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2016年6月 4日 (土)

琉球王国が「武器を持たない国」だったってほんと?

Dsc_1849
琉球王国とは一体どんな「国家」だっのでしょうか。 

宗教的権威と世俗権力が一体化していたり、サンシンが刀の代わりに床の間に飾ってあった、なんていうイメージが支配的ですね。 

いわば動乱の東シナ海に咲く白百合一輪、それを摘む汗臭い暴漢の薩摩藩、やがて哀れ明治国家という悪逆非道の軍事国家に支配されて皇民化教育のあげく戦争へ・・・、とまぁこんなストーリーでしょうか。 

事実、沖縄の平和団体は、常日頃そう言い続けてきました。 

あまり長い時間それをしつこくリピートしたために、もはや異論を許さない神聖不可侵な9条モードになってしまっています。 

新たな琉球王国の姿を描き出した高良倉吉氏や上里隆史氏などは、気の毒にも歴史修正主義者呼ばわりされている始末です。 

どんな「神話」なのか、ちょっと覗いてみます。
山崎孝史大阪市立大学教授『戦後沖縄における社会運動と投票行動の関係性に関する政治地理学的研究』第4章よりhttp://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/yamataka/08chapter4.pdf

「沖縄平和運動センター76は1995 年の普天間飛行場を包囲する「人間の鎖」行動に際して以下のようなアピール文を発表した。
・声明文 「平和」、「基地」
沖縄はかつて琉球王国の時代に、平和外交を国是とする「武器を持たない国」として、東南アジア諸国を含む広い海域を舞台に長期にわたって中継貿易で栄えた大交易時代を経験した誇れる歴史を持っています。しかし、一六〇九年の薩摩侵攻にはじまり、一八八七年の琉球処分というように、時の権力間の都合によって振り回されるようになりました。また、太平洋戦争では国内唯一の地上戦を強いられ、あまりにも多くの命が奪われました。」(沖縄タイムス1995年5月15日)

これについて山崎氏はこう解説しています。

「15 世紀における非武装の琉球王国は大田(昌秀知事)の歴史認識の中核の1 つであり、彼は「沖縄の心」と呼ばれる沖縄県民の平和主義の起源をその時代にあるとした。」

つまり、太田知事は、琉球王国こそが沖縄の平和主義の起源で、その理想的モデルに戻れと言っているわけです。 

太田氏が信じている琉球王国、武器を持たない丸腰平和国家という通説はこんなものです。

・[通説1]尚真王が武器を捨てて、世界最初の「非武装中立国家宣言」をした。
・[通説2]ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いた。
・[通説3]19世紀、米国平和運動の文献に、「平和郷のモデルとしてリリアン・チンという琉球人が登場し、好戦的米国を批判している。
・[通説4]琉球王国は軍隊がなかったために、薩摩藩の軍事侵略に無抵抗だった。

残念ながら、これらすべては事実ではありません。

そもそも尚真王は、非武装中立宣言なんかしていません。彼の在位は1477(成化13年)~1527年(嘉靖5年)です。

「成化」という聞き慣れない元号は、明のものです。琉球王国は、中華帝国の属国でしたから、明の年号を使っています。

琉球王国の繁栄は、明の冊封と海禁体制のなかで、唯一琉球にだけ特権的地位に支えられていたためです。

琉球王国は海産物、硫黄、黒砂糖などの特産品をもち、「僻地」ではなく、東南アジアからインド洋にかけての広大な貿易圏を持つ国でした。

琉球王国は確かに明の属国でしたが、ただの従順な下僕ではなく、明確な自らの意志を持ち、貪欲に栄えることに邁進する、山椒は小粒でもピリリと辛いような国だったのです。

尚真王時代、琉球王国は黄金期を迎えます。 

Photo_2

では当時の尚王朝(第二尚氏)の時代背景を見てみましょう。 

尚真王は琉球王国が最大版図になった功労者であり、沖縄史に輝く「大英雄」です。 

彼がしたことは、「非武装中立宣言」どころか、真逆の沖縄の武力統一でした。 

時は1500年代初頭、本島を征服した尚は、次の版図拡大を八重山と久米島におきます。 

八重山への征伐軍の規模は、3000余とされていますから、当時の渡海能力からすれば最大限のものでした。

ちなみに1世紀後の、薩摩軍の琉球侵攻時の総勢は3000人、80余艘を使用していますから、ほぼ同じ規模です。

「武器を持たない国」どころか、当時の中華帝国を別にして、東アジア随一の軍事大国だったと言ってよいでしょう。

迎え撃ったのは、石垣島の大浜生まれの遠弥計赤蜂(おおやけ・あかはち)でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/

