや沖縄に対する負の印象付けも追い出すための手段。
恥ずかしいこったい
投稿: 多摩っこ | 2016年5月30日 (月) 15時47分
読谷人さんの事は最早どうでもいいですが、時事問題をはなれて本日のような話題も深みがあって、またいいものです。
そういう意味では読谷人さんは貴重な機会を提供してくださったワケだ。(笑)
>言論は「行動をしない」というその一点で、それを自制する心において、初めて成立する孤独な作業です。
この意味はとても分かりづらいですが、ブログ主様の人生経験に密着して到達した心境と思われ、ものを書く商売の人間すべてに矜持として持ってもらいたいものでもあります。
同時にかなりストイックな印象をもつ方も多いでしょう。
ですが、憲法の「言論の自由」「表現の自由」は独立した「個人の尊厳」に深くかかわる問題です。
これが「行動」に関わる事によって傷つけられ変質する事が往々にしてありえるならば、表現者(書き手)は潔く「行動」を捨てるべきである、といった程の意味になりましょうか。
(ただ、「行動」とは別にマスコミで表現される言論は、その殆どが商業主義と無関係ではおられず、真実を知りたい私達は、その言論の背景まで気にせずおれないのが現実です。その背景を自分に都合よく引き付けて誤った認識を持ったのが、読谷人さんでしたが。)
記事は「行動をする」という事が、その人の「自由な言論・思考」を自ら阻害する要因になりうるという事実の指摘があり、それは人間の弱さから来る全体性への回帰願望に由来するようです。
日本人には、集団への回帰願望が強くあって本当のところ「憲法の精神」など深くは根付いておらず、自由の本来的意義も享受出来ないのだと思います。
安易に集団の一部になりたい性向は日本人一般のものですが、特に沖縄県人に顕著に現れた傾向でもあります。
一方、 ueyonabaruさんが言われる事は、
>行動を伴わなければホントは駄目だと私は思ってお
ります。
>そして、その行動は美しくなければならないと思い
ますね。
この事は一個の人間として大変共感出来ますね。
ueyonabaruさんの母上様が言われた事は正しい。
そのうえで、行動云々の問題ではなく、
>彼らの行動のもとにあるべき「知」がおかしいので、行動もおかしくなるのではないか。
と、します。
すると、しっかりした普遍的な「知」というものを(そういうものがあるとすれば、ですが)「書き手」が身につけ得るのか、という問題になって来る。
鳥越、田原、岸さんなどという行動する書き手は、まさしく自分こそは「完全無欠な知」を有しているつもりでいる傲慢な面々ですよ。
目取真氏なんかもそのクチだ。
彼らはその行動によって、自らの言論の価値を半分に下げました。
もし、ブログ主様が実効性に拘泥するあまり、ある党派に属したとしましょう。
そうしたら、共産党の悪口と自民党の悪口同時に言えないかも知れないし、米国と中共の悪口もしかりです。
まあ、そういうものは読みたくないなぁ(笑)
面白いですね、もっと考えてみましょう。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年5月30日 (月) 19時45分
日本人の集団回帰願望、よく言われるのですが本当のところどうなんでしょう。
ここ100年位で流行っている現象(まあ4代続けば立派なお国柄と言えますが)であって、要するに近代国家として歩み始めた際にお上からインプットされて「前に進む時は集団で」みたいな暗黙縛りがかかっているだけなのではとも私は思います。
そして、違うもの同士でも共に居て良いのですから。土地の数だけ土地柄人柄があるのも日本の歴史の長さと誇りですね。
投稿: ふゆみ | 2016年5月30日 (月) 21時03分
山路さんのコメント、共感しました。
投稿: 那覇市民 | 2016年5月30日 (月) 21時40分
今日の記事は読みどころ満載で、
私には福島のSさんの話が興味深かったです。
彼女、あるいは国会前で騒いでいた人達は運動によって「自己を解放できた」、「これこそ民主主義の体現だ」と、考え違い、錯覚しているんですね。
そして何と! 実は一番「憲法の精神」から遠い彼らが憲法を賛美しているという逆説的な不可解はまったく漫画的で笑えます。
Sさんの「運動」も宗教化が顕著で、「実践」は更年期障害や鬱病も治癒しうるものではあったのですね。
つまり、「信じるものは救われる」です。
