普天間2小の成り立ちを淡々と振り返ってみよう
米軍ヘリの窓枠が校庭に落下したことの波紋を書いてきました。
NHKは、「窓枠が落下した普天間第二小学校に誹謗中傷の電話がかかってきている」と報じています。
「沖縄県宜野湾市の小学校のグラウンドにアメリカ軍普天間基地を離陸した大型ヘリコプターの窓が落下した事故で、現場の小学校などには「基地があるところに学校を造ったのに文句を言うな」といった電話がこれまでに25件あり、市の教育委員会は「アメリカ軍に土地を接収され、しかたなく建てたという事実を知ってほしい」と話しています」(NHK12月20日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171220/k10011265631000.html
どのような「正義感」にかられているのか分かりませんが、こういう無意味な学校への抗議電話は止めて下さい。
いっそう問題をこじらせるばかりです。
このような馬鹿げた抗議をすればするほど、<沖縄の悲惨さを知らない本土の人間.>vs< 基地に苦しんでいる地元の住民>.という構図にはまってしまいます。
その結果、本土と沖縄の分断が深まるばかりとなります。
普天間2小に解決能力があるならまだしも、小学校にとって「そんなことを学校に言うな」と返答するしかないではありませんか。
基地が先か、小学校が先かなどというニワトリと卵のような論争を、小学校相手にやるべきことではありません。
解決方法は実にシンプルです。
行政が責任を持って、普天間2小を安全な場所に移設すればいい、ただそれだけです。
筋からいえば市立学校ですから宜野湾市がするべきでしょう。今までのしがらみから比較的自由な立場とお見受けする佐喜真市長、ぜひご尽力してください。
ただし、この普天間2小問題は、いまや基地という安全保障がらみとなって久しいですから、市だけにやらせるのは酷です。
翁長県政はまったくあてになりませんから、ここは国が移転先とその費用について全面的に応援すべきでしょう。
行政が移転用地を見つけようとしない、あるいは費用を出さない、はたまた移転そのものに反対の人たちがいる、ということが明らかになれば、その時こその阻害する対象に対して声をあげればよいのです。
まずは、普天間2小の場所から押さえておきましょう。下のグーグルアースの画面中央、滑走路東北の赤点が普天間2小の位置です。
間違いなく「世界で一番危険な場所にある小学校」であることに、異論を持つ者はいないでしょう。
普天間2小は、伊波前市長が「お気に入り」のスポットで、なにかというとメディアや本土政治家を引き連れて見学させていた場所です。
普天間2小の屋上で、ダークスーツの地元の中で黄色いアロハを着て背中を見せているのが鳩山氏、指を基地に指しているのが伊波氏です。
伊波氏のような反基地運動家にとって、普天間飛行場の危険性を一目で説明するに、普天間2小ほどふさわしいスポットはなかったはずです。
語弊があるかもしれませんが、伊波氏たちのような反基地運動家たちは、普天間2小を基地の危険性を雄弁に語る「広告塔」のような使い方をしていたのです。
市長ならばさっさとこんな危険場所から移転することに全力をあげるのが筋のはずですが、伊波氏は抗議はしても移転に尽力したという話は寡聞にして知りません。
本土政府は腰が引けていてなにもしない、地元の宜野湾市の反戦市長は危険を叫ぶが、市の権限を行使して移転を図ろうとしない、こんな谷間に落ちてしまったのが児童たちでした。
さて、普天間2小が開校したのは、復帰前の1969年(昭和44年)のことでした。
どうして基地のフェンスと文字通り隣接する場所に小学校を建ててしまったのかについて、NHKはこんな解説をしています。
「市の真ん中に広大なアメリカ軍普天間基地があるという状況の中、土地は限られ、確保できたのは基地に隣接する現在の場所でした」(前傾)
う~ん、嘘とまでは言いませんが、微妙な歪曲だなぁ。
では、普天間基地ができた当座の1945年の空中写真を見ていただきます。
今の普天間市の真ん中にあるのは事実ですが、私にはまだまだ小学校のひとつやふたつできる空き地がいくらでもありそうな気がします。
おそらく戦争が終わって収容所から帰った住民を迎えたのは、このような状態だったと考えられます。
「(基地ができた経過の)DVDを作成した宮城政一さん(74)さんは、基地となる前の集落で生まれ、今は普天間基地の近くに住んでいます。
宮城さんは「『何もなかったところに基地ができた』という意見を聞くと、私たちのふるさとを消し去られたような気分になり、強い怒りを覚える。正しい歴史を知ってほしい」と話しています」(前傾)