Photo_3
アカハチこそが、まさに英雄と呼ぶにふさわしい人物でした。

彼は王府の過酷な課税要求に対して島民をまとめ上げて、レジスタンスの戦いを繰り広げます。

結局、刀折れ矢尽きて戦死しますが、今に至るも八重山に深く残る「沖縄」への怒りをまさに体現した男でした。

Photo_6明治20年代に描かれたらしい「伏山敵討」、甲冑を身に着けている『沖縄風俗絵図』より)http://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/d99023d577b22ba4c50214b03e79c3bf

この時期の琉球王府軍の装備や装束は明らかではありませんが、上の「沖縄風俗絵」にあるような甲冑を身につけて、日本刀を持っていたようです。

種子島に鉄砲が伝来する以前に、既に中国から輸入した火矢(ヒャー)という中国式小銃を装備していた資料があります。

ところでこの時期既に琉球王国は、尚徳王(在位1461年~ 1469年)時代に奄美の軍事支配も完了しており、後々まで残る王府による苛烈な収奪政策を残していきます。
尚徳王 - Wikipedia

尚徳王が喜界島侵攻時に動員した兵力は、約2千と言われています。

彼は奄美大島諸島の奄美大島、徳之島、永良部島、与論島などを支配しました
※島津氏との関係についての部分は、資料薄弱なために削除しました。(午前10時)

八重山、奄美の軍事侵攻において、一回につき平均2千から3千人の兵力の海を渡った戦力投射能力が可能な琉球王朝のどこが「平和国家」なのでしょうか。

八重山、奄美への侵攻は別に秘史でもなんでもなく、通史にしばしば登場するのですから、どうしてそれだけの巨大な軍隊を動かす国家が、「武器なき国家」だと思えるのか、逆に不思議なほどです。

これが15世紀末から16世紀前半に至る、尚真王統治の「琉球王国黄金期」だったのです。

貿易による繁栄は国を富ませ、当然武力を充実させていきます

琉球王国がほんとうに「非武装国家」になったのは、1609年の対薩摩戦争に敗れて武装解除されて以降の話です。

しかもこの時期に非武装でいられたのも、薩摩藩が有事に駆けつけてくるという取り決めをしていたからであって、いわば薩-琉安全保障条約を締結したからにすぎません。

このように尚真王時代こそ、明によって許された朝貢貿易による豊富な財源を背景にした、強大な軍事力をもった地域覇権国でした。

平和を叫ぶのはけっこうですし、先祖に誇りを持つこともいいのですが、色眼鏡にもほどがあります。

ほとんど白を黒と言うに等しいではないですか。

しかし、誤解なきように言えば、私はこの尚真王時代を、ある意味批判する気などさらさらありません。

むしろ沖縄人が手にした誇るべき、素晴らしい黄金時代だったと思います。

ただし、それを貿易だけによる繁栄と考えるのは、余りに一面的にすぎると言っているだけです。

ではなぜ、絶頂期前段の尚徳王が、刀狩りをせねばならなかったのでしょうか。

理由は簡単です。権力絶頂期だからできることがあったのです。

第一に、絶対王権に等しい権力を持った尚王府に対して、支配下に置いた者たちの武装反乱を二度と起こさせないためです。

100年早い秀吉の刀狩りです。

第2に、取り上げた武器を王府の武器庫に集積して、武力強化を計ったのです。

「百浦添欄干之銘」(11509年)という史料には、こう書かれています。

「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」

これは従来、琉球王国の「平和国家宣言」と解釈されてきました。

しかし法政大学沖縄文化研究所国内研究員・上里隆史氏は異論を投げかけます。

「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。」

どうしてこのような、当時の国際常識だった領土拡張(侵略と言い換えもけっこうですが)に明け暮れた琉球王国を、こともあろうに「世界最初の平和主義宣言国家」と呼べるのか、実に不思議なメンタリティです。

