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2017年8月24日 (木)

日本人はなぜ戦争をしたのか?

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昨日も書きましたが、田中氏の論考は既読です。私は田中氏と同じリフレ派ですから、氏の論考や本はほぼすべて読んでいます。 

そもそも田中氏の今回の記事は外交論について書かれたものではありません
田中秀臣
「八月十五日の石橋湛山―リフレと小国主義による日本の再生」http://www.newsweekjapan.jp/tanaka/2017/08/post-12.php 

あの記事は戦前期において、「ケインズ以前のケインズ主義者」だった高橋是清と石橋湛山のリフレ政策の画期的意義とその崩壊について書かれたもので、それを「小日本主義」と表裏の関係にあると論じています。 

リフレ政策についてはまったく氏に同感で、私がリフレ政策を先に書いていたならば、まさに「パッチワーク」と批評されても致し方ないかと、苦笑したものでした。 

しかし、私は「小日本主義」を外交論として見た場合、かなりの批判を抱いています。

そのあたりは、実は山路氏や仙氏などと一緒で、田中氏の「小日本主義」理解は戦後民主主義イデオロギーに強く影響されています。

田中氏は「小日本主義」について、こう書いています。

「領土的野心を放棄することで、東洋の各国との融和をはかり、そして自由貿易を振興することの方がよほど日本やその交易する国々にとっても有益である。このように石橋の小日本主義は、日本国民の利害を主軸にしつつも、偏狭なナショナリズムに陥らず、国際主義的な視野に立つものであった」

田中氏は軍事的手段によらずとも、自由貿易によって富を得られるという、いかにもリフレ派らしい見立てをしていますが、それ自体は誤りではありませんが、日本が戦争に転がり込んだのはまさにその自由貿易が阻害されたためでした。 

また、後段の戦前期の日本についての批評にも、そうとうに疑問が残ります。 

戦前、日本が戦争に傾斜していくことを「偏狭なナショナリズム」のひとことて片づけるのはあまりに乱暴です。 

これでは、日本人が何故に世界を相手に戦ったのかという、民族の内的モチベーションがわかりません。

それについて、昭和天皇はこのように述べられています。

「この原因を尋ねれば、遠く第1次大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種差別平等案は列国の容認するところとならず。
依然残存し加州移民拒否のごときは、日本国民を憤激させるに充分なものである。また、青島還付を強いられたこともまた然りである。かかる国民的憤激を背景として一度、軍が立ち上がった時に、これを抑えることは容易な業ではない」
(『昭和天皇独白録』)

まさに、米国における排日土地法に代表されるように日本に対する有色人差別は苛烈をきわめており、日本は国家として有色人種差別の重圧を真正面から受けていて、それが故に日本人は立ち上がったという側面を、田中氏は軽く見すぎています。 

Photo_2
真珠湾攻撃を聞いた太宰治は『十二月八日』という短編を書いています。 

この小説の中で主人公の女性は、このように心境を吐露しています。 

「私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらがいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 太宰はこう続けます。 

「台所であとかたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色がちがうということが、これほどまでに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶にぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちがうのだ。(略)
こんなつらい時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう時代に生れて生きがいさえかんぜられる。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよ始まったのねぇ、なんて」

 NHK朝ドラ定番の厭戦気分などは微塵もありません。

まして「戦争は残忍だ」とか、「国民は軍部に支配されて、イヤイヤ戦地に行かされたのだ」という気分は、ものの見事にありません。

この太宰の「やりましたわね。いよいよ始まったのね」と似た感慨は、高村光太郎や藤田嗣治といった、当時を代表する芸術家たちも語っています。

反戦平和イデオロギーは、戦後に敗戦という衝撃の中から作られたものです。

私たちが謙虚に歴史と向き合って、戦前という時代に生きた人たちに寄り添ってみれば、当時の日本人が何に怒り、何を戦争に求めていたのかがわかるでしょう。

これを田中氏のように、「偏狭なナショナリズム」のひとことで済ませることに、私は強い抵抗を覚えます。

田中氏の時代認識が浅かったために、その解法としての石橋の「小日本主義」のとらえ方もまた浅いものに終わっています。

いったい「国際主義」という概念装置とはなんでしょうか。よもや欧米列強が戦争の大義として掲げた「民主主義」あるいは「プロレタリア国際主義」ではないとは思いますが、よく理解できません。

