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« 井上達夫氏の『憲法の涙』を読む | トップページ | 同じ穴のムジナとしての護憲派と改釈改憲論 »

2016年11月23日 (水)

護憲派の「死んでもラッパを放しませんでした」とは

003

井上達夫氏の『憲法の涙』を読んでいると、護憲派内部の葛藤が手にとるようにわかります。

井上氏は安倍政権に反対する運動をやっている方で、決して保守サイドにいる人ではありません。

柔軟ですが、バリバリのレフトです。

それゆえ私は、井上氏には失礼な読み方ですが、告発の書として読んでしまいました。

さて、井上氏が護憲派を強く批判しているのは、このようなことです。

「平和のために何もしない、なにもできない、その怠慢や無力をごまかすために、9条がつかわれてきた節がある。」

昨日も触れましたが、9条は余りに現実と乖離した条文のために、条文解釈どおりに統治すると、スッポンポンの無防備国家となってしまうわけです。

「いや、それでもいいんだ、チューゴクが攻めてきたら酒を持って行って、話し合えばいいのさ」という福岡SEALDs の可愛いい坊やが去年いましたが、まぁそのていどの脳味噌のレベルならそれはそれでいいでしょう。

ま、現実に侵攻軍のピリピリしている警戒線に対して、瓶を持った現地の男が大声を上げて接近すれば、タッタでお終いですが。

あるいは某県の地方紙のように脅威そのものを否定して、「チューゴクの脅威などない。それを煽ってアベが軍拡することを警戒せよ」というのも、いいでしょう。

結局人は、見たいものしか見えないのですから。

しかし、法学者という看板をかけている人たちがそうでは、いかがなものか、と井上氏は問うています。

井上氏は護憲派憲法学者たちが、自己欺瞞に陥っていると考えています。

原理的に9条を解釈すればするほど、それは戦後日本の「軽武装国家」というといういわばビジネス・モデルを破壊してしまうからです。

軽武装国家を破壊するということは、すなわち日米安保を廃棄、ないしは縮小するということですから、日本はそれなりに防衛力を強化していかねばなりません。

今回、トランプさんが登場してまだ何がどうなるのかは分かりませんが、日本に対してよりいっそうの負担を要求してくることだけは間違いないでしょう。

これがよく言われるような駐留経費といった金銭的な問題だけならともかく、今までの9条があるために禁じられてきた様々なアジア安定のための枠組みに参加することを求められると思われます。

こういう時代状況の安全保障はどうするという時に、無防備国家にしようでは、解答になっていません。

あまりに幼稚、あまりに退嬰的です。

世間離れした護憲学者も大人ですから、自分からはあまり言わずに、SEALDsのような若者に言わせて、自分らは同伴知識人をするというスタンスです。

「純粋に平和を希求する若者がこんなに沢山いるぞ」、とうるうるするわけです。

去年、全国の大学に大量に出ましたね、こんな先生たち。

Photo_2http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0b06ffa7d1b04a723bd55a4fafd79f5d

井上氏はこういうことは、「良心の陥穽」だとバッサリ斬り捨てます。

氏は、「死んでもラッパを離しませんでした、という話。突撃ラッパを吹いていたときに亡くなったけれど、ラッパはくわえたままだった、という武勇伝」になぞらえます。

丸山真男が、日本共産党にも戦争責任はあると言った時に使った比喩です。

井上氏は丸山の共産党批判を、護憲派に被せています。

Photo
丸山に言わせれば、共産党指導者たちは「不転向」だけを錦の御旗にして、それを自分の潔癖性の証にしたわけですね。

長く共産党の委員長を務めたミヤケンこと宮本顕治のように、「獄中12年」が共産党の金バッチでした。

それを丸山はお前たちは軍部の独走を止められなかったではないか、その政治責任はどう考えるのだ、と詰め寄りました。(丸山真男『戦争責任論の盲点』)

