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2016年5月 6日 (金)

宮澤教授の「八月革命説」のうさん臭ささ

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<憲法>について、グダグダと考えています。 

「神聖不可侵の最高法なるぞ。けしからん」、と言われそうですが、だってそもそも憲法って伸びたラーメンみたいな代物なんですから。 

まずは、出生が怪しいのは昨日書いたとおりです。 

毎年5月3日頃によく聞く、保守系の人たちの使う「自主憲法」なる表現は、おそらく世界唯一の奇妙な表現でしょうね。 

英訳すればIndependent Constitutionですもん。 

憲法ってそもそも独立国家が自分で起草して、「皆の衆、これがわしらのケンポーじゃあ」とやるのが当然で、あえてインディペンデント(独立)と被せねばばならないのが哀しい。 

ならば、今の憲法はsubordinate Constitution(従属憲法)ということになります。 

もう少し言葉遊びをすれば、 Under American Occupation Constitution (米国占領下憲法)、略してUAOC(ウァオック)なんていかが、ちょっとカッコイイかも。

Bayonet and Bulldozer Constitution(銃剣とブル憲法) なんて、「オール沖縄」風でいいかも。

基地の「銃剣とブル」は許せないが、憲法は大好きというのがあの人たちの不思議。

閑話休題。 

この日本国憲法の成立がいかがわしさに満ちあふれているのは、戦後日本の憲法学の権威であらせられる元東大教授・宮澤俊義教授に説明していただくのが一番妥当かと思われます。 

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宮澤教授はこう発言しています。発言日時も、1996年の小委員会「筆記要旨」の情報公開で判明しています。1946年10月1日のことでした。 

「憲法全体が自発的にできているものではない。重大なことを失った後で、ここで頑張ったところで、そう得るものはなく、多少とも自発性をもってやったという自己欺瞞にすぎない」

宮澤が「ここで」といっているのは、貴族院帝国憲法改正案特別小委員会(←長い)の席上です。

また 「重大なことを失った後」とは、マッカーサーの憲法原案がでて、もう日本案がムリだという状況を指します。

ここで宮澤は、「議員諸公よ、憲法は自発的に作ろうなどというは、自己欺瞞だ。GHQに帰順せよ。無駄な抵抗はやめよう」と言っているわけです。

面白いことに、この宮澤は、その5カ月前の46年 5月に「八月革命説」を出していることです。

後述しますが、日本側改正案が葬られたのがさらに8カ月前の46年2月下旬ですから、大勢がGHQ案の修正に傾いた時期のものでした。

簡単にいえば、宮澤は既に「八月革命説」で、GHQ案の道を掃き清めているわけで゛とっくに勝ち馬に乗っていたのです。

宮澤は「八月革命」という言い方をすることで、GHQから押しつけられたものではなく、日本国民の内側からフツフツと沸き起こった憲法改正なのだ、という形式を作ってみせました。

ただし、もちろん1945年8月に起きたことは、「革命」ではなくただの軍事占領にすぎないのは常識であって、フィクションでしかありませんでした。

そんな男にとって、まだなにか自主憲法が作れると夢想している貴族院議員は度し難いバカに見えたことでしょう。

ところで後に宮澤は、後に護憲派憲法学者の世界に絶対神のごとく君臨することになりますが、敗戦直後も一貫して「護憲派」でした。 

ただし、帝国憲法の「護憲」、ですが。 

この「自己欺瞞」発言の一年前、1945年9月28日の外務省での発言をみます。

「大日本帝国憲法は、民主主義を否定していない。ポツダム宣言を受諾しても、基本的に齟齬はしない。部分的に改めるだけで充分である」

これは宮澤は、彼の師であった美濃部達吉と共に「帝国憲法は部分改正でいい」と述べて、「護憲」の立場に立ちます。 

ところが、それからわずか8カ月後に、「改憲派」に転向してしまいます。 

彼が外務省で「帝国憲法護憲論」をのどかにしゃべっていた背景で、実はナント「八月革命説」が起きていたことが、後にわかったというのですから、びっくり仰天します。 

後になってわかる「革命」って一体ナンダと思いますが、1946年5月、宮澤は「八月革命と国民主権主義」(『世界文化』第1巻第4号。後に『憲法の原理』として岩波書店刊)の中でこう言っています。 