私は、石橋がこの「小日本主義」を発言した1921年という年に注目すべきだと考えています。

この1921年の2年前の1919年に、昭和天皇も指摘されているパリ講和会議が開かれています。戦後処理のみならず「国際連盟」の設立まで討議された大会議でした。

Photoパリ講和会議

ここで日本は世界大戦を抑止する条項として、国際連盟規約に「人種差別撤廃条約」を盛り込むことを主張しました。

これが当時吹き荒れていた排日運動に対する、日本側の憤りから発しているのはいうまでもありません。

しかし諸外国、特に豪州はこのような条項を入れるならば、国際連盟に加盟しないとまで発言しました。

例の白豪主義です。アボリジニから土地を奪い、人種絶滅政策をとっていた豪州には、とうてい日本案は呑めなかったわけです。

そしてこの人種差別撤廃条項は否決され、日本人は深い失望と怒りを覚えたのです。

「国民新聞」(1924年12月24日)はこう叫んでいます。

「世界は、往年ベルサイユ会議において、日本が人種平等を提案せることを記憶しているだろう。それは、実に人道上正義の声であったのであるが、12強国のために一蹴しさられた。
口先では正義人道、世界平和というような声は、月並み的文句として、世界の隅々でとて得られるところであるが、背後に実力のない声は結局空念仏に終わらざるをえぬ。
もしあの場合において、日本が絶大な実力をもっていたならば、人種平等案のごときは、これを押し通すことができたであろう。
しかして、世界の弱小国は、今日その余慶に鼓腹することができたであろう」

「国民新聞」に依った徳富蘇峰と石橋との思想傾向の違いはあったでしょうが、石橋のような鋭敏なジャーナリストが、このような時代状況と無縁で、「小日本主義」を語るはずがありません。

石橋の「小日本主義」は、人種差別撤廃を日本が国家として真正面から大義としてかかげるならば、隗よりから始めよということです。

石橋はその裏付けとしてリフレ派的経済合理性を持ってきたのであって、植民地経営の経済的バランスシートにのみ乗って「小日本主義」を語ったのではないと、私は考えます。

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コメント

 日本人や有色人種が差別されていたことを、今の若い人たちは肌身で理解することは出来ないのかもしれない。私が20代の頃(1960年)、アメリカ、オーストラリアや南アでも人種差別があり、ここ沖縄でもそれは厳然としてあったのである。

 沖縄の左翼の反米運動も奥底には人種差別からくる屈折した感情があるのだろう。

 

 私としてはやはり、湛山はどうも印象が良くないです。(笑)

 マルクス主義とは無縁の人ですが、戦後間もなく中共やソ連との距離感を米国に等しいものとすべきと主張していたし、60年安保の時も岸首相と対立し採決延長を強談判して結局は反対票を投じました。
 
 戦前でも近衛内閣当時には、確かほとんど近衛批判はしなかったのではなかったか。
大正期はデモクラシーの担い手的言論人だったと思いますが、歯に衣着せない一面で逆にポピュリストの顔もあったのかと思います。

 昨今、田中氏のような保守言論人に見直しの機運が現れたのは、TPPやグローバリズムを真剣に考え始めたことと関連があるような気がしてます。

 ただ、石橋の「小日本主義」は面白いもので、これは「合理主義」だし、他国の干渉による誤謬を最小限に留める知恵でもあったと思います。

当時、重工業や化学薬品工業など、重要な生産拠点を満州なり朝鮮北部に展開したのは明らかな不合理で、戦後の立ち上がりにも影響しました。
もし、石橋の言うように日本海を防衛ラインとした場合でも、結局は米国との軋轢は消えなかったと考えますが、内需拡大の面からも今の日本の方向性にも重要な示唆を与える思想だと思います。


 それと、先の対戦の根源に人種差別があった事は大事な観点ですが、私は「差別」と言うよりも米国に「わかろうともしてもらえなかった」結果による悲劇と見ています。

 日本人の知らないところで日本(人)像を作られてしまい、実像には程遠い虚像の日本に対して対日外交が展開されて来た部分が原因として非常に大きかったと思うのです。
 日本は日本で、正しい理解を促す事も満足にしなかった責任もあります。
 
 これは今日的課題でもありまして、未だどれだけ日本人はアメリカ人に理解されているか、慰安婦問題だけからでも不安にかられますね。
 


今朝の記事もたいへん勉強になりました。太宰治が小説の中で登場人物に語らせたことは、もしかしたら、当時そこにいた(と想像してみた)私の言葉だったかも知れません。戦争は国民が一丸となった欲望みたいな、意思とは異なる、制御するのが難しいエネルギーに支えられて、起こってしまうのかもしれません。そうであるとすれば、回避する手立てが国民のがわにもあるということなるのかも知れません。

昨日のコメント欄で、田中氏の記事と管理人さんの記事がどうのこうのとありましたので、私も読みましたが、同じ人物を取り上げているだけで、中身は、全然別々だと感じました。
歴史の知識が膨大な管理人さんだから、内観して思考することができるんだと思います。
田中氏は、今、この現在から見えること、(もう出来上がった歴史)を通して考えている。
管理人さんは、現在を背負いながら、当時まで時間をさかのぼって、その場所、状況、出来事を自分の眼でみようと努力している。
その違いは、とても大きいと思います。

>山路さん
印象の良くない感じは私もまあ理解できますね、、、石橋はなかなか評価しにくい特異点みたいな人物で、保守から見るとリベラルと罵られ、マルクス主義者から見ると保守と批判されているような人ですからね〜

思想的な水脈でいうとアメリカのプラグマティズム哲学をデューイから学んだ田中正堂の系譜ですので、右でも左でもないまさにプラグマティズムの人でしょう。これが日本ではなかなか理解されない。
ついでに言うと単純な国際派でもないと思いますね

