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9条があるために歯止めがなくなってしまった

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先日から井上達夫氏の護憲的改憲論を紹介してきています。 

井上氏が面白いのは、リベラル左翼でありながら、去年の「戦争法案」反対運動を、手厳しく批判していることです。 

私も当時安全保障の立場からまやかしの運動だと批判しましたが、井上氏もまったく別の角度から同じようなことを述べているのがおもしろいですね。 

井上氏は、「個別的自衛権の枠内、専守防衛の枠内で自衛隊と安保を維持しつつ、安倍政権が集団的自衛権に進むのは政治的に愚かだ」としています。 

この立場自体は井上氏のネーミングでいう修正主義的護憲論で、あのやたらテレビに登場した長谷部恭男氏、小林節氏などと似ているのですが一点違う所があります。

Photohttp://www.j-cast.com/2015/06/15237802.html?p=all

それはその理由付けを、長谷部氏たちがまるで聖職者よろしく、「民よ、戦争法案は憲法違反だぞよ。だから許されないのであーる」とやったことです。
 

いつの間にか政治的なことが、「憲法違反だから反対」という神学論争にすり替わってしまったわけです。

そして浅はかなメディアはこれを「憲法学者の蜂起」ともて囃したものですから、すっかり舞い上がってしまったこの「聖職者」たちは新たに護憲政党まで作ってしまいました。(すぐにコケましたけど) 

つまり、「アベ政治を許さない」イコール「憲法を守れ」「憲法を壊すな」という具合になってしまったわけです。 

悲惨なことには、言っている当人たちが言っている中身を、よく理解していないことです。 

Photo_2http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0b06ffa7d1b04a...

井上氏はこう嘆きます。

「『憲法を守れ』ということが、集団的自衛権反対、つまり『専守防衛を守れ』ということにすり替わるのはおかしい。憲法を守れ、9条を守れ、というなら、9条に書かれているのは非武装中立なのだから、『非武装中立を守れ』ならわかるけれども。(略)
この人たちは『憲法を守れ』ということがどういうことなのか、これでは一般の人たちにわからなくなってしまいます。」(『憲法の涙』)

まぁ、そういうことです。 

「蜂起した憲法学者」は安全保障論議を、自分たち「聖職者」のご神託の領域に引きずりこんでしまったわけです。 

しかも、自分たちの立場はちゃっかり、「自衛隊・安保容認」であるにもかかわらず、ころっとそれを忘れて「護憲」はないだろうじゃありませんか。 

そして本来安全保障問題として議論すべき野党政治家たちまで、「違憲だから反対」というわかりやすく、実はトンデモの方向へ導いてしまったわけです。 

Photo_3赤旗 2015年6月16日

憲法学者ワールドでは安全保障問題は、一種の「あってはならない不浄の何か」なんですね。
 

安全保障問題など、アンタッチャブルな領域で、触ると汚れるって空気が憲法学者の間に立ち込めていたわけです。 

大江健三郎がかつて言った、「防大生は戦後世代の恥」という感覚ですね。

この律法学者たちは、自衛隊や安保をテーマにして、それを憲法との関わりで見ていこうとする井上さんのような傾向が出ると、「平和主義に反する」「安倍政権批判運動を分断してけしからん」という声を上げて、すぐに封じ込めてしまいました。

おかげで憲法学者のくせに、「怖いオジさん」とされたと、井上氏は苦笑しています。 

やれやれ、です。 

本来は憲法学者たちの多くは、井上氏が提唱するように、自衛隊・安保の現実を是認しているわけですから、憲法の「矛盾を解消するために必要な専守防衛明記の新9条を政治的に求める改憲運動」が必要だったはずです。 

