ドレスデン和解とは
自分でもこう書いていて歯ぎしりしたいような気持ちなのですが、私は南京事件と慰安婦問題において、真実が国際社会で確立するのは絶望的だと思っています。
現時点でできることは、できる限りの事実を再構築し、史料を充実させ、英訳して万人が閲覧できるようにすることだけです。
政治的に解決しようと思えば、政治というのは妥協の産物ですから、国際社会に100%日本の主張を呑ませることはできません。
これ以上後退しないために、勝てはしないが負けないためにどうするかを思案する時期なのです。
なぜなら真珠湾和解、あるいは日韓合意のように、互いの怒りを<慰藉>するという根源的な人間の行為に置き換える儀式が成立してしまったからです。
そしてこれが成った以上、できることには自ずと限界があります。
では当時日本のメディアが無視した、「ドレスデン和解」について振り返ってみます。
まず、1945年2月13日から14日の夜、ドイツ・ドレスデンでなにがあったのか、知る必要があります。
ドレスデンはドイツ東部のエルベ川沿いの美しい芸術都市でした。
街にはなんの軍事目標もなく、軍事的に攻撃する価値はなにひとつありませんでした。
当時この街には怒濤のように押し寄せるソ連軍から、追いかけられるようにして大量の難民が逃げ込んでいました。
この難民ひしめく街に英米の連合軍は実に1067機もの爆撃機を投入し、3波に渡って7049tもの爆弾・焼夷弾を投下します。
旧東ドイツ・ドレスデン市の公表した数字で、3万5000人の市民が一夜で殺戮されました。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
一方日本が受けた最大規模の夜間無差別爆撃による被害数は、1945年3月10日夜の東京大空襲による死者8万3793人(警視庁発表)でした。
行方不明者をいれれば、東京大空襲の死者は10万人以上に登るとされています。
元国防長官・ロバート・マクナマラは、『戦争の霧—ロバート・マクナマラの人生からの11の教訓—』のなかでこう述べています。
マクナマラは戦争末期に軍で働き、グアム島のルメイ司令部で、日本の67都市の夜間爆撃計画を練っていた経験があります。
「もし戦争に負けていたら、ルメイ将軍も私も戦争犯罪者だった。これだけの都市の人口の50%から90%を焼夷弾爆撃で殺傷したうえで、原爆を投下したのは余計なことでもあった。」
ルメイ自身、戦後こう述べています。
「もしわれわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸いなことに私は勝者のほうに属していた。」
ルメイとマクナマラが告白するように、なんの誇張でも政治的プロパガンダでもなく、これは正確に「ドレスデン大虐殺」、あるいは「東京大虐殺」と称されるべき出来事でした。
しかし、そうは呼ばれることなく、ただ「空襲」という無機的な言葉で歴史年表には記されています。
なぜでしょうか。理由は単純です。ドイツと日本は敗戦国だからです。
ドイツと日本は戦争を起こし、残虐行為を働いたが故に、「神の懲罰」を受けたと連合国の人は解釈しました。
この二国には抗弁を一切許さない、永遠に人道に背いた十字架を背負い続けて生きよ、ということです。
この敗戦2国に一切の弁明を許さないという思想が、先日来言われた「歴史修正主義」です。
しかしドイツ人は諦めませんでした。
1995年2月13日、ドイツ統一後2代目大統領・ローマン・ヘルツォークのドレスデン追悼式典での演説を抜粋します。
「50年前、わずか数時間でドレスデン市は完全に破壊されました。数万の命が戦火の中で失われ、ヨーロッパ文化のかけがえのない貴重なものが、二度と甦ることなく失われました。それには人間の魂も含まれます。
(私たちドイツ人は)ここにお集まりの方々には、告発や後悔、自責を求めないでしょう。ナチス国家におけるドイツ人の悪行を、その他の出来事によって相殺しようとはしないでしょう。
もしそれが目的だったら、ドレスデン住民はイギリス、アメリカの客人たちを、いま経験しているようには温かく迎えることはしなかったでしょう。
まず死者に対する哀悼を捧げたいと思います。
それは文明の起源にまでさかのぼる人間感情の表現です。歴史全体を理解しないかぎり、人は歴史を克服できないし、安寧も和解も得ることはできません。
