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宜野湾くれない丸さん提供の資料から考える普天間2小移設問題

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宜野湾くれない丸さんから、普天間2小の移転問題についての丹念な資料を頂戴いたしました。 

地元でなければ出てこない冊子まであたっていただいています。感謝にたえません。ありがとうございました。 

今まで、普天間基地がらみて2回の墜落事故が起きています。1959年と1982年で、59年には犠牲者17名中、小学生が実に11名を占めました。 

痛ましさの限りです。あらためて普天間2小の場所を確認しておきましょう。基地滑走路のまさに脇に隣接しています。 

これを見て愕然としない人はいないでしょう。 

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 航空機事故には、「魔の11分(critical eleven minutes) 」というものがあります。 

もっとも事故を起こしやすい時間帯のことで、飛行機の事故は統計的に離陸時の2分間と着陸時の9分間に多いことから、この離発着を合わせて「魔の11分」と呼んでいます。 

日本流体力学会によれば事故発生率が高い時期は
・離陸・初期上昇での事故発生率       ・・17%
・最終進入・着陸時での事故発生比率・・・51%

ですから、航空機の進入路直下は、離発着の両側の4㎞以上にわたって国が買い上げて無人地帯にするべきです。 

事実日本の航空法ではそうなっています。 

米軍のAICUZ海軍作戦本部長インストラクション(OPNAVINST110.36B)によっても、滑走路の両端の延長線上4.5㎞に住宅や学校、病院、集会場の設置を認めていません。 

実際になんどとなく墜落事故をおこしている厚木基地の進入路直下や周辺地は、防衛施設庁によって買い上げられ、1970年までに大和市、綾瀬市の基地周辺の262戸が集団移転しています。 

本来、普天間においても進入路を4.5㎞にわたって買い取って無人地帯(クリアゾーン)を作るべきです。 

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もう一枚、普天間2小の航空写真と並べると、本来は完全にクリア・ゾーンに入っているのがわかります。Photo_2

 当然、米軍も国もクリアゾーンを設置すべきことを理解しています。
2. 安全基準 (1)日米合意による普天間飛行場の安全基準 ① 1996年3 ...
 

上図の米軍「『環境レビュー』には、普天間基地の航空施設安全クリアランス(クリアゾーンは太枠で示してあります。 

米軍の基準によれば、滑走路の両端から幅約460㍍×長さ約900㍍×幅約700㍍の台形として、ここを無人地帯にすべきだとしています。 

宜野湾市によれば、「クリアゾーン内に市立普天間第二小学校、新城児童センター等の公共施設や保育所、病院等が18施設、住宅が約800棟、3千人余りの住民が居住している状況がある」(前掲)とされています。

仮に移転が挫折した場合、普天間の固定化が自動的に決定してしまうわけですが、その場合国は、本腰を入れてこの地域の学校、病院、保育所などの移設から開始し、計画的に住宅地も買い上げて行くべきでしょう。 

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さて普天間2小移転問題が、なぜうやむやのままに、放置されてきたのかについて頂戴したくれない丸さんの資料を参考にして考えてみましょう。

なお、私はかつて産経宮本支局長の基地反対派団体の妨害説に立っていた時期がありましたが、今はその立場をとりません。 

というのは、宮本記の裏が取れないからです。反対運動があったというなら、そのビラ・パンフなど運動の痕跡があるべきですが、一点も見つかっておらず、証言者が1名では根拠が薄弱です。 

今回、くれない丸さんがあげておられた「疑問4」に、ひとつのヒントが見つかりました。 

沖タイが『これってホント!?誤解だらけの沖縄基地』にあげている移転が挫折した理由を「国の援助がかなわず頓挫」と「用地費不足と老朽化が進み断念」をあげていますが、これは信憑性に欠けます。 

沖タイは『普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?(中)誤解だらけの沖縄基地・9』(2016年2月1日)でも、同じ内容があります。
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/23402

西普天間には返還が予定された地域があり、宜野湾市の財政が苦しく移設費が払えず、防衛施設庁が冷酷にも予算を与えなかったことを沖タイは挙げています。

私はこれは信憑性が薄いと思います。このような児童の安全という最優先にされるべき課題を市が単独で行う必要があるとは思えません。

よしんば予算がつかないならば、県に与えられている潤沢な振興予算からどうにでもなることではなかったのでしょうか。 

県は有り余る振興予算で不要不急の公共施設を作りつづけているのですから、小学校の移設費など微々たるものです。

つまりはこの二つの理由は、表向きの言い訳にすぎません。 

となると真の理由は、沖タイもあげているもうひとつの理由、すなわち、「米軍が学校跡地を米軍施設として提供する」という部分が最大のネックとなったと考えられます。

「キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった。
当時は西銘順治知事が普天間飛行場などの整理縮小を訴えていた時代。安次富氏は返還への条件があったことや、その対応を公表しないまま、3選を目指した85年7月の市長選で、革新の桃原正賢氏に敗れた。」(前掲)

