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2017年12月19日 (火)

再掲 普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう その2

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あいかわらず修理がなおらずに、だましだまし書いています(泣く)。昨日に続いて、2015年10月17日記事を大幅に加筆修正して掲載します。

                                    ~~~~~~~~

承前

前回、百田氏の「基地の周りは水田だった」という主張と、翁長知事や地元紙の「銃剣とブルドーザーで基地を作った」という二つの主張を比較してみました。

百田氏の主張が全面的に正しいのは戦前までです。

普天間地域には、有名な松街道が縦貫し、畑や水田の中に民家や公共施設、商店が散在する普通の村の風景。ひろがっていたようです。

そしてあの忌まわしい戦争が始まりました。普天間を見下ろす嘉数台地は、米軍戦史にも残i 激戦の舞台となりました。※修正しました。

後に基地のコンクリートの下に埋もれてしまった宜野湾、神山、中原、新城などの集落は、戦中の軍事的接収で基地となったのでした。

もちろん戦後には、地権者の申し立てにしたがって地代が支払われるようになっています。

住民は収容所から帰ると、我が村はすでに基地になっていたのでした。

戦争で家族と財産を失った上に、帰るべき故郷も家ごと喪失した村民にとっては、胸がつぶれる思いであったことでしょう。

その意味では、確かに琉球新報が述べるように、「米軍によって排除され、基地周辺で生活せざるを得なかったことは歴史が証明している」という言い方は正しいのです。

しかし表現の問題としては、接収時には住民は避難していたはずですので、住民に「銃剣をつきつけて」という場面があったとは思えませんが。

「銃剣」=軍政の含意でしょうが、この表現は後に多くの誤解をもたらすことになります。

では地元紙がいうように、沖縄の基地すべてが「銃剣とブルドーザー」で作ったのかといえば、かならずしもそうではありません。

ここで留意したいのは、沖縄の米軍基地には3分類あることです。

①普天間基地のように米軍の接収によるもの。
②嘉手納基地のように日本軍飛行場だったもの。

③キャンプシュワブのように地元が誘致したもの。

さて、ここで時間を飛躍して現在の写真を見ましょう。 

Photo_8
これが反基地運動家をして、「沖縄基地はギネス級」といわせる現在の写真です。

まぁ、ひと目見てスゴイですね。特に驚かないのは、私のような.本土米軍基地の真横で育った者くらいでしょうか。  

では、これらの普天間基地周辺の学校がいつ出来たのか調べてみましょう。

うして、普天間基地周辺の学校の出来た時期を見ていくと、基地があってその周辺に学校や住宅が建ったのがわかります。

もちろん、そこに基地があることを十分に知って、家や学校を建てたのです。

米軍が「銃剣とブルドーザー」で民家や学校を破壊して、基地があるわけではありません。

私の実家も厚木基地の周辺でしたが、私の両親はそこに基地があり、爆音公害があるのを知って引っ越したのです。 

反基地運動家が叫ぶように、「銃剣をつきつけてブルドーザーで民家をぶっ壊して住宅地のどまん中に建てた。だからこのように基地周辺に密集した」わけではないのです。 

たとえば米軍ヘリが墜落したことで一躍「有名」になった沖国大は、大学創設は1972年です。その前身である琉球国際短期大学の創立は1959年です。 

普天間基地が出来て実に14年後のことです。ということは、基地があるのを十分知りながら、ここに大学を設置したことになります。 

ちなみに、今米軍機の部品が落下したといわれている緑が丘保育園は1964年の開園です。

これをどう評するべきでしょうか。  

保守派の百田さんは、「普天間基地があって、その後に住宅が出来た」ということを強調したいあまりに、実際に「銃剣とブル」で接収した時代もあったことを無視しています。これはフェアではありません。

一方、翁長氏や地元2紙は逆に、「米軍は銃剣とブルドーザーで住民が住んでいた民家や学校を潰して普天間基地はできた」と言いたいために、いま基地周辺にある学校や住宅は、基地が出来てから集まったことを、都合よく忘れています。

