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2018年1月24日 (水)

宜野湾くれない丸氏寄稿 現時点での私の見立て

129

宜野湾くれない丸氏寄稿の2回目です。今回で完結となります。

なお読みやすくするための編集を施し、小見出し、タイトルは編者がつけたものです。

ご苦労さまでした。ありがとうございました。
                                                                           ブログ主

                                            ~~~~~~~~~

承前

■なぜあのような場所へ小学校を造ったのか? 

今現在、この記事に於いてその答えを出すことは出来ません。今後も新たな資料や意見など出てくる可能性もあるからです。 

あくまでも現時点でのとお断りした上で、私の見立てを記したいと思います。 

先ず、あきらかに様々な問題をはらんだことが要因となって、結果的に「あの場所」になったことは間違いないでしょう。

私はその要因として考えられるものを、出来るだけ拾い出して、テーブルの上に並べて検証する作業をしてきました。 

ところが、宜野湾市教育委員会やジャーナリスト氏、文献などを探っても、そのどれもが「全般的な見解」であって、小学校の建設、2度の移転断念、2015年の返還地への移転計画なしという具体的な疑問に答えているものがありません。 

以下に挙げる文献や雑誌記事は「普二小問題」を掲載していますが、どれも私には腑に落ちないものばかりです。 

唯一、『沖縄に内なる民主主義はあるか』には全般的な見解は網羅されていますが、その根拠が示されていません。 

つまり新聞なり文献なり証言者などの根拠が、文献で示されていないのです。

■普天間2小問題の文献には決定的なものがない

調査した文献と、それに対する私の見解を→で記しておきます。

①『沖縄に内なる民主主義はあるか』又吉康隆 2012年 自費出版

→疑問を全般的に網羅してはいますが、その根拠が示されていません。例えば「土地代が安かったのであの場所へ建設した」というような書き方には根拠があるのでしょか。 

②『暮らして見た普天間 沖縄米軍基地を考える』植村秀樹 吉田書店 2015年 

→あの場所へ建設した理由の説明がありません。宜野湾市に移転頓挫の質問はしていますが、2015年に返還された土地への移転計画がないことを当局へ質問していません。

③『それってどうなの?沖縄の基地の話』沖縄米軍基地問題検証プロジェクト編集・発行 2016年

→反基地運動が移転を妨害したの?という話への答えという形式だが、その実、この疑問には答えていません。 

④『これってホント!?誤解だらけの沖縄基地』沖縄タイムス社編集局編著 高文研 2017年

→あの場所へ建設した理由の説明がされていません。ただし、他は詳細に調べています。 

⑤週刊新潮 コラム『変見自在』高山正之 2017年12月28日号

→窓枠落下事故以後に出た記事です。「沖縄の両班」と題して「宜野湾市はキャラウェーの退任を待って普天間基地の滑走路脇に普二小を建てた」というかなり偏った見解を要因のひとつとして挙げています。

しかし、これもその根拠が明示されていません。

■現時点での私の見立て

宜野湾市当局への質問、PTA新聞、さらには上記の資料文献を検証した上での、現段階の私の見立ては以下です。
 

開校当時の宜野湾市は人口の急激な増加によって小学校の新設が急務な状態でした(「発展する宜野湾市」沖タイ(朝)1969年3月31日) 

その結果、普天間小学校は児童数2400人という全国屈指の大規模校に膨れ上がっていました。(『暮らして見た普天間』103頁)

そこで普天間小学校とあまり離れていない、通学可能な場所での土地を確保することになりました。 

それが普天間飛行場脇にある現在の現在の場所でした。

002

ですがその時点で既に爆音問題は表面化しており、基地機能の拡大も新聞などで発表されていました。 

ましてや1968年11月には嘉手納基地内でB52が墜落事故を起こした記憶も生々しい状況下で、「あの場所」へ学校を造ると後に様々な問題が生じることは自明のことだったと思います。 

しかし1972年の日本復帰が決定したとき、「復帰と同時に基地も撤廃される」ことが当然約束であると誰もが思っていました。

宜野湾市もそう考えていたのでしょう。だから「あの場所」でも造ったのではないでしょうか。 

しかし現実には、沖縄の基地はそのまま存続しました。

当時の地元紙を見ると、「沖縄基地、大部分は残る日・米政府、返還協定に調印」(新報1971年6月18日)や、「沖縄の基地返還協定を点検する」(沖タイ1971年10月5日)の記事には、基地が縮小されるどころか逆に増強され恒久化へと進む普天間基地への怒りに満ち溢れた記事が目だってきます。

