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2018年8月 6日 (月)

山路敬介氏寄稿 2018年盛夏 沖縄政治情勢考その1

007
山路敬介氏より寄稿を頂戴いたしましたので、掲載させていただきます。ありがとうございます。

一読して、なるほどこういう見方もあるのかと、眼からうろこの思いです。

ご゙承知のように、翁長知事が「承認撤回」という最後のカードを切りました。

「最後のカード゙」といっても、出した県側もよく分かっているようにただのデキレース、あるいはエピローグです。

最高裁判決が出ている以上、いかなる法廷闘争も無意味な税金の無駄使いにすぎません。

さすがにそれをわかっている本土メディアは、ご挨拶程度の報じ方に終始しました。

山路氏が論考でも触れているように、いまや辺野古移設は「終わった政治テーマ」なのです。

このカードを知事自らに切らせるために、「オール沖縄」陣営は、候補者の擁立を遅らせてきました。

すい臓ガンで日常的な治療が必要な翁長氏が来期を担えるはずもないことはわかりきった話なのに、「オール沖縄」の政治的都合であたかも翁長氏を2期めも担ぐという常識を疑う発言が、共産党などからありました。

この翁長氏すら徹底的に政治利用し尽くしてやろうとするかの如き態度に、冷血という文字を念頭に浮かべたのは、私だけではないはずです。

今後、遅れた候補者の選定・擁立となるわけですが、謝花副知事以外これといった人物が見当たらないようです。

一方、自民党の候補者選びは迷走しました。

これは野党の冷や水を飲んでいた数年間、自民党県連が自分の体質を内在的に見直しをしてこなかったためだと感じます。

たしかに安里氏が県連と無関係に単独で名乗りを上げたことが発端でしたが、「選考委員会」というオープンな場を保証したわけですから、いくらでも風を取り入れるやりようがあったはずです。

結局、安里氏辞退、佐喜眞宜野湾知事一本化で決着しました。

の不透明な選考過程に疑問が残ったことは記事にしてありますが、多くの沖縄を語る者は、この私も含めてですが、「オール沖縄vs保守」という固定した枠組みで分析しようとします。

リベラルサイドに至ってはもっとあからさまに、あるべき「戦う沖縄民衆」といったどこにもない夢を、生身の沖縄に重ねようとしてきました。

なんのことはない、これでは本土の政治の写し絵として、沖縄政治を見ているだけにすぎないのです。

しかしそれだけではどうも理解できない部分が出てくるわけですが、それに対して山路氏は独自の鋭い分析を加えています。

なお、3回から4回分割となります。 タイトルは編者がつけさせていただきました。

                                      ~~~~~~

 

Photo

                                  ■2018年盛夏 沖縄政治情勢考 
~翁長知事の「撤回訴訟」と県民投票に向けた「署名集め」について~
                                                                                                  山路敬介


関心が薄れた翁長知事の「承認撤回」

翁長知事が埋め立て許可の「撤回」をやるようです。 

いつものように沖縄二紙ではそろって「最重要局面」だとか、「伝家の宝刀抜く」などとのバカバカしく扇情的な見出しがトップを飾りました。 

あたかも翁長知事がこれから成す「撤回」が、この先の訴訟においても合法の判断が下される可能性が少なくないかのように勘違いさせる論調にはあきれ返ります。 

これらの報道や論調は特定の勢力の為の政治運動を新聞が公然と行っている姿を示していて、事実に則した正しい認識を県民に伝え広めようとする新聞本来の役割は微塵もありません。 

この「撤回」によっても、「辺野古阻止」につながる可能性は100%有り得ず、翁長知事も県当局も、結果を十分わかった上での「芝居まわし」をしているにすぎません。 

だいいち、その内実は相変わらずの「弁護士まかせ」でもあります。

弁護人は訴訟の過程で生じるであろう本論とずれた部分での国側証言の微細なほころびや、訴訟法・行政法の先端学説に基づく極端な法運用等を裁判所が採用するべく主張するなど、訴訟そのものにおける技術的な部分に活路を見い出す戦術を考えているようですが、事はすでにそのような段階にはありません。

細かい手続き上の齟齬や、国側が現在考え得る限りの最先端の自然保護の知見を用いない事を持ってして「撤回要件」には当てはまりません。

二紙にそれらしく詳細に書かれている「撤回判断の根拠」たる四つの項目ついても同様で、(詳しくは長くなるので後にしますが、)これらの問題点が現時点で県の主張のように「明らかになっている」とは言えず、したがってそこから翁長知事の言う「公益に適合しない」という解を導く事は出来ません。

あるいは県の言い分が一部認められたとしても、「国の安全保障」と「普天間の危険性の除去」という巨大な公益性を裁判所が無視する事は100%有り得ません。

創作されたいわゆる「民意」

ふたたび創作されつつある「いわゆる民意」についてもまた同様です。

くわえて重要なのは「辺野古移設問題」は、すでに国民的な関心事ではなくなっている事です。

これは県当局のみならず、運動側にとって致命的です。

本土における今回の「撤回」に関する報道は「取り消し」時よりも大分取り扱いが小さく少なくなっています。(現に7月29日時点で全国紙と主要ブロック紙の社説でこの件を取り上げたのは4紙にとどまり、そのうち2紙が翁長知事による撤回に批判的です)

