確かに本土人と沖縄人には同じ血が流れているが
硬い話が続きましたから、今日は軽い話題で。
沖縄県民というと、イメージとしては毛深い、骨太、造作がデカイ、そしてもちろん色黒というかんじがします。
実際住んでみると、BEGINの比嘉栄昇みたいな顔はあんがいゾロゾロいそうで、そう多くはないことに気がつきます。
う~ん、こゆい顔だね、エイショー。この人の声は、クサクサした時に聞くと、てきめんに元気になります。
しかし右のギターの島袋優なんかは、目元はちょっと南方系ですが、まぁ関東にもいるよねって感じで、キイボードの上地等なんか、居酒屋で畳イワシ食っていそう。
もうひとつ、なにかと比較される北のアイヌを見てみましょう。
うわ~、こりゃ濃い。よく、沖縄人と似ているといわれていますが、どちらかというとバイカル周辺の北方少数民族系の香りがしますね。
この人なんか、コーカサスロイド(白人種)風でもあります。 実際に今は否定されていますがアイヌ民族コーカサスロイド説もあったようです。
ちなみに私の家系のルーツは薩摩でして、仏壇の祖父の写真を見ると完全に栄昇系で、「ジィ様、あなた、ウチナンチューか」と言えるくらい、ポリネシア、ポリネシアしています。
ただし、祖父の代で東京が混ざり、父の代で広島が混ざったためか、いまの私はさほど南方臭い顔はしていません。
ただ、私の強烈な南方志向には、私の血になんか眠っているもんがあるんでしょうね。
それはさておき、昔の定説では、沖縄人のルーツは、日本列島にいた原日本人だというのが定説でした。
1万8千年前の旧石器時代に沖縄本島にいたとされる、港川人を見てみましょう。
なんか、私と検索で首位を浦添のニンニク屋と争っている(笑)、沖縄吉本のありんくりんの比嘉竜太(左)みたいね。
かつては、港川人南方渡来説というのもあって、南方系渡来説で復元するとこんな感じになります。
うおっ、同じ骨格からなのにまるで別人。濃ゆいなんてもんじゃないですね。
この南方ポリネシア系説というのは、太古の昔、黒潮の流れに乗って、クリ舟で琉球弧に渡来せる黒潮の民というわけで、なかなかロマンチックです。
クリ舟にはイモと椰子の実、なんて想像してしまいますね。
この人たちが沖縄島で港川人となり、そしてさらに奄美諸島を経て、九州から本土へと移動していったというルートです。
これが縄文人、ジョーモニアンのルーツだってわけです。
そして、ジョーモニアン一族を分断するように、大陸からやってきた渡来人、つまり弥生人たちが本土に住みつき、哀れジョーモニアン一族は北と南に泣き別れという説です。
つまり、沖縄人=アイヌ人=縄文人ということですね。
個人的には、私はこの説が好きなんです。私の先祖もクリ舟で黒潮の流れで来たのかぁ、と思うとなんか楽しいですからね。
しかし残念ながら、現代ではこの説は、ほぼ完全に否定されています。
たしかに、上の港川人はウチナーンチュっぽく見えるんですが、実はここから先の展開の鎖がプツンと途絶えているのです。
というのは、次に出てくる古い化石は1万年後なのです。おそらく港川人は絶滅したか、混血したと思われます。
沖縄は骨格化石の宝庫で、石垣島白保竿根田原洞窟などのように新しい発見もなされており、この空白の1万年期間の人骨が出てくる可能性もありますが、いまのところはこういうことです。
勝連グスクWikipedia
そして、さらに歴史がハッキリしてくるのは、「グスク時代」と呼ばれる時代です。
歴史はどんっと飛んで、10世紀から12世紀となります。いわゆる北山、南山、中山の三山時代となります。
上の写真は12~13世紀のグスク時代に築城された勝連グスクです。有名な『おもろさうし』に、当時の繁栄ぶりが歌われています。
実はいまのウチナンチューのDNAは、この時代がルーツです。
そして最近の形質人類学や遺伝学の研究の発展で、この時代の沖縄人は知念ウシさんが悔し涙を流すでしょうが、本土日本人の系統だということが分かってきています。
このグスク時代に、沖縄人の形質は大きく変容しました。
今までの縄文人亜種の「南島人」的形質が消えて、中世日本人と同一になっていきます。
つまり、従来、定説と見られていた黒潮北上説にかわって、沖縄人はむしろ本土から南下してきたのではないかとする説が有力になってきたわけです。
最近、浦添ようどれで英祖王の一族の骨が調査されました。
※参考文献 浦添市教育委員会「浦添ようどれ石厨子と遺骨の分析結果について」
「浦添ようどれ」とは、極楽陵とも言って13世紀に造られた英祖王(在位1260~1299)の墓といわれており、1620年に尚寧王(在位1589~1620)により改修されました。
