• 20250216-055038
  • S-127_20250215005301
  • S-129_20250215004901
  • S-141
  • S-142
  • S-143
  • 20250214-014540
  • 20250215-001818
  • 20250213-105949
  • 20250211-165850

« 山路敬介氏寄稿 2018年盛夏 沖縄政治情勢考その4 | トップページ | 翁長氏の「遺志」とは »

2018年8月10日 (金)

翁長氏最後の4カ月間、誰が彼を叩き続けたのか?

060
翁長知事が死去してまだわずかな時間しかたっていませんが、かまびすしいことです。 

遺志を継げとか、アベが殺したんだとか、待ってましたといわんばかりの死の政治利用です。この人たちは、ひょっとして翁長氏が死んだことを喜んでいませんか。

私は翁長氏の死の遠因は、むしろこの人たちとの摩擦にあると思っています。

死去前の翁長氏は典型的なレームダックと化していましたし、知事の支持団体であるオール沖縄会議は、事実上解体状況でした。 

当選当時には「保革を超えて」が売り物だったはずですが、蓋を明ければ共産党の支配があからさまになって、それに反発する山城氏たち旧社会党系との抗争も表面化していました。 

翁長氏の与党旧新風会系や金秀や平良氏たちと、これら左翼陣営との体質の差は埋まりようがないところまで煮詰まっていました。 

共産党は解決を求めません。具体的対案はありません。ないからこそブレないので「強い」のです。 

辺野古移設反対ならば、「いかなる移設も新基地」な以上反対ですから、海を埋め立てないハンセン陸上案などは検討さえされなかったでしょう。

かつての大田知事は本土から小川和久氏などの専門家を招く柔軟性があったものですが、今の反対派はそのかけらも残っていません。

では、素朴に移設を阻止できたとしたらどうなるのか、少しでも考えてみたことがあるのでしょうか。

普天間基地はそのまま宜野湾市の市街地のど真ん中に残るわけですから、既存の飛行場は半永久的にそのままです。小学生にでも分かる理屈です。 

しかし平気です。なぜなら普天間も含めて沖縄中の基地は全部まとめて「全基地撤去」「安保廃棄」ですから。 

なんのためにどうして今ここで辺野古移設を阻止するのか、仮に勝利して阻止したら普天間基地はどうなるのか、といった初めに考えておくべきことが思考の枠からはずれているのです。 

もちろん現在の東アジア情勢においてただの空論ですが、一歩一歩漸進的改良を積み重ねていくことを拒否するいかにも「革命党」らしい発想です。 

政治運動家がこうであっても勝手にしなさいと言うだけですが、行政官たる知事がこうであっては困ります。

では、翁長氏が共産党と同一化したかといえば、そうではなさそうです。 

それは翁長氏が仲井真前知事の承認を取り消しをしたのが、就任から丸々1年経過した2015年10月だったことでも伺えます。

もし糸数氏が知事だったら、就任から一カ月以内に承認取り消しをしたことでしょう。

今回の二回目の承認取り消しにしても、翁長氏は散々迷った形跡があります。 

こんなことを今更やっても仕方がないという思いは、県政に長期間関わって本土政府と沖縄県の交渉の裏の裏まで知り尽くした彼としてはわかりすぎるほど分かっていたはずです。