当時の安次富市長が決断できなかった理由を、子息の修氏はこう述べています。

「施設庁側は、第二小の移転は市長の決断次第だ、と言っていた。ただ、父にとって編入条件の受け入れは、第二小の移転が実現する一方、市民の理解を得られるのか、もろ刃のつるぎの側面があった。世論を見極めていたように思う」(前掲)

この子息の説明で、安次富市長をためらわせた理由が「世論」、本土では「沖縄の苦悩」とか「沖縄の心」と称されているものだとわかります。 

安次富氏に代わって市長となった、桃原市長も同じような壁にあたってしまいます。

「市長就任後、編入条件を知った桃原氏もまた、苦悩する。『基地の整理縮小を求める民意に背くことになる』。86年11月には条件の撤回と、あらためて用地取得のための補助金交付を那覇防衛施設局へ要求した」(前掲)

革新系桃原市長は、この米軍の提案自体の撤回を求めようとします。

移転用地は米軍が提供するが跡地は米軍施設とする、これでは基地縮小の民意にそむく基地拡大ではないか、というわけです。 

う~ん、既視感が猛然と頭をもたげてきましたね。 これが一貫した沖縄革新陣営の定番的主張です。現実には、縮小計画は、いわばパズルゲームで、こちらを返して、その代わりに色々な条件がついてくるという性格のものです。

それはアジア情勢まで持ち出さなくても、相手がある国家間交渉とは互いに譲歩し合うものだからです。

たとえば高江では大幅な北部訓練場の返還の代償に、はるかに小規模のヘリポートを作らねばなりませんでした。

それを革新陣営は「返す」という部分を伏せて、あたかも「新たな航空基地」であるかのようにプロパガンダしました。

普天間基地を移設するための辺野古移転などは、とうとう「新基地」建設です。

ものごとの軽重は明らかです。

目の前に下の写真のような厳然たるリスクが存在します。 

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そもそもいかなる基準、いや常識に照らしても、ここに小学校などあってはならないのです。

ならば四の五の言わずに、移転する用地があるのですから、とまれそこに移転したらいいのです。

そこが「新基地」になるなどということは、「民意」と小学生の生命のどちからが重いのでしょうか。

仮に「市民の土地」が新たな米軍施設になったとしても、米軍はそこに恒久的施設を作ろううとはしないでしょう。

なぜなら、すでにこの時期に、普天間基地の移転は日米政府の議題に登っていますから。

おそらくは前述した無人地帯(クリアゾーン)にしたと思われます。

ものごとを素直に軽重すれば、まずはなんとしても小学校を移転することを最優先させくべきなのは常識です。

議論が深まらない前に、「民意」におののいて腰くだけになる宜野湾市行政の姿は、象徴的です。

いつまでこんなことを続けて、肝心要の学童の安全を放置しつづけるのでしょうか。

かくして1986年に「民意」を説得しておけば、36年も前に解決したリスクの下に、今でも子供たちを放置し続けているのです。

宜野湾くれない丸さんがおっしゃるように、このような危険に児童を日常的にさらしておきながら、事故があると大声で糾弾はするが、「移転のための行動はおろか、全県民的な議論がない」という空気そのものを変えていかねばなりません。

                               ~~~~~~~~~~~ 

0025720209時事https://www.jiji.com/jc/p?id=20171214101004-0025720209

以下、宜野湾くれない丸様コメントです。 

普二小問題は近所ということもあり、また学校脇でヘリが飛び立つ様子(午前中が多い)をよく見かけておりましたので「なぜこのような場所に学校を造ったのか?」「なぜ学校は移転できないのか?」という大きな疑問があり、その経緯について自分なりに調べておりました。 

 宜野湾市立図書館に「普天間第二小学校創立35周年記念誌」(H.17年月1日発行)という冊子があり、その中に「PTA新聞から見える普天間第二小学校の歴史」という特集ページがあります(P46-P55)。 