宮城氏は、今は基地のコンクリート下になってしまった村に生まれました。
深く同情します。故郷の喪失は、ひとの心の中心にある始源的ななにかを奪うことですから。
そして宮城氏はこう続けるわけですが、ここからは私には違和感がでてきます。
宮城氏は、「飛行場があってその周辺に市民が集まってきた」のではないと言うのです。
宮城氏がどこをとってこう説明しているのかわからないので、軽々に批評するのはためらわれますが、違うと思います。
普天間2小ができて8年目の1977年、国交省が撮った復帰5年後の普天間基地北側の写真です。
滑走路北端の周回道路脇に、普天間2小が確認できますね。
私には学校の周囲に緑地帯(赤矢印A)が、かなりあるように見えます。
今度は基地南側を見てみましょう。1977年、同時期に国交省が撮った普天間基地南側です。赤矢印B、Cにはまだ緑地帯が存在します。
では続いて、それから28年後の2005年の空中写真です。
基地北側を見ると、1977年には白く写っていた周回道路から西には住宅がなかったものが、道路を越えて基地にまで迫ってきています。
2枚上の写真と比較してもらえれば、住宅地が容赦なく基地に接近している様がお分かりいただけると思います。
上はさらに10年後の2015年のものですが、もはや基地は住宅地の海に溺れそうになっています。
つまり宮城氏は自分の体験の範疇では正確に述べています。氏が言うとおり、基地に接収されてふるさとが消えたのです。
しかし、「飛行場があってその周辺に市民が集まってきた」、ということまで否定するのはいかがなものでしょうか。
NHKは、戦中にふるさとを接収された旧住民の証言のみで、戦後の経緯すべてを語らせようとしています。
NHKは基地建設後における、:基地周辺地域の宅地化を無視してしまっています。
宜野湾市の人口動態を見てみましょう。
・1946年(昭和21年) ・・・6820人(宜野湾市教育委員会副読本平成12年度版)
・2015年(平成27年現在) ・・・9万7062人(宜野湾市)
この70年で、宜野湾市の人口は10倍以上に膨れ上がっています。これは沖縄県の人口が増加したのと見合っています。
沖縄県の人口動態です。
・1945年・・・約30万人
・1977年・・・約110万人
・2005年・・・約138万人
・2015年・・・約142万5千人
沖縄県全体の人口は5倍弱にまで膨れ上がり、100万人を突破した70年代から、那覇近郊にあって交通が便利な宜野湾市は通勤圏、つまたはベッドタウンへと変貌しました。
そして、さらには住宅が基地周辺にまで押し出されるようにして接近する、今の風景を作り出したのです。
この基地周辺住民たちの大部分は、いうまでもありませんが、新住民です。宮城氏のような旧住民はいないとは言いませんが、希少だということに留意すべきです。
一方普天間基地は、基地返還交渉が実って復帰後に徐々に縮小しています。
・1977年3月31日・・・ 10.9haを返還
・1977年4月30日・・・ 0.3haを返還
・1977年9月30日 ・・・ 2.4haを返還
・1992年5月14日 ・・・ 道路用地等として1.5haを返還
1982年、宜野湾市は普天間2小から200mの場所にヘリが墜落炎上した事故を受けて、米軍と用地交渉した結果、約1㎞離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することが決まりました。
また防衛施設庁との協議で、移転費用も確保したといわれています。
しかし、なぜか頓挫します。
その理由については諸説ありますが、今日は触れません。
とまれ挫折したまま放置されてしまったのだけは確かです。
ただ一度だけ民主党政権時に30億の移転費用を出そうという話が持ち上がりましたが、それもすぐに「沖縄の声」に押しつぶされるようにして立ち消えました。
そしてまるでエアポケットに落ちたように、今に至るも老朽化した校舎が基地に寄り添うように建っているわけです。
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普天間第二小学校に抗議電話をかけるような行為というのは、無意味などころか「沖縄の苦悩に『両論併記』はありえない」とする、民放労連の極めて悪質で政治性を帯びた見解に塩を送るようなもんです。
これは極言すれば、ホロコーストの完全無謬化生成までの過程にも類似していて、非常に危険です。
