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2016年11月22日 (火)

井上達夫氏の『憲法の涙』を読む

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東京大学大学院で法哲学を教えている、井上達夫氏の刺激的な2冊の本があります。 

『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』と『憲法の涙』です。 

この井上氏は、日本で極めて珍しい<リベラル>の立場に立つ人です。 

あ、そうそう日本で俗に言われている「リベラル」とは、世界基準ではまるっきりの左翼のことです。 

別に左翼なら左翼だと名乗ればいいのですが、「国会前に来ないものに憲法を語る資格はない」(SEALDs)と言ってのける人達や、高江リンチ事件をするような人達までが、「オレはリベラルだ」と僣称するからおかしくなります。 

Cxwu3eeusaasbrx他者の言論を認めない者は、「リベラル」の大原則である「他者の言論の自由の容認」に反しています。 

また暴力を用いて他者を威嚇したり、自らの意見を通そうとする行為を、リベラルと呼ぶことはありません。 

ガサツな物言いですが、この二点さえ守れば、安倍政権に賛成だろうと反対だろうと、集団的自衛権が必要だと思うと思うまいと、<リベラル>の立場を共有できると思います。

私も<リベラル>の末席につらなっているつもりです。 

つまり、<リベラル>とは一定の政治的見解、あるいは立場そのものではなく、互いの<自由>を尊重する精神のあり方のことなのです。 

それはさておき、井上氏の『憲法の涙』は、護憲論のうさんくささに辟易しつつも、保守的改憲論の一本調子にもなじめない方にはうってつけの一冊です。 

全体を読み通して、私は井上氏の言説の半分にはおーおーと頷き、半分にはちょっと違うな首をかしげますが、本に対する距離はそのていどでよいのですよ。 

井上氏はこの本の中で、「9条は『非武装中立』を命じているとしか、考えられない」と述べています。

というのは9条2項には、「陸海空軍その他の戦力は、保持しない」「国の交戦権は認めない」と書いてあるわけです。

あまりにも有名な一節ですね。

ここで注目しなければいけないのは、さりげなく入れてある「戦力」という用語です。

自衛隊はどうなんだという事になりますが、むりやり2項冒頭の「前項の目的を達するため」という一節で、自衛のためだから「戦力」ではないとしています。

いうまでもなく、無理筋です。

現行憲法は条文の中に、あらかじめ解釈改憲の時限爆弾が仕掛けられてあったということになります。

では、自衛隊のドクトリン(基本原則)は何かといえば、外敵が攻めてきたら米軍と共同して戦うというものです。

あれ?よもや世界最強の米軍まで「戦力」ではない、なんて言いませんよね(苦笑)。

そうなのです。 自衛隊・日米安保、全部ひっくるめてダメ、これが9条の立場です。

しかし、いくらなんでもこりゃファンタジーすぎるというので、護憲派の憲法学者にも自衛隊くらいいいんじゃないか、いや日米安保だってこの際、と温度差が生じています。

井上氏は憲法学会も一枚岩ではないと書いています。

最左派の原理主義的護憲派は「オレが一番正しい解釈だ」としながらも、何もしません。

というか、できないのです。

自衛隊解体・日米安保破棄という国民運動は、60年安保でとうに終わっているからです。

政党でいえば共産党がこの立場ですが、野党連合をつくるために最近はあまりおおっぴらに言わなくなりました。

かろうじてこの人たちにできるのは、集団的自衛権のような、専守防衛からちょっと首を出した時に、「ちょっとだけ反対する」(井上氏)だけです。

井上氏はこの人たちを、学問的には原理主義だが、「実際は自衛隊と日米安保を容認しているし、その便益も享受している」と手厳しく述べています。

また、この原理主義を貫くために、若者を利用していると井上氏は書きます。

「自衛隊・安保自体が違憲だと若者的純真さを偽装して主張するほうが政治的には一層効果的だ、『大人の知恵』で妥協するには一見『非妥協的』な違憲論から出発するほうが得策だというわけです。」

井上氏はこうも書きます。

「原理主義的護憲派の自衛隊に対する態度は、私生児を作っておいて、いつまでも認知しない、そのくせ『一朝ことあらば命をかけてオレを守れ』と言っている身勝手な男に例えました。
それは人間として許されない欺瞞だと。
『人間として』といういう最大級の表現を使いたくなるのは、そこに彼らの、自衛隊員を公正に扱われるべき『他者』として尊重せずに、利用されるべき『道具』と見下す、エリート臭を嗅ぎ取るからです。」

