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2017年12月18日 (月)

再掲 普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう その1

070

あいかわらず故障中です。しくしく。

ブロッガーからパソコンとったらだるまさん。 

これもお借りしたので作っていますが、私は親指キイボードという知る人ぞ知る奇妙奇天烈なものなので、もうたいへん。

今日は、過去記事で訪問数が多いものを選んで、再掲載させていただくことにいたしました。

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                     「普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう」
                                                               2015年10月17日掲載

淡々とというのは、簡単そうであんがい難しいものです。

というのは今のように対立が政治がらみで先鋭化すると、その政治力学の狭間に落ちて、肝心なニュートラルであるべき事実関係が忘れられてしまうからです。 

ちょっと前に百田さんが「普天間基地は水田ばかりの場所に建った」と発言して物議を醸しました。 

沖縄2紙は自分が批判されたこともあって、逆上気味に反論していました。 

では、普天間基地が作られていく状況を、時系列で見ていきましょう。 

まずは、1945年に戻っていただきます。今の普天間基地のあたりです。 

Photo_2(写真 1944年9月、米軍が上陸用に撮影。宜野湾市による) 

学校や役場も見えますが、おおよそは緩やかな丘陵地に連なる松林と畑地、サトウキビ畑のように見えます。 

この写真は、普天間基地の空中写真としてはもっとも古いもので、米軍が1944年(昭和19年)9月という上陸作戦7か月前に軍事目的で撮影したものだということです。 

米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。民家もたくさんありますが、広大な畑が広がっている様子がわかります。 

地上の写真も残されています。大変に見事な松林の道です。この写真を掲載した琉球新報はこうキャプションをつけています。

「1932年の松が並ぶ宜野湾並松。1932年には「宜野湾街道の松並木」の名称で国の天然記念物に指定された(1910年ごろ(写真集じのーんどぅーむらより)」

これらは沖縄戦で失われました。実に残念です。今残っていれば、人々に憩いと涼を与え、いい観光スポットにもなったでしょう。 

Photo_3(写真 戦前の見事な松林。琉新2015年6月30日http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-245002.html

このような見事な松林街道があったのは、普天間という場所が、南部と北部を結ぶ交通の要衝だったからです。

※参考資料 宜野湾市 普天間基地の歴史・成り立ち:普天間基地@米軍飛行場がある暮らし 

街道沿いには宜野湾、神山、新城などの集落がありました。いわゆる散村形態ですので、畑やキビ畑に混じって、学校や役場などが点在していたと思われます。 

次の航空写真は、もう少し時系列が下がって1945年です。米軍は、近隣の読谷から上陸し、当時の宜野湾村を制圧しました。 

今でも基地を眺めるスポットになっている嘉数台地は、沖縄戦を代表する激戦地でした。今もまだ多くの将兵の遺骨が残されています。 

ここに米軍は、2400mの滑走路を作りました。それは本土に対する上陸作戦用の航空基地でした。 

Photo(写真 1945年当時の普天間基地。米軍撮影) 

さて、この基地が作られた場所を改めて確認しておきましょう。琉球新報がいい地図を作ってくれています。Photo_6(図 琉新2015年6月30日より)

 松林の街道に沿った宜野湾、神山、中原、新城などの集落が、基地になってしまっています。 

これが軍事接収でした。米軍は沖縄戦の真っ最中から基地建設のために土地接収を開始します。 

当然、彼らにとって沖縄は敵地で、普天間地域は嘉数という映画にもなった激戦地の近隣でした。多くの米兵も日本兵が戦死した、まさにその現場だったといってよいでしょう。

しかも日本との戦争は終わっていませんでした。

ですから、占領地にたいしては一切の補償もクソもなく、文字通り「銃剣とブルドーザー」で奪い取ったものです。 

ただし、民間人の家屋を接収するにたいして、普天間でほんとうに「銃剣」を使ったような行為に米軍が及んだかは疑問です。

普天間では、あくまで比喩的表現だと考えたほうかよいと思います。う。

なぜなら民間人が激戦地に居住しているはずがないからです。住民は南部に逃れた後に収容所に入れ:解放されて我が家が基地のコンクリートの下になったことに気がついて愕然としたのでした。

もちろん、普天間も戦後に地代を払っていますが、これが既に日本軍の飛行場があった嘉手納基地などと違って、民間所有が多くなった原因です。 

ちなみに戦後、地籍簿が焼失し、所有者の自主申告に任せたために、それらを累計すると、普天間基地は海の中まで出てしまうという笑い話があります。 

それはさておき、ここまで読まれて、百田さんが言うように「普天間飛行場はもともと田んぼだった」(琉球新同じ)のか、地元2紙が言うように「米軍によって排除され、基地周辺で生活せざるを得なかったことは歴史が証明している」(琉新同じ)のが正しいのか、いかが思われるでしょうか。 