しかし建前では9条護持が大前提ですからできません。自己欺瞞は深まる一方です。

一方、改憲派は、改正発議のために「三分の二以上」を取ることを目指しているのですから、スッキリと自己欺瞞はありません。 

では井上氏が、改憲派と同じ文脈でそう言っているのかといえば、これが違うのですなぁ。 

井上氏は自説の9条削除論をこう説明します。 

まず井上氏は、「憲法は硬性でなければならない」とします。 

私も鳩山由紀夫氏や菅直人氏などのような人外魔境的政治家が首相になるたびに、憲法をいじられたらたまったもんじゃないと思いますので、賛成です。

ハトさんだと憲法に永久中韓謝罪条項をいれそうですし、管氏だと「民主的独裁」の一項を作りそう(おお、コワ)。

それはさておき、憲法の役割は民主主義のルールを定めることです。 

「公正なルールや手続きを明確にして、政治的に勝ったからルールを変更できないようにせねばならない」と、井上氏は述べます。 

「民主主義のルール」は勝手に書き換えてはならないのです。まぁそのとおりです。 

続いて井上氏は、憲法に「外部環境に依存することは書いてはならない」とします。 

武装中立化非武装中立かといった(安全保障上の)戦略は、端的に憲法マターではない。だから削除すべきです。」 

ここまでは私も同感です。

安全保障問題はその時の時代情勢に大きく影響を与えられるものですから、硬性憲法に書き込んでしまっては、そのつど改憲せねばなりません。 

現実にはいちいち国民投票するわけにはいかないわけですから、どうしても「だましだまし改憲」という事になります。 

結果として、憲法条文とはえらく乖離してしまったわけです。 

井上氏はただ9条を削除するだけではダメだ、「どのような戦略が選ばれようと、それが濫用されないための戦力統制規範を憲法に入れろ」と主張します。

この戦力統制規範は、通常の法律にあるだけで、現行憲法には存在しません。

なぜなら、皮肉にも9条が壁になっているからです。

本来、自衛隊も安保も、9条ワールドには「あってはならないはず」ですから、憲法には書かれていないのです。

ですから、護憲派が「ない」というファンタジーを作ってしまって、それを不磨の大典としてしまったために、憲法において安全保障領域だけがゴソっと欠落しているという重大欠陥を持つ事になってしまいました。

井上氏はこう叫びます。

「9条があるから歯止めになる、それは逆なんです!9条があるから歯止めが利かなくなっている、それが現実です。」

かくして日本においては、「9条に基づく法律と、安保の法律が二本立てになってしまっている」という珍現象が生じてしまいました。

これも自衛隊・安保をしっかりと憲法に位置づけないから起きた現象です。

では井上氏はどうすべきかと言えば、ここで「専守防衛を憲法に明記した改憲をして、専守防衛の枠を越えて戦力が濫用されないために統制規範を憲法に盛り込め」と述べています。

ありゃ~、ここで私は嘆息しました。

統制規範を持ち、それを憲法に書き込むところまでは結構です。

ただし、それは自衛隊をしっかり「軍隊」として位置づけ、さらに集団的自衛権を有することを明記した上で、だれが指揮・統帥権を持つかを定めた統制規範です。

井上氏はここまで非常に柔軟に議論を展開しながら、やはりここで護憲派の馬脚を現してしまいました。

これでは井上氏が批判していたはずの、その時代状況を反映する安全保障政策を憲法に明記してしまうことになります。

1945年には1945年の、1952年には1952年の、1960年には1960年の、そして2015年には2015年の現実があるのです。

そして2020年にはどのような現実が日本を待ち構えているのか、誰にも分かりません。

このような<現実>に規定される国防戦略を、硬性憲法に書き込んでしまってどうするのですか。

別稿で詳述しますが、おそらく日本はアジアにおいて、日米同盟を機軸としたNATO型の集団安全保障体制へと進んでいくことでしょう。

それがベストです。

あるいは、それに失敗して国際的な孤立の道に進むかもしれません。

後者にならないことを祈るばかりですが、いずれにしても「専守防衛」などという9条ワールドだけで通用するファンタジーを、新たな憲法に書き込むべきではありません。 

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コメント

井上氏は憲法の役割について、
≫「政権交代が起こり得るような民主的体制、フェアな政治競争のルールと、いくら民主制があっても自分で自分を守れないような、被差別少数者の人権保障を守るためのルールを定めることだ」
と、憲法に記載すべき事柄について、一種の限定性の原則を言っています。
さらに、
≫「何が正しい政策か、というのは、民主的な討議の場で争わせる問題だ」
とし、
≫「日本の平和主義というのは、9条から導き出される(明示すべき事柄)ものではなくて、前文にて充足されるべき」
という趣旨の事を書いています。