彼にとって落とし所のない本土政府との交渉ごとはありえなかったはずです。

戦いを始めるのは簡単で、むしろどう終わりにするのか、どこで折り合うのかを探るほうが大変なのです。

翁長氏は就任前には、「反基地派は反対運動を精一杯やっていれば済むが、自分は政治家だから結果が大事だ」とうそぶいていました。

おそらくなんらかの取引が、本土政府と成立すると考えていたのでしょう。

この密かな翁長氏の自信は、身内の反対派からも、官邸からも裏切られました。

身内の反対派はそんな腹芸の出す余地を与えず、本土政府もまた今までの経世会的甘えを拒否しました。

両者の原則論にはさまれるようにして、翁長氏は圧倒的組織力を持つ左翼に押し流されていったわけです。

おそらく翁長氏は、あれほど望んでいた「知事の座」の座り心地の悲惨さに身悶えたこともあったのではないでしょうか。

いずれにしても、反対派が夢見る反基地永久闘争などありえないのです。

しかも今回の2回目取り消しは、承認後に生じた瑕疵を理由とするのですから、まさにケチツケにすぎません。

翁長氏はこの反対派に包囲されて、身も心もボロボロになっていったと思われます。

8m2qjqaiyimtmqqgglzfqbtpkchfucvb

翁長氏は承認撤回について「必ずやる」と約束しつつ、いつやるのかについて明言を避けてきました。 

本心はやりたくなかったのでしょうね。

当時彼は医師から余命数カ月と言い渡されていたはずですから、撤回を出したのはいいが、その間に自分のすい臓癌が進行したら、どのように後始末をつけたらいいのかわからなくなると悩んだのでしょう。

知事候補を自分の意にかなった者を探すのにも苦慮していたでしょうし、仮にいたとしてもそれを平良氏などの自陣営が認め、さらには共産党ら革新陣営が認めるか不透明でした。 

では旧オール沖縄陣営の分裂選挙をやるかというと、その元気はもう翁長氏には残っていなかったと思われます。

承認撤回自体も自分が倒れたら副知事がするだろうが、職務代行者でしかない副知事が国相手にやった前例はないし、仲井真氏が政権末期に承認したことを一番攻撃したのは自分だったはずだ・・・。

そんな自問自答を、翁長氏は頭の中で繰り返していたかもしれません。 

するとそれを知事の動揺と感じた反対派はいきり立ちます。 

元々あった保守くずれの翁長氏に対する反対派の不信感は頂点に達しました。 

おそらく、知事は裏で政府自民党と手を握ったにちがいない、政府が警告した知事個人への損害賠償請求を恐れているのではないか、と勘繰ったのでしょう。 

政府は淡々と工事を進め、6月中旬には8月17日に土砂投入すると通告しました。 

Largefa576b7882e746b250c08a0df05ba5
これを受けて反対派は、どちらが敵だかわからないような内ゲバ的行動をとるようになります。 

それが7月13日から始まる、集団で知事公室すわり込み、対応した県職員に大声で暴言を吐きました。 

この反対派の蛮行は、翁長氏にとってさぞかし堪えたことでしょう。 

4月のすい臓癌発覚以来、抗ガン剤を投与されながら知事職を努めていた翁長氏にとって、県庁自知事公室にまで「同志」たちに座り込まれてシュプレッヒコールを浴びるとは・・・。 

そう言えば重病で車椅子で執務していた仲井真氏を、百条委員会で長時間吊るしあげたのも彼らでした。

反対派の言う「人権」や「平和」という言葉の正体が透けて見えます。

いたたまれず翁長氏は7月27日に会見を開き承認撤回を表明したわけですが、ここでも再び決断の遅れを批判されることになります。 

そして飽きることなく反対派は、翁長氏への圧力行動を継続します。 

8月7日、反対派団体は沖縄防衛局に突入して実に8時間にも及ぶ座り込みを敢行しました。 

これは一見すれば国に対しての戦いに見えますが、ほんとうの標的は翁長知事にあることは明らかでした。

おい翁長、会見はしたが現実にはしていないじゃないか、早くしろというわけです。 

出動した沖縄県警に対して反対派は局長との面会を求めて、「立ち退きを求める職員らに対し、反対派らは「小役人に用はない」「軍隊は暴力だから、それに反対するのは暴力ではない」などと怒号を」あげたようです。