かみ砕いて市民語超訳にしましょう。 

「キミ、8月にポツダム宣言受諾したんだから、これは帝国憲法の天皇主権から国民主権への移行の同意・承諾と解するべきなんだよ。
8月に国の主権が移行したんだから、これを革命っていわずしてなんと言う。え、いつ革命が起きたのかって。馬鹿者!
マッカーサー閣下が、ありがたくも日本人民の代わりに革命を起こして下さったのだよ。
この「八月革命」の時点で、帝国憲法はお終い。ジ、エンド。
法としての効力を失ったと見るべきなんだ。
だから、帝国憲法の部分改正なんて言っている反動分子がいるが、あいつらはクズ。
帝国憲法と一緒にこう言ってやろうぜ。
『お前らは既に終わっている』ってね。ああ、気分いい。ま、ワシも1年前まではクズの仲間だっけどな。おっと口がすべった。
帝国憲法は根本的にリニューアルせにゃなんのよ。
わかった、キミ。わかったら、日本の民主革命の完遂に向けて共に進みましょうぞ!」
 

立命館大学非常勤講師・頴原(えばら)善徳は、『八月革命説再考のための覚書』の中でこの「八月革命説」をこう評しています。
※http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no97_02.pdf
 

多くの憲法学者が、「八月革命説」を学説として捉えていることに対して、頴原はこのように言い切っています。 

「学説ではなく、第90回帝国議会における審議を前にしていかに「憲法改正草案要綱」を理解したうえで審議するべきかを訴えた政治的文書とみなすべきものである。」「1945年10月19日の『毎日新聞』紙上では、ポツダム宣言履行のために憲法の民主化をする必要があると述べている。」 

つまり、頴原によれば、占領軍が力づくで進めた「民主化」の障害物である帝国憲法を変えることが「革命」なんだ、ということです。

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この帝国憲法が「障害物」だとする認識は、実はマッカーサーの認識でした。

彼は1945年10月11日に、幣原首相に対して帝国憲法を改正するように命じています。

間接統治ですから、あくまでも軍事力をバックにした「示唆」であって、ウムを言わせないものでした。

幣原は、松本烝治国務大臣を憲法改正の責任者に指名します。彼が東大法学部で商法の教授だったからです。

この松本は、憲法改正に向けた「松本委員会」を作り、わずか4カ月後の1946年2月に「憲法改正要綱」という日本案をマッカーサーに提出しました。

松本案(日本案)は、統帥権の廃止、臣民の権利の拡充、貴族院の廃止と参議院の親切、議員内閣制の導入、憲法改正への議員の参加などといった民主的改革をすることで、充分にポツダム宣言に対応できると考えたのでした。

しかし、マッカーサーはこの日本案の内容の骨子を、2月1日の段階で既に知っており、日本政府案の提出を待たずして.ホイットニーの民政局に憲法案を急遽作らせていたのでした。

米国側にこれは「暫定憲法」だという意識があったために、こういうヤッツケをしたのだという説もあります。

なら、改憲不能につくるなよ、と言いたくなりますがね。

これが、「たった1週間で民政局の素人をかき集めて作った」理由です。いかにマッカーサーが焦っていたのかがわかります。

一方松本らはこのマッカーサーの動きをまったく知らされておらず、2月13日に吉田外相と一緒に、ホイットニーから手渡された案を見たふたりは衝撃を受けます。

その衝撃の原因が、前文と第9条にあったのは自明です。

防衛力を放棄してスッポンポンになれという条項に何も感じない独立,国の統治者がいたら、そっちのほうが異常ですって。

ここで、一気に「自主憲法」の流れはついえて、いかにこの占領軍案を「脚色」するかにテーマが移っていきます。

その焦点となったのは、いうまでもなくスッポンポン条項の9条2項でした。

憲法学者西修氏は、こう書いています。

「この日をもって、日本人の自発性を発揮する場が完全に失われたともいえる」(『日本国憲法を考える』)

