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2018年1月22日 (月)

西部邁氏自死す

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西部邁氏がお亡くなりになりました。覚悟の自死でした。

私はかつてのような熱をもった読み方ではなく、疎遠になった旧師の近況を聞く思いで近著の頁をくくっていました。

おそらく今日あたり多くの人が引用するでしょうが、何冊かの本には、はっきりとみずから死を選択すると記されていました。

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『妻と僕 寓話と化す我らの死』にはこうあります。

「この『平和』の日本国家あるいは『安全と生存』の日本列島では、『死の選択』という最も人間らしい行為が精神の病理現象として片付けられはじめ、(略)
逆らって僕は、自然死への人生行路にあっても、自分の思想が必要だと考えてきました。
簡略に言うと、『これ以上に延命すると、他者(とくに自分の家族たち)に与える損害が、その便益を、はっきりと上回る』と予想されるようになれば、自死を選ぶということです」

この本は氏特有のペダンチズムからもっとも遠く、素直に夫人の病を通して、生と死を語った一冊でした。

が故に、自らの生命を老醜による周囲への迷惑と便益をてんびんにかけて比較衡量するかのごとき一節に遭遇したときに、西部氏の死を知るのはそう遠くはないと暗い予感を感じた記憶があります。

また夫人のガンについて、こうも述べられています。

「身体の命運がぎりぎりまでくると、生き延び方といい死に方といい、自分で選び取るほかありません。人生は一回で、また人生は死の瞬間まで、つまるところは自分のものだからです」

この「つまるところ生は死の瞬間まで自分のものである」という一句は、今も私の奥底に響いています。

『発言者』はひと頃定期的に読んでいた時期がありましたが、氏の哲学的修辞に満ちた衒学趣味と、ことさらのような仲間撃ちに辟易して遠ざかってしまいました。

当時私には、西部氏の悪しき習癖と思えた議論ふっかけ癖も、今思うと氏の深い孤独と背中合わせでした。

「孤独は、その時代なり社会なり場所なりを支配している雰囲気から逃亡するときに生じる感情なのでしょう。
あるいは、それと闘って(案の定)、破れたときに生まれる感情なのでしょう。
いずれにせよ、孤独を自覚するのは人間の輝かしい特権と言わなければなりません。人間だけが、己の言動に意味を見いだそうと努め、その意味を表現し、伝達し、蓄積し、そして尺度するだけのことに未充足を覚える」

西部氏は望んで「人間の輝かしい特権たる孤独」を選び、そして望んで「自分のもの」だけである死を選んだのです。

その意味で、西部邁という孤高の思想家にとって自死は最後の思想表現だったのかもしれません。

ご冥福をお祈りします。合掌。

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コメント

西部氏と大島渚・野坂昭如・小田実・丸山眞男といったほぼレギュラーでバチバチやりあって、司会の田原総一朗が「うるさいよ!黙れバカ!」とかやってた頃の朝ナマは面白かったです。

ご冥福を。

 ブログ主様が西部氏の死去を早速一本の記事として取り上げるとは意外に思え、全く予想もしておりませんでした。

なお、『妻と僕 寓話と化す我らの死』よりも以前から、「最後は自裁による」と書いていたと思います。
ここのところの正論誌に掲載された自伝的連載「ファシスタたらんとした者」でも、自からの人生を総括したような内容でしたから、私には「ああ、やっぱりな」というような気持ちもありました。

西部氏のやり方は、独特のニヒリズムや浪漫主義的感性を土台に有しつつ、自からを厳しく孤独に追いやる事で自我や自己を確立し、そこからこそ強靭な思想表現を生み出せると確信し続けたものと思います。
ですが、私が思うに西部氏の孤独は生来のものではもちろんなく、常にその孤独から奥様の存在だけは除外されていたもののようです。

私は西部氏の死の一報に接したとき、反射的に江藤淳氏の死を思い浮かべずにおれませんでした。
簡単には言えませんが、西部氏にも江藤氏にも奥様の死までは少なくとも「絶対的な孤独」はなかったと思います。

どのような論敵にも一切引けを取らないだけの強靭な思想を所持した両人であったにもかかわらず、たった一人の妻の存在が各々に果たした「生への役割」は重要なカナメだったと思うのです。
この意味で、西部氏に非常に人間的な親近感を感じます。

西部氏のような在り方や生き方からして、陳腐な言い方ですが「昭和」がまたひとつ消えていった感じがしてしまい、とても寂しく思います。

 ありんくりんさん、山路さんと同じような見方、感じが私にもあります。自裁した江藤淳も奥様の死がキッカケでしたね。伴侶の存在はホント大きいものです。

 チャンネル桜で、おそらく最後の対談だろうと思いますが、中山恭子氏と語っている動画があります。ここで語る西部さんは柔和であるが、舌鋒は相変わらずキツイものがありますね。また、奥様のことを「よくできた女房だった」と言います。自然な感情の吐露ですね。好感が持てました。

 大変な病気であり、その苦しさから逃れたい気持ちもあったのではないでしょうか。奥様の死から数年も生き続けてはおられたので、シッカリ生きようと思ってはいたのでしょうね。大きな人間が去ってゆきました。天邪鬼の生き方でしたが、氏の知性にはいつも敬服しておりました。

 さようなら、西部さん

 

追悼の蓮のお花に、ご夫婦のお姿を想わせていただきました。

私にとっては古い世代の方だったので、論理が難しくて、
波長が合わなかったのか、注目する存在ではありません
でしたが、この最後はちょっとお気の毒すぎですわ。サム
ライの最後みたいに言う人もいますが、多摩川にジャボン
じゃ、この方の品格に合った死にざまには見えません。

これからの超高齢化超長寿命時代には、安楽死というもの
の制度を作るべきです。偉い先生の最後がコレしかないの
なら、一般の人はションベン・ウンコにまみれ、若い介護
の人に多大な迷惑をかけ、ヘタをすれば何十年も昏睡した
ままになる。凡人のほとんどは河へ飛び込めませんからね。

「どうにかしろよ、おめえら、死ぬほど寒いんだぜぇ」
と置き土産ですか? 合掌

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