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2016年7月 5日 (火)

「日本人なのに」という世界は終わりました

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昨日あたりのテレビ・ラジオなどの解説を聞いていると、必ず出てくる一句がありました。 

「なぜ日本人が」、というものです。 

今回のダッカ事件をから苦い教訓をとりだすのなら、日本人は自民族を特別視することは、もう止めたほうがいいということです。 

私たちはテロリストから見れば、「ただの異教徒の外人」であって、抹殺すべき対象だということです。 

昨日の記事でも池内恵氏の説を援用して書きましたが、「日本人だから」ではありません。 

別にテロリストは日本人を選別してはいませんでした。 

コーランの一節を唱えられなかったから、その場でむごたらしく刺し殺したのです。 

外国人で異教徒だったら、誰でもよかったわけです。 

つまり、日本人だからでもなく、日本人でなくとも、あの忌まわしいテロには遭遇し得たのです。

残虐といっても始まりません。残念ながら、これが世界の姿なのです。

PhotoWEDGE Infinity

このテロリストのように見ず知らずの人間を殺害できる精神は、にわかに信じがたいものがありますが、それが宗教の持つひとつの側面なのです。 

日本人が認識したほうがいいことは、このようなテロと暴力、大国の果てしない軍拡と膨張といった時代に、今、私たちは生きている、いや、生きざるを得ないのだという現実です。 

私たちはなにか他国にない特殊な条件で、守られているのではないのです。 

どこか日本人すべての中に、量の多寡はあっても等しく持っている、「日本人だから」という世界は、残念ですが、とうに崩壊しているのです。 

崩壊しているのに、まるで自分の国だけがいつまでも特別の地位にいるかのような錯覚は早く捨てて、現実を見たほうがいいのではないでしょうか。 

私たちは、60年間の長きに渡って、戦後の国体であった「平和憲法」によって、第9条を守って自らが戦おうとさえしなければ、永遠に「平和国家」のままでいられる、というファンタジーの中に生きてきました。

「国体」って国民体育大会じゃありませんよ。国の骨格となる基礎的な政治原則のことです。

日本の場合、これが「平和憲法」だったことは誰しも反対しないでしょう。

あえてこの調和のとれた「平和国家」の安全を犯すのは、黒い企みを持った「軍事同盟」だけだと、その人たちは考えました。

そもそも、私たちが自分たちの安全と平和を確保しようとすれば、手段は二つしかありません。 

ひとつは、自らの力で防衛するという道です。別の言い方をすれば、どこのお世話にも陣営にもつかず「中立」でいることです。

今ひとつの手段は、「同盟」を結ぶことです。 

「同盟」とは、端的に軍事同盟のことです。 

お互いの国が安全と平和のために依存し合う、相互防衛の関係のことです。

日本はご承知のように、米国と世界でもっとも安定した同盟といわれる日米同盟を半世紀以上継続してきています。 

一方、「中立」という場合、武装中立と非武装中立があります。

おっと待てよ、後者の非武装中立は日本以外では通用しない、日本だけの概念です。 

なぜなら、丸腰平和国家になってしまった場合、たとえばある国が「おまえの国に基地を作らせろ。そのために条約を結ぼうぜ」と言いわれた場合、拒否できなくなります。 

防衛力なき丸腰国家などは、赤子の手をひねるように組み敷かれ、泣く泣く「平和条約」を結ばされて、属国となります。 

その時点でわが国の、市民的自由は消滅します。

外国軍は軍事制圧した支配地域に自由などという高級品を許しません。

ちなみに、その時にかつての文化人が言っていた、「市民的抵抗」なるものをしたらどうでしょうか。

「市民的抵抗」というと聞こえがいいですが、要は軍隊がない代わりに、そこいらのシロートが自警団のようなものを作って、竹槍や金属バットを持って、外国軍と戦えというすさまじいことになります。