自分たちの暴力は平和のためだから許されるということですし、高江の手ぬるい県警の警備や、「検問」判決の上告をやらせなかった翁長氏の足元を見ていたのです。

反基地無罪を唱える彼ららしい所業です。 

国としては、翁長氏が承認拒否をしようとしまいとに関わらず、もはやなんのスケジュールの変更はありえません。

翁長氏が撤回を通告しだい、返す刀で即座に撤回の執行停止を裁判所に申し立て、120%国が勝訴します。

しかも前回の承認拒否の場合と違って、裁判所の審理期間は1カ月足らずでしょうから、わずかの期間の工事中断となるだけです。

今回の知事選前倒しが影響したとしても、選挙以降直ちに再開されるはずです。

まったく無意味なパーフォーマンスですが、これをさせるために反対派は癌末期の患者を痛めつけたのでした。

その人たちが、今になってこぞって「翁長氏を追い詰めて殺したのはアベだ。知事は島のためを思って戦った英雄だ。遺志を継げ」と叫ぶのですから、呆れて開いた口がふさがりません。

白を黒というのはこれです。死の遠因のみならず、近因すらもこの人たちあります。

翁長氏最後の4カ月において、一体誰が翁長氏をバッシングし続けたのか、誰が声高に罵声を浴びせたのか、胸に手を当てて考えてみることです。

 

 

 

« 山路敬介氏寄稿 2018年盛夏 沖縄政治情勢考その4 | トップページ | 翁長氏の「遺志」とは »

沖縄問題」カテゴリの記事

コメント

 記事でありんくりん さんがお書きの通りです。イデオロギ-の異なる者たちを率いて事を行うのは大変に難しいことであり、これを可能だと錯覚しオ-ル沖縄を結成したのが翁長さんでした。

 しかし、オール沖縄結成時から後に、翁長さんが活躍できた場面は一度もありませんでしたね。

 翁長さんの政治は失敗だったのです。この失敗を見たとき、我々も気を引締めて同様の失敗のないようにしなければなりません。

 新しく知事を選ぶことになりますが、県益、国益双方のバランスを取り得る知事が誕生することを切に願います。今は、国防政策が優先すると私は思っております。

翁長氏は、かつて沖タイの取材に対して、こういっていたそうですね。

>基地問題で沖縄が主張する場合でもイデオロギーではなくアイデンティティーを持って、県民の心を一つにして頑張らないと本土全体の無関心、無理解にはとても立ち向かえない。
(沖縄タイムス8/10(金) 11:45配信 再掲記事より。2013年12月8日、沖縄タイムス1~2面に掲載)

その手法は兎も角として、理想は確かに有った。
しかし、結局はイデオロギーという現実に負けたということなのかもしれない。
酷い言い方になるかもしれないが、癌になった時点で知事を辞めて、辺野古の反対派と一緒に座り込みを行う中で亡くなられた方が、遥かに幸せだったのではないだろうか。

そういえば、息子の翁長雄治氏はどうなんでしょうかね。確か今年30歳でしたよね。
これまた酷い言い方ですが、若くて経験の少ない人間は操り人形にされてしまうのではないかと心配です。

膵癌 -> 肝転移といえば、スティーブ・ジョブスが思い出されます(彼はPNETですが)。 思えば本家現実歪曲空間でもありましたが、そのカリスマと、国家レベルの富をもってしても、病には敵し得ませんでした。 ともあれ、近頃の翁長氏の容貌はいかにもcachexiaという感じでありましたし、当人や周囲の想いは想いとして尊重されるべきですがそれはひとまず措いて、公人としてはここはもっと早く来るべきものに対して現実的な手を打っておくべきではなかったのかと思わずにはいられません。 実際気になるところとしては、先ず手術した病院は経過を押さえていた筈ですが、芳しからざる予後についてどのくらいのトーンで伝えていたのか、変な忖度は無かったのか、蓋し私人と公人では自ずと異なるものが無ければならないでしょう。 次にご当人がそれについてどのくらい判っていたか、或いは判っていなかったのか。 さらに周囲の受けとめ方と対応ということになるのでしょうが、この辺を対処する然るべき組織としての所謂ガバナンスという点では、このところ色々疑問な事態が各界で続いているような気がします。