ただし、民主党政権時代に前原誠司外相が中心となって、辺野古移設ほどの抜本的効果は見込めないとしても、いかに多額の金員がかかろうとも普天間第二小はじめ、病院などの施設は国庫から全額支出して移転を進めようという議論と政府方針がありました。
特に第二小の移転先は米軍の協力のもと、米軍住宅専用地区を当てる事も了承されたのです。
前原氏ら民主党の現実派リーダーたちの考えは、仲井眞氏の「辺野古移転は無理」との言を受け入れ、辺野古移設のペンディングまでも視野に入れた苦肉の策でした。
こうした「県民の命」と、のみならず反対派の主張をも最大限受け入れた政策さえ、当時は沖縄県において一蹴されてしいました。
かかる経緯も考慮に入れますと、私は本土の人方は「よくもまぁ、沖縄に我慢してくれているなぁ」と頭が下がる思いで一ぱいです。
第二小が抗議の対象となる事は当時の第二小自体に勇気がなく、子供の生命を第一に考える姿勢が乏しかったゆえからとも言えます。
ですが、「抗議」は本土と私たち普通の沖縄県民の亀裂をも広げる事にもつながります。
このようなどうしようもない沖縄の矛盾に対する解決方法は、ひとえに辺野古への移転以外に方法はなく、幾多の痛烈な批判を一身に浴びこれを甘受しながらも、断固として辺野古移設を敢行する安倍政権の勇気に対して、私としては敬意と支持を顕さざるを得ません。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2017年12月22日 (金) 09時18分
小学校に電凸しているのは保育園と混同している輩も多いと思いますが、まさに、在特会的行動なので、やめたほうがいいですよね。
私も小学校移転に国が全面支援を表明売るべきだt後思いますよ。それに反対する連中の『正体も暴けますしね。
投稿: ednakano | 2017年12月22日 (金) 12時26分
>「沖縄の声」に押しつぶされるようにして立ち消えました。
余程都合が悪い人たちがいるんですねェ。
投稿: ednakano | 2017年12月22日 (金) 12時27分
いつも、深い記事と、コメントを見て勉強させて頂いていますが、今回の記事は、身近過ぎていろいろ考えさせられます。特に、最後の一文には深く賛同致します。住民の生命財産を政争の具にすることは許されない事だと思います。参考までに、沖縄には郷友会という独特な組織があり、戦前からの部落の土地代などの収益を分配する事など様々な形の郷友会があります。現在、普天間郷友会は、二桁の人数になっています。宜野湾市内の他の郷友会も同様な状況だと思います。なぜ、郷友会が必要なのかを考える事と合わせて、今日の記事の内容を表している状況だと思います。
投稿: 普天間住民 | 2017年12月22日 (金) 13時03分
山路さんがコメントされている、一旦了承された敷地は二小から比較的近い場所だったなら、本当に残念な事だったと思います。今現在668人もいる小学校のようですから、児童が毎日安全に登下校できる距離でないと適当ではなく、空いてればどこでもいいとはいかないです。
二小の校区周辺に代替地が残っている間に移転させなかった大人達の責任は、なんとなく新聞記事を鵜呑みにしていた私も含めて重いです。
投稿: ふゆみ | 2017年12月22日 (金) 19時17分
> 宮城氏がどこをとってこう説明しているのかわからないので、軽々に批評するのはためらわれますが、違うと思います。
私も違うと思います。戦争時には住民は普天間から別の土地に避難していたんだと思います。
地元の住民だから証言することがすべて正しいとは限りません。愛郷心(ノスタルジ-)から出たDVD作成だったと想像します。放送局は、事実はどうだったかを確認して欲しかったですね。
私は、普天間第二小学校の移転は、当時の市長の計画通り進めるべきだったと思います。仮に今回の事故で小学生に死傷者が出ていたりしたら、当時の移転を実現できなかった市長や移転に反対したPTAの方々は後悔することでしょう。
邪推しますが、移転に反対した方々は、普天間飛行場の方が移転すべきだと考えたり、言っていたのではないでしょうか。
私は抗議電話は当然ではないのかと思いますよ。わるい言葉遣いは好みませんが・・・・・。
投稿: ueyonabaru | 2017年12月22日 (金) 20時19分
オウベイの人達から見れば、小学校が有事ともなれば軍
機がひっきりなしに離着陸する(攻撃されて、ヨタヨタと戻っ
てくる機もある)飛行場に隣接しているなんて、アンビリバ
ボーな光景だと思うにちがいないと思いますわ。
合理的になんて言わずとも、小学校を移転すれば良いだけ
の話です。それが出来てないのは、大人達が大馬鹿野郎だ