それでありながら、
≫「専守防衛を明記した改憲」というのだから、井上氏の中で「専守防衛」は「政策」に含まれる概念ではなく、言わば「国家の基本」(国の寄って立つところのもの)なのですね。

一方、ブログ主様の主張は「国民をどう守るか」の観点から、その機構(システム図)を明示する事を「統制規範」と呼ぶのです。
(これは「立憲主義」の面からも正しいと思われる)

ここのコメされる方々の多くが承知されるように、いずれ国の安全保障環境は対外国の出方によって出来るだけフレキシブルに対応されるべきで、安全保障を「専守防衛」に固定化されてきた事も日本の「自主防衛」の可能性を遠のかせた一因で、「米軍依存」を確固たるものとして来た要因である事を、既に十分理解されている事でしょう。

「やっぱり」というべきか、井上氏ほどの当代一のインテリゲンチャでありながらも(だからこそ、かも知れませんが)、「軍事学」からの観点はすっかり抜け落ちていて、「国民をどう守るか」の第一命題から安全保障を考え、その答えを導き出す事が出来ないのです。
あるいは、「法哲学」という学問の枠に狭められた、と言うべきなのかも知れませんが。

井上氏の「憲法の涙」は本の帯によると、「東京大学生協のベストセラー 第一位」なのだそうで(東大の学生さんがこれをすべて「良し」とするとは思いませんが)、若干心配にもなります。
また、このようなアカデミズムの主流となる考え方が、偏頗な東大の「軍事技術協力不可」につながっている要因でもあるのか、と考えました。

投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年11月25日 (金) 07時17分

井上達夫先生の本は持ってないし、読んでもいないのでコメントしづらいのですが、検索すると色々と記事が出てきましたので、その中から気になった点を挙げてみたいと思います。

○記事 文藝春秋SPECIAL 2015秋 2015年08月26日 07:00
緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
http://blogos.com/article/130049/

管理人さんが紹介してるような護憲派に対する辛辣な切り込み方も凄いと思いますが、改憲派の「押しつけ憲法論」の切り捨て方も痛快ですね。

「憲法」は押しつけだから改正と言いながら、同様に米国から押しつけられた「農地改革」は保守票に繋がるからと否定しないのは、単に自分の意に沿わない政策を変更したいだけではないのか?
これはあまりにもご都合主義な政治的自己欺瞞ではないのか?
更に言えば、憲法には改正条項があるのに改憲の発議さえしていない。これを国民の支持が得られないからというのは、責任を国民に「押しつけている」だけではないのか?

改憲派の政治的な欺瞞。確かにありそうだなぁ・・・と私は感じます。


護憲派の欺瞞は管理人さんが書いてるのでそちらに任せるとして、では、井上教授はどのように憲法を改正しようというのか?

> 財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。
> それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。


ここが法哲学者らしいところなんですかね。
憲法で絶対平和主義を先決されてしまっては、「国を守るために何が必要か、何ができるか」という大切な議論ができない。
9条があることが民主主義の根幹となる「議論」を阻害しているってことなのでしょうね。

> 国際状況は予測不可能な仕方で激変します。専守防衛を維持したほうがいいのか、集団的安全保障までは認めるのか、集団的自衛権にまで踏み出すのか、どれが今後の日本にとって最適なのかは、誰にも確言はできない。そうしたなかで、ある特定の安全保障観を、憲法によって固定化してしまうことの方がよほど問題ではないでしょうか。


ん?専守防衛を明記しろとは言ってないようですが。
「ある特定の安全保障観を憲法によって固定化してしまうことの方がよほど問題」
って、管理人さんの主張と同じような気がしているのは私だけでしょうか?


