「基地の少年」の昔語り
「私は神奈川生まれで30年間神奈川県民でしたが、沖縄で仕事をして初めて本気で米軍基地が鬱陶しい~と思いました。
神奈川県大好き!ですが、やはり郷土愛と現実の迷惑度は分けて考えた方が公平かと思います。
現実を知らないで意見を仰っている方は、一度沖縄に移住されてみたらいかがでしょうか?
たぶん、私みたいに意見が変わると思います(笑)。」
HN犬の形さん。私はなんどとなく書いていますが、「基地の少年」でした。
私は米軍基地と共に育ったのです。
遊び場は、厚木基地のフェンスが見える空き地でした。
基地の中に通じる下水道管は、子供なら潜れて、腐食したフェンスから基地内によく忍び込んだ秘密のルートでした。
お目当ては、忍び込んだ基地の中の飛行機で、そのスクラップの中は少年の目にはまるで秘宝の山のように写りました。
MPに発見され、警備員と一緒に追いかけ回されるまで、その危ない遊びは続きました。
しかも、今のように衰退しておらず、自信に溢れていた60年代です。
初めてナイフとフォークで食べたハンバーグは、基地公開日の米軍将校専用レストランで食べたものでした。
壁も木材の重厚な作りで、座席は革に違いないと思ったことを覚えています。
後に、那覇の波上のジャッキーステーキハウスに行った時に、あ、これこれ、この雰囲気を高級にしたかんじと思ったものです。
フェンスの向こうには青い芝生が広がり、金髪の子供が遊んでいました。土曜日などはバーベキューなどやっているのが、柵越しによく見えました。
基地の手前までは日本人の住宅がひしめきあっているのに、柵から向こうはスケスケで芝生が広がっていて、水不足の時にもスプリングクラーが回っているのです。
ふざけた話だと思うのは高校に入った時あたりで、小学生の頃まではひたすら憧れていました。
我が家に帰れば、バーベキューどころか、丸いお膳で、仏壇の脇にあるテレビを見ながら野菜の煮つけを食っていた自分の家の風景とはえらい違いでしたからね。
なんていうのでしょうかねぇ、こういう感情は。
・・・アメリカへの少年時代の淡い憧れと、思春期になっての怒りかしら。
60を過ぎた今でも、私の中には核になる「憧れ」の部分と、その上にかぶる「怒り」、そして歳を経て得た米国が日本にいる「意味」が存在します。
それが時々に顔を出して、普段は反米6・親米4ていどですが、前回のシンザト事件の時など反米10・親米0の時すらあります。
これが今の私の中に残る、米軍基地に対する原風景です。
1964年、私たちの街にはジェット機が墜落し、死者5人、負傷者4名を出しました。
この1964年には、実に8件の米軍機が神奈川県に墜落しています。
もはや日常茶飯事に米軍機は私たちの頭上に落ちてきていた、といってオーバーではないでしょう。
大和米軍機墜落事故 - Wikipedia
隣の市にも墜落して多くの人が犠牲になっています。
そして、私が学生になった時に起きた墜落事故では、横浜の母子3名が亡くなり、6名が負傷しました。
私は抗議に駆けつけました。
この時期私は、隣の市にあたる相模原補給しょうで、ベトナムに向けての米軍戦車を止めようとして負傷しています。
関連記事「サガミハラの記憶」全4回
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1_0e52.htmlhttp://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_bb68.html
このように神奈川県においても、11名にも登る人々が墜落事故で亡くなっています。
横浜米軍機墜落事件 - Wikipedia
ジェット戦闘機が1年に8機も落ちて来る時代ですから、部品の落下など年中行事で、よく米兵と警察が探しに来ていました。
小学校は二重窓でしたが、クーラーがなかった時代ですから、夏などは開けっ放しで爆音が遠慮会釈なく入って来ました。
それはもはや音ではなく、激しい振動です。犬の形さんが「うっとおしい」などと表現していますが、正直、失笑しました。
ジェット戦闘機、しかも双発のファントムの離陸時の騒音は、音と衝撃の壁です。
夜中の離発着訓練の時は、ゴールデンタイムのテレビが度々聞こえなくなりました。
私も含めて少年はジェット機は大好きでしたが、ドリターズの番組の途中だけは勘弁してくれ、と思ったもんです。
朝も早よからジェットエンジンの調整をするので、6時くらいから家がビリビリ震えます。
こういう言い方はいけないかも知れませんが、後に普天間に行った時には、むしろ静かだなと思ったくらいです。