そこには「実践」あるいは「運動」の何が、Sさんの障害を取り除いてくれたのか、の分析的視点が全くありません。
最早オカルトです。
失礼を承知で言えば、自分を大仰に考えすぎず、お祭りにでも参加して自己発散すれば同じ事なんですけどね。(笑)
「自己を解放している」はずの彼らのほとんどにも、実は「自ら虜囚の身になっていた」と気づく日も遠からず来ます。
ところが一部のコアな人達には、さらに組織の個人経済的な取り込みが待っています。
そこに自ら飛び込み、絡め取られ埋められていき、しかしそこでも将来はありません。
中央委員会に残る目など当然なく、使い終わったら地方に下放されるのが関の山です。
そして、大方が新聞の販売拡張が主たる仕事に回されます。
なぜなら、こういうシステムすら知らなかった愚か者を組織の上層部に置くほど、この堅固な牢獄は甘くはないからです。
しかし、日本人にとって憲法とはなんでしょうね。
いつまでたっても浸透せず、国民が遣い方も分からない憲法なら、ふゆみさんが揶揄的に言うようにいっそ廃棄してしまうのがいいかも知れません。
歴史や慣習、伝統の再検討で十二分に間に合うものだとも思えるのです。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年5月30日 (月) 23時47分
憲法破棄…。
ある日、法の解釈曲解濫用の達人、A首相が山路氏をスパイ容疑で逮捕、財産没収、拷問死刑にしても国に人権侵害を訴える事も出来ない訳ですよね。
しかも、言論だけで行動はしない、座して死を待ちますか。
まあ、考えは人それぞれですが、私は、御免被りたい。
まるで人権がゴミのように扱われるどこかの国。
投稿: トーテムポール | 2016年5月31日 (火) 01時27分
トーテムポールさん
まぁ、何をおっしゃっているのか。(笑)
「破棄」という言葉に過敏なようですが、
私の言ってるのは、「成文としての憲法」を破棄する可能性に言及したものですよ。
スパイがどうの、人権侵害がどうのという懸念は全くありません。
破棄によって、自動的に明治憲法に戻る事を狙ったものでもありません。
要するに英国憲法のように、憲法のうち国家の性格を規定するものの部分を「憲法典」としては定めず、議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等によってこれを運用したらどうか、という事ですよ。
そうすると、これまで70年間「日本国憲法」の下で運用されてきた実績というものがありますね。これらは当然、慣習法の中で生きてくるのですよ。
メリットは、憲法そのものの聖典化・目的化を避けられ、私達日本人の伝統や生活感覚、現実感のある憲法に近づくだろう事です。
しかし、私はデメリットの方が多いだろうと思っています。
例えば憲法訴訟の場合、文言解釈はなくなる代わりに、膨大な文献を検証しなければならない途方もない労力が司法関係者にかかる事でしょう。
実際、現実的ではないワケです。
私が言ったのは、憲法の精神も理解せず憲法の価値を生かせもしない連中がむしろ「ケンポー!、ケンポー!」と叫ぶくらいなら、大昔の為政者が法律そのものを国民から隠す目的でした頃の「不文法」と何の違いがあるか?
憲法の内容を理解・実践する事が出来もしないで、ただ憲法の存在を一字一句変更しない事、護憲そのものが目的化している現実ならば、「英国風も一興だろう」と言ったつもりなのですがね。
私の言っている事、理解出来ますかね?
しかし、これ以上噛み砕いて説明出来ないので、これにてご容赦ください。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年5月31日 (火) 02時43分
トーテムポールさん。
もちろん私が書いたことは「なにもしない」という意味じゃありません。
行動することを前提にした言論はおかしいのではないか、言論は言論として自立していて、なにかしらの行動の補完物ではない、という意味ですので、念のため。
分かりにくいかな。
例を上げると、私が唾棄するのは、鳥越氏みたいなタイプです。
ジャーナリストとしての実績は皆無。あるのは虚名と妙な人気だけ。
しかしそれを利用して、良心的知識人づらしてやっていることはただの左翼政治活動家。
ああいう人は、言論の意味をはき違えています。
投稿: 管理人 | 2016年5月31日 (火) 02時54分