ちなみに、沖縄学の父である伊波普猷は、この浦添に首里以前の王府があったと推定しています。
その結果、王族の顔は中世日本人に近く、顔がのっぺりで平坦ぎみ、やや出っ歯といった中世日本人の形質と近似するものが見られました。
さらに、中国南部のDNAを持つ者もいたことから、交易で様々な人々が行き来して混じり合っていたことが分かります。
さらに、現代日本人には見られない東南アジア方面の形質も見つかっています。
つまり、北から移動した本土日本人の形質をベースとして、中国南部の形質と東南アジアの形質をスパイスていどに加えたのが、現代沖縄人だということになります。
いちおう念のために言い添えますが、「民族」は、共通の言語、文化、習俗、祭祀、宗教などをベースにして作られます。
日本を見ると海で囲まれているだけにそれが明瞭です。同一の日本語をしゃべり、米作文化を持ち、似た儀礼に従い、天皇を尊崇しています。
ですから、逆に自然と「国家」や「民族」とはこんなもんだ、と安易に考えてしまいますが、世界はそんなに甘くありません。
同一の民族であったとしても、さまざまな歴史的経緯で別の国家を作るケースなど、世界には掃いて捨てるほどあります。
2000年から2008年までのデータを基にして、主体となる民族の比率が85%以上の国家は黄土色に塗られている Wikipedia
有名な例としてはドイツとオーストリアは同じドイツ民族ですが、別な国家を営んできました。そのドイツすら内部は小邦に分裂していたのですから、ややこっこしい。
逆に別の民族でも、同じ国家を作る場合もあります。かつての帝国を有していた国々は例外なく多民族国家です。トルコや中国などですね。
沖縄は1602年の薩摩藩侵攻まで、中華帝国に従属し、冊封を受ける琉球王国でした。
これ以降、薩摩藩の実効支配を受けますが、中華帝国との冊封関係はそのままにして琉球王国の外形と、内政は自由を許されていました。
いわば両属的なファジーな存在の国家だったのです。
完全に「日本国」の領土と国際的に承認されたのは、19世紀になってからのことです。
ですから、ここで沖縄人が形質学的、遺伝学的に本土人と同一であったとしても、それは「民族」や「国家」を形作る多くのパラメータのひとつにすぎないわけです。
あくまでも本土人と沖縄人の身体には、同一の日本人の血が流れている、ただそそれだけであって、それをどう考えるかは各々におまかせします。
書き終わってみると、ちっとも軽くないじゃないか(笑い)。
※参考文献
・安里進・土肥直美『沖縄人はどこから来たか』
・下地 安広 「浦添グスクと浦添ようどれの 発掘調査から解ること」(Adobe PDF)
・総合研究大学院大学「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」(2012年11月1日)http://www.soken.ac.jp/news/5276/
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コメント
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はじめまして。いつも楽しく拝見させております。
この系統の話、大好きです。わくわくします。
沖縄って形質的、遺伝学的、言語学的なことに加えて、地名や山の名前からみても、中世日本とのつながりが強いなって思われるところが結構ありますよね。
南城市の佐敷という地名なんてもろにそうですし、
しゅくなの山なんて、当時佐敷あたりに住んでいた人間が、日本神話のスクナビコナに関連づけて名づけたのでは?と、勝手に妄想したりもしています。w
投稿: やもり | 2016年6月 3日 (金) 06時43分
なんとなく「最後の授業」を思いだしました。民族に関わりなく、そこにあるがために国家間の勢力争いに巻き込まれるというのは昔から世界中である話ですよね。今さら日本以外に組み込まれるとか考えたくもありません。
投稿: クラッシャー | 2016年6月 3日 (金) 07時12分
琉球王国を語る時、彼らが強いた人頭税の理不尽さと、地方役人の横暴さも語ってほしい。
米軍に占領された沖縄本島では、米兵によるレイプや、米兵相手の売春も盛んで、元米兵による先日の事件のような事もあり、憤りを持つのは非常に理解できるが、琉球王国時代の王府の役人も離島において全く同じかそれ以上の横暴を権力、特権を傘にきてやりまくっていたのだからして、