というわけで、井上教授の改憲案はないのかと検索したら出てきました。

○記事 BLOGOS編集部 2016年06月15日 07:30
護憲か、改憲か? 4人の論客の「憲法9条案」を比較する 3/4
■井上達夫氏の考える「10年後の憲法9条」

http://blogos.com/article/179470/?p=3

9条を削除すると、色々と改正しなくちゃいけないことがありそうですね。駐留軍に対する住民投票や徴兵制など実現できなさそうなものもありますが、これくらいの歯止めは憲法で掛けないと国家が暴走したら止められないと考えてるってことなのでしょうね。リベラルな憲法学者としては。

かなり面白そうなので、機会があれば本を読んでみたいと思います。

投稿: ひこ~ | 2016年11月25日 (金) 11時54分

 憲法9条第2項の最後のセンテンスって誤訳ですから。
 マッカーサーが「日本の交戦権は認めない」とおっしゃるのは、この場合いたしかたなしとしましょう。これを日本の憲法として訳す場合は「国の交戦権はこれを認めてもらえませんでした」になります。「交戦権を放棄する」だと強制された感じが少なくていいかもしれません。『認めない』と言えるのは圧倒的強者が支配下の者にいう時だけです。GHQが敗戦国に、のように。
 これを、日本で意味のある言葉として言えたのは、徳川家康が臣従した大名たちに「勝手に合戦をしたものは、即刻切腹・藩はとりつぶし」といったときくらいではないでしょうか。
 中途半端に頭のいい人が取り繕うとするから、こんな神学論争になるのです。

投稿: 仙 | 2016年11月25日 (金) 12時31分

いずれにせよ、現在の護憲論者には、国土と国民を守る方法が書いていないという重大な欠陥があり、それを放置すると現実に国家が成り立たないので、解釈改憲を繰り返すという最悪の隘路にはまり込むわけです。
現行憲法自体は、日米安保とセットというより占領統治とセットであり、アメリカ自体も占領統治が終われば自主憲法を制定すると思っていたはずで、実際憲法草案に携わった方も、生前一度も改憲していないと聞いて、驚き且つあきれたそうです。もちろん改憲の問題はアメリカの押付といえど、もはや日本のもので、日本の責任で考えるべきでしょうが、遅きに失する上に、憲法学者という既得権益が出来上がったことは日本の将来を考えると、大きな障害ですね。

投稿: ednakano | 2016年11月25日 (金) 13時22分

ひこ~さん。
井上氏の9条削除論については明日も続けますのて、しばらくお待ちを。

「農地解放」ですか・・・。わが家業のフィールドですな。
地主制度というのは今は絶対悪といわれてしまっていますが、かならずしもそうではありません。
だいたい先進的な農学や品種改良、施肥技術を村に持ち込むのは地主階層だったのです。
いまでも、村での先進的な農家には、昔の名主階層が多くいます。

19世紀末に農業全体の没落という現象が起きます。
工業が発展し、米価が下落した結果、地主階層は農業生産から離れて、一部が不在地主となっていったんですね。
しかし、農地の所有権はそのままですから、小作小農と寄生大地主という極端な階層分解が起きてしまいました。

これではまともな日本農業の主体はできない、どちらでもなく、まともな「中農」を国の基盤にせよと主張した農業官僚がいました。
なんとあの「遠野物語」を書いた柳田邦夫です。
彼は3年ほど農業官僚をして、せっせと日本農業改革案を書いていたのです。

この「中農」育成思想は、形を変えて実現します。
それが終戦直後の幣原内閣の農相だった松村謙三の手による農地改革です。
松村は、肥料の入手困難、農作物の強制的供出、地主の土地の貸し剥がしといった状況が、共産党主導の農民運動として拡大することを恐れたのです。
当時の急進化した農民運動は、各地で地主の家に土足で上がり込み、一番いい部屋に赤旗をぶったてて気勢を上げたそうです。
わが村は常総農民組合の拠点だったので、そういった話は沢山聞きます。

それはさておき、地主の所有限度をどこで線引きするかでスッタモンダしましたが、結局GHQの鶴の一声で通過したわけです。
これの是非は置きます。(みっともないとは思いますが仕方がない)
GHQ民政局は、軍部=封建勢力の巣窟として地主階層を捉えていたのです。

ガサツな分析ですが、ヨーロッパではこのような「国家改造」はされなかったために敗戦国の独伊ともに、大規模農家として、いまでも地主階層は農業やワイン、チーズなどの農産加工品づくりなどの中核を担っています。

