麻原彰晃(本名・松本智津夫)以下7名の幹部の死刑が執行されました。当然すぎるほど当然の、法の裁きです。
ここまで刑の執行が延びたのは、最後の被告である高橋被告の判決が確定したために、死刑囚たちが証人として出廷を求められる可能性が消えたからです。
麻原彰晃 - Wikipedia
まったく思い出すだけで、胸くそが悪くなるような事件でした。
「一連の事件で29人が死亡し(殺人26名、逮捕監禁致死1名、殺人未遂2名)負傷者は6000人を超えた。教団内でも判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名を超える。被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」とされている」(ウィキ)
オウム真理教事件 - Wikipedia
https://www.yomiuri.co.jp/matome/20180706-OYT8T50002.html
最初の在家信者が殺害されたのが1988年ですから、今年で30年となります。既に今の若者が生まれる以前の事件となってしまいました。
一体オウム真理教とはなんであったのか、当時からさまざまな解釈がなされてきました。
まず私はこの事件の特徴の第1に、オウム真理教というカルト集団こそ、世界を先駆けての宗教テロリスト集団ISの原型のひとつだと思っています。
ISがオウムを研究したかはわかりませんが、オウムを模倣したのではないかと思われるように疑似国家を作り、戦闘員たちを武装させ、既存の国家内に「領土」を拡大していきました。
疑似国家を作り、現実の日本国家を武力で転覆する「革命」を夢想し、実行したのが、このオウムという集団でした。
彼らはこのようなことを計画し、その一部を実行に移しました。
事件当時、東京地検次席検事としてオウム捜査を指揮した甲斐中辰夫氏によれば、オウムはこのようなことを構想し、実行しようとしていたとされています。
「教団は、自分の手で製造した70トンものサリンを霞が関や皇居に空中散布して大量殺人を実行し、混乱に乗じて自動小銃を持った信者が首都を制圧するという国家転覆計画を企てていた」(2011年11月22日読売)
「オウム教団は、麻原教祖の予言を的中させるため、首都圏で数百万人規模の死傷者を出させるテロを実行するしかないところまで追い詰められている。
そして廃墟と化した首都に、オウムの理想共同体である独立国家を建設しようとしている」
「計画は5段階に分かれ、第1段階はサリンを使った無差別テロ。第2段階は銃器や爆発物を使用した要人テロ。第3段階は細菌兵器を上水道に混入する無差別テロ。第4段階はサリンなどの薬剤の空中散布による無差別テロ。そして、第5段階は核兵器による首都殲滅である」
(一橋文哉『オウム帝国の正体』公安調査庁内部報告書)
彼らはよく比較される過激派の連合赤軍のように幼稚でなく、現実的に「国家」もどきを運営し、有り余る豊かな財源を有していました。
今思うと驚きを禁じ得ませんが、日本国内に国家内国家を作り、法や行政組織すら有していたのですから。
頂点に君臨するのは唯一者である麻原ひとりであり、以下厳重なヒエラルヒーを構成する階級社会を作っていました。
一方、一般信者は私有財産を禁じられ、家族すら別居を強いられました。子供は一カ所で育てられて、男女の交際は厳しい懲罰の対象となりました。
ひとり「自由」を謳歌できたのは麻原だけであり、彼は北朝鮮の独裁者顔負けの100人を超える「喜び組」もどきを持っていました。
麻原の生ませた子供だけで十数人を数えるそうで、書いているだけで気分が悪くなります。
この北朝鮮に酷似した宗教集団が目指したのは、日本をオウムが武力で乗っ取ることでした。
第2の特徴は、オウムの武装化が国際化していることです。
教団ナンバー2の早川紀代秀は「世界統一通称産業」という貿易会社まで作って、当時ソ連の崩壊で混沌としていたロシアやウクライナのマフィアとパイプを作っていました。
早川の押収されたノートには、買いつける武器目録として核兵器、戦車、潜水艇まであったといいます。
ロシアで機関銃を構える早川と見られる人物
また北朝鮮とも接触をもち、北が軍事顧問を密かに派遣していたという見立て(高沢皓司氏)もあります。
http://www.asyura2.com/0406/nihon14/msg/117.html
今でもオウム残党がロシアに定着しているように、カルトとテロリズムは手を携えて国境を超えていきます。