あとのナポレオンがどーした、リリアン・チンという沖縄人(←なんつう名だ)がなんじゃらは、もう論評にすら値しないヨタ話にすぎません。

このような外国人がこう言った、国連がこう言ったという箔づけは、もう止めにしませんか。

自分の沖縄をちゃんと知らなくて、なにが「国連が」ですか。

琉球王国は、当時よくあった強力な軍隊を保有する「普通の国」だったのです。

しかも、ハンパではなく地域に覇をなす強大な

国が富めばその防衛と拡大のために軍隊を増強するのが、当時も今もなお、いわば「国の本能」です。

間違ってはいません。

あれほど富んでいた琉球王国が外敵から狙われない、などと考えるほうが夢想じゃありませんか。

つまりは、尚真王時代の琉球王国黄金期は、富国強兵政策の沖縄バージョンだったわけです。

「強兵」部分をまったく視野からはずし、それを可能にした「富国」である海外貿易のみに狭めてしまったのが、大田知事に代表されるような沖縄の戦後史観です。

これでは、まるで八重山が尚真王の威徳に打たれて進んで支配下に入り、感激の余り自らを搾り取って人頭税を差し出したということになりかねません

あくまでも、琉球王国は自らの版図拡大のために、奄美、八重山に軍事侵攻し、支配下に納めたのです。

このような琉球王国=平和国家という歴史観は、戦後沖縄の非武装中立・平和主義の濃密な空気から生まれました。

歴史検証の前に、「こうあるべきだ」という教条が存在したのです。

時代によって歴史観が変わるのは時の常ですが、自分の父祖の歴史は、尊いと思いつつも、突き放してその光と影を見るべきです。

さもないと、また同じ悲劇を繰り返すことになります。

今日の結論。大田昌秀知事が絶賛する「平和国家・琉球王国」はファンタジー。

正しくは、当時の東アジアで抜きんでた軍事強国でした。

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沖縄問題」カテゴリの記事

コメント

日本に限らず、世界中の学者の中には、願望や自ら描いたファンタジーを、いつの間にか事実として自らの信念に変化させて行く輩が多数存在します。

厄介なのは、彼らが学者と自称し、これを世間も認めていることです。これは歴史学や人類学に留まらず、経済学、法学、医学、物理学、様々な分野にまたがっており、誤った学説が世の中を跋扈することになってしまいます。実に困ったことですが、我々は、これが原因で世界中の人々が苦しめられている事実に気が付くべきです。

ノーベル賞にしても不透明で怪しげな審査過程で決められています。このノーベル賞が世の中にもたらす害悪は、測り知れません。例えば、ノーベル賞経済学者の運営するファンドが破綻した時、誰がその事態を予測したでしょうか。好むと好まざるに関わらず、結果的にノーベル賞が犯罪に加担することになってしまったのです。

話が逸れてしまいましたが、非武装中立の国や地域があったとすれば、何故それが可能であったのかと言うことを証拠を挙げて論理的に証明しなければなりません。

確かに、非同盟中立の国はスイスやスゥエーデン等が存在しますが、強力な軍隊と国産の武器産業を持っています。スイスは徴兵制までとっており、持久戦に備えて食料備蓄までしています。

平和を守るとはそう言うことなのです。平和と唱えれば平和が来るならこんな楽なことはありません。憲法9条が日本を戦争から守ることができる呪文になるなら、世界中の国が9条を真似た憲法を作るでしょう。呪文はコストゼロですから、こんなに効率的な国防方法はありません。

非武装中立を主張する学者は、何故それが可能になるのかと言うことを、証拠を挙げてこれを証明する必要があります。これまで日本は70年間戦争に巻き込まれなかったのは9条のおかげだと言う主張が通るでしょうか。もしこれを信じる人間がいたら、ただの馬鹿です。

戦後、米国の傀儡だった韓国の李承晩が対馬侵攻を企てて、釜山周辺に軍隊を集結させていたのは周知の事実です。武装解除されていた当時の日本は対抗手段を持ちませんでした。もし韓国の背後から北が攻めてこなかったら対馬どころか、北九州もどうなっていたか分かりません。

この李承晩、日本が非武装であることを良いことに、悪名高い李承晩ラインを勝手に引き、日本の漁民を苦しめ、多くの漁船を拿捕し、漁民を拉致しました。これに対して日本政府はなすすべもなかったのです。当時の日本人はどれだけ悔しい思いをしたことでしょうか。竹島もこの時に奪われてしまったのです。

終戦後のロシアの北方領土侵攻も似たようなものです。ポツダム宣言を受諾した日本政府は、北方領土に展開する日本軍にも武装解除を求めました。戦力的にロシアを圧倒していた日本軍ですが、無残にもロシアに投降し、多くがシベリア送りになってしまったのです。国際法的には武装解除の必要は全く無かったのですが、馬鹿真面目な日本政府の方針により、むざむざと北方領土は奪われてしまいました。