翁長氏は公的発言の中で、このような極端な言い方をしています。

「住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかして、家も壊して今の基地は全てできている」

この短いセンテンスにふたつも間違いがあります。「住んでいる時」ではなく避難した後に接収したのであり、「すべての基地」ではなく、一部の基地です。

②の嘉手納基地のように元日本軍飛行場跡もあれば、③のシュワブのように、住民が誘致した事例すらあります。

しかも接収されたのは半世紀以上前の、しかも戦時であって、米軍の接収は腹が立ちますが、国際法上では占領地の接収は合法です。

戦後はこの軍事占領を契約関係による土地賃貸関係に転じたわけですが、「気分」としては占領軍の居座り続けている「気分」を沖縄県民に与える原因となっています。

たしかに、戦闘で奪った土地に占領軍がそのまま駐留軍となって居すわるのは、ここ沖縄だけの現象です。

とまれ、今の普天間基地の危険性の問題と「銃剣とブルドーザとは、直接になんの関係もありません。 

この人たちは、移設問題の発端が「普天間基地の危険性の除去」だという事実から目をそらしたいために、接収方法のみを声高に言っているにすぎません。

翁長氏は辺野古移設についての福岡高裁那覇支部の裁判でも、このような陳述をしています。

「このたびの訴えの提起は、法律に基づくものであるとはいえ、沖縄県民にとっては「銃剣とブルドーザー」による強制接収を思い起こさせるものであります」

あるいは、2015年9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。 

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」 

2015年5月20日外国特派員協会での講演ではこうです。 

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」

本土人と外国人がいるところで彼が講演すると、「銃剣とブルドーザー」が出ない時のほうが珍しいくらいです。

これが翁長氏が率いる「オール沖縄」の定番である米軍基地「銃剣とブルドーザー強制徴発論」です。 

ここまで意図的にねじまげるとため息が出ます。ある種の心理的トリックです。

辺野古移設は、市街地にある基地の危険性の低減を目的としたものですが、翁長氏にかかると「米軍による強制接収」となってしまっています。

主体はあくまでも米軍ではなく、日本政府です。

このように「銃剣とブルドーザーを思い出す」といえば、米軍の非道が論証ぬきで説明できてしまい、本土政府はそれを言われると異民族支配を言い募られたような気分になって腰が引けて妥協してしまう、被害者性を必要以上に強調するためのマジック・ワードに変化してしまったことがわかります。

マジックワードはえてして、イデオロギーくっついて反論を許さない硬直した状況を作り出します。

百田氏の発言は、そのような状況に一石を投じたものでした。

判断はそれぞれにお任せしますが、私は百田さんと地元2紙双方とも、自説に引き寄せて都合よく歴史を切り取っているようにみえます。

次回もう少し普天間の市街地の膨張をみてみましょう。

                                                                                           (続く)

 

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コメント

 今日の記事も最高です。翁長知事の不勉強ぶりをよく描いております。沖縄の人が沖縄の歴史をあまり知らないのですね。沖縄戦のこともあまり知らないでしょう。

 一つ、ありんくりんさんの勘違いがあります。シュガ-ロ-フの丘は現在の新都心の南側にある丘のことです。ここでの戦いは嘉数高地の戦い同様に米軍にも相当な被害が出ましたね。日本軍の反撃にさらされた米軍は衛生兵までもが銃を取り戦ったというほどのものでした。沖縄32軍かく戦えり と後に顕彰すべきほどのものがあります。

私としては事故はある程度起きることである以上仕方ないことだと思いますが(それでも減らさなければいけないことであり、そのためにもロートルヘリに代わるオスプレイの配備を進めてほしいと思っています)

幼稚園への部品落下疑惑や窓落下事故によって11月に起きた米兵の飲酒運転事故が忘れられているのが許せません。過去に同じような事件が起きても米軍の「再発の防止に努める」で済まされているのと同じような気がして。

ueyonabaruさん。
衛生兵が銃を持って戦うのは当たり前ですよ。兵隊の中で看護師資格持ってるというだけです。
軍医とは違います。まあ最近は自称某有名な(実は笑われているだけ)軍事ジャーナリスト様が自衛隊のコープスに悪態つきまくってましたけど、それは別の話。

衛生兵が前線で戦うなんてのは当たり前でしょう。負傷兵の手当てや後送をするのですから。常にある程度の決められた定数で随伴します。当たり前でしょう。
ドラマや映画の戦闘シーンで「衛生兵~!」と叫ぶのは定番ですけど、そんなのも観ずに衛生兵は武装してないそこらへんの看護師や医者だとでも?
なんとも浅すぎませんかね?