外国軍の戦車に、金属バットで立ち向かいたい方はどうぞ。私はイヤダ。

しかし実際にそれを実行するとなると、制服、ないしは標識を着用しない戦闘員は、ハーグ陸戦条約、ジュネーブ協定の保護対象とは見なされません。 

したがって、外国軍によってその場で裁判無しの即決処刑を受けます。 

非暴力抵抗運動というガンジー思想もありますが、それは相手が自分たちと同じ生命に対する価値観を共有している場合のみ、初めて有効な手段だということを忘れないで下さい。

第2次天安門事件のように、一晩に大量の自国民を虐殺できる国に対して絶対にやってはいけない戦術です。

無抵抗の人々の頭上を、戦車が引き潰していくことでしょう。実際に天安門事件やチベット蜂起で起きたことです。

隣国は何度となく、そのようにして抵抗勢力を根絶やしにしました。

シールズさん、ひとつ試しに上陸する外国軍に酒持って「友好的討論」をしに行ってみて下さい。その場でタッタッと撃ち殺されますから。

実は、今の共産党の「防衛費は人殺し予算」という思想は、この非武装中立思想から生まれています。

ちなみに、共産党はこの発言をした藤野保史政策委員長は更迭されましたが、お気の毒に。

あれは共産党の綱領の一丁目一番地ですから、知らない党員は皆無でしょう。藤野氏には非はありません。

今の志位共産党のほうが、大きな矛盾を抱えているのです。

もちろん共産党は綱領にあるとおり、「日米同盟解消・自衛隊解体」を目標とする政党です。

志位氏はこう言っています。

「日本を取り巻く国際環境が平和的な成熟が出来て、国民みんなが自衛隊はなくて大丈夫だという圧倒的多数の合意が熟したところで9条全面実施の手続き、すなわち自衛隊の解消に向かう」

う~ん、国民が直接投票でもして、「自衛隊がなくてもいい人」とやるのですか(笑)。

まるで高校生シールズのご意見のようです。

自国の安全保障政策を直接投票に委ねる国は、イギリスしかありません。

そもそも気の毒ですが、地球から戦争がなくなることは、未来永劫とまではいいませんが、少なくとも今世紀中には不可能です。

はるか未来のユートピアでしか実現できないものを、政策とはいいません。

こういう言い方が可能ならば、自民党はこう言うでしょう。

「経済環境が成熟して、国民みんなが税金がなくて大丈夫だという圧倒的多数の合意が熟したところで、すべての企業、個人を問わず無税にします」(大きな拍手)