条約があろうが、協定があろうが関係無いのです。非武装とはこのようなことなのです。沖縄が非武装中立だったなどと寝言は休み休み言って欲しいものです。


>、1602年に迎えることになる薩摩藩の侵攻に対しては、敗れこそすれ、激烈な武装抵抗をしたことは、むしろ沖縄人の誇りとすべきではないでしょうか。

率直に言って、これはないと思う。
倉吉さんは置くとして、上里君の本では本島で複数回戦闘があった由を琉球側の資料のみで書いているけれど、薩摩の史料では一切出てこない。
薩摩軍が本島に上陸した時には、全面降伏の意思が固まっていた事を認めているにもかかわらず、です。
のみならず、「琉球軍は薩摩に攻め入る勢いだった」ような記述もあったが、笑い話にもならない。
薩摩側の史料は非常に豊富なのにもかかわらず、上里君は自身でほとんど検証されていません。
おそらく上里君は漢文も読めない(そうした歴史家は実は多い)か、「球陽」においてさえも著しく誤った解釈を繰り返しています。
事実、徳之島の戦いで薩摩軍の首級をあげたのは、ほとんど徳之島在の百姓です。

沖縄関連の歴史家というのは、倉吉前には平和主義に引き付けて琉球史をえがき、琉球王朝主権国家論や王朝ブームが到来すればそのように書く。
なので、自分で漢文手帳をたずさえて図書館通いするしか手がないのです。

山路さん。ああ、やっぱり来たか(苦笑)。絶対来るとおもってた。

上里氏が漢文を読めようが読めなかろうが、私にはどちらでもいいことです。別に私は上里ビリバーではありません。

たしかに私は当該部分を、上里氏の「琉日戦争1609」に依拠しています。
浅学なためにAmazonで星ひとつつけた人のコメント(貴兄?)と、上里氏批判サイト以外の反論のみしか読んでおりません。

具体的にどの部分が間違っているのかについて、上里批判ブログをざっと読んだていどですが、国際関係論的に琉球侵攻をみるという点は高く評価出来る本だと考えています。

私にとってはあくまでも、琉球王国=武器なき平和国家批判がテーマですので、薩摩侵攻部分で貴兄と論争する気はありません。

再度のお願い。
今後、記事テーマに則した投稿をなされるように期待いたします。
さもないと、今回のようなかみ合わない議論になります。
第2に、史料テキストを引用する必要のあるような今回のような場合は、あらかじめ私にメールでご相談ください。
何回か言っていますが、紙面を提供する用意があります。

コメント欄の狭い空間で、概括的に全否定されて(貴兄の言い方はいつもキツイ)、しかもそれが「上里が漢文が読めない」といった内容ですと、舌足らずの極みです。
読む方の身にもなってくだされ。

貴兄との面倒な論争を回避するために、当該部分と、島津がらみの部分は全削除しました。

琉球の風ブームの頃、中学生から、「沖縄が武器を持たない平和な島だったって、嘘だろう。寝込みを襲われないように王さまか武器を取り上げたんだろう。」って、なぜか私に問いかけてきたことがありました。中学生だからこそ見抜くことができたんでしょうね。当時は同時に『ルーツ』もブームになっていたから、ウチナンチュもルーツ探しをするのがちょっとした流行りになったりして。そしたら、「私の祖先は、首里の侍」とか、首里につながっていることが誇りになったりして。でも、よくよく考えてみたら、人頭税を徴収するために、あなたは首里の王さまの家系だよーだから税金払ってねーって、島々まで首里の家系に入らされたんじゃないかしら。家系と人頭税、どこかで聞いたことあるみたい。尚巴志の頃はわからないけど、尚真王の時代の沖縄は小さいけど帝国主義だったんじゃないかしら。

管理人さんの沖縄に対する愛情たっぷりの記事 とそれに対する山路さんのクールで博識なコメントが面白いとは思いますがたまにウーンと悩んでしまうことがあります。
例えば今回の場合とかです。
山路さんの知識や意見は面白いけど私にとって一番面白いのは管理人さんの記事だし最近は管理人さんが山路さんに気を使っているような気がして少し気の毒に思います。
ここで長文で書くよりも自分のブログを作ってそこで思う存分記事を書いたほうが山路さんのためにもなると思います。
これからも面白くて為になってスッキリするありんくりん記事を楽しみにしています(^-^)/