からです。子供達を高いリスクにさらしているなんて、右や
左を言っているバヤイでは無いと思います。
日本人だから情に流され、村が米軍に盗られたとかなん
とか言われると、やっぱりジワ~と悲しくなってしまうのは
私も同じだけど、情と合理性は分離して考えないと日本教
©イザヤ・ベンダサンの罠にハマってしまいます。
沖縄のサヨク脳な方達は、まず何が優先順位の上位かを
見極めるべきです。カワイソスという感情なのか現実の命
なのか、ゼニ勘定なのか国防なのか、中共なのか米国
なのか、外国人か日本人なのか、考えるまでもないこと
だと思うのですがねぇー
投稿: アホンダラ1号 | 2017年12月22日 (金) 22時53分
移転予定地だった場所は、正確な位置は分からないですが、今年返還された西普天間地区で、直線距離で300mから500m程度の距離です。基地との距離感は、地域の人でないと分かりにくいですが、かなりの差です。第二小学校の位置は、地域で暮らしていると慣れて意識外だったのですが、民間空港周辺なら校舎の建築確認が降りないのではと思う異常な位置です。はじめてギャラクシー輸送機が来た際には、石を投げれば当たるのではと思った程です。補足ですが、年代により飛行機種が大きく違いますので、切迫感も現在とかなり違い当時はのどかだった気がします。
投稿: 普天間住民 | 2017年12月22日 (金) 23時31分
アホンダラさんの言うとおりだと思います。政治的な事とは距離を置いて、現実的な危険回避を考えれば、最優先にするべき事は何なのか、答えは簡単です。それが県民の意識として広がらない現実と、異常である事を自覚できない事が沖縄の基地問題で、こじれる原因だと思います。
管理人より このコメントは「普天間住民」さんです。
投稿: | 2017年12月23日 (土) 01時47分
難しいですね。小学校は校区というものもありますし、緑の空き地ならどこでもいいというわけでもなかったでしょう。
民主党の移転話がどこまで具体的実行性かあったかはわかりませんが、沖縄の声とやらは子どもの安全より大事なのでしょうか。そんな声は取り合わず、辺野古のように粛々と移設するべきでは。
しかし現在の佐喜真宜野湾市長は辺野古移設賛成派ですが、小学校移転は考えてなさそうですね。
事故がおこると反対派は危険アピール、辺野古賛成派は「だから早く辺野古に移設だ!」と
もはや小学校は基地反対派にも賛成派にも政治利用される存在になっているのだなと思います。
小学校への嫌がらせ電話などバカかと思っていましたが、そういう動きもさもありなんという世の中ですね。
投稿: 改憲派 | 2017年12月23日 (土) 04時12分
今回も、しばらくすれば「てーげー」で終わりになっちゃうと思います。
危険を承知で「世界一危険な小学校」などと、観光名所の如く喧伝するだけで でしょう。
「抗議する」と喚いている県知事以下、県議会、教育関係者こそ、放置責任がある人たちだと思いますが。
よろず、「てーげー」で済ます気質が、かえって不幸を招く要因になっていると思います。
私は沖縄愛してますが、このあたりは同調できませんね。
投稿: アミノ酸 | 2017年12月23日 (土) 08時50分
普天間住民さん、回答ありがとうございます。
西普天間返還地区、地図で門外漢の私が見ても、そこら辺りがいいのになあと思っていました。しかも3月にもう返還されたんですね。
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/cms/organization/kichiatochitaisakuka/archives/atotiriyoukeikaku.pdf
宜野湾市の計画はこんな感じのようです。街道沿の医療ゾーンの端っこを小学校敷地に置き換えて問題が無いのではと感じます。
お書きのように、北側の住宅地から扇が集まるように校区の端の基地に向かって児童が通うというのは立地的に最悪です。反対方向に向かって通うならまだしも。
普天間返還前に二小を北側に引っ越したとしても、跡地は返還後に宅地開発されれば絶対にあと1.2校は学校作る必要が出来るでしょうから、数年空き地にしていいのにと思います。校舎も惜しく無い古さなら、尚のことです。
心ある方達がどんなに頑張っても止められたまま、というのは返す返すも残念です。
投稿: ふゆみ | 2017年12月23日 (土) 08時53分
拝読しました。
詳細な事実とニュートラルなスタンスでの記述に敬服します。
私は毎月近現代史の勉強会「名惜塾」を開催しています。時間は90分です