新聞のコピーを冊子に収録したものですので、虫メガネを使って読みました。「普二小の移転について」のPTAの苦悩の経緯が垣間見ることができました。 

また、通っている児童の作文もいくつも掲載されておりましたが、その「切実な訴え」を読んで、深い落胆の念を感じました。あの作文を書いた女の子は今はどのような暮らしをしているのだろうかと。
 以下、「PTA新聞」「宜野湾市史」「新報」「沖縄タイムス」などを参考資料として私なりにその概要を簡単ではありますが、まとめてみました。
 

①1959年(S.34)6/30
宮森米軍機墜落事故(死者17名/小学生11名、一般6名)
 

②1966年(S.41)
「普二小の新設へ近く政府へ認可申請」(新報・朝9/1)
 

③1968年(S.43)8/26
「普二小認可」(沖タイ・朝9/1)
 

④1968年(S.43)11/19
「B52 嘉手納基地内に墜落」(新報・夕11/19)
(19日午前4時18分ごろ。民家139戸被害、5名の負傷者)
 

⑤1969年(S.44)
「普二小建築中止問題で議会大荒れ」(新報・夕6/20)
 

⑥1969年(S.44)
「ようやく認可」(沖タイ・朝6/29)
 

⑦1970年(S.45)
普天間第二小学校 開校(69年普天間小学校校庭に仮設校舎を設営したらしい)
 

⑧1972年(S.47)5/15
沖縄の本土復帰
 

⑨1976年(S.51)
ハンビー飛行場全面返還

http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/hamby-airfield 

⑩1979年(S.54)
「この頃より学校移転が話題にあがる」(PTA新聞30号)
「第二小の防音工事について陳情」(議会史P206)
 

⑪1982年(S.57)8月19日
「米軍ヘリ普二小から200mの地点に墜落」
 

⑫1985年(S.60)
「特集!!学校移転は果してできるか?」(PTA新聞30号)
 

⑬1987年(S.62)
「学校移転に向けてPTA精力的に取り組む~これまでの動き~」(PTA新聞38号)
 

⑭1988年(S.63)
「第二小移転に係る用地取得についての要請決議」(議会史P45)
 

⑮1992年(H.4)
「危険と同居仕方ない 第二小移転を断念」(沖タイ・朝9/19)
 

⑯1995年(H.7)9/4
「沖縄米兵少女暴行事件」
 

⑰1996年(H.8)12/2
SACO合意
 

⑱2011年(H.23)
6/6 オスプレイ(MV-22B)普天間配備正式発表
10/.2 普天間飛行場へ配備
 

⑲2015年(H.27)3/31
「キャンプ瑞慶覧 西普天間住宅地区返還」
 

⑳20017年(H.29)
「普天間第二小学校校庭へCH53ヘリの窓枠落下」
 

 PTA新聞などの資料を読むかぎりでは、開校後の70年代半ば以降から「騒音被害が大きくなってきた」と書かれている。これは、76年の「ハンビー飛行場の全面返還」によって同飛行場を利用していたヘリが普天間に移ったためであると考えられる。 

疑問点-Ⅰ
①の大事故が起こったのになぜ「普天間基地の隣接地」に学校建設」を検討したのか。また、なぜ「建設許可が下りたのか」
 

疑問点-2
学校建設許可の認可がおりた3ヶ月後には④が発生している。「再検討」はされなかったのか。
 

疑問点-3
⑤は「市の道路整備計画地と第二小建設現場がダブっていた」ということでの議会が荒れたと新聞記事には書かれている。

「建設計画そのものがズサンであったのでは」と言われてもおかしくはないのではなかろうか。

また、「議会が大荒れ」したわりには、「その9日後に認可が下りた」ともある。早すぎるのでは。 

疑問点-4
学校移転が話題に上がってから「断念」するまで約13年間の時間があった。
 

断念の理由としては、「これってホント!?誤解だらけの沖縄基地」(沖縄タイムス社編集)を参考にすると(P150-158)、「予算、国の援助がかなわず頓挫」「のめぬ条件、跡地を基地に」「用地費不足と老朽化が進み断念」と3項目を挙げて説明している。 

米軍側も危険を考慮したのであろう、5条件をつけて学校移転を検討し、宜野湾市側へ提案した。 

その条件面で「難題があった」と続けて説明がある。 

一番の難題は「現在の普天間第二小の敷地、建物を普天間飛行場として米軍に提供すること」である。 

「キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地と建物を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった」と解説されている。 

この時、「学校跡地を差し出してでも、米軍が提供を申し出たキャンプ瑞慶覧の一部へ移転する」という、「子供達の安全・安心を少しでも確保する」という「選択肢は無かったのか?」という疑問である。 

全県民的な議論は無かったのか? 