この一見オモチャの欲しいものリストのような早川ノートも、もし買っていても操作要員がいないはずなので、なんらかの軍事顧問を密入国させる手筈だったのかもしれません。
その場合、諸外国にブラックマーケットを通じて、ハードとソフト、時には軍事顧問を販売してきたのは「あの国」しかないということになります。
当時、「あの国」に売れる原爆の手持ちがあれば、工作船は定期便のように日本海を往復していた時期ですから、オウムが国内に持ち込むことはそう難しいことではなかったはずです。
考えたくない想像ですが、オウムは世界最初の化学兵器テロと並んで、東京で核テロを行っていたかもしれません。
サリンとなったのは、たまたま有機化学の専門家が信者にいたからにすきません。
話を戻します。オウムはクーデターによって神聖オーム帝国を作ろうと図ったのです。
しかし、彼らは冗談どころか真剣でした。
学歴エリート集団の彼らは、実際に70トンもの神経ガスサリンを自力で製造するプラントを作り、AK突撃銃を千丁作る予定でその製造工場すら完成していました。
山梨県上九一色村(当時)のオウムのサティアン群
オウムは化学兵器サリンを大量に製造し、その散布のためにロシア製大型ヘリまで購入し、国内に持ち込んでいました。
オウムがロシアからサティアンに搬入したMi-17軍用ヘリ
突撃銃の試作品は既に完成し、製造ラインを稼働するばかりとなっていました。
また信者によるコマンド部隊は編成を終わって訓練を行っていたとされています。
当時迷彩服の信者が多数サティアン周辺の山中を走り回っている姿が目撃されています。
おそらくこの巨大テロ、ないしはクーデター計画が実施されていた場合、短期のオウム政権が樹立され、一時的に日本は「日本オウム真理教国」となっていた可能性もあります。
そしてサリンの大量の空中散布によって、おそらく数千人から万単位規模の死者がでて、その中には天皇陛下ご夫妻も含まれていたかもしれません。
しかし、最後にオウムは詰めを誤りました。1995年1月1日の読売が、松本サリン事件とオウムとの関連を掲載したことに焦ったオウムは、予定を繰り上げて部分的な決行に規模を縮小してしまったのです。
松本サリン事件 - Wikipedia
また、TBSが一斉捜査をオウムに漏洩したために、計画を前倒しにしたという説もあります。
いずれにせよ、これによって引き起こされたのが、世界史上初となる公共交通機関内の化学兵器の散布テロでした。
地下鉄サリン事件 - Wikipedia
第3に、国が後手後手に回り、このような史上最凶のテロリスト集団を根絶出来なかったことです。
この事件は内乱罪(刑法第77条)を適用されてもおかしくはないオウムに対して、組織活動を禁じる破防法はついに適用されませんでした。
事実、弁護団は麻原だけを首謀者として死刑にし、他の被告を救う目的で内乱罪を主張しましたが、退けられました。
一方、破防法は1952年7月に制定されました。
この時期から分かるように、朝鮮戦争下の共産党の暴力闘争を封じ込める目的の治安法制でした。
破防法が適用されれば、暴力主義的破壊活動をした団体の解散、デモ・集会の禁止などの処置が行えます。
これに対して制定当時から左派政党や労組の激しい反対に遭遇してきた経緯があるため、団体に対する適用例はありませんでした。
※個人に対しては三無事件、渋谷暴動事件などがあります。
三無事件 - Wikipedia
いわば「あるが、使えない」法律だったわけです。
必要とされるのは、純粋の法的判断ではなく、政治判断でしたが、国家転覆を試み、600人を超える死傷者を出した事件に使えなければ、ないのと一緒です。
この決断を迫られたのが、不幸にも今まで反対運動を続けてきた社会党委員長の村山富市政権でした。
阪神淡路大震災時に「始めてなもんで」と自衛隊出動腰が引けていた(というか腰が抜けていた)村山氏は、このオウム事件においても破防法適用に頑強な「慎重姿勢」を貫きました
村山氏は回想録『そうじゃのう』でこう述べています。
「あの法律を作る時には、僕らは反対したほうじゃけね。だから、適用については、人権にも関する問題じゃから、慎重のうえにも慎重を期してやってほしいと言っていた。
破防法の法律の体系から言うたら、総理の承認を得るとかいうことはないんじゃな。適用するかせんかは公安審査委員会にかける。かけるかかけんかは、破防法を扱う公安調査庁長官の権限じゃ。
だが、公安調査庁といえども行政の一環じゃないか。それで僕のところに言うてきたからな。僕の意に反してやるようなことは認めるわけにいかん。そう言うて議論した」