牛島司令官隷下の32軍は奮戦しました。それは紛れもない事実です。が、ブログ主の「勘違い」とは明らかにあなたこそ事実誤認でしょう。


ちなみに、本部が自決した32軍の中でも32連隊が最後まで抵抗していなければ、私は産まれてもいません!

部品が落下したCH53Eの後継機は、CH53Kキングスタリオン。
オスプレイではありません。

記事の内容と離れるので、これだけ。

普天間基地が一望できる嘉数高台公園の周辺はちょと前までは迷路みたいな細い道しかなくて「いったいどこやねん」てくらい分かりにくい所でした。いまや国道330号線からの道路が整備され、新築ばかりの綺麗な住宅街として整備されています。住民も自治体も危険だとは思っていない証左でしょう。

ところで、いわゆるシュガーローフは那覇新都心の南側に位置し、ゆいレールおもろまち駅付近です。

 山形さん

 衛生兵が銃を取らないとは私は思ってはいません。

 このシュガ-ロ-フの戦いについて、衛生兵が主任務を行えず戦闘に当たらずを得なかったということを米陸軍の記録では述べております。戦闘の激しさを言うためにそのような表現になったと思いますね。

 ありんくりんさんがシュガ-ロ-フの戦いの映画が、嘉数台地の戦跡で撮影が行われたということであれば、そのことについては私は知らず、私が勘違いをしていることになります。

すいません。私の初歩的ミスです。修正しました。沖縄戦史についてはかねてから課題としていたのですが、もっとしっかり勉強いたします。

米軍呼称「シュガーローフの戦い」、日本軍呼称「安里52高地の戦い」と呼ばれています。
ご指摘のとおり、現住所は那覇市真和志です。
嘉数ではありません。

嘉数の戦いは10倍以上の米軍相手に持ちこたえ、出血を強いました。シュガーローフと並ぶ沖縄戦の2大決戦地と言われています。
日本軍は米軍に多大な損害を与えて遅滞に成功しましたが、戦死者6万4千人。実に沖縄戦に投入された日本軍10万の6割弱に達しました。

一方真和志の地(シュガーローフ)では、米海兵隊6師団と日本の独立混成第44旅団(鹿児島・熊本)と独立混成第15連隊(千葉)が激突しました。
ひとつの丘をめぐって11回持ち主を変えたすさましい戦いであったそうです。

これらの日本軍の防御戦闘を米軍は「歩兵戦闘の極致」と日本軍をたたえています。
http://www.okinawa-senshi.com/sugarloaf-n.htm

シュガーローフの戦いにおいて、米軍は2662名の戦死傷者と、1289名の戦闘疲労患者をだしたとあります。
日本陸軍は壊滅的損害を受け、その後に南部で全滅しました。
生き残ったのは数十名だと思われます。

ちなみに現在、シュガーローフだった新都心には、皮肉にも沖縄タイムスの社屋が建っていますが、おそらくそのビルの下にはいまだ多くの日米将兵の遺骨が眠っているはずです。

「軍事的常識」さん。いままでは「お金がない」さんだったと思いますが、HNを統一願えればありがたいと思います。

中華三振さんがいわんとしたのは、CH53Eの後継機のことではなく、ポンコツのヘリをさっさとスクラップにして、オスプレイに置き換えろという意味ではないかと。

私も中華三振さんに心情的には賛成ですが、CH53Eはオスプレイとは違って重輸送ヘリなので、代替がないのです。オスプレイの代替は退役したCH46です。

まぁいずれにしても、今日の私の記事のテーマとは別な話のような(苦笑)。

紛らわしい名前ですが、今年返還された西普天間地域(キャンプフォスター)は、戦後に帰還者が戻ってから、銃剣とブルドーザーにより伊佐集落などから接収されていると思います。それが、普天間基地と勘違いしているのか?それと、宜野湾小学校は、別の場所だと思いますが、明治時代の創設です。コメント欄の深い考察でのやり取りのなか恐縮ですが、揚げ足取りが発生しないようにと思いまして投稿しました。それにしても、普天間基地の危険性の軽減が目的の施策を、反対している方々は、事故が起こると政治的なメリットのある方々というのが、悲しい現実だと思います。