疑問点-5
上記にあげた「キャンプ瑞慶覧内の西普天間住宅地」はSACO合意のもと、2015年3/31に返還されました。私はその前後に宜野湾市役所教育委員会へ問い合わせを行いました。「返還される土地に第二小を移転させる計画はありますか?」と。
 

返答は「検討しておりません」ということでした。 

以前、移転しようと日米で試みたその「土地」が返還されるににも関わらず、市役所は「移転計画すらさえしていない」のである。なぜなのか? 

 同様に、この返還地には普天間高校の移転話もあがってます。 

一度は頓挫したものの今現在県は土地取得へ向けて動いている、とのことですが、先月末のNHK沖縄ローカルニュースでこんなニュースが流れてました。 

「普天間高校の西普天間住宅地への移転計画で、用地取得目標は7.5ヘクタールだが、そのうち0.1ヘクタールしか取得の目途がたっていない。用地買収におうじた地権者は2人のみである」と。
 
 最後に、「PTA新聞31号」(1985年11/30付)にある小6の女子児童が書いた作文の一節を抜粋掲載いたします。
 

「市長さんや役員の方々は、この学校のことを考えていらっしゃるのでしょうか。本気になって考えていらっしゃるなら、普二小を早く移転させてください」 

【参考資料】 

「普天間第二小学校創立35周年記念誌」 平成17年3月1日発行
「宜野湾市史 7 資料編六 新聞集成Ⅲ(下)」
「宜野湾市史 8 資料編七 戦後資料編Ⅰ戦後初期の宜野湾」
「宜野湾市と基地」平成21年3月 宜野湾市基地政策部基地渉外課編集
「これってホント!?誤解だらけの沖縄基地」沖縄タイムス社編集局 高文研 2017年

 

 

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コメント

現地の資料室などでしか見つけられない貴重な情報による記事、大変勉強になりました。
沖縄の地理に疎い私のような者に参考になる、うるま市宮森小学校墜落の資料をwikiですみませんが貼っておきます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%A3%AE%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
wikiなのでもっと他の資料とも併せて読まないとですが、昨今墜ちた墜ちたと騒がれているヘリ達とは被害のケタが違うのが読み取れます。
普天間高校移設の際には、同じ敷地の小学校や幼稚園はどのように検討されていたのかも興味があります。
都市を開発する際にいつも基地が巨大なブロックの山のように立ち塞がり、住む人を抑圧してきた事は大前提です。
ただ、やはり私も、宜野湾くれない丸さんのお書きのように、そのタイミングでそこに二小を許可し建設し、移設案を断念したつどつどに、疑問がぬぐえません。
子どもの命を第一にはしない力があったとして、その源は何なのでしょう。

投稿: ふゆみ | 2018年1月 5日 (金) 09時09分

管理人様

記事の掲載を戴きありがとうございます。

私は宜野湾市にかれこれ20年間住んでおります。その前は県内の別の市町村です。普天間返還の発表があって既に20年の時が過ぎました。この20年間、普天間基地は「1ミリ」も動いてはおりません。

メディアや文献の有無に左右されず、出来るだけ真っ新な頭でこの「普二小問題」を再確認したいがために、地道に知らべております。何故ならば「先ずはその経緯を知る」必要があるからです。発表されている文献資料や一般書物などなど出来る限りに目を通しております。

歴史を遡り考えることにおいて重要な点のひとつに「現代の価値感や一般的常識」を「尺度にして」過去を総監することは「あらぬ間違い」を侵しかねません。その点を私は私の中で「重要な点」であると認識を持っております。

ご存じのように戦後の沖縄の歩んだ歴史はそれこそ「紆余曲折」で何事も「米軍の意志」で決定されたりした事も事実であり、そのような現実が続くと「県民は無気力」に陥ってしまう、そのような事も含めて「再検討」しております。

しかしながら、こと「子供の安全や安心」が最重要なテーマである(と私は思う)この「普二小問題」において「右も左もイデオロギーも関係はありません」。それは世界へ問うても同様の見解であろうと思います。
「何かが違う」のです。もし、仮に「事故が発生し、児童に怪我などが生じた場合」それは、「全国民、全県民」の責任が問われても仕方のないことだと私は思っております。なぜならば私たち大人はそこが「危険な場所と分かっているから」です。

これまで幾度となく宜野湾市役所へは問い合わせを行ってきました(その過程は記録済)。また、在沖の米軍基地問題ジャーナリストのK氏へも今回の投稿内容に似た内容で以前メールに送らさせて頂きました。その際の返信は簡潔なものでありました。同様に県紙二紙や沖縄県にもことあるごとにメールを入れたりしておりますが、そのどれもから「返信をもらったことはありません」。これでは「議論や対話」は全く出来ないではないでしょょうか?