いつも一つのテーマにつき1回のプレゼンですが、沖縄は大きなテーマなので3回に分け、1、沖縄の歴史 2、沖縄戦 3、現代の沖縄の危機でした。
先週3回目を終わりましたが、ちょうど保育園の屋根にヘリパーツが、また小学校にヘリ窓枠が落ちた直後でしたので若干触れました。
概要は貴記述に類似ですが、ここまで詳細に調べてはいませんでした。大変参考になりました。
私も中立保守の立場で授業をしますが現地現物に当たることが重要と考えています。
その意のもと、先月は、南西諸島の宮古島(空自警戒監視部隊司令に表敬訪問)、石垣島、与那国島(ゲロ船と呼ばれているらしいフェリーに乗船)に行って、その後那覇に送ったモーターバイクを受け取り沖縄本島をめぐり、奄美大島、鹿児島、大阪以東の東海、伊豆を走り千葉に帰宅しました。
各所では戦跡研修と慰霊が目的でした。画像は400枚ほどになりました。
今後とも貴ブログを楽しみにしています。また、内容の紹介や出典明記での使用をお許しいただければ幸甚です。
Sen
投稿: Sen | 2017年12月25日 (月) 08時17分
Sen様。過分なお言葉痛みいります。
どうぞお使い下さい。
投稿: 管理人 | 2017年12月25日 (月) 09時42分
随分と遅い後追いで申し訳ありません。
普二小問題は近所ということもあり、また学校脇でヘリが飛び立つ様子(午前中が多い)をよく見かけておりましたので「なぜこのような場所に学校を造ったのか?」「なぜ学校は移転できないのか?」という大きな疑問があり、その経緯について自分なりに調べておりました。
宜野湾市立図書館に「普天間第二小学校創立35周年記念誌」(H.17年月1日発行)という冊子があり、その中に「PTA新聞から見える普天間第二小学校の歴史」という特集ページがあります(P46-P55)。新聞のコピーを冊子に収録したものですので、虫メガネを使って読みました。「普二小の移転について」のPTAの苦悩の経緯が垣間見ることができました。また、通っている児童の作文もいくつも掲載されておりましたが、その「切実な訴え」を読んで、深い落胆の念を感じました。あの作文を書いた女の子は今はどのような暮らしをしているのだろうかと。
以下、「PTA新聞」「宜野湾市史」「新報」「沖縄タイムス」などを参考資料として私なりにその概要を簡単ではありますが、まとめてみました。
①1959年(S.34)6/30
宮森米軍機墜落事故(死者17名/小学生11名、一般6名)
②1966年(S.41)
「普二小の新設へ近く政府へ認可申請」(新報・朝9/1)
③1968年(S.43)8/26
「普二小認可」(沖タイ・朝9/1)
④1968年(S.43)11/19
「B52 嘉手納基地内に墜落」(新報・夕11/19)
(19日午前4時18分ごろ。民家139戸被害、5名の負傷者)
⑤1969年(S.44)
「普二小建築中止問題で議会大荒れ」(新報・夕6/20)
⑥1969年(S.44)
「ようやく認可」(沖タイ・朝6/29)
⑦1970年(S.45)
普天間第二小学校 開校(69年普天間小学校校庭に仮設校舎を設営したらしい)
⑧1972年(S.47)5/15
沖縄の本土復帰
⑨1976年(S.51)
ハンビー飛行場全面返還
http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/hamby-airfield
⑩1979年(S.54)
「この頃より学校移転が話題にあがる」(PTA新聞30号)
「第二小の防音工事について陳情」(議会史P206)
⑪1982年(S.57)8月19日
「米軍ヘリ普二小から200mの地点に墜落」
⑫1985年(S.60)
「特集!!学校移転は果してできるか?」(PTA新聞30号)
⑬1987年(S.62)
「学校移転に向けてPTA精力的に取り組む~これまでの動き~」(PTA新聞38号)
⑭1988年(S.63)
「第二小移転に係る用地取得についての要請決議」(議会史P45)
⑮1992年(H.4)
「危険と同居仕方ない 第二小移転を断念」(沖タイ・朝9/19)
⑯1995年(H.7)9/4
「沖縄米兵少女暴行事件」
⑰1996年(H.8)12/2
SACO合意
⑱2011年(H.23)
6/6 オスプレイ(MV-22B)普天間配備正式発表
10/.2 普天間飛行場へ配備
⑲2015年(H.27)3/31
「キャンプ瑞慶覧 西普天間住宅地区返還」
⑳20017年(H.29)
「普天間第二小学校校庭へCH53ヘリの窓枠落下」