では、9条のキモである「交戦権」とはなんなのでしょうか。端的に言えば、国家が「戦争する権利」のことです。

こう書いただけで、SEALDsの皆さんはジンマシンが出て、「戦争法案反対!若者を戦場に行かすな!」と叫びそうですが、侵略目的だろうと自衛戦争だろうと「戦争」に違いはないのです。

現代では、侵略する権利などは国際法で認められていません。

ただし「戦争する権利」はあります。

それが可能なのは国連憲章で認められた、個別的自衛権と集団的自衛権、そしてPKOだけです。

ですから9条が「交戦権を認めない」と言っているのは、自衛戦争もできないということです。

これをいわゆる護憲派的「立憲主義」で解釈すれば、憲法は政府に対する命令だそうですから、政府は外敵が侵入し、国民の虐殺をほしいままにしたとしても、「交戦」してはならない、という事になります。

平たく言えば、<9条的国家>とは国民にこう言っているわけです。

「外国が諸君らを殺しにきたり、諸君らの家や町を焼き払ったとしても、国は諸君らを守らない。子供たちが殺されたり、浮浪児になってもなにもしない。国民諸君、勝手に生き延びよ」

究極の無責任国家です。

なぜなら、国民保護と領土保全こそ、近代国家の国民に対しての最大の義務ですから。

これを井上氏は「絶対的平和主義」、あるいは「原理主義的護憲論」と呼んでいます。

絶対的平和主義とは、ガンジーやキング牧師の精神ですね。

「殺されるかもしれない、殺されても殺し返さない、峻厳な自己犠牲の精神」と井上氏は説明しています。

たとえば外敵が侵略してきても、バラを持って戦車の前に座り込むという行為です。

Photo

上の写真は1989年の六四天安門事件の写真ですが、この高貴な精神を持つ人物の消息は不明です。
六四天安門事件 - Wikipedia

おそらく下の写真のように、ゴミのように打ち捨てられてゴミとして処理されてしまったと思われています。

虐殺された数千あるいは数万とも言われる死体は、遺族の元に帰ることなく処分されてしまいました。

Photo_2
このよう自らの生命と引き換えにして、侵略や抑圧と戦うことは多くの国民にとって不可能です。

生き方としては立派でも、これを国民に要求することは不可能です。

というか、私はそのようなことを政府が国民に命じることは、狂気の沙汰だと思います。

井上氏がいみじくも言っているように、「立派すぎる理想」だからです。

なぜなら、生命に対する価値観が隔絶した国家、(上の写真の国などですが)に侵略された場合、自国民に対してすら大量虐殺を厭わない国ですから、他民族に対してはまさに情け容赦ない殺戮が待っているでしょう。

よく安易に市民が武装すれば軍隊はいらないと言う人がいますが、高度に近代化した侵略軍に、にわか市民兵が立ち向かうことは自殺行為です。

また、それは国内を戦場に想定しているという意味で、かつての帝国陸軍が絶叫した「1億火の玉・本土決戦」の精神となんら変わりありません。

しかし、9条が要求している「立憲主義」とは、まさにこれなのです。

9条は敵の戦車の前に身を投げ出せと義務づけていますが、しかしそれを押しつけることは余りに過酷です。

井上氏はこう述べています。

「この義務を課す9条が現にある以上、それを無視したり解釈改憲ですり抜けるのは立憲主義を骨抜きにするからダメ、正規の改憲手続きで9条を削除せよ、あるいは次善策として、専守防衛明記改憲をせよ、と主張しています。」

井上氏はみずからのこの立場を、「消極的正戦論」、あるいは「消極的改憲論」と呼んでいます。

私の考えはこれとはやや違うのですが、9条全削除がリベラル派から出てきたことを興味深く思います。

この稿続けます。

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コメント

ずいぶん揺れましたね。家が古いので(旧耐震基準のまま)ミッシミシと。M7.3は宮城県沖や三陸沖で数年に1度起こるというのが数十年前からの知見でしたが、2011・3・11 でひっくり返りました。
海岸近くの方は早く逃げて!

デジタルディレイのせいでケータイの緊急速報メールとNHKの速報が来る頃にはこちらでも既にP波感じてました。

みなさんご無事で!