今回取り上げて頂いたことで、見識の高いこのブログの読者の方々の目に触れることが出来ます。
活発なご意見を賜れればと存じます。

投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年1月 5日 (金) 09時16分

管理人殿
宜野湾くれない丸氏の東京の友人です。
この記事は問題の本質を知る上で、利害関係団体の偏ったベクトルに導く事なく書かれた優れた記事だと思います。記事の最後に各SNSへのリンクボタンがあったのでリンクフリーと理解しますが、一言ご挨拶の上リンクさせていただきます。

投稿: 池田鬼神丸國重 | 2018年1月 5日 (金) 10時08分

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。


興味深い内容の記事です。自分なりに調べたくらいでは、やはり地元の人の情報には敵わないですね。

何故あの場所に普天間第二小があるのか、ということですが。

沖縄の人は島ぐるみ闘争の時から、土地を貸すことはしても売ることはしないということだと思います。
まして、当時は少子化なんて言葉も無かった時代。
学校建設なんて、半永久的に使用されて返却されない土地として、米軍基地よりも忌避されたかもしれません。

そうなると、宜野湾市が学校建設に使える国有地は「クリアゾーンとして最後まで取っておいた土地」くらいしか無かったのではないでしょうか。
認可申請から、許可を得て学校建設まで、おおよそ5年。普天間小に間借りして仮設校舎を建設するぐらい逼迫していたのなら、スケジュール遅延も出来なかったと思います。
議会で大荒れしながらも9日で決着というのも、新年度開校に合わせる為のスケジュールが関係するのでしょう。
再度の学校建設計画を用意して、国に申請する時間的余裕は無かったのだと思います。

沖縄返還前の市政がどういうものだったかは分かりませんので、ピントハズレな答えかもしれませんが。


そして、学校移転に関してですが。
今の第二小の土地が国有地なら、反対を押し切ってでも学校移転させることは可能だった筈。
だからこそ防衛施設庁側が、学校移転は市長の決断次第と言っている。
むしろ反対だったのは、米軍基地の拡充に繋がることよりも、移転先となる土地の地権者、つまり
>普天間高校の移転で用地買収に応じた地権者は2人のみ
という話が、当時の普天間第二小移転にもあったのだと考える方が自然だと思います。
米軍に貸している間は、いつか返ってくるかもしれないと希望が持てる。しかし学校建設では土地を手放す事になるわけです。市政がまとまった土地を買い上げることが出来なかったのではないでしょうか。

投稿: 青竹ふみ | 2018年1月 5日 (金) 10時38分

貴重な情報ですね。

様々な事情があるのでしょうが、返還される土地に小学校移転を検討さえしないということは、よそ者の自分からみて、もっとも納得できないことです。資金は事情を説明すれば振興予算カット部分からでもすぐに出してくれると思います。現政権も小学校移転は歓迎ですからね。それをやらない地元行政って、どうなんでしょう。ましてや、土地を売らないというのはどういう事情なんでしょうか?地元愛があれば無償で提供までありうるような案件で、高額で買い取ることもできると思います。

2015年に返還された土地はどうなったのでしょうか?空きがあるなら今からでも移転を検討するべきでしょう。

投稿: ednakano | 2018年1月 5日 (金) 10時58分

 普天間第二小を現場で見たことがある。ヘリが小学校近くで飛んでいた。とてもビックリした。こんなことは赦されることではないと思った。PTAや左翼勢力が移転を阻んでいると当時思った。

 実際には、小学校跡地を米軍へ提供することを問題点となり、移転問題が解決できないことを後で知った。米軍への市有地提供が絶対にしてはいけないことだと皆が思ったのだろう。

 米軍へ市有地を提供して移設を実現するかそのまま行くかの選択があったが、後者を宜野湾市民は結果として選んだのである。だから、宜野湾市は非難されるべきである。一般から批判されるべき立場に置かれるのだ。

 自治体の公有地を米軍へ提供しているのは実例がないわけではないので、宜野湾市は市有地(学校跡地)を米軍へ提供しても問題にはならないとすべきであった。そのことを声に挙げる人たちが少なかったのであろう。当時はネット世論もない時代であり、革新的(左翼平和主義)な言論しか新聞にはでなかったので保守的な常識人の声が表にでることはなかった。