沖縄県、きょう聴聞実施 承認撤回 翁長知事「しっかり頼む」
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-778736.html

「知事の遺体を乗せた車の前で記者会見した」

私はこの状況に強烈な違和感というか不気味さすら感じるんですが。

翁長知事は沖縄の県民感情をうまく利用したと思います。
ここからは、失礼を承知で書きます。
悲惨な沖縄戦とは言っても、戦争体験者であっても多くの県民は悲惨な体験はしていません。確かに主戦場となった南部は悲惨だったと思います。しかし多くの県民は北部、日本本土、台湾などに疎開し戦争体験をしていません。
沖縄県民が、心底反本土感情を高めるのは実は戦後の徹底したアメリカによる洗脳です。その役割を果たしたのが沖縄の新聞です。沖縄2紙は米軍の県民洗脳機関として設立された機関です。その材料は沖縄戦、薩摩の琉球併合、琉球処分といろいろあります。
琉球の歴史とて、一握りの特権階級の歴史であり一般庶民は農奴状態です。とはいっても米軍の洗脳作戦は功を奏しいつしかそれが沖縄のアイデンティティーだと県民が信じて疑わない。
翁長知事は何かにつけ、ウチナンチューの心とか、沖縄の原点ととか言います。じゃ逆に聞きたい。沖縄の原点とは何ですかと。元の農奴の状態に戻るのですかと。
そこに根強い反日感情があると思います。作家曽野綾子さんは、沖縄を称して沖縄=善、日本本土=悪。そんな幼稚な考えが沖縄を支配していると。と表現されました。あまり馬鹿なことを言うなと沖縄の指導者層を非難しました。それとごねることで国から予算が出ることを覚えた政治家、土建業会、経済界もいます。
だけど、米運=沖縄の新聞に洗脳された人たちが一定数います。すなわち共産党、左翼は嫌いだがヤマトンチューも嫌いだ。と言う考えです。
だから、今度の知事選もまったく予断を許しません。

アメリカの洗脳を受けた世代は、いわゆる団塊世代。今の翁長知事の年代でしょうか。幼い時から本土=悪の教育を受けた世代です。
今の若い世代は独自の感覚をもっています。
真の意味での世代交代が起きたとき、沖縄も変わると思います。あと10年か20年か。一つ言えるのは沖縄にも時代の変化が来ています。

≫「これは一見すれば国に対しての戦いに見えますが、ほんとうの標的は翁長知事にあることは明らか」 ←ここ、ポイントですね。

けれど、「辺野古阻止」を公約にして、こういう幼稚で単純で我慢出来ない人たちを味方につけて知事になったのですから、自業自得でもあったワケです。

これらの人たちに対して腹八分だの六分だの言っても意味がありませんし、翁長さんの苦しみは相当募っていたに違いありません。

県も内心では「早く土砂を入れて決着を着けてもらいたい」と考えているかもしれず、「撤回」もある意味では儀式みたいなもので、ソフトランディングさせる一方式なのではないかと思いますね。

山路さん

一つ教えて下さい。沖縄のアイデンティティーとは何ですか。本当に分からないのです。
私は、今でも沖縄勤務時代の楽しい思い出があり、沖縄居酒屋へ行きます。そこには陽気な歌があり、夫婦の唄があり、トバルマーのようなロマンチックな歌もあり、時間を忘れてしまいます。しかしこのような素晴らしい沖縄の音楽が庶民に開放されたのも、明治維新以降。その以前は人頭税アリの農奴です。
甲子園が始まると、車の通行量が減るのも実際に目の当たりにしました。でもそんな現象が沖縄のアイデンティーティーとも思えません。極論すれば、実はそんなものは本当は無いとも言えませんか。