沖縄勤務時代仕入れたマメ知識です。米軍基地で働く基地従業員が米兵に言ったそうです。
ワタヤムンと
英語で「今何時ですか。」
沖縄方言で「お腹が痛い。」
米兵は答えた。
「フォテン」
英語で「4時10分だ。」
沖縄方言で「横になりなさい。」
基地従業員は「サンキュー」と言って横になったそうです。
米軍は農地を接収する見返りに、米軍基地で雇用して沖縄県民の面倒をみた。終戦後の何もない時代。学校の先生を初めとして公務員などが仕事を求めて米軍基地の周辺に移り住んだ。沖縄は良くも悪くも米軍基地と共に発展して来たと言えます。
沖縄戦は、シュガーローフの闘いと嘉数の戦いで大勢は決まったと言えますね。この戦いの結果日本軍も司令部を沖縄南部に移動せざるを得なかった。沖縄戦の不幸は南部に疎開に遅れた住民が多数残っていたことです。
日本軍も勇敢に戦った。
日本軍の勇敢さに精神を病む米兵も後を絶たない。
米軍は、沖縄線の教訓をもとに戦場トラウマの研究を真剣に研究したそうです。


以前にブログ巡りをしていた時、シュワブやハンセンは誘致でも収奪でもないという事を書いている人が居ました。

住民が反対しているのを自治体が説得して米軍と契約した(させた)から、誘致したという話になっているだけ。
また、自治体が米軍と交渉している時に、限界まで値を上げようとしているところを、時間を節約したい米軍側が「これ以上ゴネるなら強制収奪しかなくなる」と脅したことが独り歩きして、強制したと言う話になっているだけだと。

実際に住民が反対していたのは確かなようだ、少なくても自治体が喜んで誘致したなんてことは有り得ないだろうと「憶測」を書いていましたね。

私としては、当時の状況なら米軍に言われればいずれは貸さなくちゃいけなくなるだろうから、精々足元を見てやろうとタフな交渉をしたんだろう、と思います。
米軍相手の商売が金になるというのは、島ぐるみ闘争で分かっていた事でしょうから、反対して他所の土地に金蔓を取られたら大変だ、って感じでしょうか。

沖縄だろうが本土だろうが、米軍相手に丁々発止をしたツワモノどもが居た。そういう人をもっと勉強したいと思ってます。

青竹ふみ 様

沖縄を代表するゼネコンは戦後は米軍発注の工事で大いに潤った。沖縄ヤクザの発祥は米軍物資を横流しする集団が発展したものだそうです。沖縄のマラリアを撲滅したのは、米軍指導の医療資格を持った沖縄独特の看護婦制度です。当時の沖縄のエリート層は米軍の奨学金でアメリカの大学に留学し沖縄に帰って琉球政府の要職を担った。琉球大学の創設。当時の沖縄の銀行への近代経理の指導。その他いろいろ米軍の恩恵はあります。
沖縄の左翼団体は絶対に認めませんが、その辺は恵隆之介氏が「誰も書かなかった沖縄」で書いています。沖縄の戦後史がよく理解できます。
沖縄左翼の主張に真正面から反論しています。沖縄の左翼団体も恵氏の主張には反論できない。なぜなら藪蛇ですから。

沖縄県は、野球、ボクシング、ゴルフが非常に強い。
確かに、米軍の起こす事件も多かったと思います。
反面、米軍統治を強かにエンジョイしていたと言えますね。

普段は閲覧のみなんですが、管理人さんのコメントについて
>ちなみに現在、シュガーローフだった新都心には、皮肉にも沖縄タイムスの社屋が建っていますが、おそらくそのビルの下にはいまだ多くの日米将兵の遺骨が眠っているはずです。

上記の沖縄タイムスの社屋というのは新都心メディアビルのことではないでしょうか?沖縄タイムスはそのビルにテナント借りで入居していただけで何年か前に久茂地交差点に自社ビルを建てて移転しています。

普天間住民さん。西普天間については調べさせていただきます。ご指摘に感謝いたします。
ブルースジュニアさん。ご指摘のとおりメディアセンターです。

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