なんせ、イタリアなんか国土は狭いのに保有農地の平均は平均26hですよ。
日本は2h、勝負にならないですよ。

結局、この徹底した農地改革によって、農民運動は目標を失って衰退します。
替わって登場したのが、農協という新たな統制団体です。

あまりに細分化した小農を大量に作ったために、それに対する生産資材の供給、コメを中心とする集荷・販売・価格交渉などをやる全国規模の団体が必要になったからです。

井上さんが言う通り、農地改革に第1次と第2次があって、第1次のは不徹底だというのは事実ですが、ちょっと歴史的流れを省略しすぎていますね。

また「自民党の集票動機」だけで、農地改革を説明するのは、戦前からの農水省の中の「中農」あるいは小農主義の流れを軽く見すぎている気がします。
あの原案をかいたのは日本のオリジナルですよ。

だから通ったのです。
9条と一緒にするのは、少し次元が違う気がしますが。
しょせんといってはナンですが、一産業分野でしかない農業と、国全体の安全保障政策が絡む9条を同一次元で語るのは変じゃないかな。
重さがまったく違います。

ああ、ひさしぶりに農業を書いた気がする(笑)。

投稿: 管理人 | 2016年11月25日 (金) 16時13分

憲法学者はガクシャであり、リーダーではありません。
確かに彼等にはアホォが多いのですが、そのような者
の言うことを、聞く必要も義理もありません。

自分の口からは言いたくないのですが、ケンポー問題
は、日本国民が群れるイナカモノであって、独立個人の
市民になれないでいるのが一番の原因だと思いますわ。
過労死する国民(東大卒でも)が大勢いる事も同根だと
思う。

「負ける」とおよそ解っていた大東亜戦争を開戦した
のは、バカが「精神力だ!」と言い出し群れ始めると
それを否定するのはせっかくの皆の和を乱すことになる
ので、「正気か?バカ!」と言えずにズルズルとマスコミ
や一般国民までが渦になって流されていったからです。

現憲法も、マッカーサー閣下などキリスト教的素養の
人なら、「主権を国民にしてやるんだ、後は自分達で
作れや、0ファイターを作る頭脳があるんだから簡単
だろ?」とアチラさんは思ったのだろうが、のっけから
天皇陛下の扱いについて何もできなくなっちゃった。

全員一致が前提の和の寄合国では、リーダーが勝手に
憲法を作成するなんて恐れ多くて出来ない。広く寄合
をして、全国各地より意見を聞き、初めて決定できる。
そうする事により全員責任となり、誰も悪くなくなる。

「こいつらはガキだ!こっちで作ってやるぜ。新憲法
発布のロードマップに余裕はないんだ」 で、占領軍の
現場員が張り切って作って、徹夜で日本語に翻訳して
スケジュールに間に合わせた。文章がヘンなのは徹夜
疲れのアタマなので、朦朧としていたからかも。

農村寄合型組織は今でもそう。選挙してリーダーを選
んで、彼等が物事を多数決で決めようとしても強行採決
と言われ、少数意見もガブ飲みしないと決められない。
何の為に選挙してリーダーを選ぶのかイミフ。

9条なんて、私達の選んだリーダーがポン!と決めて
あとは国民自身が承認投票すればいいだけ。結果が
どう出ようと自己責任。ダメだったら又ポン!と直せ
ばいい。今の寄合型政治システムじゃ、このまま未来
永劫、徹夜アタマの条文が続いていくんだろうなぁ。

投稿: アホンダラ1号 | 2016年11月25日 (金) 17時15分

管理人さんの表現ががさすがだと思うのは、憲法学者を「聖職者」にたとえていること。

聖職者を馬鹿にしているつもりではありません。神学は聖書を学び、そこにどんな矛盾があっても「聖書を如何に解釈するか」の学問であり、そこには当然「聖書を作り直す」なんて概念は一切ありません。それは当たり前で、それがあっては神学は成り立たたないからです。

しかし、憲法は国家の現状に合わせて変えられるものであり、「変えていいもの」です。にもかかわらず日本の多くの憲法学者は「憲法の解釈」でしかものを言わなくなった。まさに「日本国憲法」を「聖書」だと勘違いしている人たちなのだと思います。

これはもう本当にどうにもならないことなのでしょうかね?