その時、比喩でだしたのがこの「死んでもラッパを放しませんでした」という寓話です。

井上氏はこう言います。

「良心の潔癖を、政治的無力や敗北の免罪符にするべきではない」

「私に言わせれば、護憲派が、9条と現実との乖離を克服できないまま、今でも『9条だけはマモリマシタ」と良心を満足させるなら、やはり「死んでもラッパを」と同じです。
9条を護符とする甘えを断ち切って、9条の精神を活かす政治改革を民主主義の闘技場で進めるべきなくです。」

井上氏が唱える「政治改革」の中身については、とりあえず置きます。そうとうに私の考えとは違います。

ただし護憲派の中に、9条の持つあまりにも大きな現実との隔たりを、どのようにして埋めていくのか、自衛隊や安全保障政策をどのように憲法に位置づけていくのかについて、議論できる人が現れたことには、拍手を惜しみません。

とまれ、「死んでもラッパを」の護憲派とは、議論そのものが成立しないからです。

私としては、やっと気がついたか、といいたいのはやまやまですが、論点が交わる議論をしたいものです。

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コメント

例えは悪いかもしれませんが、あえて書き込ませていただきます。

とある御老人の言葉です。

「意識が失われた回復見込みのない人の延命をいつまでやるのか。延々と漫然と続けるのは五体満足で生きてるヤツの自己満足にすぎん。」

>クラッシャーさん

この比喩に何の意味が?
回復見込みのない人の延命を止めるのも五体満足で生きてる奴の自己満足に過ぎません。その人の延命が生きている人にとって必要な事なら意味があることです。続けられるかどうかは多くの場合現実的な事柄によって制約されている。

熱心な読者とは言えませんが勉強させていただいています。皆様のコメントが高度すぎてほとんど眺めているだけですが。

井上達夫氏の前著「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」を斜め読みしていました(精読ではなく)ので、少し気になった点を。

井上氏の「九条削除論」は最近ではなく、ご本人曰く、20年前から主張しているようですよ。
また、井上氏は、集団的安全保障は必要だとしています。しかし、今回の集団的自衛権については米軍従属を深めるという懸念から基本的に反対しています。

ある沖縄人さん。コメントありがとうございます。
ええ、井上さんはかなり前から言っていたと書いていますね。
まだ言っているのか、と言われたなんて冗談ぽく言っています。

次回やるつもりでしたが、彼の持論は自衛隊をきっちり位置づけないから、改釈憲法になって歪んでしまったのだということのようです。
その点は私も同感です。

集団的安全保障と集団的自衛権は、言葉は似ていますが、別の概念です。

前者はNATO、あるいは当初国連が目指そうとしたものです。
後者は日米同盟のように、個別の国家間で締結されるものです。
日米安保はとうに成立していますので、いまさら賛成も反対も、本来ないのですが。
だから井上氏も言うように、原理主義護憲派は運動としては「60年安保で終わっている」のです。

井上さんは護憲派としては破格に柔軟ですが、あるところまでいくと「左翼の岩盤」があるようで、対米従属がイヤなら、別の対案がほしいところです。

アジアではNATOのようなものをつくれませんでした。
発展途上国が多かったからです。
ですから必然的に、米国と個別安保条約をむすぶ、リム&スポーク方式になりました。
これ以外に選択肢がないからです。
こんごはともかくとして、米国と同盟を結ぶ以外なにかあるなら、どうぞお示しくださいってかんじですかね。