終わりに

さて、私のこの見立てを裏付ける根拠は、今のところ残念ですがありません。

後は、当時の当局関係者らへ取材するしか方法はないでしょう。

取材しても話してくれる保障はありませんし、ましてや私は普通のただの宜野湾市民にすぎません。

沖縄国際大学の建設場所が決定した折の地元紙の記事です。

「宜野湾に敷地決定
「私大合併世話人の〇〇氏ら関係者も大学建設に適当な土地として太鼓判を押している」(沖タイ1972年2月24日)

復帰直前の記事ですが、後に米軍ヘリが墜落したこの沖国大の土地選定について「大学建設に適当な土地と太鼓判を押している」のです。

この記事の行間を考えてみることも、この問題の要因を探すことになるかもしれないと思います。

今後も調査を行っていきます。

                                                                                                       (了)

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沖縄問題」カテゴリの記事

コメント

宜野湾くれない丸さん

色々と調べていただきありがとうございます。

朝日新聞も
「(日本復帰)当時の子どもたちは近道のため基地内を通って通学していた。」
などと書いていますので、普天間基地はあまり使われてないしすぐに返還されるという希望的観測があったのでしょうね。


ところで、その頃、普天間周辺には小学校を建設する用地は本当になかったのか?ということを少し考えてみました(Link先の画像がうまく表示されればよいのですが)。

現在の普天間第二小学校付近の航空写真です。
https://drive.google.com/open?id=1UrW4PIwQUVTxhT7AfNQ6c7umfkbwSn99
青線が主要道路、赤線が「いすのき通り」(記事中の区画整理の写真に写っている道路)、オレンジの線が基地との境界線で、ここまでが区画整理の範囲だと思われます。

この線を1962年(昭和37年)7月3日に撮影された、区画整理前の航空写真に重ね合わせてみます。
https://drive.google.com/open?id=1OiHc-Y7NoBke_Es_4W9BrWxocODSC5T4

これでわかるのは、いすのき通り(赤線)より南(下側)には、民家は見られないということです。
米軍は、当初はしっかりとクリアゾーンを確保していたことがわかります。しかし、区画整理が行われた結果、このクリアゾーンも民地として使用できるようになったわけです。

つまり、宜野湾市が行ったのであろう1968年年4月完成の新城区画整理事業によって、世界一危険な基地が出来上がってしまったことになります。


肝心の小学校用地ですが、確かにいすのき通りの北側には民家が密集していてまとまった土地は見当たりません。
でも、区画整理に合わせて2~30軒強制的に立ち退かせ空き地と入れ替えれば、普天間第二小学校の用地が確保できたのではないでしょうか。

人口の増加は目に見えてるわけですから、本当に計画性がなくて「何のための区画整理なの?」って思ってしまいます。
沖縄県の行政能力の不足・・・って、当時としては仕方がなかったかもしれませんが、なんだか悲しいですね。
とはいえ、基地が大きすぎて市民が使える土地が少なすぎるというのが根本的な原因ではあるので、やはり移転縮小してもらうのが一番ってことですかね。

宜野湾くれない丸さん、追加の情報をありがとうございます。
日時を示しての情報は、調べるのが大変だったかと思います。
昨年末からの普天間第二小関連では、彼方此方のサイトを見ても、情報ソースを示していないものが多くて……とても助かります。


参考になるか分かりませんが、私も国会議事録の方を表面だけでもチェックしてみました。

国会会議録検索システムのHPから、以下の手順で進めば議事録を確認できます。
1)選択閲覧をクリック
2)上の選択ボックスから衆議院をクリック
3)右側の144回次以前をクリックし、表示された中から96回をクリック
4)沖縄及び北方問題に関する特別委員会(ページ右下)をクリック
5)左側の日時から昭和57年3月10日 第6号 をクリック

この中で、小渡委員が普天間第二小に関して
>現地の那覇防衛施設局の方にも(移転の)要請がここ二カ年ばかり続けられている
とありました。また、当時の那覇防衛施設局が提示した土地は
>喜友名城とか貝塚とか、いろいろなものがいっぱいあるのですよ。こんなところを地ならしすることは絶対できません
とあり、土地の選定でだいぶ揉めているという感じです。
昭和57年の二年前ですから、昭和55年から移転の話が出ていたということですね。