 沖縄の人たちはおとなしい。大きな声にすぐに圧倒されダンマリを決め込むのだ。これを反省しなければならない。自民党県連も正論を堂々と主張できないのが現在に続く沖縄の実態だ。

 マスコミに常識があったなら、問題点を整理し正論を示すべきであった。これが出来ないのが沖縄のマスコミなのだ(本土も同じだが)。

投稿: ueyonabaru | 2018年1月 5日 (金) 11時00分

青竹ふみさん、正確なことではないかも知れませんが、私の考えでお答えしたいと思います。 私は昭和20年の生まれで、那覇防衛施設局で勤めた経験があります。

> 何故あの場所に普天間第二小があるのか、ということですが。

 私も最初に普天間第二小学校を現場で見たときにはほんとにビックリしましたよ。学校建設当時の詳しいことは分かりませんが、軍用地が学校用地取得では手っ取り早いという考えが関係者にはあったのではないでしょうか? 騒音や事故の危険性は分かってはいたのだが、学校を早急に造る必要性があったのではにのか。学校用地も軍用地地主の方々が市の買収に応じたのではないでしょうか。沖縄の人たちには、従来学校用地への土地提供にはある種の義務感があると思います。

> 沖縄の人は島ぐるみ闘争の時から、土地を貸すことはしても売ることはしないということだと思います。

 島ぐるみ闘争のときの県民の意識は、10年借料一括払いなどをしてしまうと土地をアメリカに盗られてしまうという思いが強かったのだろうと思います。

> そうなると、宜野湾市が学校建設に使える国有地は「クリアゾーンとして最後まで取っておいた土地」くらいしか無かったのではないでしょうか。

 クリアゾ-ンも含め普天間飛行場内に国有地が非常に少ないという記憶があります。

> だからこそ防衛施設庁側が、学校移転は市長の決断次第と言っている。

 市長の決断で、学校用地跡を米軍へ提供し新しく米軍基地内に学校を建設するというのは可能だった私も思います。

> むしろ反対だったのは、米軍基地の拡充に繋がることよりも、移転先となる土地の地権者、つまり
>普天間高校の移転で用地買収に応じた地権者は2人のみ
という話が、当時の普天間第二小移転にもあったのだと考える方が自然だと思います。

 用地買収に応じたのがだだ二人というのはすこし驚いています。沖縄の人たちには学校用地の提供には一種の義務感が従来あるのだと私は思っております。私の小学校時代の友人の父親は村の有力者でしたが、安謝小学校(私の母校、那覇市))が建設されるときには積極的に自身の所有する農地の提供を申し出ましたから。

 少なくとも、戦前生まれの方々には教育という事業への協力心は強くありましたよ。これが戦後には変化したということでしょうか。

投稿: ueyonabaru | 2018年1月 5日 (金) 11時53分

今回の記事にて普天間第二小に関して色々と腑に堕ちない点をスッキリとさせていただきました。
宜野湾くれない丸様および管理人様には感謝いたします。

用地買収に関しては近年の軍用地の売買によって返還地を投資の対象としている地権者が増えているのも影響しているのかなとも感じます。
自治体よりもリゾート開発をはじめとする民間企業に売った方が金になるし、売るにしても多少ゴネた方がいくらか得をすると考えている人は多いですしね。

投稿: しゅりんちゅ | 2018年1月 5日 (金) 12時21分

https://www.rakumachi.jp/news/column/189676
この不動産投資サイトの記事を読むと、普天間近辺の軍用地は様々な思惑で割のいい投資先として県外(国外からも取得できますね)の郷土愛無い人々にも愛されているようです。
歴史的な一坪地主とも違う人達ですね。
返還された西普天間地域の地主の地元率がどれくらいなのかは東京のネットでは少々巡っても拾うことはできていません。
が、金だけ目当てで外資でなければ「子どもの命」優先という打ち出しで用地をもう少しは確保できるのではと思います。
これは市だけでは重荷で国が介助する価値があると思いました。
本当は県なんですが。

投稿: ふゆみ | 2018年1月 5日 (金) 16時17分

新年早々ですがちょっとだけ突っ込みを。

> ですから、航空機の進入路直下は、離発着の両側の4㎞以上にわたって国が買い上げて無人地帯にするべきです。
> 事実日本の航空法ではそうなっています。

さすがに、滑走路両端それぞれ4kmの範囲を買い取るのは難しいでしょう。滑走路を含めたら10km以上の直線になりますから。
AICUZのクリアゾーンだったら約1km(3,000フィート・914m)ですね。

ちなみに、航空法では高さが制限されるだけで、建物や工作物の設置は可能です。
って、昔も突っ込んだ記憶がありますが(^^;;