投稿: 都下人 | 2016年11月25日 (金) 18時19分

アホンダラ1号さんの、寄合型組織、非常に共感できます。その感覚は日本人のDNAに刷り込まれてる気がします。

投稿: 一宮崎人 | 2016年11月25日 (金) 19時34分

山路さん

 憲法前文なるものは、憲法の骨子となる主旨を記述するものなんでしょう。憲法の性格ですね。そのように理解しております。そこへ、専守防衛なる記述をすることはおかしいと山路さんはおっしゃいますが、私も同感です。専守防衛は普遍的価値はないのかもしれないのですから。環境、時代によって変化するかもしれません。

 憲法前文を書くとすれば、そこには、普遍的な価値観を持ったものが入るべきでしょうね。

 専守防衛について、井上氏は言ってないのではないかとの言もありますが、その点どうでしょうか。

投稿: ueyonabaru | 2016年11月25日 (金) 22時18分

多摩っ子さん

 私より大先輩の方かと思ってしまいましたね。三島さんの檄文が多摩っ子さんがお書きになっとものと勘違いして、見事な三島の文章を見せられ、つい興奮してしまいました。

 私は三島を尊敬しておりました。野蛮なところは苦手でしたが、三島さんのピュア-な部分が文句なしに好きでしたね。私が20歳前半ぐらいのときの事件でしたね。自決の後は、ほんと悲しかったです。

 そして、全共闘の怖さは随分後までも残りましたよ。過激派の運動は、高江でも起こりかねないと思いますよ。警察がよく気をつけなければ、内部で殺し合いをしかねないと真面目に心配します。

投稿: ueyonabaru | 2016年11月25日 (金) 22時33分

ひこ~さん、ueyonabaruさん、

井上氏は専守防衛について、まず「正規の改憲手続きで9条を削除すべし」とし、それが出来なければ、あるいは(前記9条削除論と同等価値として)、
≫「専守防衛明記改憲をせよ、と主張する」
(憲法の涙 2 P28」と明確にしています。

また、毎日新聞のインタビューでも護憲派の主張との折衷案的な記述だったと記憶しますが、同様の趣旨を述べています。

続いて、
≫「私は、政治的には私の世界正義論の分類での消極的正戦論、つまり専守防衛の戦力を持つという立場を支持する」

としてい、要するに井上氏は「護憲的改憲論者」です。


また、ひこ~さんは「井上氏」は、
≫「管理人さんの主張と同じような気がしている」
と言われるのですが、申し訳ないですが全く違うと思われます。

まず第一に、井上氏は「集団的自衛権」について、常に「反対」の立場を取っております。
(理由は護憲派と似たようなものです)
しかし、「個別的自衛権」と「集団安全保障」は認める立場で、その著書や少なからぬインタビューから伺い知れる井上氏の政治的立場は、小沢一郎氏の主張と酷似していると考えます。

結局はリベラル左派にありがちな「理想主義型」で、かつ離米主義的、国連中心主義にすぎず、
≫国連主導の「集団的安全保障体制」は必要~中略~、集団的自衛権行使が必要だという具体的な事例は、ほとんど「個別的自衛権」で足り、それでカバー出来ない分は「国連主導」の安全保障で~云々。
≫私は「たかが国連、されど国連」で、国連改革を地道にやって行くほうがいい、と思っています。

というような具合です。
ただ「9条削除論」をもって、喜んでいる保守派もありますが、ブログ主様の主張やこのブログで学んできた我々の考えとは全く違うようです。


ueyonabaru |さん
≫憲法前文を書くとすれば、そこには、普遍的な価値観を持ったものが入るべきでしょうね。

その通りだと思います。


投稿: 山路 敬介(宮古) | 2016年11月26日 (土) 00時12分

ueyonabaruさん

私はコメンテーターの皆さんよりずっと年下の鼻垂れ小僧です。
砂川闘争なんかタイトルだけしか知らない(笑)
暴走族ブームの世代で、少年ヤクザや薬物だとか違う意味で怖い思いをしてます。

檄文は抜粋です、特に気になったところを。
三島由紀夫の小説は幾つか読んでいます、あのような事をした人とは思えません。
やり方は賛成出来ませんが、根底は純粋だったのでしょうね。


沖縄の反対運動、不謹慎ですが内ゲバとか起きたらある意味面白いと考えてしまいます。
警察で手に余るような抗争なら護憲の軍隊である自衛隊の治安出動もあるような無いような。
妄想の世界ですが。

投稿: 多摩っこ | 2016年11月26日 (土) 01時58分

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