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宜野湾くれない丸氏寄稿 普天間2小の開校から3年後には爆音被害が出ていた

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普天間2小問題に緻密な調査をつづけておられる、宜野湾くれない丸さんの2回目の投稿です。

私のリードは長すぎて、リードともいえなくなったので(汗)、記事に移動しました。

なお、頂戴した原稿をできるだけ原型のまま掲載しますが、読みやすくするための編集、タイトルと小見出しは編者が施したものです。

では、宜野湾くれない丸さんと共に、普天間2小問題をもっと深く考えていくことにしましょう。
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                 ■普天間2小の開校から3年後には爆音被害が出ていた
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■「PTA新聞」には爆音被害が既に存在し問題化していた

普天間第二小学校問題を当ブログで取り上げて頂きまして、合計4回も記事を掲載して頂きました。

掲載後に貴重な多数のコメントを頂戴きましたことに、改めてお礼を申し上げます。

さて、「なぜ普天間2小は1ミリも動かなかったのか その1(1月8日付)」で、私は「小学校建設(1970年)前後、普天間基地は休眠状態だった」と書きました。

関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-9e31-1.html

だから「あの場所」に学校を建設した、それが私の見立てです。

記事でも登場した在沖ジャーナリスト氏からも、以下のようなメールを以前頂いた事があります。

移転話について、ジャーナリスト氏はこのように述べています。

「1970年代の普天間飛行場の変化をみるとヒントが見つかるかもしれない、という気がします。
北谷町北前にあったハンビー飛行場は海兵隊のヘリコプター基地でした。復帰直前に返還が決まり、その機能が普天間に統合されました。
騒音問題が深刻化した時期と、宜野湾市教育委員会が教育環境の悪化を理由に移転先を探した時期が重なるかもしれません」

これを読むかぎりでは、「騒音*問題が深刻化して移転話」が出てきたのは、ハンビー飛行場が全面返還・普天間統合(1976年)の時期からなのではないか、というサゼッションです。

開校当初には、「騒音問題」は存在してなかったような漠然とした印象を私は受けました
(「爆音」からジャーナリスト氏の表記である「騒音」に合せました)

掲載後いくつものコメントを戴き、私の調べた範囲での見解も考慮し建設前後には「爆音問題はなかった」と仮説を立てました。

しかしさらに調査をすると、どうやらそれは間違いだったことに気がつきました。新たな資料には爆音被害は既に存在し、そしてそれは問題化していたのです。

普二小の「PTA新聞」に、その事実が書かれていたのを見つけ出しました。

このPTA新聞は「現場当事者」の方々の生の声であります。

事実を知りたい私にとって、このPTA新聞は貴重な第一次資料です。

その「PTA新聞第3号」(1974年・昭和.49年3月1日)には、当時のPTA会長さんが「爆音対策」と題して記事を書かれているのを見つけました。

以下はその概要の一部です。

「普天間第二小学校と云えば普天間飛行場を想い出す程にこの両者は背中合わせになって居る。
勿論そのために爆音による学習活動への影響は大きい。
一校時の間に四、五回も授業を中断する定められた授業時間を爆音によって妨害されることは児童の学力低下、精神衛生の面でも憂慮されることである。(略)子どもたちの学習に悪い影響が出るのを如何にすべきかと云うことで爆音公害対策委員会をもうけて、十月一日に初会合をもった次第である(略)」
「このことは、イデオロギーの問題ではなく毎日毎日の子どもたちの学習に深い関係のあることであり、私たちの子どもが在学中に真剣に考え、対策を講じないと、私たちの子どもは悪い影響を受けたまま中学校、高校へと進んで行くのである。(略)
当PTAとしては、爆音対策委員会で色々と研究調査していきたいと思いますが、父兄の皆様の真剣な意見を聞かせて下さる様お願いいたします。」

このように1974年3月1日の時点で既に爆音問題は表面化しており、「爆音公害対策委員会」をも設置し、(前年73年)10月1日に初会合をもった、というのが事実です。

この記事を虫メガネを使って読んだ私は愕然としました。また振り出しに戻った、と。

そこで、あらためて時代背景を確かめるべく、新聞記事の確認作業をしました。

早速、図書館へ行き、1970年前後の新聞記事を出来るだけ閲覧した。

結果、これまで見落としていた記事も含め爆音問題や米軍絡みの事故・事件にまつわる記事を色々と確認できました。

■開校当時の沖縄の時代背景

以下、見出しだけですが、1970年を中心に箇条書きします。時代の空気がお分かり頂けるかと思います。

●騒音問題
①「宜野湾市の市長 飛行機の爆音で軍に善処要望」沖タイ(朝)1969年7月17日
②「普天間海兵航空隊 激しくなる飛行訓練」新報(朝)1970年5月10
③「爆音の即時中止を」新報(朝)1970年6月6日
④「基地機能さらに拡大」沖タイ(朝)1970年6月30日
⑤「米軍機の部品が落下」新報(朝)1970年7月7日
⑥「基地公害を調査」新報(朝)1971年12月12日

●米軍絡みの事件・事故・イザコザ
⑦「酔って棒切れや石持ち米兵が大暴れ」沖タイ(夕)1969年1月10日
⑧「ホステス重傷負う 白人兵になぐられる」新報(夕)1969年8月4日
⑨「外人住宅から民間に汚水」沖タイ(朝)1969年9月18日
⑩「航空部隊のクリスマスのつどいとりやめ」新報(朝)1969年11月30日
⑪「米人が機関銃強盗、宜野湾市の質屋に」新報(朝)1969年12月8日
⑫「姉妹、はねられ重傷」新報(朝)1969年12月8日
⑬「助手席の幼女重傷」新報(朝)1970年3月5日
⑭「宜野湾で外人二人組強盗」新報(朝)1970年3月11日
⑮「ふらちな米憲兵隊員、酒気・無灯火でスピード運転」新報(朝)1970年4月27日
⑯「米兵がピストル強盗」新報(夕)1970年5月15日
⑰「外人強盗が続発」新報(夕)1970年7月7日
⑱「基地内での女子暴行未遂無罪判決に怒り」新報(朝)1970年8月27日
⑲「けさコザ市で暴動」新報(朝)1970年12月20日

以上のように、見出しだけでも気が滅入ってしまいますが、70年の普二小開校当初には爆音問題が表面化していたことはほぼ事実と判断してもいいと思われます。

新聞記事の内容を読むと、学校や公共施設でも爆音問題で被害を受けていることが分かります。

では、なぜこのような爆音問題のある場所へ学校を造ったのか?という素朴な疑問に再び立ち返らなければならなくなりました。

                                                                                       (続く)

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