私は、双方とも事実の片面だけを見ていると思います。 

百田さんが言う「水田だけ」というのは、やや大げさな表現だと思います。 

大都市大阪の人らしい視点ですね。大阪人風に言えば、「なにもないやろー」ということですが、ちゃうねん。 

大阪人たちにかかると奈良すら、「なにもないやろ。鹿しかおらへん」ということらしいので、農村なんかまったくの田んぼと思うようです(笑)。

私は農村に住んでいますが、水田があるということは、必ず近在にそれを耕す農家もあれば、寄り合い場、公民館、郵便局、学校、小学校などの公共施設も付随しているものなのです。 

これを「水田だけ」と言われると、村の人間としてはムッとなりますね。 人の暮らしも田んぼには付随しているものなのですよ。

Photo_7(写真 5月18日、大名高地で戦闘中の第1海兵師団第2大隊アメリカ海兵隊員。Wikipediaより)

一方、地元2紙が言うような「村を銃剣とブルで潰して作った」というのも、事実としては当時はそうだった、ということです。 

ここで地元2紙は、普天間基地が誕生したのが、沖縄戦の真っ最中で、まだ大戦はおろか、南部では日本軍が強固な抵抗をしていた時期だという状況を忘れています。 

戦闘中の軍隊が、敵地で平時と同じ接収方法をするわけがありません。 

戦後も、普天間基地は拡大を重ねていくのですが、戦中ほどではないにせよ、占領軍独特の強引で暴力的方法で接収を重ねていきます。 

これがいわゆる「銃剣とブル」の時代です。私はこのような時期があったことを、まったく否定しません。 

ただし、これは1950年代末から60年頃まで戦われた「島ぐるみ闘争」までの時期だったということを忘れないで下さい。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-e46c.html 

この米軍占領下の時期が永続して、今もなお続いていて「植民地のようになっている」と主張するのが、地元2紙と翁長氏です。 

翁長氏は、9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」

翁長氏は似たようなことを、そこかしこでよく言っています。

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員協会での講演)

さすがに、これは無理筋な論理展開でしょう。

翁長氏は、普天間移設問題を基地の危険性の除去という政府の論点からズラしたいために、「いかに奪われたのか」という部分のみを強調しようとしています。

「自ら提供した土地はない」というのはウソです。翁長氏は、キャンプ・シュアブやハンセンなどの地元の誘致運動の事実を無視しています。

他の基地に関しても、自分の主張にとって都合のいい、1950年代までしか見ようとしません。

 翁長氏は都合よく、米国の統治の仕方が戦時から平時へ移行したことを忘れているのです。 

1951年のサンフランシスコ講和条約移行の頃になると、占領下にあった沖縄でも戦時から平時への切り換えが行なわれました。  

米国は沖縄が「軍事占領下」である」としていたわけで、裏返せばそれは潜在的に日本領だと認めていたことになります。 

それが講和条約後に響いてきます。今までのような「銃剣とブル」で基地作りというわけにはいかなくなったのです。  

                                                                                      (続く)

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コメント

ども、おはようございます。はよ、直るといいですね。

此度の事故の件で、率直に思ったのですが、いくら大韓航空に整備を外注してて(彼ら曰く窓枠まではうちの責任じゃないよとか言ってますが)なおかつ整備不良ではなく、ヘリの老朽化があったとして、窓枠のみがきれいに落ちるものなのでしょうか?
なんか陰謀論ぽくてあんまりいいたくないんですが、北か中華の工作員が米と日本ないし沖縄の分断や混乱を狙ったものじゃないよね?という考えが浮かんできてしまったんですな。
私がヘリの整備したわけじゃなく、素人考えなのですが、窓枠の部品を少しずつ緩めておく、か窓枠の枠をこっそり少しずつ削っておけば不可能ではないと思うのです。
勿論、実際に工作が行われたとしても、自分達の命にもなる大切な乗り物なのにチェックしなかった(良く言えば外注先を信用していたんでしょうけど)米軍の責任はゼロにはなりませんが、考え過ぎですかね?

私自身九州出身で関西在住、かなり関西の感覚に馴染んでしまい、帰省時に地元で関西風のキツいギャグを飛ばし却って周りに引かれる事もごくたまに有ります。生粋?の関西人百田氏について発言内容自体の是非は兎も角、あの探偵ナイトスクープを長年担当されてる位なので、本人にはギャグでも他地域の方にはアクが強すぎってあったんでしょうか?

尚、伊方関係へのカキコで管理人様からお返事を頂きました。あまり人様に参考になるような意見書ける論客では無いですが今後も宜しくお願いします。

Q州さん
陰謀論に捉われすぎですよ。ネトウヨとは言いませんが、中韓嫌いだからといって陰謀論に嵌るのはよくないです。

そもそもなぜ整備を外注したのかわかりません。

>>中華三振さんへ
ですよね(苦笑)
パイロットが誤って脱出装置動かした結果事故になったとか
反省反省!