米軍に憤るなら、琉球王国の行いにも憤ってほしい。
琉球王湖は薩摩に課税されていて大変だっと同情するなら、米軍だって、ベトナム戦争などでアレて大変だったんだと同情できるはず。
幕末の日本の識字率は寺子屋の普及もあって7割以上だったらしいが、琉球処分直後の沖縄は1割以下で、これはほぼ役人階級の割合と同じ。
沖縄には寺子屋はなく庶民は学問から切り離されていた。明治政府は学校をつくったが10年たっても小学校に来る子は全体の4割。基礎教育の普及が多いに遅れた。
一方で、人頭税は1900年過ぎまで残り先島諸島の住人は明治政府の役人となった元琉球王国の役人達に貢ぎ続けた。
宮古の人々の陳情がなければ、下手すれば米軍支配まで人頭税が残った可能性すらある。
こんな差別的な扱いを受けた先島を事情をよく知らない米軍は「琉球」政府の行政下に置いた事も先島側からすればデリカシーのない配慮だと思える。
琉球による横暴な支配で先島がどれほど苦しんだのか。それを思えば琉球独立などは、悪夢の再来としか思えない。
投稿: 八重山在住 | 2016年6月 3日 (金) 07時32分
クラッシャーさん。
アルザス・ロレーヌね。国境に翻弄されたお話。あれはフランスの被害者意識を強調してますが、まあ陸続きで何百年も戦争を続けてきたわけで…。
ロレーヌ出身のジスカール・デスタン大統領ってなんか功績ありましたかねぇ、という疑問。
八重山在住さん。
私もそう思います。
昨年NHK「歴史秘話ヒストリア・遥かなる琉球王国」が批判の嵐にさらされましたが、全く持って八重山へのデリカシーが無さすぎですよね。
琉球王朝での圧政や刀狩りがあったことを頭の中に留めておくべきです。
投稿: 山形 | 2016年6月 3日 (金) 08時15分
最近、DNA解析や骨相解析から民族のルーツを探る研究が盛んになされ、従来の学説がどんどん覆されています。詳細はそれらを解析した書籍に譲るとして、沖縄の人々はれっきとした日本人です。遠い昔、九州地方が火山活動で住めなくなった時に、九州から沢山の人々が南の島に逃れました。沖縄の人々はその末裔です。
中国は何千年もの間に、民族が激しく入れ替わり、中国人のルーツは不明です。ただ一つ言えることは、日本が盛んに文化を輸入した唐の国や隋の国の人々は蛮族に滅ぼされ、今中国大陸に住んでいるのは北からやって来た文化程度の低い蛮族の子孫です。沖縄が侵食されなかったのはやはり海に隔てられ、日本の支配の影響が大きかったからだと思います。
日本の民族学でも、縄文人が大陸からやってきた弥生人に置き換わったと言う通説も、今では誤りだったことが分かっています。日本人の祖先は間違いなく縄文人であり、日本列島が海で大陸から隔てられた島国だったため、何万年もの間、日本人はこの列島で生き残ることになりました。
朝鮮半島の南に住む女性のミトコンドリア遺伝子は日本女性のものと一致する確率が高いのですが、これは多くの日本人が朝鮮半島の南部に住んでいたことを表すものとして注目されています。男性のY遺伝子はと言うと、これだけは日本人男性と異なります。理由は男性は北からやってきた蛮族に皆殺しにされてためと言われています。
余談ですが、朝鮮人に遺伝子異常が多いのは、長年にわたり同族結婚を繰り返してきたためとされています。一方で島国の沖縄では周辺の島嶼や九州との人々の交流が盛んに行われていたため悲劇は避けられたのでしょう。
繰り返します。沖縄の人々はれっきとした日本人です。俺たちは少数民族だなどとふてくされる必要はありません。
ただ困ったことに、一部の政治家の中には、日本人のルーツは朝鮮半島にあるとか、沖縄のルーツは中国や南方にあるなどの根拠のない思い込みで、もっともらしく説いて廻る輩がいることです。くれぐれも騙されないようにしましょう。
投稿: 愛国命 | 2016年6月 3日 (金) 09時12分
今日のテ-マは非常に面白かったです。たくさん、イメ-ジが広がりますが、一つだけ私の日本体験というものをご披露します。
小学校では日本人であると教育もされましたので、日本人であるとは思っておりましたが、富士山があるのが日本だという思いは強かったので、沖縄に富士山がないのが非常に不満でした。小学校一年の頃です。
当時は米軍占領下にあり、渡航の自由はありませんし、本土との貿易も禁じられておりました。私の住む安謝は密貿易船(米軍は黙認していたか?)が本土の物資を運んでくるところだったんです。