ですから、いままで政権与党になるなどと思わなかった頃の共産党は、綱領どおり野党独特の無責任さで、「戦争反対」「第9条を守れ」とだけ言っていればよかったわけです。

Photo_3
ところが、今回初めて「国民連合政府」実現のために、民進党と野党共闘することになってしまいました。

政府の一角に加わる可能性が開けたのです。

しかしいくら頭のネジがゆるんだ民進党でも、「自衛隊解体・日米同盟解体」といっているようなアブナイ党と組めるはずがありません。

党是を護持するか、野党共闘を選ぶか志位氏の気持ちは揺れたはずです。揺れなかったら政治的無能、揺れたら政治的変節漢ですから。

その志位ハムレットの気持ちを、親の心、子知らずで、学歴エリートの藤野氏は正直に、「防衛費は人殺し予算」と言ってしまったわけです。 

アジャパーと志位さん、きっと思ったでしょうね。

それはさておき、今、申し上げたように、「非武装中立」は単に非現実的であるばかりではなく、この考え方ほど万が一の時に、国民を危険にさらす考え方はありません。 

では、他国の手を借りない武装中立はどうでしょうか。 実はかつて17世紀初頭に、日本はやったことがあります。

えっと、思わないで下さい。わが先祖はそんなスゴイことをしていたのです。

戦国末期、日本はひとつの合戦に実に20数万という兵力を動員し、その多くは銃を装備するという、たぶん世界最大の軍事大国でした。

おそらく、西ヨーロッパ全体の兵力を凌ぐ力を、当時の日本はもっていました。

この軍事力を背景にして、徳川幕府は外敵を一切考慮することなく、260年間にわたって内向きになれたのです。

ところが、現代はその条件はありません。

現代日本のレベルの安全と平和を維持しようとすれば、恐ろしく高い買い物になります。 

安全保障の専門家よる『コストを試算・日米同盟』という本によれば、解体による総コストは23兆円、自主防衛のコストは9倍、間接経費だけで16倍となっています。

その上に日米同盟を否定すれば、中国・北朝鮮の核に対抗して自主核武装しか選択肢がなくなってしまいます。

それは金がかかる上に、世界の孤児になる近道です。 

もちろん、様々な試算がありえるでしょうが、今のわが国の世界もっとも高度な安全保障レベルが、わずか5兆円規模で実現しているというのは、恐ろしくコスパがいい防衛政策だと言えるわけです。 

ですから、日本はこの日米同盟を更に深化させて、現実の世界の動きに合わせていくことが、もっとも安全・安心・安価な道なのです。

たしかに今回のダッカ事件は、集団的自衛権自体が問われた事件ではありませんでした。

しかし、日本人だけが特別なのだというファンタジーから醒めるには、いいきっかけになったことでしょう。 

※すいません。気に食わなくていじりまくりました。午後6時。

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コメント

中共政府にとっては「日本人『だから』」なのではないでしょうか。
開発途上国のインフラ整備に携わった人達が多く殺されたのは、
競合する日本に撤退を促してその空白を自国が埋めるという動機が有り得ると思うのですが。
予てから、自分はISには中国の思惑と資金が関わっていると邪推しています。

ではどうやって対抗するかと言えば、自分もアメリカ他各国と強く連携して力と情報を共有する方向です。

プーさん。

その考えは無かったわ!
ISと中共の繋がりは興味深いですけれども、中国ってウイグル問題抱えてることだし、うーん…どうなんだろ?
武器をばら蒔いてることだけは確かですけど。

 今日の記事に同感。

> しかし、日本人だけが特別なのだというファンタジーから醒めるには、いいきっかけになったことでしょう。   

犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。

「日本(人)だから安全」という言葉は、憲法9条と合わせて一つになった、概念のようなもの。憲法9条神話を信じる人にとっては、無意識に信じているものなのでしょう。
日本は安全というのと、日本人は安全というのは、全くの別物なのですが、それの良し悪しを判断するのはまた別の話です。

しかし良く考えれば、二次大戦後(1955年)に「コロンボ・プラン」によって日本が国際協力・海外支援を始めた頃は、当然ながらそんな考え方は無かったはずです。
青年海外協力隊が発足した時も、東京オリンピックが開かれた後とはいえ、海外は未だ金持ちが安全な場所に遊びに行くとか、エリートが安全な場所で仕事をするとかで、それ以外の地域は安全だという考えは無かったでしょう。
ファンタジーと言うなら、何故に日本人は安全だという考えになったのか、その方が実に不思議なのです。
いったい、何時からそう考えるようになったのでしょうか?


>プーさん 山形さん
企業そのものはテロによる被害者の増大で撤退することはあっても、国家そのものの撤退はまずありえないと思います。(テロに屈するなという理論から)
また、開発する企業を自国のものにして、企業利益を得ようとするということに関しては、無いとは言い切れない、というレベルじゃないでしょうか。
だって裏で繋がっていたとしても、表では殺す人間を選ぶ判断はコーランなのですから。
無差別で大量に殺される人間の中に漢民族が居れば、それを理由としてISに積極的な報復をすることもありえるでしょう。

これが、中止になったとか言われる中国開発のソナディアの深海港建設、拡大すれば日米が中国のインド近海開発による支配を邪魔していることに対する報復だ~なんて事になれば、それはそれであまりにも馬鹿で軍事的な理由として、話題にはなるでしょうが、論としては面白みもあります。(不謹慎なのでこれ以上は止めます)