>翁長知事は沖縄の県民感情をうまく利用したと思います。

karakuchiさんの上記のコメントある意味的を得ていると思います。島尾敏雄・ミホ夫妻の長男でカメラマンの島尾伸三氏が彼の著書「星の棲む島」で母ミホのことを「劇的なことのすきな母は、泣いたり笑ったりの表情が手に負えなぬほど大きく、、」と表現されてました。「シマンチュあるある」です。翁長氏は過激な「言葉」を発することでこのシマンチュの「心をくすぐる」ことを計算していたに違いありません。選挙玄人である翁長氏でもありますから。「劇的」であればあるほど、シマンチュは「燃える」のです。それが「幻想」であると心の片隅では分かっていても。「大江健三郎や筑紫哲也が描く沖縄像をウチナンチュは自ら演じている」とは高良倉吉氏の言葉です。

宜野湾くれない丸 さん

ありがとうございます。自分なりによく考えてみます。

宜野湾くれない丸さん

>>それが「幻想」であると心の片隅では分かっていても。「大江健三郎や筑紫哲也が描く沖縄像をウチナンチュは自ら演じている」とは高良倉吉氏の言葉です。

凄く重い言葉です。多分そうすることで心のバランスを取ったのですね。えーい面倒くさい。はっきり言います。
琉球王朝は素晴らしかった。庶民も幸せだったと思わないと、あまりに惨めすぎたと思うのは考えすぎですか。

 
karakuchiさん

 アイデンティティ-とは自己同一性の意識、共通の意識と解するならば、それをどのようにして探るかというと、私が考えるに、その国や地方の宗教、神話、伝説、音楽などから読み取るものということになるでしょう。

 一つの例として音楽を見てみます。沖縄の音楽は古典音楽と俗謡(庶民的なもの)がありますが、これらを鑑賞することである程度沖縄というのが浮かび上がりますね。しかしkarakuchiさんがアイデンティティ-として固定的なものであるとお考えならば、それは違うと思うのですよ。それは個人で異なってくるでしょうし、最大公約数ぐらいに考えるべきでしょう。

 わたしの心中の沖縄は、ちんさぐの花、でんさ節、トゥバラ-マ、女工節などですね。宮古島の人や石垣の人たちとなるとこれが若干違ってくるでしょうし、さらに奄美まで含めるとアイデンティティ-としてはさらに広がってきます。

 アイデンティティ-は人によって若干異なってくるし、年齢重ねるごとによっても異なってくるように思います。

 わたしは本土の民謡にもアイデンティティ-を感じますし、もう限界はありません。

 翁長さんはアイデンティティ-を固定的に捉えていこうと考えたようですが、それは無理があり独りよがりになってしまったと思っております。

> 琉球王朝は素晴らしかった。庶民も幸せだったと思わないと、あまりに惨めすぎたと思うのは考えすぎですか

 琉球王朝時代が素晴らしかった、庶民は幸せだったと考えたい気持ちはあるでしょうね。

 しかし、反対に過去の琉球が暗いものだけだったとは言えないだろうとも思うのですよ。私は明暗両方があったのだろうと考えております。沖縄人の生み出した伝統文化、音楽などから推量して、豊かな精神世界もあったと言えそうです。

karakuchiさん→山路さんへの質問に関して横から失礼いたします。

奄美大島生まれ育ちで在沖26年の私が感じる「沖縄アイデンティティー」に関して一言申し上げたいと思います。あくまでも私感です。

幼少の私からすると奄美大島から見る沖縄は「憧れ」の気持ちでした。我が奄美は鹿児島の元で蔑視されてる(実際に蔑まされていたし私自身も何度も経験してます)けど、沖縄は日本と堂々と渡り歩いている、と。がしかし沖縄に良い印象を持っている人は私の経験上、あまりいなかったような気がします。少なくとも「沖縄はいいところだよ」と絶賛する人には会ったことがありません。戦後の米軍統治下時代に沖縄で辛い経験をした奄美の人たちが多かったからかもしれません。鹿児島からも沖縄からも奄美の人たちは「蔑まされて」いました。沖縄本島の人たちは奄美や宮古、八重山の人たちを蔑み差別してた事実はたくさんあります。今でもです。奄美の島々は「対鹿児島」を通して自身の存在意義を確立している一部の「反鹿児島派」の人たちがあることは事実です。それは奄美の人達が「ヤマト」という時、それは「鹿児島」を指していましたことからもうかがい知れます。