それならと、昭和55年の(第93回の)沖縄及び北方問題に関する特別委員会の議事録を調べてみると。
第3回(昭和55年10月30日)の中で、離着陸訓練中のOV10ブロンコ墜落について語られていて、普天間基地を撤去して欲しいという要望が県議会からあったと書かれています。

以前の宜野湾くれない丸さんの情報で、昭和54年に「この頃より学校移転が話題にあがる」(PTA新聞30号)とあるので、ヘリの事故がある前から移転の話があったと分かります。
「当時の」宜野湾市や沖縄県は、やはり基地閉鎖と学校移転計画を、平行して進めていたのでしょうね。

……なんで今、それができないのかなあ。

ひこ~さん 
貴重な写真情報ありがとうございます。
見事なまでに「赤線とオレンジ線に囲まれた地区」をクリアゾ-ンとしていくことが分かります。赤線とオレンジ線がクロスしているその左側一体に現在、普天間中学校、給食センター、ユニオン(24hスーパー)が、あります。新城(あらぐすく)地区という名称で、少し小高い丘になっているところです。普二小の場所よりは「まだまし」な場所ではありますが、ここも「危険」ではあります。普天間中と普二小と合同で「西普天間住宅跡地への移転」というのが、選択肢の一番先に出てきてもおかしくはないと思います。

青田ふみさん
国会議事録の情報ありがとうございます。以前にもこのブログで何方かが紹介されていたと記憶しております。ひこ~さんご提供の写真でいうと「青線から上側がキャンプ瑞慶覧西普天間住宅地」です。この青線から上の部分が、2015年3月31日に返還されたのです。この部分は写真で言えば、左側にいけばいくほど急斜面になっています。つまり「青線から上部分で住宅が経っている場所は学校建設地としては大丈夫だと考えられます」なぜかと言えば、米軍自らが住宅地としているからです。

現代の感覚でもって、日本復帰前後の琉球政府に対して苦言を呈することはたやすいことであはあるが、当時の沖縄社会には、米軍絡みの事件・事故以外にも「し尿問題」「スト問題」「中部地区合弁課題」「中学生の暴行問題」などなどが散在してみられます。つまり「問題だらけの宜野湾市」であったのです。自分の幼少の頃を振り返っても十分に理解できます。

が、青手ふみさんおっしゃるように「何で今それができない」のか?です。過去には色々問題はあったと思うが、窓枠が落下した今、辺野古の動向もままならない、今現在「移転を求める声」が国会議員、県知事、市長、ましてや住民や学校関係者らの「誰からも出ない」ことは、建設当時の「問題」とは「異なる」ものを孕んでいると思います。

ひこ~さん

>普天間基地はあまり使われてないしすぐに返還される>という希望的観測があったのでしょうね。
沖タイでも長文記事の中で触れてます

「中部圏・変容の二十六年 市発展のガンど真ん中に居すわる普天間飛行場」沖タイ・朝・1971年7月9日
「(略)ところが、この飛行場は長い間金網もなく、住民の通行は自由だった。宜野湾住民は『いずれ返還するのだろう』と思いながらも、新たしい土地で食うためにせいいっぱいの生活。(略)」この記事の中には、さらに、五十八年頃、開放した土地を再び米軍が接取したことにより住民と米軍との間にトラブルが発生した。それを契機に飛行場周辺に「金網」が張られた、とも書かれています。

>行政能力の不足・・・という点では、
「きょう賛否を決議宜野湾ブロックの合併問題」沖タイ・朝・1971年10月15日
「(略)いま合併しなければ特別交付金は出ないと説明しているが、本土政府は復帰後も何らかの措置をするはずであり、じゅうぶんわからないことを急ぐ必要はない(略)」という話が議員懇談会の席上に出てきた旨の記事がある。日本政府が「何らかの措置をやってくれるだろう」という「根拠のない期待」話を議員がやっているのです。
この辺は当時の地方議会の議員や行政マンの体質を少なからずやあらわしているものと考えられます。