※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-bf87.html

goblinさん

> 「意識が失われた回復見込みのない人の延命をいつまでやるのか。延々と漫然と続けるのは五体満足で生きてるヤツの自己満足にすぎん。」

 自己満足という点が、延命を図る人と9条を護る人との共通するところだと理解しました。

 延命をしても回復はしない、9条を護っても平和は護れない。どちらも、現実的に有効性はありません。

 人間は自己満足をしたいということもありますが、それだけではどこかおかしいのでしょう。

今回の記事と直接の関係はありませんが。

曖昧なものを、曖昧なままで由とする(曖昧なままで体裁を整える、ということ)ことが、悪いことだと思われるようになったのは何時からだろうか、と思うことがあります。

言語学者・金田一春彦氏は、こんなことを言っていたと思います。
「日本語の特色として第一に注意すべきは、話さないこと、書かないことをよしとする精神があるということである」(うろ覚えですが)

日本国憲法もまた、日本人が運用し、日本人がよく生きることが出来るようにするものである為、あえて日本的な曖昧さを残したものになっている、と思っています。
あえて、こういう言い方をしますけれども。
終戦後に「米国から草案を与えられた法律」を、英語から日本語、日本語から英語への翻訳時に、どうとでも取れる曖昧な余裕を残して、強かに誤魔化しながら作られたと思うのです。


勿論、ハッキリさせるべきところは、そうしなければいけません。
日本では、相手の言いたいことを察したり、わざと言葉をぼかしてどうとでも取れる発言をしたりということは普通ですが。
海外では、言語は外交の為の武器ですから、難解だったり曖昧だったりして誤解させたりするのは誠実ではないと思われるし、自分の意見を発言しないで察してもらおうなんてのは論外。


憲法を変えるか、あるいは条文を追加して内容を明確にしていくか、他にも方法は色々あると思います。
しかし改正するのであれば、日本人だけが納得する曖昧なものではなく、だからと言って明確すぎて硬直を招くだけのものではなく、現実的なものを望みたいと思います。

>ueyonabaruさん

個人の問題と公の安全保障を同列に扱う愚かさをこのブログでは扱われていると思いますが、それを個人レベルの問題で例えることにどんな意味があるのか、と問うています。

goblinさん

クラッシャーさんも、生命を扱う比喩なので、

「例えは悪いかもしれませんが、あえて書き込
 ませていただきます」

と、ことわっています。例え話では、細部まで
は正確には言い表せないのは当然だと思います。

聖書にも、キリストさんが「子羊」の例えをし
たら、「子羊にそんな性質はないよ!」と指摘
され、メシアは困ったという話があります。

あなたの言いたい事は、ここのコメ人には理解
されていると思いますので、もうこれ以上この
件に触れない方がいいのでは?

「日本の護憲派が守りたいのは【平和】ではなく【平和主義】なんだ、というのは、うすうす日本人の皆さん気づいているんじゃないかなぁと思ったりします。
自分達の主義主張を周りに認めさせることが一番大事になっているため、それを達成するための行いは正義なんだと思う人々が暴力的反対派となって騒ぎの中心にいる、そんな気がします。
沖縄で天皇陛下に火炎瓶を投げつけた連中も、平和を願っているのではなく、「己の主義を宣伝したい」だけだったんだろうなと思います。

まあ、それ以前に、曲がりなりにも平和主義を掲げる人たちが一国の首相相手に「アベしね」とかプラカード掲げたり「お前は馬鹿か」と声を荒げたり、とにかく好戦的だなという印象はあります。
「平和主義」を宣伝するためなら「暴力的で良い」と考えているのなら、本末転倒といいますか。
それに「護憲派」といいながら、一時期話題になった、シールズの奥田君は、「同性婚実現のために憲法を変えたほうがいい」と言っていて、そういう人はけっこう護憲派に多くて、それを知るに付け、護憲派とは、結局「9条絶対主義者」でしかないんだなぁと思います。