そして我々は我々の弔意を、我々ドイツ人が他の国民に対して行った犯罪行為を自国の戦争犠牲者、追放の犠牲者によって相殺しようとしている、と主張する人に対してはそれが誰であるにせよ抗議します。
生命は生命で相殺はできません。苦痛を苦痛で、死の恐怖を死の恐怖で、追放を追放で、戦慄を戦慄で、相殺することはできません。人間的な悲しみを相殺することはできないのです。」
もし私がこの式典に参列することを許されたのなら、静かに立って拍手します。
このドレスデン追悼式典に呼ばれたのはドイツ人だけではありませんでした。
イギリス女王名代・ケント公、米国統合参謀本部議長・ジョン・ジャリカシュビリ、英国・ナウマン・インジ国防幕僚長という制服組トップ、駐独・英米大使が招待されています。
その理由はいうまでもなく、ドレスデン空襲の実行者が英米軍だったからです。
この式典においてヘルツォークは、当時の日本人が聞いたら驚くほど踏みこんだことを言っています。私が抜粋で太字で強調したフレーズをもう一度読んで下さい。
ヘルツォークはこう論理構築しています。
最初の段落です。
「まず死者に対する哀悼を捧げたいと思います。それは文明の起源にまでさかのぼる人間感情の表現です。」
ヘルツォークは人間の根源的感情である死者への「哀悼」を論理の礎に置きます。
その上に立って、死者に戦勝国も敗戦国もなく、敗戦国が死者を追悼することは戦争犯罪を相殺することではないとしています。
「我々ドイツ人が他の国民に対して行った犯罪行為を自国の戦争犠牲者、追放の犠牲者によって相殺しようとしている、と主張する人に対してはそれが誰であるにせよ抗議する」
この部分は前任者の初代統一ドイツ大統領・リヒャルト・ワイツゼッカーがした1985年の有名な「荒野の40年」演説を踏まえています。
関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-d286.html
ヘルツォークはドイツ民族が巨大なナチス犯罪が故に、自国の犠牲者を弔ってはならないのか、これは連合国がよくいう「相殺主義」なのかと問うています。
そして後段でこう畳みかけます。
「生命は生命で相殺はできない」「死者の相殺はできない」
ストレート直球です。なんの飾りもない肺腑をえぐる言葉です。これが後に「ドレスデン和解」と言われる神髄の部分です。
戦争責任を追求し合えば永遠に恨みは残ります。
確かに敗戦処理により法的・実務的には決着がついていても、残された者たちの心の中にはやるせない怒り、持っていきようがない悲しさが残り続けます。
この怒り、恨みの感情をいったん脇に置いて、勝者と敗者、加害者と被害者の立場を超えて死者のために共に祈ることにより、この哀しみを共有しよう。
そしてそれを和解の礎にしようと呼びかけています。
これが、欧州の戦後和解のスタンダードとなっていきました。
おそらく長時間、英米を交えた外交の席で練り上げられたものでしょう。
村山談話のように「謝罪」や「遺憾」という手垢のついた言葉で済ませるのではなく、文学的修辞に彩られているが故に、憎悪や怒りの感情が昇華されています。
このためにはドイツは毅然とした「生命は相殺できない」という論理を貫徹する必要がありました。
このドレスデン和解3年前の1992年、ドレスデン爆撃を強く主張した当時のアーサー・ハリス空軍爆撃司令官の銅像が、ロンドン・英国防省前に建立されたとき、当時のコール首相は先頭に立って抗議しました。
ちょうどそれは日本国首相が、1945年の東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍を顕彰する事に強く抗議するようなものです。
日本政府がしたことはドイツとは対照的に、1964年12月、ルメイに対して勲一等旭日大綬章という最高の勲章を贈っています。
私は自分の母国が恥ずかしい。
このルメイに勲章を贈ったのは佐藤栄作首相でした。沖縄返還交渉のための地ならしだと言われています。
そしてこの屈辱から半世紀、佐藤を大叔父とする安倍首相が、米議会演説、オバマ広島訪問、そして真珠湾和解と続く一連の日本版「ドレスデン和解」を成し遂げたことを一抹の救いとします。
歴史修正主義のタブーを回避しつつ、日米が和解するにはこの「ドレスデン和解」しか方途がなかったのです。
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