AICUZについては、詳しい解説を見つけました。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200810_693/069302.pdf


この中で、AICUZによる土地利用の規制については、

「土地利用規制は自治体の専権事項であって、軍は情報提供の役割を担うにすぎない、という米軍の認識に見られるとおり、AICUZは、基本的には強制力の無いガイドラインであって、その実現は、もっぱら自治体の意思と能力に委ねられている。」

と説明されています。
つまりは「もし米軍がAICUZに基づいた情報を提供しても、沖縄県や宜野湾市が土地利用規制を行わないなら安全性は保てない」ってことです。

沖縄って「米軍が~!」「日本政府が~!」って人に責任を被せるばかり。その前に地方自治体としてもっとやれることがあったんじゃないの?って思ってしまうんですよね。都市計画法では、土地の用途を決めるのは都道府県や市町村なのですから。区画整理とか色々できたはず。
普天間第二小学校の北東側は道路が十文字に整備されてたと記憶してますが、もし区画整理をしたのなら、その時にもっと安全な場所に学校用地を確保しておけばいいのに・・・って思ってしまいます。

投稿: ひこ~ | 2018年1月 5日 (金) 17時22分

あけましておめでとうございす。宜野湾くれない丸様、管理人様に感謝します。地元は、慣れすぎて感覚がマヒしてしまっていますが、リスクを軽減する為の知恵や行動を出すべきなのに、全国の良識ある方々をやきもきさせてしまっている事に恥ずかしさを感じます。普天間第二小学校がこの場所に設置された経緯を憶測しますと、地元の大地主の未亡人の方が篤志家で学校用地として土地を寄贈、周辺の公園施設用地もいくつか寄贈されています。滑走路などの重要部分での大地主ということもあり、米軍、防衛局、宜野湾市から重要視されていたので、学校の設置が認められたのではないかと思います。そうでなければ、学校設置許可が下りる場所とは、とても思えません。その方の相続人にあたる佐喜眞美術館は、反戦美術館ですが、基地を返還させて用地を確保していますので、同じ事が学校創立時にもあったと思います。また、学校建設時の普天間基地は、休眠に近い状態で、高射砲部隊、家族部隊、通信隊と次々に返還されており、ベトナム戦争後~ハンビー飛行場が返還されるまでは静かな基地でした。

投稿: 普天間住民 | 2018年1月 5日 (金) 18時46分

宜野湾くれない丸様、疑問点1,2の役に立ちますでしょうか?といれるつもりでしたすみません。ひこ~様へ、区画整理が先でした。基地の返還に伴い、区画整理し、住宅が増え、学校を新設しなければならない程の人口になったというのが正しい経緯だと思います。普天間旧市街は、区画整理など現在も無縁の状態で、普天間小学校の拡張は考えられませんでした。返還地(開放地と呼ばれていました)はきれいな区画です。現在は想像もつきませんが、当時の普天間は、基地城下町で、遠方からも、衣料品、食材、飲食、飲み屋、遊技場、映画館などに、昼も夜も人の集まる、活気のある地域でした。しかし、第二小学校近辺は、最後に変換された荒れ地であった事、基地建設の為の複数の石材掘削抗後がゴミ捨て場として利用され環境の悪い地域、現在の様な道路がなく利用しにくい等、地域では最後のまとまった土地だったのかとは思いますが、現在の状況を当時判断された方々は、どう思うのかと思ってしまいます。

●管理人から このコメントは「普天間住民」さんのものです。HNをよろしくね。

投稿: | 2018年1月 5日 (金) 19時37分

みなさまからのたくさんのコメントを頂戴いたしましたことお礼申し上げます。

普天間住民さん、
貴重な当時の話を教えて下さりありがとうございます。ハンビーが閉鎖され普天間へ統合される「前まで」は、やはり「静かな普天間基地」だったのですね。だから二小の建設計画を行い、児童であふれかえる普小の分割化を「急ぐ」必要性があった。「議会大荒れ」「9日後の認可下りる」も腑に落ちます。私もそのような流ではなかったかなと思っておりました。だが、①④の事故があったことは事実で、その点「議会などで問題視」されなかったのか?がまだ疑問としては残ります。65年に北爆が開始され米国が本格的にベトナム戦争へのめりこんでいった時期とも重なりますし。。。
ウチナンチュの良き点でもあり同時に悪い点でもある「静かだし大丈夫さー」的なノリで建設が進んでいったのだろうか、と。