こっち書こうとHN書いた瞬間に警報だったんで・・・。

さて、井上氏のリベラル論は筋が通ってますね。「日本の常識は世界の非常識」とはよく言ったもんですが、リベラルの定義なんかは典型ですね。ヤクザ者や共産党を含む左翼過激派がリベラルのマントを被って跋扈跳梁するのが我が国の現状。

これを批判するとすぐに「ネトウヨ黙れ」とものすごいいきおいで言論弾圧(この前あったばかりですな)されますし、
逆に井上さんのような意見もちゃんと聞くべきではないのか?と言うと右方面から左翼扱いされて罵声を浴びます。

かつては左翼で運動をなさってた管理人さん・山路さん・あと九州Mさんもか・・・も同じでしょう。私等より内情を良くご存知でしょうし。
針のむしろです。

全くリベラル(民主主義)とは何ぞや!?

いやー、来ました、来ました。震度4ですが、もっと来てたような。ゆさゆさと長かった。
被害はなしです。
あわてて本の山を押さえました。危うい均衡で積み上げてあるんで。
あれが崩れると書籍流(笑)。

ただ3月11日のような縦揺れではなかったので、安心はしていました。
ひさしぶりで携帯の緊急地震速報がジィジィうるさいこと。

福島の被害が心配です。

一部お怪我された方が出たようですが、大事に至らなかったようで、何よりです。
しかし、地震で為替が円高になりました。通貨が高くなる国は経済力が強いという常識から行くと、天災が起きて通貨が上がるのってなんだか釈然としませんね。

管理人さんのご指摘通り、日本には似非リベラルはたくさんいますが、本物のリベラルはほとんど存在しないか、リベラルとして認識されないですね。
リベラルを非暴力と考えるような風潮は間違いで、自由と人権のために血を流して戦うのがリベラルだし、愛国者である必要があります。
この「愛国者」であることが、即座に右翼認定を受けるせいで、真正リベラルが、リベラルと呼ばれないことが多いんですよ。

大きな被害無いみたいですが、地震の被害に合われた方にお見舞い申し上げます。

リベラル(自称含む)の方でマスコミ等で素晴らしい理想を語る方に作家、映画関係、音楽家、哲学文学等の学者、宗教家等が多い?のはノンフィクション以外頭の中で考えた空想世界を疑似体験させる仕事なのでどうしても理想論に傾き、清濁合わせ飲まざるを得ない現実社会の濁部分を叩き、浮き世離れしてるんでしょうか。
私自身理工系ですがSF作家では無いから「自然エネルギーで全ての電源賄う」みたいな夢物語は理想で有っても非現実的と考えてます。

又特許法ですが、法改正に携わった知り合い(技術系や研究者)も居て、特許法に限らず法律が規定する分野を法律自体の専門家のみで立法出来ないと理解してるつもりです。
翻って憲法(特に9条)は上記の理想主義者ばかりの意見が取り上げられ、実務者(この場合自衛官等?)が何か言おうなら管理人様ご指摘のリベラルやマスコミから叩かれ何も言えず9条が半ば宗教と化した状態は、立法から実務者(現実主義者)を排除した結果で有ると考えてます。

今までの掲示板の空気読まないカキコと異なり、昨日の拙稿は重力加速度と憲法の無茶苦茶な比較が受け?管理人様始め複数の方に取り上げて頂き驚いてます。

 リベラルという言葉はすこし分かりにくい。自由、良識、常識、という意味があるのだろうとは思う。

 「ビルマの竪琴」という映画が私が小学校6年の頃に上映された。評判のいい映画であった。親たちも快くその映画を見せてくれた。市川崑監督の作品だ。原作は竹山道雄という方である。竹山氏は、戦前には軍国主義に反対の傾向があり、世の主流ではなかったらしい。

 竹山氏は、戦後は自民党支持の論客となった。自由主義者から、保守主義者に転向したのだろうか。ともあれ、保守主義であった私は、この人の中になにか中庸というような真実があるのだろうと勝手に思っていて、左翼言論全盛の時代の中を生きている私の心の支えになっていたのである。

 別に、竹山氏の著書を読んだわけでもなく、ただ、その文学作品と行動からこの人を想像していたのである。この方がリベラルという言葉にふさわしいのかと思う。

 竹山氏は戦前も戦後も変わらない生き方をしていたのだろうと思う。筋が通っている。こんな人は尊敬できるのだ。宮沢俊義氏のような変節漢は、やがて信頼は失われていくのだろうと思う。8月革命というのは、屁理屈でしかない。

 井上達夫氏ってどんな方だろう? 竹山道雄さんのような方なのだろうか? 