この流れに乗って登場したのが、同年5月の宮澤の「八月革命説」だったというわけです。

まさに占領軍の走狗、激動期にありがちな風見鶏というにふさわしい憲法学者こそが、この宮澤だったのです。

宮澤は76,年に亡くなりましたが、戦後憲法の法王として君臨し続け、いまだに憲法学界に大量の弟子、孫弟子、曾孫弟子を再生産し続け、憲法学界の主流に君臨しています。

※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-dcd9.html

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コメント

よ、40年前の8月に真っ赤な叔父が話していたのはこの革命話なんですね(>_<)人間ってきっかけ入ると思い出せるものだなー。
当時ベルばらブームの後だったので革命といえば首チョンパだろうと私が言ったのを、叔父は「裁判で裁くべきだった」と返していたのですが、あん時殺しとけばくっそーとは年端もいかない姪っ子には流石に言えなかったんでしょうねf^_^;)。

いつも拝見しています。

昨日と今日の記事、大変興味深く読ませていただきました。勉強になりました。

ところで、前から不思議だったのですが、どうしてそんなに博識なのですか?どういう勉強をされてきたのですか?

すみません、今朝のここの書き込み個人的にびっくりしながら良く考えずに書き込んでしまってます私。読み返すと何の事だかわからないですね。
子どもの頃、共産主義に夢中だった叔父が本気で打倒天皇制すなわち革命と信じていた根拠がこの8月革命と憲法切り替えだったのだと、40年を経て今朝思い出と記事が繋がりました。
昨今の柔和ぶった共産党を見過ぎて忘れかけていました。

八月革命説は、旧憲法73条の改正手続きを経ない事を論理的に正当化する方便だったわけだけだ。
誠に滑稽にすぎますが。

日本国憲法の出自のあやしさについて思うとき、私が思い出のは、平成25年暮れ石川県の護国神社の清水澄博士の碑の前で自刃した北海道出身の金沢大生、杉田智君の事です。
彼の自刃の動機、いきさつなど明らかなものは何もありませんから状況から察するしかないのですが、陛下への個人的な思慕はともかくとして、やはり法学徒として国柄を顕わす憲法への絶望感が強かったと思うのです。
このような行動をして彼を「烈士」と呼ぶ事を、私は躊躇いますが、彼の絶望感は良くわかる。
「絶望」を乗り越えて有効性を探索し行動する事こそ、烈士たるにふさわしいと考えますが、それなら私達はどうなのか?
事がここに至っても、「改憲しなくていい」という意見が大勢です。
私達は杉田君にはるかに及ばず、「絶望」すらも感じる事が出来ない状況なのではないかと思いますね。


ふゆみさん

>共産主義に夢中だった叔父が本気で打倒天皇制すなわち革命と信じていた根拠がこの8月革命と憲法切り替えだったのだと、

うちの爺さんもそうでしたよ。(笑)
新憲法発布=天皇制廃止は同義と考えていたんです。
なので、戦後の日本は、今私達が考える逆の意味で「おかしい」と考えていました。
その思いが昂じて、さらにラジカルな方向に行ってしまったんですねぇ。(合掌)

「8月革命説」なんて珍説、私は知りませんでした。
さらに、その説に権威が与えられて、憲法学者共の
金科玉条になっているなんて・・ちーっとも知りませ
んでした。勉強になりますわ、ありがとうございます。

憲法学者のほとんどが胡散臭く見えて、実際に御高説
を聞くと「が、学者やのう~、それでゼニになるんか」
と、一般ピーポォの私さえ唸ってしまったのには、理由
があったんですねぇ。木偶をカミ様にして、メシの種に
するなんて、インチキ宗教そのままですわ。

全く不変のままに、解釈でアアダ・コウダと約70年間
も税金を喰ってきた憲法学者が、今さら違憲もクソも
ない。お前ら、仕事しとらんやないかい!合憲なら、
サッサと軍隊を持て。違憲なら、自衛隊を解体せいや。

はあ、結局ナニもしないのは判ってるけど・・憲法学者
に対する税金は、ビタ一文払わなくてよい。未来永劫
に不変で、後講釈をつける盗賊に払う税金はない。

私自身は、憲法生誕のヒミツはどうであれ、現憲法は
憲法と認めます(白洲さんらと徹夜で翻訳作業をした
大阪弁の人が、テキトーに引いて「象徴」を書いたと
しても)。が、現況に合わせてドンドン改正していくべき
です。

2/3で改正OKで何が悪い?2/3取ったのに「強行採決」
だなんて言うのは、それこそ暴君だ。少数は多数に従う
のが民主主義でしょ。多数側がたとえアホだとしても。

アホンダラ1号さんですかね?

そうです、私でした。

HN明記ルールの違反すいません。
タイプ忘れです、ご容赦のほどを。

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