問題はやはり「騒音被害が増してきた70年代末から80年代ですね。82年のヘリ墜落事故時からが正念場であったのだと思います。米軍が提供を申し出た「西普天間住宅地」への移転と交換条件としての「学校跡地と建物を米軍へ差し出す」というこの「交渉」が頓挫してしまったことです。民主党政権下での移転話もうやむやになったことも悔やまれます。過去の歴史は悔いてもしかたありません。それを「教訓」とする以外ないのです。

私が一番苦悩しているのは「そんな環境で育っていく子供達の思い」はどんなだろうか?という事なのです。沖タイの記事(92.9/19)「危険と同居仕方ない」というあの文言を大きくなった子供達はあれを読み返して「どのような気持ち」になるのか、、、。「児童の皆さん、危険と同居するのは仕方のないことです」と私には「聞こえる」「読める」のです。心が痛くて。。。

「児童の皆さん、私たち大人は普天間基地は出ていくべきだと思ってます。でも出て行きません。どんなに声を挙げても出ていきません。だから児童の皆さん、あなた達の身の安全を少しでも確保するために、学校を移転させようと必死になって考えてます。移転させたからと言っても安全が全面的に確約されるわけではありません。でも、少しでも基地から離れた方がいいのです。これは米軍に負けたことではありません」と。私はこのように思っております。返還決定後の20年間で「1ミリ」も動いてない普天間基地なのです。そしてまだ動く気配も感じられません。

※SACO合意後の時点で、あのキャンプ瑞慶覧のあの土地は返還されることが決まってたはずです。であれば、その時点で二小、普天間高校の移転を計画的に考えていたならば、土地の取得にかける時間が約20年あったはずです(単純な発想ではありますが)。合意後に大手ゼネコンが土地を買い占めたような話も不特定情報ではありますが、聞いたことがあります。この点、在沖米軍基地問題の底には「地主問題」が深く根をはってますね。本土の米軍基地問題と沖縄のそれの大きな相違点はこの辺だと思います。

投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年1月 5日 (金) 21時31分

宜野湾くれない丸様、ありがとうございます。記事、コメントとも、これまで私が、無為に過ごしてきた事を反省させられます。これから、基地の閉鎖、移設、学校の移転について、子供達の為にこそ考え、結果を早く出さなければと思いました。これまでの地道で尊い活動に感謝申し上げます。

投稿: | 2018年1月 6日 (土) 17時25分

すみません、普天間住民でした。

投稿: 普天間住民 | 2018年1月 6日 (土) 17時26分

普天間住民さん

ありがとうございます。

学校を造った当初は「静かで」「安全」だったかもしれません。でも10年もたたない79年末には「騒音被害」がPTAを中心に問題化してます。82年には学校近くにヘリが墜落しました。この時点からの行政の対応とその後の決断が「大きな分岐点」だったのですね。もっと言えばその当時ベトナム戦争は既に激化していました。沖縄の米軍基地の重要性が増すことを当時の首長たちはもっと考える必要があったと思います。戦場へむかう戦闘機はこの沖縄の基地から飛びたっていたのですから。世界情勢を見極める目をも持つという視点もあわせて考えさせられます。そのような世界情勢の中で「私たちはどう生きていくか」をです。歴史を振り返るのは「酷」なこともあるとは思いますが、新たな一歩を踏み出すためにも必要不可欠なものです。その「新たな一歩」を踏み出すことに「積極的な動きが見えない」と私は感じているのです。そのことが「一番の問題」ではなかろうとかと。

伊計島でまた米軍へりが不時着した様子ですね。さっきのニュースで報道されてました。

投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年1月 6日 (土) 17時59分

小学校についてなのでこちらにコメントを繋げます。
経緯について、今まで他府県住まいでは知ることのできない貴重なお話の数々、重ねて感謝です。
普天間飛行場は、半島有事や尖閣軍事衝突などの際、今よりもっと事故のリスクが高くなるのではと心配しています。
買収できなくとも3年・5年とか期限を切って返還地域の敷地を借りて、仮設校舎でもよいから、早めにともかく児童の安全を確保するという案は、市は採り上げないのでしょうか。
その経費こそ国からの3000億から出せばいい。
普天間くれない丸さんが何度も書かれている「危険であることを大人が知っての上で放置している」事が、最も問題だと私も思うのです。
有事の際、惨事が起きて「小学校があるのに普天間からヘリを飛ばす人殺し」とどんなに叫んでも、市長や知事や軍のお偉いさんの首がとんでも、死んだ子は戻りません。

投稿: ふゆみ | 2018年1月 7日 (日) 16時14分

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