一方法相だった宮沢弘氏は、適用可能だと判断し、適用やむなしの旨を村山氏に伝えましたが、村山元首相は最後まで首を縦にふることはなく、この腰が引けた対応によって公安審査委員会は適用を見送りました。
時事上、村山氏が握り潰したといってよいでしょう。
その上に、当時のオウムとの脱洗脳に関わっていた中心メンバーが、江川紹子氏や日弁連の滝本太郎氏などといった共産党系リベラル文化人だったことです。
彼らは破防法適用が現実味を帯びるや、いままでの反オウムの立場を捨てて、オウム擁護に回ってしまったのです。
彼らはオウム事件でもっともメディアへの露出が多かったために、反破防法の世論形成をしてしまいました。
この江川氏などが唱えた反対論は、このようなものです。
①オウムの犯罪は政治目的ではない。教祖の空想妄想をただ実現したものにすぎない。
②適用すれば残党は地下に潜る。
③宗教法人の資格取消と教団の資産の差押えでオウムは潰れて、賠償が取れなくなる。
④麻原を神格化していた者はもういない。信者も減って無力化した。
⑤オウムに将来の危険性はなく、権力の濫用である。
この江川氏たちリベラル派の議論を聞いていると、カルトから脱洗脳するという視点はあっても、国民を危険から守るという視点がすっぽりと抜け落ちているのがわかります。
ですから、「オウムは教祖の妄想で、政治目的はない」などいった矮小化をしてしまいました。
「宗教テロリスト」という、従来の共産党や左翼過激派とはまったく次元の違う存在が誕生したという認識がなかったのです。
「政治目的」うんぬんというのは、破防法の第4条のニにこのように書かれているからです。
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第四条この法律で「暴力主義的破壊活動」とは,次に掲げる行為をいう。二 |
政治上の主義若しくは施策を推進し,支持し,又はこれに反対する目的をもつて,次に掲げる行為の一をなすこと。」 破壊活動防止法 - 法務省 |
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これは制定当時の世相を反映したもので、破防法は有体にいえば当時の暴力路線をとっていた共産党を念頭においたものだったからです。
つまりは、破防法をかける側も、それに反対する側も旧態依然とした政治的過激派のみを念頭において議論しているのです。
破防法自体に既に限界があり、それがこのオウム事件に適合するかどうか、常識で考えればわかりそうなものです。
では、適合しないからかけないでいいのではなく、オウムの息の根を止めるためには、「政治的目的」ウンヌンなどという字句解釈に引っかかるべきではなかったのです。
事実、21世紀に入ると、「政治目的ではない」宗教テロが、今やテロリズムの主流となっています。
これを当時もっとも強く破防法適用に反対し゛もっとも影響力が強かった江川氏はどう考えるるのでしょうか。
②の「地下に潜る」というのも笑止で、そもそも彼らの軍事部門は非公然で「地下に潜って」いたのです。
③の宗教法人の資格取り消しをしようとしなかろうと、彼らには民事訴訟に対して誠実に損害賠償を払っていく責務があるのは明らかです。
④についても、残党のアレフは麻原をいまだ神格化しており、一定数の信者を確保しています。なお彼らは賠償に応じていません。
⑤の「権力の濫用」うんぬんは、リベラル論者の定番の言い分ですが、29名の死者と6千名の負傷者という空前のテロの前に、いうべき言葉だとは思えません。
国民の安全を法を遵守して守ることは権力の濫用とは呼びません。
このようにこの反対論は、法治主義を否定し国民を守ることを忘れた大変に問題が多いものなのです。
とくに国民の安全を守る重大な義務がある総理たる村山氏が、法の厳正な執行より自分の政治信条を重んじたことは強く批判されるべきです。
かくしてオウムは破防法適用から逃れ、被告の罪はただの殺人罪に矮小化されてしまいました。
そしていまもなおアレフなどの後継団体として生き延び、更にそこから過激武闘分派すら生み出しているようです。
アレフ道場の祭壇には今なお、麻原の写真が飾られ、信者には地下鉄サリン事件は国家謀略だと教えているそうです。
このような残党を残して、オウム事件が終わったといえるのでしょうか。
■今日は悩みながら書いていたために、大幅に加筆してしまいました。仕事の合間をぬってやっていたために、お見苦しいミスタイプも多くあって申し訳けありませんでした。今思うと2回分割すべきだったか・・・。
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