当時の政治経済哲学的な流れを簡略化して説明しますと、知的で意識高い系の人々は

<国際派>
国際派で進歩派こそが金本位制というグローバリズム
に惹かれてましたが、石橋は金本位制復帰を批判してます。この部分では守旧派のようにみえていたかもしれません、今で考えると石橋の政策は円安志向ですからまさにアベノミクスでありその先見性は素晴らしいです。

<マルクス主義者>
親ソゆえに対米戦争に傾斜。岸信介は革新官僚のアカと言われたのでマルクス主義的。
北一輝のようなアナーキストはマルクス主義と親和性もありましたが、思想的には決裂。226へ、、、

<京都学派の哲学>
西田幾多郎、三木清、田辺元などいわゆる京都学派はヨーロッパに学んだ当代最高の知性。
西洋近代を否定し大東亜共栄圏を構想。アジアの西洋からの独立志向を思想的に後押しした

ファナティックな軍部ナショナリストとか戦争煽り系のアホな朝日新聞は横に置いておくとしても、知的な人々はその理路は様々ですが、”論理的な帰結として戦争に傾斜”しました。
当然その雰囲気は市民も共有したでしょうね

私が見るに石橋はこれらの流れとは全然別な考えなんですよね、ゆえに特異点。

進歩派のイデオロギーに影響されないで石橋湛山をニュートラルに評価できるのはむしろこれからなのかもしれないなあと思います

いわゆる太平洋戦争の背景には、記事にあるように、重大な人種差別の問題があったと思います。

ジェラルト・ホーン著「レイス・ウォー(人種戦争)」では、アメリカの黒人層にも人種差別に反対する日本に期待する動きがあったという記述もありました。

しかし、人種差別の観点から言えば、主敵をアメリカに据えるより、英、仏、蘭の植民地にする方が正しかったのでしょうね。

植民地の軍が弱いのは、軍の中枢が本国のあぶれ物で白人であるというだけで地位を与えられた指揮官の無能さと危険なところには現地人や有色人種の傭兵を送り込んだことによる前線士気の低下で、日本軍が猛烈に強かったというのはちょっと誇張があると思います。

終戦後、旧宗主国の軍が来ても跳ね返せたのは、日本軍の調練などもあったけれど、黒人を含む軍での黒人への扱いが、植民地における現地人の扱いよりかなりまともだったことも影響があったようです。米軍の援軍が痛し痒しということでしょうか。

  snsnさん

 同意ですね。
湛山が何であったか、私なんぞにはまだ評価不能ですね。

プラグマティストという観点から言えば近代資本主義、わけても大戦前の米経済を引っ張ってきた思想でもあるわけで、シカゴ学派の始祖みたいな位置づけなのでしょうかね。

だから米国資本主義の方法と圧倒的に異なる戦前の岸信介の計画経済の手法(特に満州経営)は、湛山にはたまらなく否だったのでしょうね。
それがまた陸軍の観念主義みたいなのに接着して、内地の実情を顧みなかった事に憤激していたのでしょう。

ただ、いったん経済政策を離れて米国以前の本来のプラグマティズムに則れば、結局は「前提としての正しさ」が問題になるのが欠点であるわけでして、戦後の湛山は「民主主義における民意」をそれに当てはめて、問題を多義的に捉える事が出来なかった負も多々あったような気がします。

左右どちらからも貶められ、かつまた利用されるという点では気の毒な人ですね。


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ednakano さん

> 植民地の軍が弱いのは、軍の中枢が本国のあぶれ物で白人であるというだけで地位を与えられた指揮官の無能さと危険なところには現地人や有色人種の傭兵を送り込んだことによる前線士気の低下で、日本軍が猛烈に強かったというのはちょっと誇張があると思います。

 日本軍は強かったですよ。ペリリュウ島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦における日本軍は強かったと言って間違いはありません。中国戦線での日本軍も強かったですよ。連戦連勝です。ガダルカナル、グアムなどの南洋戦線の戦いでは完全敗北ですが、日本軍は強かったとも言えます。結果は負けたのですからアメリカが強かったと言われても仕方はありません。アメリカ軍も強かったのです。

 日本軍は強かったと言ってもなにもバチはあたりません。後輩には日本軍は強かったと伝えましょう。

> 終戦後、旧宗主国の軍が来ても跳ね返せたのは、日本軍の調練などもあったけれど、黒人を含む軍での黒人への扱いが、植民地における現地人の扱いよりかなりまともだったことも影響があったようです。米軍の援軍が痛し痒しということでしょうか。

 ここ少し分かりにくいのですが・・・・・。

 アメリカ軍内部での黒人兵の扱いは一応は公平だっただろうと思います。一応という表現をしたのですが、黒人兵はよりリスクの大きい戦闘へ投入されたという話も聞きますので。ハワイのパイナップル部隊は日系人で構成されておりましたが、対独戦のきつい戦い(シチリア)で勇敢に戦いましたね。日系人たちは、アメリカ国民であると証明をしたかったのでしょう。

 軍内部では人種差別をすれば士気は上がらないでしょうね。

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