さて、沖縄です。
奄美から沖縄へ移住して思ったのは「沖縄ってそんなに凄いとこでもないじゃない」です。もっと突っ込んで言えば「沖縄の人たちって自信がないんだな」です。地元の伝統文化や言葉、風習などなどの素晴らしさをことさら出してくるそのさまは「自信の無さの裏返し」あるいは「押し売り」的なものを感じてます。物事を取り決めて行く際の話でも煮詰まってくると「0(ゼロ)か100」かの極端な事を言い出すし、また取り決めたことを「守らない」もの多々あるケース。素人同士のサッカー試合(ボールが飛ぶ方向に人が集まる。点が入りまくる)をいつまでも観ている感じ・・つまり「目的意識」が「共通認識」となってないし、「自分のすべきことを理解してないし、またその能力もない」的なつまらん試合です。それを観る聴衆は普通は「観る気もしなくなる」のだが、何と「もっとやれー!」と熱狂する・・?

つまり「目的意識」を持ち、地道にコツコツと「努力」することが出来ないのです。経験したことがないとも言えます。

この辺のことはkarakuchiさんも言及してますが、「民」が「民として扱われ」たのが明治の御一新後からですので、まだ150年ほど前からですので「何とも」言い難い。ましてや沖縄の歴史始まって依頼これまで「自立」「自律」「地域(国)運営」等を満足にした経験もないのですから、「沖縄の自主自立を!」と声高々に言われても、そんなの一朝一夕に出来るわけないでしょ。

江戸の昔から寺子屋で「読み・書き・算盤」を民のレベルでやってきた本土と明治以降にようやく「農奴」から解放された「沖縄の民」ではスタートラインが違い過ぎる。ましてや「それに甘んじてはいけない」と言う気概がいつのまにな無くなっていってしまった・・・。さて、原因は何でしょう?国民としての「権利」は明治政府から与えてもらったが、「自らのたちどころを何処に求めるか彷徨って」しまった沖縄。自らの手で、自らの体で、自らの頭で「勝ち取って」いくことで少しずつ「我とは何ぞや」が積み重なっていくのでしょう。

沖縄のアイデンティティーとは、
対日本を通しての「幻想のアイデンティティー」だと思います。

ueyonabaru 様

了解しました。アイデンティーティーは個人の心にある。そんな簡単なことがなぜ分からなかったのか。今私たちが聞く琉球音楽も、明治維新以降に庶民に開放されたとは言え、その下地はあった。苦しい時代も含めそれが沖縄文化なんですね。ずーとくすぶっていたものが取れたような感じです。アイデンティティーは個人の心の問題であり、つまり人間の感情の問題でありそれを無理に概念化する必要はないのですね。

宜野湾くれない丸さん

ありがとうございます。今日は本当に勉強になりました。
皆様が仰ることが、どのくらい咀嚼できたのか。文化ですからそんな簡単には理解できないとは思いますが、
いつまで経っても自立できない沖縄も確かにあります。その中でも本気で自立を志す仲井真前知事のような政治家もいる。一方でueyonabaru様が仰るように、良いことも悪いこともすべて受け入れる心の余裕もある。
ありんくりん、ひっくるめて沖縄なんですね。

管理人より
私が「世界日報」と同じだとか、コメントを私ひとりで書いているとか。なにいってんだか、バッカじゃないの(爆)。

こんな低レベルな荒らしがふたつつづきましたので、閉鎖します。
せっかく実のある討論をしているのに、無粋なことです。
もう少し内容あること入れて来いよ。

この記事へのコメントは終了しました。

« 山路敬介氏寄稿 2018年盛夏 沖縄政治情勢考その4 | トップページ | 翁長氏の「遺志」とは »