青竹ふみさん、
>日本は安全というのと、日本人は安全というのは、全くの別物なのですが、それの良し悪しを判断するのはまた別の話です。

同意します。
日本国内の治安は世界的にみて圧倒的に良く自由も保証され安全です。
日本人が安全かといえば、その安全な日本国内に居る事で安全を享受できます。しかしそれは日本に留まる日本人以外の人々にとってもそうです。
日本人が安全でなくなる時、それは日本人が安全でない土地に移動した先で起こります。
お金を持っていて隙がある事で狙われたりもすれば、現地で不審者扱いされそうになった際に積み重ねてきた日本の信頼で「おお日本人が言うならウソじゃないね」と交渉事がスムーズに運ぶ場合もあります。
しかし概ね「外国は楽しいけれど危険なところ」であり、家族が旅に出る時には「外国なんだから、気をつけなさい!」と声をかけるはずです。出入国でパスポートの強みを実感する事はあれども日本人だけが安全だと錯覚していた人はそれ程居ないのではないか?

むしろ、このような事件がある度にマスコミや平和運動家が連呼しているだけなのではと思います。つまりファンタジーはメディア創作の域を出ていないと、個々が気付けば霧は晴れるのではと思います。

時間が空いての連投失礼します。
日本国内が安全でなくなる場合について、スパイ防止や機密保持、自衛だとか集団安全保障、そういう盾でこの安全をキープしようとするのは右傾化でも全体主義でも侵略準備でもない、普通の国家戦略ですね。
隣国が恫喝してきても、きちんと守りを備えて笑顔で誰を恫喝してるのかなぁ?はな

時間が空いての連投失礼します。
日本国内が安全でなくなる場合について、スパイ防止や機密保持、自衛だとか集団安全保障、そういう盾でこの安全をキープしようとするのは右傾化でも全体主義でも侵略準備でもない、普通の国家戦略ですね。
隣国が恫喝してきても、きちんと守りを備えて笑顔で誰を恫喝してるのかなぁ?と凄み返せばそこから交渉がスタートするものだと思います。

 ふゆみさんのお考え全く賛成ですよ。自然な発想です。自然な発想は大体が正しいものではないでしょうか。沖縄で辺野古問題が騒がれておりますが、国防という観点からは、また自然な発想に基づけば、早急に飛行場を建設すべきなのです。

 左翼諸君は、非武装中立を主張しますが、現実を素直に見れば、防衛力を整備することが大事なのです。左翼の諸君は現実を遊離し色々考えを巡らすのでしょうが、日本が安全であることを保証する論を創り上げることはできないでしょう。

 左翼は、中国が尖閣を攻めたらどうするのかと問われると、話し合い解決と言い、あるいは、日本側が対立的な政策を行ったからだと言うでしょう。話し合いに応じないで武力で威嚇する国への抗議はなくて、いつもこちらが悪いのだと思う自虐的な発想しかありません。いつも相手が正しいのです。

 防衛力を万全にしてしまうと、平和的な交渉も進展するのではないでしょうか。

今回の事件 安倍のせいだと言う人は結構いますが9条のせいだって言う人は見かけませんね。と言うのは、日本人を殺すのはisにとってローリスクだからではないかと思ったからです。アメリカとかイギリスとかに攻撃を加えたら空爆の洗礼を受けなければなりませんが、日本だったらその必要はない。むしろ自分達に同情してくれるものまでいる。私は自民党支持してませんし、別に改憲しろと言うわけではありませんが、話し合い重視のツケが廻ってきたのかな?と思います。

ブログ主様は昨日に引き続き、今日の記事も日本人がかかえる根本的で深刻な問題を浮き彫りにされました。
こうした問題は単に安全保障の問題にとどまらず、「日本という国家は、一体何者であるのか」という根源的な問いに密接な関連があると思います。

そうすると、青竹ふみ さんの、
>ファンタジーと言うなら、何故に日本人は安全だという考えになったのか、その方が実に不思議なのです。
いったい、何時からそう考えるようになったのでしょうか?