PTA新聞などの資料を読むかぎりでは、開校後の70年代半ば以降から「騒音被害が大きくなってきた」と書かれている。これは、76年の「ハンビー飛行場の全面返還」によって同飛行場を利用していたヘリが普天間に移ったためであると考えられる。
疑問点-Ⅰ
①の大事故が起こったのになぜ「普天間基地の隣接地」に学校建設」を検討したのか。また、なぜ「建設許可が下りたのか」
疑問点-2
学校建設許可の認可がおりた3ヶ月後には④が発生している。「再検討」はされなかったのか。
疑問点-3
⑤は「市の道路整備計画地と第二小建設現場がダブっていた」ということでの議会が荒れたと新聞記事には書かれている。「建設計画そのものがズサンであったのでは」と言われてもおかしくはないのではなかろうか。また、「議会が大荒れ」したわりには、「その9日後に認可が下りた」ともある。早すぎるのでは。
疑問点-4
学校移転が話題に上がってから「断念」するまで約13年間の時間があった。断念の理由としては、「これってホント!?誤解だらけの沖縄基地」(沖縄タイムス社編集)を参考にすると(P150-158)、「予算、国の援助がかなわず頓挫」「のめぬ条件、跡地を基地に」「用地費不足と老朽化が進み断念」と3項目を挙げて説明している。米軍側も危険を考慮したのであろう、5条件をつけて学校移転を検討し、宜野湾市側へ提案した。その条件面で「難題があった」と続けて説明がある。一番の難題は「現在の普天間第二小の敷地、建物を普天間飛行場として米軍に提供すること」である。「キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地と建物を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった」と解説されている。この時、「学校跡地を差し出してでも、米軍が提供を申し出たキャンプ瑞慶覧の一部へ移転する」という、「子供達の安全・安心を少しでも確保する」という「選択肢は無かったのか?」という疑問である。全県民的な議論は無かったのか?
疑問点-5
上記にあげた「キャンプ瑞慶覧内の西普天間住宅地」はSACO合意のもと、2015年3/31に返還されました。私はその前後に宜野湾市役所教育委員会へ問い合わせを行いました。「返還される土地に第二小を移転させる計画はありますか?」と。返答は「検討しておりません」ということでした。以前、移転しようと日米で試みたその「土地」が返還されるににも関わらず、市役所は「移転計画すらさえしていない」のである。なぜなのか?
同様に、この返還地には普天間高校の移転話もあがってます。一度は頓挫したものの今現在県は土地取得へ向けて動いている、とのことですが、先月末のNHK沖縄ローカルニュースでこんなニュースが流れてました。「普天間高校の西普天間住宅地への移転計画で、用地取得目標は7.5ヘクタールだが、そのうち0.1ヘクタールしか取得の目途がたっていない。用地買収におうじた地権者は2人のみである」と。
最後に、「PTA新聞31号」(1985年11/30付)にある小6の女子児童が書いた作文の一節を抜粋掲載いたします。
「市長さんや役員の方々は、この学校のことを考えていらっしゃるのでしょうか。本気になって考えていらっしゃるなら、普二小を早く移転させてください」
【参考資料】
「普天間第二小学校創立35周年記念誌」 平成17年3月1日発行
「宜野湾市史 7 資料編六 新聞集成Ⅲ(下)」
「宜野湾市史 8 資料編七 戦後資料編Ⅰ戦後初期の宜野湾」
「宜野湾市と基地」平成21年3月 宜野湾市基地政策部基地渉外課編集
「これってホント!?誤解だらけの沖縄基地」沖縄タイムス社編集局 高文研 2017年
投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年1月 5日 (金) 01時58分
宜野湾くれない丸様。詳細な資料をありがとうございました。
近々、記事のほうにもアップさせていただきます。
たいへんに根気のいる仕事でした。ご苦労さまでした。
投稿: 管理人 | 2018年1月 5日 (金) 03時37分
おもろい意見ですね。
笑けてしまいました。
学校建設推薦地域の、ABC地点に学校を造って徒歩で通学出来るの?
住んでいる地域に造らないと意味がないよね。
しかもBC地点も基地のそばやん。
そして、宜野湾の人口増加しているのは事実だけど、市町村合併で大きくなってることは考慮しているの?
そして、普天間基地から遠いベイエリアの開発による人口増加も考慮しているの?
投稿: まる | 2019年5月28日 (火) 21時25分