青竹ふみさん
〉喜友名城とか貝塚とか、いろいろなものがいっぱいあるのですよ。

青い線の上、米軍住宅地の左にある森がその場所です。斜面にもなってるし、造成は大変かな?と思います。
が、子供たちの命を考えればやれないこともなかったでしょうね。


宜野湾くれない丸さん

なぜ米軍はクリアゾーンを手放したのか?を考えていました。
私の推論ですが、島ぐるみ闘争で借地代を支払うことで決着したので、基地として使えない危険な土地は金がもったいないから返還したってことではないかと。
まさか、その危険な土地に民家や学校が建つなんて、米軍も考えてなかったのでは?と思います。
民主主義の国からすれば、宜野湾市が絶対に建築を規制するはずだと思うでしょう(^_^;)


では、なぜ宜野湾市はクリアゾーンを保持しなかったか?
下衆の勘繰りなら「クリアゾーンに民家や学校を作ることで飛行場を使えないようにした」って陰謀論も考えてしまいますが、さすがにあり得ないでしょうね。最初から子供の命を盾にする計画なんて。

普通に考えれば、土地が帰ってきたんだからちゃんと地主に割り振らなきゃ……って、安全性なんて無視して区画整理したってことですか。無責任な行政ですけど当時の沖縄ならありそうです(^_^;)

追加情報として。(内容は全て上記の沖縄及び北方問題に関する特別委員会の議事録より)
長文コピペですがご勘弁ください。


普天間基地に関しては、第67回 第12号 昭和46年(1971年)12月11日の議事録で

>中部の宜野湾市では、たとえば町の中心が百三十四万坪、普天間飛行場にとられております。
この飛行場のために、かつての松並木で有名だった宜野湾街道の沿線、宜野湾、神山、新城、中原、大山の各部落は、飛行場の外に押し出されてしまって、部落と部落の間が飛行場の外を大きく回らなければ連絡もできない、また、そのために市内の道路は制約されて、幹線道路の交通量は激増のまま手を打つこともできないようになっております。
この中でもう一つの問題は、飛行場の排水がすべて住民地域に向けられてどんどん流れ込んでくる。第二小学校付近からは、排出する基地の汚水のために畑が水びたしになっている、こういうような状態も起こっております。
こういう中で、宜野湾市では、市長が先頭に立って、市会全会一致で、軍用地の全面開放、こういう要求をする陳情書が防衛庁あてにことしの七月二日に出ているはずであります。
ところが、そういうところに対して、防衛庁のほうでは、逆にその宜野湾に自衛隊を置いてくれという要請書を送っておられる。
これで宜野湾では、もう絶対にこの政府の態度はけしからぬというので、大騒ぎが起こっております。せっかく、軍事基地をこの際一部は開放してもらおうというので、市会で満場一致できめるような状態のところに、そこに自衛隊を持ってきたい、全く頭がどうかしていると思うのです。沖繩住民の考え方を聞こうとしない態度がはっきり出ておると思うのです。

……とあります。沖タイの新聞記事の日付が1971年7月9日となると、この時提出された陳情書と関連した記事なのだと分かりますね。
世論工作というところでしょうか。

この後、沖縄返還に伴う那覇空港のP3対潜哨戒機が普天間に移転したり、ハンビーが返還されてヘリが移動したりした時、普天間は狭くて使いにくいという話題が出ています。
宜野湾市側は、普天間は使いにくいから早期返還されると見込んでいたのかもしれません。

ひこ~さん

重要なご指摘をありがとうございます。
実は私も「米軍はなんであの場所を返したのか?」という疑問もありました。しまぐるみ闘争「その絶頂期は、1956年(昭31)六月から七月である(P39)」(「沖縄の米軍基地と軍用地料」来間泰男 2012年 榕樹社)とあります。地代料設定額に関しても「当時、多くの県民が、地代はまだ安いと思っていたその水準は、実は高いものだったのである(同書 P45)」とあります。つまり、米軍は米国水準で考えても「高い地代」を発生させていた。だから「基地としては使えない」場所は返還した。60年に普天間飛行場は完璧な「海兵隊基地」となった。65年には北爆も開始されますし。全体の流れでは「腑に落ちますね」。しかし宜野湾市はその場所に学校まで建ててしまった。。。。

青竹ふみさん

陳情書の文言、沖タイの記事と似てますね。流れが文体がそっくりです。

こんなことを言うと失礼かもしれませんが、膨大な資料や色んな角度から調査検証されているお姿を想像しながら読んでおりましたらミステリー小説と錯覚してしまいました。

くれない丸さんの熱意と根気、見えない真実を探るその探求心に感服です。

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