私はスタンスとしては、自衛隊を軍隊としてしっかり位置づけるために、9条2項を変更し、国防のための戦力の保持を明記すべきだと思っています。
そして、自衛官を警察予備隊としてではなく、軍人としてしっかり立場を保障し、何かあったときは裁くため、軍法会議もあってしかるべきだと考えています。
自衛隊は、対外的には軍隊です。色々と制限を加えられた軍隊、としか思われないはずです。
戦力を保持しており、国防のためにそれを使用することを認めています。
それは、国際紛争に巻き込まれることを想定し、防衛のためには交戦もいとわない、ということです。
であれば、侵略はしなくても、自国が主体となって巻き込まれた紛争、侵略に関してはちゃんと交戦権と戦力を認めておく必要はあるだろうと思います。

しかし、憲法学者の方々は、9条を変更すると戦争になる、みたいな事を平気で言うわけです。
そしてそういう人が、シールズの国会前のお祭り騒ぎに駆けつけて「これが民主主義だ!」と叫ぶわけです。
こういうのをみると、憲法学者という方々も、結局「平和ではなく平和主義を守りたいだけの人」としか思えなくなってきます。

憲法学者は自分の主義を死守するために、9条を残そうとし、政府がその時々の解釈で特措法を作り続けていては、逆に自衛隊の立場も悪くするんじゃないかと思います。
現に、南スーダンへ自衛隊を派遣することでも、PKO派遣5原則をつくり派遣地は安定していると言い続けて派遣を決定しています。
今、南スーダンのジュバが安定しているといい続けているのって日本くらいじゃないでしょうか。それはPKO派遣5原則があって言い続けなければPKOに参加し続けられないから、ですよね。つまり政府は南スーダンの現状を正しく国民に伝え切れていないということになります。
私は今の自衛隊のままでPKOに参加し続けるのが本当に正しいことか疑問に思っています。
国連はルワンダの虐殺のトラウマもあり積極的に治安に介入しています。
インフラ整備だけが仕事でなくなっている国連活動に自衛隊が参加するのなら、なおさらしっかり9条は変更していくべきなんだろうと思います。

が、そういう議論は、護憲派の中からも、憲法学者の中からも聞かれない、それがとても残念なところです。

ps

関西の番組「そこまで言って委員会」でも、9条と安全保障についての議論が交わされましたが、どうも左翼陣営はこの番組に出るのを嫌い、出演している護憲派の田嶋氏も、まったく話にならない感じで、こういうので議論は深まっていくのかなと心配になります。 長々と失礼いたしました。

https://www.youtube.com/watch?v=New0MHfIztA

憲法と高江となんの関係があるの?

田中さん
このエントリーでは(本文でもコメントでも)まだどなたも高江の話はされてませんが何か?

三島由紀夫の檄文には確か沖縄に触れた箇所がありました。田中さんの質問読んで思い出したんですけど。憲法9条があるから、沖縄に米軍基地を置かざるを得ないんだなぁとそんな感想を持ちました。でもうろ覚え、スミマセン。

田中さん

記事に関係ない高江を持ち出して、こちらを荒らそうとしてやしませんか?

那覇市民 さん

ご謙遜で「うろ覚え」と言いながら、確かにご指摘の通り、三島の檄文には「沖縄」が象徴的に語られています。

≫「沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。」

重い言葉です。

安倍総理は安保法制に関し、学者の皆様の言い分は純粋に学問的立場からだと理解するとしながらも、しかしながら政治家は国民の命と財産を守る義務があると発言されました。
言い替えれば、くそまじめに憲法を解釈して国が亡んだら元も子もないでしょうと言うことだと思います。
それくらい今の憲法は危うい部分を孕んでいるのですね。
それを見て見ぬ振りするのは、学者はともかく政治家としてはあまりに無責任だと思います。日本国の伝統文化の解体を望む団体は別にしても、政権与党はやってはいけませんね。
それにしても、竹島、拉致問題、北方領土と日本の主権が脅かされている事態なんですが一向に解決の糸口が見えません。抗議、抗議だけでは相手は痛くもかゆくも無いでしょう。自衛権の行使は最後の手段だとして、その中間ぐらいの交渉は出来ないのでしょうか。

