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宜野湾くれない丸氏寄稿 なぜ普天間2小は1ミリも動かなかったのか その1

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宜野湾くれない丸さんに、更に突っ込んだレポートをお願いしたところ快諾され、労作を頂戴しました。

現地からのレポートは教えられることばかりです。

今回私が目からうろこだったのは、小学校を建てた1969年(開校70年)時点では普天間は休眠状態だったということです。

だから関係者は、後に危険きわまりなくなるこの土地を選択してしまったわけです。

なるほど、これで「どうしてこんな危険な場所を選んでしまったのか」という疑問が、氷解しました。

普天間飛行場が今の軍用機が多数離発着する状態になったのは、復帰後の76年にハンビー飛行場が返還され、普天間飛行場に統合されてからのことなのです。

ですから1970年~1976年の6年間に関しては、NHKの報道のように「基地があるためやむを得ない選択だった。歴史を知れ」と言えるわけです。

ただし、それ以降に関しては次元を異にします。明らかに小学校のフェンスのつい先には米軍基地があるという新しい現実が始まったのです。

この危険性から児童をどのように守っていくべきなのか、行政は深刻に考えて行動せねばならない時代が始まったのです。 

NHKや反基地運動家たちは、開校当時の70年頃のことを言うことで、76年以降の「新たな現実」がなぜ起きたのかというもうひとつの反面に目を閉ざしていたことになります。

3回にわけてアップいたします。なお、タイトルと小見出し、図版等は編者のものです。  

                                                                                     ブログ主

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 ■なぜ普天間2小は1ミリも動かなかったのか その1
                                ~宜野湾市当局とのやりとりに見る真実の一端~

                                                                          宜野湾くれない丸

 小学校建設が急務だった移転当時 、普天間飛行場は休眠状態だった 

普天間第二小学校の校庭に米軍ヘリCH53E の窓枠が落下した事故は半月ほど前の先月12月13日の午前10時08分ごろであった。  

児童に怪我はなかったことは不幸中の幸いであった。  

しかしこの学校が抱えてきた問題の経緯を調べていくうちに、今回のこの事故での児童への精神的な負担が重くのしかかるのではなかろうか、と心が曇ってしまう。

事故から数日後のNHK沖縄のローカルニュースで、時間枠をフルに使って事故の後追い報道をしていた。

番組中では沖縄国際大学の某准教授が解説をしていたが、学校や宜野湾市へ誹謗中傷の電話が掛かってきている事の苦情を述べていた。おっしゃるとおりである。  

礼節の欠片もないそのような電話は絶対に慎むべきである。 

更にこのコメンター氏はこうも話していた。おおよその概要は『(普二小が現在の場所に建設されたのは)混乱の中で歪な都市計画をせざるを得なかった為である。

時代背景を顧みないこのような誹謗中傷は許されない』というような事を述べられていた。 

そして「時代背景を顧みない歴史の考察」は慎むべきであるとのこと。これも同感である。  

60年代半ばから普天間地区の人口が増大して既存の普天間小学校だけでは飽和状態となっていた事実。新たな小学校の建設計画は急務であった事実。  

そして当時は「休眠状態(静か)」だった普天間飛行場に隣接する「あの土地」が用地買収含めもっとも条件が良かったという事実。
※「議会史」(P-138、P-140)に用地買収金額等の可決記録あり。  

だから「あの土地への建設を計画し、(琉球政府から)認可された」のだろう。 

復帰前の宜野湾市当局は、様々な混乱と歪な都市計画にならざるを得ない中で「急務な課題」である「新規小学校の建設」という事業を成し遂げたのである。  

評価すべきは正しく評価せねばならない。というのが「建設前後の状況」についての私の見立てである。  

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■普天間2小の危険は79年代末の普天間とハンビー両飛行場の統合時から始まった

しかし、コメンターのコメントにいささか腑に落ちない点が残った。
 

それは、建設当初は「そうであろう」が、その後、普二小の「騒音問題」が表面化したのは、ハンビー飛行場が全面返還(76年)され、普天間飛行場へ統合された後の70年代末期からである。  

実は今現在に至る「普二小問題」は、この76年のハンビー飛行場が返還され、普天間飛行場が蘇った頃から始まったのである。 

私が調べた限りでは、建設・開校から70年代末までの間で「深刻な騒音被害」などの記事や記録は見当たらなかった。  

私が、「いささか腑に落ちない点」というのは、この辺の説明と解説を付け加えて欲しかったからだ。  

つまり、「最初は安全な場所だった。

が、76年にハンビー飛行場が普天間へ統合されてヘリ騒音が激増した。82年にはヘリも学校近くに墜落した」と、コメンター氏の解説に補足するべきなのである。  

このことを付け加えるか、しないかでニュースを見る側の「肌触り感」が少し変わると思う。  

コメンター氏の全体説明だけを聞くと、まるで「行政は出来る限りのことをやった。仕方なかったのだ」という風にも聞こえる節があったからだ。  

窓枠が落下した後、市は「ヘルメットのひとつも支給した」のでしょうか?窓枠落下後、市は具体的に子供達に「何をした」のであろうか? 

私にとって重要な視点というものは、そのような児童の安全に関わる事なのだ。 

                                                                                              (続く)

 

 

 

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コメント

続きが楽しみです。

投稿: 多摩っこ | 2018年1月 8日 (月) 14時41分

耳に痛い部分もかなり含まれる事を覚悟しながらですが、続きを楽しみにしております。丹念に、疑問と向き合う姿勢に、これまで足りなかった部分を思い知らされます。現在、第二小学校は、授業、部活ともに、運動場を使用禁止にしているそうです。

投稿: 普天間住民 | 2018年1月 8日 (月) 19時50分

一括交付金は使いきれずに、予算は減額。
もったいないですね。皆さんが書かれているようにいる様に、予算はあるんですよね。やる気になれば出来るはずですね。
今となっては、普天間基地の辺野古への移転が最優先されますが、国と沖縄県、名護市が合意してからもう20年にもなるんですね。

投稿: karakuchi | 2018年1月 9日 (火) 00時11分

予防的着陸でも、頻発すれば問題が違ってきます。
防衛大臣が厳しく安全要求するようですが、整備状況の抜本見直しをしたほうがいいでしょう。

投稿: 管理人 | 2018年1月 9日 (火) 01時16分

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