静岡からミカンが輸入されてきましたが、杉のミカン箱には富士さんの絵が描かれており、日本のミカンだと思い感動しまた。やはり、富士山は日本の象徴なんですね。
中学の3年のときに、母親に連れられ、鹿児島経由で東京、大阪に行ったことがあります。鹿児島に着いて日本の土、それは黒い土でした。あー自分は日本にいるんだという実感でした。汽車も線路も初めて見るものであり、すべてが感動です。北上していくのですが、本州に入ると九州とは何か違った雰囲気を感じます。九州人は、私(沖縄人)とあまり違わないという感じがありますが、本州の下関からはなにか違うのです。
さらに関西に入ると、ガラリと違うのですね。夜行列車の眠りから覚めたら、京都を列車は走っております。周りは、京都の人たちの柔らかい京都弁があふれております。いよいよ日本に来たのだと思うわけです。
さらに北上し、静岡に入るころからはまたもガラリと変わります。関東の言葉はまた違いますね。静岡あたりからは、もう東京のイントネ-ションですね。
日本も地方地方で大分違うものです。これが私の初の日本体験でした。
沖縄も、地方で大分異なります。私の住んでいる那覇から見れば、八重山や宮古の人たちは日本人に近いような感じがあります。日本語が上手のように思いますね。
沖縄人(本島人)がどうしてか日本語は下手だと思うのですよ。うちの祖母たちは標準語が話せませんでしたね。私も標準語が話せるようになったのは小学校に入ってからなんです。むろん、聞くことはできたのです。
日本とはなにか、日本人とは誰か、と色々考えます。元の県知事の西銘氏は、「日本人になりたくてなれない」沖縄人の気持を語りましたが、このような自問を本土の各県の方々は感じることがあるのでしょうか?
さて、ここ沖縄で、沖縄人は中国人であるという者は皆無に近いでしょう。久米系の方々は、中国人だと思うのでしょうか。中国の血を引いていることは確かですが、沖縄人ではない、日本人ではないと思っているのでしょうか? これは疑問がありますね。中国に親しみはあるでしょうが、中国人だとはもう思っていないでしょう。
私は中国人ではないし、また台湾人でもないし、沖縄人ですとハッキリと言えます。では、沖縄人は日本人ですかと問われれば、日本人ですとしか答えられませんね。本土人とは違うのは確かですが、私は日本人であることを認めます。
投稿: ueyonabaru | 2016年6月 3日 (金) 11時19分
台湾に居る「原住民」の方々とそっくりのウチナァンチュをよく見かけました。友人もそうでした。
こんなwebもあり →
http://www.athome-academy.jp/archive/culture/0000001087_all.html
非常に惹かれるところです。
投稿: amai yookan | 2016年6月 3日 (金) 11時54分
>沖縄人=アイヌ人=縄文人
これ、ロマンでしたねー(^^)私も一時期夢想しました。
>同一の民族であったとしても、さまざまな歴史的経緯で別の国家を作るケースなど、世界には掃いて捨てるほどあります。
はい。琉球が独立する動機付けがあてはまるとすれば、これです。異文化を持つ少数民族では決してないですね。憎しみ、流血、戦乱を経た分離独立が普通です。
成就したとして、独立後に流血が止むどころかどこもみなさらなる虐殺と混沌に近年陥っています。もれなく独裁もついて。
本土と沖縄の文化の差異は、ueyonabaruさんが内田百閒風にお書きくださった車窓の通りだと私も思います。
私の故郷大阪北部は、今はもう家とビルばかりですが子供の頃は田畑でカエルが大合唱、農家も暮らしている田舎でした。幼少時にお年寄りに道を聞かれ、古い大阪弁(摂津言葉?)が全く聞き取れなかった記憶があります。大阪弁も半世紀かけてずいぶん変わりました。今は私が帰省して話す言葉が古い大阪弁なのかも。
私個人は、大阪人として日本に帰属することに違和感はなく「日本の大阪生まれです」と常に言ってきました。
そして大阪人は標準語があまり得意ではなく(多くの人が標準語と称して喋っているのは、丁寧な大阪弁だったというのに大阪を出てから気付きました)、でも通じるし同郷人も発見できて丁度いい、位に思っています。
しかし、夫の故郷の新潟弁の本格的なのはやはり聞き取り不能で(^^;)標準語は便利です。
余談ですが、アーヘン人(笑)の知人が昔ミュンヘンに住んでいたころ方言の違いに極度のホームシックになったそうです。そして比較的故郷にちかいケルンに移り住んだらとてもほっとしたけど、やっぱり言葉がちがうのよ~。って言われても、私にはまったく区別がつきませんでした!