この問いは重要です。
「コロンボ・プラン」の頃との比較、という問いの文脈に添って答えるならば、米国の「一の子分」である日本が、米国の衰退という変化、新たに生まれた「テロさえ辞さぬ文明の衝突」という、「国際情勢の変化」であって、日本人の方の変化ではないようにも説明できましょう。

ただ、この問いをもっと大きな意味でとらえ、マスコミはじめ多くの知識人は「何時からそう考えるようになったか?」と考えるならば、ここは重要なポイントだと思います。
そこには多くの要素があり一口では言えませんが、はっきりしているのは、敗戦=新憲法発布後からでしょう。
ですがそれで、「日本はどういう国であったものが、(実質的に)どういう国に変わったのか?」の説明は出来ていません。
思想的に彼らに多くの影響をあたえてきたのが丸山眞男で、この人の誤謬が今でもインテリ層を支配しつづけているのではないか、と考えます。

私達一般人は今回のような事態に直面したとき、自分の生活体験や社会常識にてらして自然に判断し、ブログ主様の見解を了とし、このコメ欄の皆様のような意見を発します。
そして、これは(余計な理屈や前提にとらわれず、自然で現実的であるだけに)概ね正しい。
それならマスコミはじめ多くの知識人とは何なのか?、という事になります。
この彼我の違いは深刻で、まるで別の国の住人のようです。

一方、多くの国民もそれをあまり違和感なく、かつ巧妙に距離をおいて眺めているように感じます。
こうした日本の状態は思想史的に言えば網野善彦のいう「重商主義国家」であり、江藤淳のいう「物質的幸福を追求するだけ」の国家であり、三島由紀夫の「中心のない、空疎な島国の金持ち」国家とも言い得るのかな、と思います。
ここらへんの解決は、リベラルと保守の共同した役割となるのは今や明瞭なのですが、この二つの思想的立場を対立概念ととらえているうちは無理でしょう。


日本人は安全というファンタジーはメディアが創作したもの、というのは納得できるものが有りますね。
自分でもネット掲示板等色々と見てまわっていましたが、こんな意見がありました。

>「僕らはみんな生きている」という一色伸幸氏原作の映画を思い出した

私は知りませんでしたが、調べてみるとこんな話のようです。
架空のアジア発展途上国タルキスタンに、日本人サラリーマンが派遣される。そこで軍事クーデターが起きてしまい、主人公はライバル会社の人間らと共に国外脱出を目指す……一昔前の、社畜として働くサラリーマンの自虐的な話。1993年の作品です。
映画の予告編にもシーンが有るようですが、武装勢力たちが互いに攻撃しあうなか、民間人に攻撃していないことに気が付いた主人公たち。
「私たちは日本人のサラリーマンだ!」とパスポートを掲げて戦場のど真ん中を突っ切ろうとするんだとか。

今回のダッカ襲撃事件では、私は日本人だと叫ぶ人が犯人たちによって店の中に連れ込まれる、ということがあったそうです。
皮肉なことですが「私は日本人」で助かるのは、その言葉を周囲が尊重してくれるかどうかという対比になってしまっている気がします。
これは、日本は憲法9条で戦争しない! という言葉を尊重してくれるからこそ平和なのであって、そんなこと関係がないと言う奴であれば、戦争に巻き込まれるということでもあると思います。

ちなみに漫画版は多少ストーリーが違いますが一色伸幸氏原作で、作画は山本直樹氏(青年漫画も描いてる人です)
この漫画の後書きに、山本氏は漫画を書くに当たって「ダッカに取材に行って町並みを参考にした」と書かれていたそうです。
思わず、えっ、と声が出てしまいました。偶然とは恐ろしい。

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