ペイデーには商売女を連れた米兵で街が溢れていました。
米兵がいる風景は日常でした。
後に沖縄に住み、コザや金武に行ったときにはノスタルジーさえかんじたほどです。
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/ …
当然、米兵犯罪は多発しました。沖縄と同じです。
1989年~2010年に米軍人の刑法犯検挙数は県別で沖縄が1035件で1蕃多く、次いで神奈川県の444件です。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-09-08/20 …
神奈川県の件数は沖縄県の半分以下ですが、だからと言って444件という数は軽視できる数や問題でもないと思います。
ましてや被害者やその家族としては沖縄も神奈川も関係ありません。
なお横須賀では2008年に米兵によるタクシー運転手殺害事件、2006年の少女2人への殺人未遂事件と、女性2人への傷害事件がおきています。
この2006年の事件は沖縄ではまったく知られていないようですが、1995年の少女暴行事件に似た性格です。
2005年にはとうとう強盗殺人事件で女性1名が殺害されています。
神奈川県の被害が見過ごされがちなのは、沖縄に比べ基地環境が改善されてきているからです。
かつて神奈川県に基地は162もありましたが、現在は大幅に減って14しかありません。さらに基地面積も最大時の約半分にまで減りました。
また厚木基地周辺では、基地周辺の地主が日本政府に対して土地の買い上げを求め、日本政府も被害の重大性を認め2度に渡って土地の買い上げを行っています。
1970年までに大和市、綾瀬市の基地周辺の262戸が、集団で移転しています。
私の実家の周辺も、防衛施設庁が買い上げて、櫛の歯が抜けたようになりました。
普天間基地が「オール沖縄」の反対運動で移転を阻止された場合、基地周辺の民間所有地の買い上げをするしかないでしょう。
逆になぜ、いままで普天間基地の航空機侵入コース直下の買収がされてこなかったのか不思議なくらいです。
神奈川では40年前から、進入路直下は数㎞に渡って完全な無人地帯となっています。普天間2小など、神奈川では論外です。
騒音問題にしても厚木基地での夜間離着陸訓練などが移転し、現状は大幅に改善されています。
沖縄の場合、基地環境の改善は遅々として進んでいない印象を受けます。基地はいまだに34あり、その基地面積は神奈川県の基地面積の11倍です。
縮小計画も遅延しています。
また 駐留している部隊も米空軍をはじめとして常駐している部隊が多く、日常的に騒音に苦しめられています。
そしてなんといっても、陸上部隊の海兵隊が約1万人いるという重さでしょう。
航空基地や軍港とは、比較にならない重さだと思います。
私は沖縄の基地負担は大きすぎると常に考えています。
抽象的にではなく、自分の生きてきた歴史から素直にそう思えるのです。
大幅に軽減するべきですし、本土の自治体もできるだけの肩代わりをするべきです。
現実に、移設問題すら、別に政府は苦しめてやろうというために始めたのではなく、普天間の街の真ん中におくのは危ないと考えたから17年間も迷走したのです。
もちろん本土もなんどとなく俎上に上がりました。しかしどれも帯に短したすきに長しで、決まらなかったのです。
私はなんども書いていますが、辺野古埋め立て案には反対です。
本島に残された数少ないあの美しい海を埋め立てて、あんなハンパなものを作る必要はありません。
しかし、今回の県民大会の時の若い女性発言のように、「本土もシンザトと同じ加害者だ」とまでいわれると、そりゃなんぼなんでも言い過ぎだろうと思います。http://www.nikkansports.com/general/news/1665849.html
「沖縄が強いられ続ける重い米軍基地負担が、繰り返される事件の原因と捉える県民の怒りは高まっている。玉城さんは、安倍晋三首相と本土に住む日本国民を名指しし「今回の事件の『第二の加害者』は、あなたたちだ」と涙ながらに訴えた。」
(日刊スポーツ2016年6月19日)
同じだとは言いません。当然沖縄のほうがはるかに大変です。
それを前提にあえて言いますが、「沖縄だけではない」のです。
本土をシンザトと並べて加害者呼ばわりしないでください。本土と沖縄の分断を深めるばかりです。
問題は、いかに軽減するのか、いかに段階的にでも海兵隊を減らしていくのか、それを具体的に考えることです。
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