改憲問題について、「今すぐ語られるべき案件なのか?」「時期が来たら必要に応じて、必要な箇所を変えればよい」という意見は良い方で、(同じく改憲の必要性は感じているとしても)国民の多数派は「なにも左右の対立を煽ってまで、いま改憲の必要はない。なんとなれば平和安全保障の場合のように、また「憲法解釈の変更」で事足りるんじゃないか」と考えている節が大いにあると思います。

本ブログを随時ご覧になっている方々におかれましても、「なぜ今、改憲の記事なのか?」と、あるいはご不満・不思議に思ってらっしゃる方もいるのでは、と拝察します。
例えば、もっとトランプ次期大統領の分析やら、日本への影響やらの方が記事として重要な事柄なのではないか、とか。

ところが、ブログ主様が「改憲」を記事に据える可く選択をしたのは、まさしく来るべきトランプ政権の行く方を読み込んで、「改憲問題」を考える事が急務だと判断された故です。
ブログ主様は、ご都合主義に変節するマスコミとは一線を画して、トランプが大統領に就任する事ついて、決して「楽観論」に立ってはいません。
むしろヒラリーさんが当選していたなら、私たちは「改憲問題」について、今直ちに緊急に考える必要はなかったのです。

安倍さんは、そこのところ迂闊だったと思います。
自民党ともども「改憲問題」は緊急のマターではなく、「政局を見ながらじっくりやれば良い」と考えていたのでしょう。
ところがトランプ当選を受けて「改憲問題」は、これ以上のサボタージュは許されない「待ったなし」の状況に追い込まれたのではないでしょうか。
またしても、一種の外圧により「憲法」に日本国民の意思以外が入り込む余地が否めないのは忸怩たるものがありますが、それはそれとしてもう仕方ありません。

ところで上の青竹ふみさんのコメント見て考えたのですが、日本特有の言語表現や日本独特の文学的な「行間」を読む長所は、憲法はじめ条例に至るまで、あらゆる法文には当該しないものと思われます。
法律の条文は常になるべく「解釈の余地」が存しないものを「良し」とするのであって、その意味でも現行憲法は失格です。
これは必ずしも、「細かく具体的詳細に著すべき」という事ではなくて、憲法は憲法の役割として「国のあるべき姿」や方向性を揺るぎなく明示してありさえすれば、たった一行でもいいのだと思います。

「現行憲法のダメなとことを適宜修正すればよろしい」、と言う意見も「現実的」という意味で妥当性があります。
ただ、現行憲法には9条以外にも様々な解釈の余地がありすぎて、それが数多くの混乱の要因である事ははっきり認識すべき事柄です。
なので例えば、先の普天間移設問題の違法確認訴訟においても、憲法の地方自治体の独立性・主体性を言う曖昧な条文・その観点からみれば、「「取り消し」をした知事の判断は何より尊重されるべき」という見解も十分成り立つのです。
(その見解に立つ行政法学者の、何と多いことか)

さらに、条文の示すところの意味が幾重にも取れたりした場合には、どうしても「解釈」が必要となるのですが、「解釈」を行う場合、まず第一に検証すべき事は「立法者の意思」の確認作業です。
現行憲法においては、それはまず不可能ですね。
まさかベアテ・シロタ・ゴードンさんの立法意思や、米軍にそれを確認・あるいは斟酌するわけにもまいりません。
だからこそ、「憲法訴訟」は今だその解釈を巡って幾重にも混乱するのだし、我が国法曹会の欺瞞の象徴である「八月革命論」も、そうした「必要」から生まれざるを得なかったとも言え、日本国憲法は「国民の総意」でもって誕生した事にしておかないと、誠に具合が悪い事情があるのですね。

いずれ現実的な判断をするとしても、憲法のこのような問題点・生成過程を正しく認知しておく事は、憲法訴訟に「何が多大な影響を及ぼすの」か考える上でも、欠かすことの出来ない事だろうと思います。