 管理人さんも山路さんも同じ土俵に居てもらいたい。山路さんが特殊専門的な分野で語ることが多くなって来ればその時でいいでしょう。長文でも私は構わないと思う。

たまに傑出した個人が出ますが、人類の総体としては
強弱の個のエゴのカタマリであり、世界中のドコの集団
だろうと変わりありません。人類のDNAは20万年やそこ
らでは大きく変わることが出来ないからです。

ケンポー9を作っても、警察予備隊や他国の武力も必要
だし核の傘も借りなきゃ、丸裸じゃヤラれちゃう。

年を取ると(35の中年超えると)、人の世でナニが起こり
ナニが起こらないか解る。戦争はけっして無くならない
から、巻き込まれないようにする努力をしなければなら
ないと思う。無くせ!なんて思わない、無理だもの・・
敗北主義じゃなくて、現実がそうだからそうするだけ。
極悪非道のヒドイ戦争だもの、無くなるならとっくの昔
に無くなっている。

太田さんの[通説]を見て口アングリ。純真な子供か、
子供を騙す悪い大人のどっちかだ。ナポレオンの出て
くる発想はスバラシイけれど。武器の無い国を聞いた
としても、ナポさんは命の掛け引きをするリアリスト
だから、ハナをフンっとしておしまい。


ちなみに私の地方では幕末に、河川改修として徳川さん
が島津さんをイビリ倒しています。南方の人頭税で稼い
だゼニを多額使わされ、その責として大勢の薩摩藩士が
切腹しています。ホントよく切るなぁ、と震えるくらい。

関ヶ原の不義をはらす為、富国強兵策を取り、耐え難き
を耐え忍び難きを忍んで、憎き徳川を討ち、日本の礎と
なっていく薩摩藩。さすが管理人さんのルーツですわ。

会津の人と薩摩の人は今でも仲が悪いのは有名ですが、
薩摩人と琉球人については聞いたことありませんね。


私の駆け足琉球史検索もやっと第二尚氏まできましたよ!
遠弥計赤蜂、英雄的な銅像に惹かれながらウィキペディアを読んでみたら、レッドキングの命名由来でもあるんですね。
郷土のこのような物語は祭や浄瑠璃なんかで鎮魂慰霊したくなります。
しかしウィキを読み進むと洪吉童同一人物説とか、面倒事に使われていそうな気配も見えます。

一定エリアを制圧したら、度量衡を統一して武装解除をいかにさせるかという内政が鍵なのは当たり前の道筋で、武器がないからどうだとか誰が奪ったんだとか、その時の農夫のゲキ怒り一代限りのものです。江戸幕府や第二尚氏の武装解除がうまく運んだのは、死人も出たでしょうが最終的にもう戦乱は仕舞いだねという了解が為され、自力による身分領土の組み替えがそこで終了したのでしょう。

中華は今でもそうですが相手の首を獲ったり替えたりして事を動かすので、あのタマの取り合い腐敗易姓革命を繰り返す中華史をなぞった後には山路さんが思われるような史観が頭にこびりつきがちです。日本の諸藩も琉球も漢籍を手本にしていた施政の範囲ではその史観が役立つと思います。
風土記郷土史の目線では、また違うはずで、科学の力もどんどん使って遺物の分析や情報の再構築が期待されます。

史観というのは前スレに山路さんが書かれていたような歴史の追い方、という意味です。このスレのコメントはもっと具体的でしたね。
失礼しました。

スイマセンです。江戸中期の宝暦治水事件でした。
まるで中共のような幕府。耐える薩摩。泣けます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

私のコメントが舌足らずでしたので、大幅に加筆しました。
管理人特権です(笑)。許されよ。

私も上里隆史氏の本は、読んだこと無いですが
ココログのブログで2002年位から書かれてるので良く読んでます。
目から鱗の琉球・沖縄史
読みやすいですし、ソフト口調なので面白いですよ。漢文手帳持ってる人は、無理かも知れないですが、琉球史の入り口をウロウロしている人には、お奨めです。
上里隆史氏の歴史感覚は、賛否あるかも知れないですが諸説色々あっていいと思います。
ブログ読んでる読者としての感想ですが、左翼思想でもないですよ(^-^)。

残念ながらまだ琉球が平和な王国であったと信じている人々がこういう事を起こすようです。だったら八重山の自己決定権はどうなるのかと。http://ryukyushimpo.jp/news/entry-322921.html

名無しによる連投はいっさい認めていませんので、削除対象としました。

名無しさん。議論したいのなら、殴り込みではなく、きちんと礼儀をもってテーブルに着くことです。

きみの説が正しいかどうかではなく、まずは礼儀を覚えて下さい。

この記事へのコメントは終了しました。

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