  

eyonabaruさん

「リベラリズム」というのは直訳すれば、「自由主義」と訳されるので誤解されやすいですが、違います。

井上達夫氏は「リベラルの基本的な価値は自由でなく、正義だ」と言っています。
リベラルは「啓蒙」(フランス革命)と「寛容」(宗教戦争)を歴史的起源と価値の根源としている思想ですが、どちらにも「ポジ」と「ネガ」が存在するので、それらを生かすためにも「正義概念」が必須条件だし、むしろ「核心」だ、というのが氏の主張のようです。
(私的には、そこにはやはり「日本人が生きてきた過程」とか、風土や慣習がプラスされないと納得しきれない部分もあるのですが)
ブログ主様が紹介された本は非常に読みやすく、スイスイ理解がやってくる良書なので、日本の「左翼でないリベラル」(希少種ですが)を知るにはもってこいだし、その思想の深さも「感銘もの」です。

ついでながら、竹山道雄氏と井上達夫氏の類似性というのは全く意外の観点ですが、常に「孤塁を守る」といった風があり、練磨と苦悩から得た自分の思想信条を貫き通す姿勢は見事に一致していると思います。

竹山を知るには、ぜひ「昭和の精神史」をお勧めしたいです。(私の愛読書です)
小冊子ですがここに竹山のすべてがあり、戦後に竹山が保守的傾向になったのではなく、日本全体が左派的傾向になったのである事がよく分かる一冊です。
宮沢をはじめ、変節した(せざるを得なかった)知識人は掃いて捨てる程おりますが、竹山は戦前・戦後一貫しています。
自民党のリベラル派にも多くの影響を与えた、私たちがよく知る「戦後リベラル」と次元の違う、「日本的リベラル」と言ってもいいのだろうとも思いますね。

 山路さん、竹山道雄氏のご本も読んでおられたのですね。「昭和の精神史」はいずれ購入しますね。

 「孤塁を守る」ということですか。何か魅力的ですね。今は、群れる時代ですね。ホンモノの学者は、自分自身の深い考えがあるようですね。このような方々は尊敬に値します。

 ありがとうございました。

山路さん。先取りされてしまった(笑)。
そのうち、井上氏のもう一冊の本も取り上げます。
井上さんと私はそうとうにリベラル観も違いますが、彼のフラットな広い視野には教えられています。
いまや憲法となる蛸壷からね。

竹山さんですか。面白いな。『昭和の精神史』ですか、学生時代読みました。
もう手元にはないが。

竹山氏が『ビルマの竪琴』を日本民族の戦の鎮魂として著し、それが遡及力のある映画化によって望まずして「反戦」の語り手とされたてしまったわけです。

その結果、どれほど竹山が苦吟したのか、偶像視されることによって、時代に対しての意見を述べると、ことごとく「感動を受けた読者」によって唾を吐きかけることになったのか。

毎日、目前の事象に囚われている私など、こういう広々とした清談をしたいものです。
いつか、こういうことも書ける空間にしたいと思います。


トルストイが亡くなる数日前にガンジーに宛てて手紙を書いています.
非暴力な抵抗運動の素晴らしさを讃えるとともに,抵抗の際に暴力を使えば,暴力の連鎖を産み,正当性を失うというようなことがあったかと記憶しています.

ここまで来るとすごいものがありますが,選ばれし者のなせる行為だと思います,

今日は緊急地震速報で飛び起き大変な一日でした。私が住んでいる地域は大した影響はなかったのですが、東北の皆様には心からお見舞い申し上げます。
私も現場の人間ですから、 Si様と同じ立場で思想的と言うより、運用上支障があれば変えれば良いとの考えです。
時代の変化に対応できないと国だろうと会社だろうと個人だろうと存続できません。
左翼がそのような現実に目を背けて、真摯に議論しようとしないのは、内面に矛盾を抱えているからです。
その最たる例が、辻本清美氏があれほど自衛隊の海外派遣を非難しながら、氏が運営するピースボートがソマリアで自衛隊に護衛を依頼したことです。本当に左翼の無責任さに腹が立つ事件でした。自衛隊に護衛を依頼せず身ぐるみはがされ、命さえい問わない覚悟でしたら少しは信念の欠片も感じるのですが。
沖縄に巣食う左翼などもそうですが、正論に反論できないので沖縄の痛みとか、差別とかの場外乱闘に持ち込むしかないのでしょう。日本は資源の無い国です。必然的に外国からの技術を昇華し生き延びるしか方法が無かった。しかしそんな日本人が思想だけは外国の思想を鵜呑みにしたのは残念です。

この馬鹿は過激派赤軍派と同じ危険極まりない極左。
テロ共謀罪法案成立後は逮捕される。自分が逮捕されるのが嫌なので法案に大反対。T大はかなりの低レベルだ。

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