外注したのは、大韓航空がアホみたいな値段で請け負ってるとかなんとか
自分が軍人なら、この情勢に敵性国家が入り込んでる可能性あるとこにメンテ頼みたくないけどなあ 悲しくなります

それにしても"米軍はよき隣人ではないんです"って、あれだけボランティアや自分が意識不明の重傷負ってても人命救助して、地域貢献してる人達に向かってよき隣人ではないとか、なんだかなあ

悲しくなりますは、末尾のとこで、なんだかなあ、のあとだった(汗)
連投失礼しますた m(__)m

> ですから、占領地にたいしては一切の補償もクソもなく、文字通り「銃剣とブルドーザー」で奪い取ったものです。

> ただし、民間人の家屋を接収するにたいして、普天間でほんとうに「銃剣」を使ったような行為に米軍が及んだかは疑問です。


 米軍は沖縄戦終了後には、ハ-グ陸戦条約を援用し地主の土地を無償で使えると考えておりましたが、実際には軍政下における土地関係の諸矛盾などにより、講和前の補償(土地料支払いなど)を実施したようです。その額は2100万ドル75億円ほどを出しているようです。

もろもろの矛盾などがあり、結局、講和前の補償を

 上の文章の下から5行目以降を次のように改めます。


 米軍は沖縄戦終了後には、ハ-グ陸戦条約を援用し地主の土地を無償で使えると考えておりましたが、実際には軍政下における土地関係の諸矛盾などにより、講和前の補償(土地料支払いなど)を実施したようです。その額は2100万ドル75億円ほどです。講和前のことにしても土地使用料を支払うということはかなり立派なことだと思われますね。

 講和後には賃貸借契約等により土地の使用権原を米軍は取得していくわけで、銃剣とブルド-ザによる強制接収も一部行われたのですが、その代表例は伊江島、伊佐浜(キャンプ瑞慶覧)、小禄の具志地区などでしょう。

 普天間飛行場については、米軍占領の時点から民間人は住んでいなくて、大きな問題はなかったと記憶しております。

 留意すべきは、銃剣とブド-ザ-によると言われると何の補償措置もなかったかのように錯覚する向きもあろうかと思いますが、実際には今日の日本の強制収用と同様に補償措置は取られていることです。

 沖縄の軍用地問題で最も大きな騒ぎは、米軍が軍用地使用料の長期間一括払いをやろうとして、地主や県民の猛烈な反対運動に遭遇した時です。まさに島ぐるみの騒ぎでした。土地をアメリカに奪われるような恐怖心が満ち満ちておりましたね。

 米軍への反発、米軍への恐怖心は当時の私にもありましたが、今冷静に考えると、基本的には地主の権利(所有権)を米軍は重視していたことになるのだと思われます。ついでに、日本軍はどうかというと、やはり地主の権利を重視していた(権利を無視していなかった)ことが分かります。嘉手納飛行場や那覇飛行場などの収用事例から窺われるのですね。

 上はueyonabaruでした。度々すみません。

 ありんくりんさん

 翁長知事は冷静な論理など分からない方です。感情的な人間なんですよ。鳩山さんと一緒でしょう。

 今日の記事、講和時点での米軍統治の変化をとらえた辺り、その慧眼私は敬服しました。

広大に見える普天間基地に対して、付属してくっついたように弱小に見える住宅や学校などの生活施設の景色は、いかにも基地のせいで疎外された沖縄県民の象徴のように見えてしまいます。

運動側の「基地周辺の住民は銃剣とブルトーザーで無理に移住させられた人々」という古い主張や、上記のような印象を歴史的ストーリー性を付加させて「偏り」で膨らませ続けて来たのが「沖縄タイムス」であり、「琉球新報」です。

二紙の報道目的から言えば、かつて普天間基地があったが故の、そこから派生した経済的好影響がもたらした人口集中の観点事実を県民に率直に伝える事は非常に具合が悪いのです。

確かに百田氏の言論は「言葉足らず」の事ではありました。
しかし、はからずも二紙は田んぼだけではなく集落もあった事を証明する為に、このような当時の写真を掲載せざるを得なくなったのです。
この写真を見た人が感じた事はよりけりでしょうが、きっと、「百田の言った事も、あながち間違いではなかった」と考える向きも多かったのではないでしょうか。

百田氏は二紙だけでなく、朝日新聞にまで個人攻撃にさらされ誠にお気の毒でしたが、ああしたリベラル紙の過剰反応から、彼ら本質が伺えた事件でした。

その彼らの本質とは、異論を決して許さず、新聞という公器が「公知の事実」=真実を作り出す、という傲慢な点にあります。
「両論併記」は彼らの考える新聞の使命から決して採るべき道ではなく、「多様な言論」は弱者たる沖縄県民を傷つける無用の存在なのです。

結果的に沖縄県民に「考える事」を放棄させているに等しく、新聞による「愚民政策」を行っているようなものです。
かくして沖縄県民はますます馬鹿になるのです。

 
 山路さんのご見解、的確です。新聞は昔に比べても劣化しております。

 正常な新聞に戻ることが、沖縄と日本の未来を明るくするでしょう。我那覇さんの運動にとても期待をしております。

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