追記です。
一定条件の歯止めをかけて、9条を廃止、修正なりすれば、純粋な学問的立場上も違憲とは言えなくなりますね。
しかしながら、憲法学者の意見を唯一の拠り所とする政治家は、今度は憲法学者の解釈が間違っていると言うんでしょうね。
よく言われることですが、外国の左翼勢力は立場は違えどその主張は国益が優先される言われてきました。
日本の左翼に、国益とか国民の財産と命とかの概念があるとは思えません。

山路様

仰ることは良く理解できます。
しかしながら、安倍総理は憲法は改正したいが、私の代で出来る保障はない。とも発言されています。
日本国の世論が改憲に熟していないのです。
残念なことですが。

井上達夫氏の所論は優れたもので、「学問の良心」を再認識させてくれます。
しかし、だからと言ってブログ主様は「すべて良し」としている訳ではないようです。

私は、どうも井上氏は「集団的自衛権」よりも、(理想主義的であって)迂遠にも国連を中心とした「集団安全保障」に重きを置いているように読みました。

結論として井上氏は「9条全削除のうえ、別に安全保障法を立てるべき」としましたが、それは良いのですが、その理由として「安全保障環境にフレキシブルに対応するため」であるとしました。
これは井上氏の中では(記事で取り上げられた書籍以外の小難しい学術書では)、防衛費の膨張の懸念を念頭においての事のようです。

私は、かかる言説をも念頭に迂闊にも先に「賛意」あるコメントをしてしまいましたが、間違いだったやも知れません。
と言いますのは、井上氏(私もですが)の中には、軍事的な観点がすっかり抜け落ちているような気がするのです。

これはブログ主様や、山形さんあたりなら気づくのでしょうが、「防衛費を状況に応じて可変する」という事は、よほど注意が必要なのだろうと思うのです。
作戦や軍事技術(軍事兵器)の継続的な進歩・開発といった観点から、どうなのか。
明日の記事では、この辺の解説もしていただけるとありがたいです。

karakuchiさん

世論が成熟していないのは良くわかります。
しかし、その為に安倍さんが「改憲」を遠巻きにしていいものかどうか。
それはトランプ後でも許されるのか。

世論が成熟しないのは何故なのか?
あるいは政府が自己の都合(国民生活の安寧のためにでも)で情報を出し切っていない点にあるのではないか、とも考えました。


いや、実はそんな事を考える前、反射的に karakuchiさんが同一人物である「山路」のコメントに意見を投げかけているのだ、と想像したとたんに腹を抱えて笑ってしまいました。(笑)
そして今度は山路が同一人物たる「karakuchiさん」に感想を投げ返す。

実に面白い事を考える人がいたもんですね。
世の中には、思ったよりも色々な方がいらっしゃるようだ。
(爆笑)

おはようございます^^。

山路さんの
>世論が成熟しないのは何故なのか?
あるいは政府が自己の都合(国民生活の安寧のためにでも)で情報を出し切っていない点にあるのではないか、とも考えました。

このあたりですが、政府が正しい情報をだしても広報担当である新聞屋(実質そうですよね)がアレなので、出せないのか?とも、妄想したりしてます。

最近というか第二次安倍政権になってからは新聞のガセ・ちょっぴり捏造が多くなったような気がします。
引っかかり防止に、ニュースが出る→安部総理、ガースー官房長官その他、関係大臣や閣僚の会見を見る聞くまでは、新聞記事そのものを眉唾程度に聞いています。

ごく最近のガセの例

南スーダン派遣の「駆け付け警護」についての日経の記事。
5年前には散々日経を批判を繰り返していた有名な軍事じゃあなリストのK谷S一さんが何故か乗っかって自ブログやブロゴス・東洋経済等に載る。
翌日にはもう「何それ?ガセと歪曲ばっかりじゃん」という流れ。

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