投稿: ふゆみ | 2016年6月 3日 (金) 17時02分
記事はもとより、深くて幅広い素晴らしいコメントであふれていて驚きます。
私は、歴史がどのように今を生きる私達の現在に影響を及ぼしているのか深い興味をもって図書館に通うものですが、そうした目的論的観点をあらかじめ持つ事のマイナスを承知の上で。
中山王朝が琉球を統一するまでは国家という概念がなく、それでも強いて言えば民衆も一体の「宗教国家」だったと言えると思うのです。
中山が統べるようになってから「政体」あるいは統治の方法は明方式を採用し、それが時代を追って深化したと考えています。
特に明方式の深化は民衆に深く残存する宗教心に手を焼いた琉球王朝の一対策でもあったろう、と考えます。
琉球王朝は当初悪い事に、民衆からの租税に頼るよりも貿易面でうるおっていました。
国民の生産性を上げる事に腐心する必要がなく、むしろ国民の反乱を抑える事と最小の武力で諸島全体を治めるため、中国伝統の「愚民政策」を採用し続けたのでしょう。
そこに薩摩の付け入る隙があったんですね。
貿易による利益が薄くなったことで、民衆への負担は苛烈なものになり、琉球処分のだいぶ前から薩摩に対する借金も膨大な額にのぼり、国家の体を成さなくなりました。
宮古でも、薩摩の役人が直接に島民への就農指導や監督を行なっていた文献が多く残っています。
私が考えるのは、「琉球王朝」と「民衆」というのは、かつて一体として存在した事がないのが特徴、だと思うのです。
「琉球王朝」にとっての「民衆」は、領土の保全の意味から、反乱の危惧の対象、最終的には搾取の対象でしかなかったのが事実です。
今の沖縄県にどう当てはまるのか、そうした歴史の形跡が全くないのか、私には充分かつ理論的には言えません。
ただ、現在の沖縄の社会においても公職にある者の相対的優位は収入面以外でも揺るぎがなく、言論は統一方向にあり、所得格差は全国一です。
一方、県民を構成する多くの層は、おだやかで融和的な精神を保ち続けています。
こうした県民性を歴史的な宗教心に直ちに結びつける事もなりませんが、調査研究をして行きたいと考えています。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年6月 3日 (金) 18時48分
山路さん
琉球史は大事だと思っております。私は、この方面はあまり勉強しておりませんので、貴殿のお書きになる成果をただいただくばかりです。新聞に載る革新的な歴史論は苦手です。面白いとも思いません。
https://www.youtube.com/watch?
v=c5lCPXOuRUg
上の、玉城有一郎氏の琉球史のお話し、大変に面白くて期待しておりましたが、どうしてか、チャンネル桜に登場することがなくなりました。残念です。
投稿: ueyonabaru | 2016年6月 3日 (金) 22時41分
ueyonabaruさん
私は玉城有一朗氏の「琉球処分再考」にずいぶん刺激を受けました。
ただし、この論文は今はどこをさがしても無いようです。
>玉城有一郎氏の琉球史のお話し、大変に面白くて期待しておりましたが、どうしてか、チャンネル桜に登場することがなくなりました。残念です。
おそらく、一般財団法人 沖縄公共政策研究所の主任研究員に就任されている事と関連があるのかと。
また、本来でしたら玉城先生の著書「ふるさと沖縄の歴史」も15年末には出版されているハズなのに、未だ叶いません。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年6月 4日 (土) 01時20分
小さな日本で言葉ひとつ取り上げても色々な方言があって面白いですね。
私の住まう辺りも地のことばがあるんだそうですが全く知りません。
名残なのか語尾に「だべ」や「だべぇ」などとふざけて付けたりしてます、多摩地区は東京じゃないと言われるし(笑)
ふゆみさん、標準語のベースは関西弁(大阪弁?)だと何かで読みましたよ。
沖縄は日本の系統、日本人がベースなんですね。
侮辱することばにナイチャーマンチャーなんてのがあるそうですが、何だかな〜。
投稿: 多摩っこ | 2016年6月 4日 (土) 01時43分
多摩っこさん、そうそう、東京にも神奈川にも土地ごとの地言葉があったはずですね。奪われたとか失われたというより、人の使いやすいように変わっていってるんでしょう。
標準語の変遷はお上のおわした処で動いているので、京都弁が標準語だった時代の方が通算ではまだ長いですかね。私達はそんな事御構い無しになまってます(^^)
多摩地区にだけ雪が降ったり積もったり、懐かしいです。でも、たまらん坂はRC、TMネットワークはたまネットワーク!国立、立川には音大生やバンドマンがいっぱいいて音楽文化(大袈裟!)に囲まれて暮らしていました。いいところです。
投稿: ふゆみ | 2016年6月 4日 (土) 13時38分