「取り消し訴訟」における完全敗北や名護市長選の結果が第一の要因となったのでしょうが、権力と権力との間の諍いが「訴訟」という形に収斂される事でネタとしての「市民運動性」的な価値が著しく失われた当然の結果でもあります。

私としてはこれ以上沖縄の馬鹿げた姿を日本中にさらすことは苦しく、また忍びないので、それはそれで良かったと思います。 

そして何より、「沖縄問題で両論併記は有り得ない」とし、沖縄県民を「被差別対象者」として祀り上げる本土大マスコミの共同幻想であるところの「沖縄の無謬性神話」もまた、普通にして賢明な一般国民の間では失われつつあると言えます。

いつまでも「沖縄の歴史的事実」などと言って、その退行性を大目に見ていたのでは日本の安全保障は成り立ちません。

翁長知事の「辺野古は無理」という誤算

翁長知事には「辺野古移設阻止」を出来る能力も権限もないのは明らかですが、最初から「辺野古阻止」に対する確固たる強い意思などありはしません。知事の「言葉」に騙されてはなりません。

ただ、「辺野古移設は不可能」とした知事の当初の考えは、本心からのものだったと思います。

翁長知事は「辺野古移設は不可能」と見立てたがゆえに「辺野古反対」に舵を切ったのにすぎなく、その方がリーズナブルだったからです。

それが「翁長ポピュリズム政治」の本質と限界です。

しかしこれは何も知事だけの事ではなく、最後まで「辺野古反対」にへばりついていた半身公明党議員で現自民県連会長の國場幸太郎氏などにも言える事です。

このあたりが、「辺野古移設」の必要性を良く理解して、その上でさらに周到に安倍政権の決意と覚悟を確かめて「埋め立て許可」をした仲井眞前知事との違いです。

その後の翁長知事は当初はまったく想定していなかった安倍政権の決然とした強い態度に打ちあたり、出口を塞がれて共産党を初めとする革新系に接着し傾斜するしかなくなったように見えます。

翁長知事の「辺野古移設」への考え方は蛇口の水のように変化する

ところが知事の「辺野古阻止」はその言葉とは別に当初より決して一貫しておらず、その時々の経緯と状況によって強弱、意味合いも違って推移させて来ました。

知事はまるで水道の蛇口をひねるように調節して、自身の権限行使を行います。

あるときは埋め立て土砂の搬入を認め、あるときは珊瑚の移植を許可し、あるいはそれを取り消します。

翁長知事のこうしたやり方をとらえて「反対しながら作らせる」と評したのは篠原章氏ですが、私にはそれ以上に翁長知事が安倍政権に沖縄的な「辺野古の作り方」を教授しているとすら思います。

事実だけを追った時系列的な表を作って遊んだりしていると、知事と菅沖縄担当大臣の間のやりとりは絶妙のタイミングが存在してい、私にはお互いに気息を通じ合わせた行動しているように見えて仕方ありません。

沖縄の旧型政治家のやり方は、「本土の一年は沖縄の十年」を地で行きます。

安倍政権との相違はすでに、そのスピード感の違いしかないと言って良いと思います。

見るべき肝心な点は、反対の動機となった「辺野古は無理」という認識は翁長知事には失われているだろう事です。

私には知事が「辺野古移設は行われるしかない」、という現実を受入れて対処して来ているように思えてならないのです。

今回の「撤回」の件についても同様です。国側には知事の「撤回」を欲し、かつそれを待ちわびていたフシさえあります。

このあたりの事は、また後でふれることとします。

                                                                                            (続)

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コメント

「反対しながら作らせる」から思い出すのは、会社の中の労働組合の立場です。

会社経営者に対峙する組織として労働組合があり、その構成員として組合員(=会社員)がいます。労組幹部としては組合費を徴収していることから、賃上げなど会社施策等に対して様々な意見(異議申立て)を述べ、組合員の立場から、ちゃんと仕事をしているところを見せる必要があります。

ですが、多くは多少の修正で会社の施策は実行されていきます。組合員には”反対”しているところを見せながらです。労使の慣れあいとか、御用組合とか批判もありますが、始終ガチンコで対峙してもしょうがないし、そのことを一般組合員も半ば承知しているわけです。

これと同じように、日本の中の沖縄という関係が、沖縄の人達自身にあるのかもしれません。

敗戦後、沖縄は長く米国(米軍)の統治下にありました。米国対日本という敵対関係が、そのまま支配者対被支配者の関係に継続され、当然、沖縄マスコミも被支配者としての立場からのみ物事をとらえざるをえなかったことはわかります。

ところが、沖縄が日本に復帰した後も、沖縄の行政(自治体)も、また沖縄マスコミも同じように日本の中の沖縄を,支配される者達という、弱者の立場が継続されていたのではないかということです。

だからこそ、常に日本(政府)に対して”反対”しているところを沖縄の人達に見せる必要がある、と考えているのではないかと思うのです。

とても不幸なことです。弱者の視点のみではいつまで経っても自立することはできません。まま母にいじめられる少女漫画がみているようです。

労働組合のみでは会社は成り立ちませんし、「反対、反対」の野党のみでは政府もできず、責任ある行政もできません。

オール沖縄とは日本の中のオール野党と同じ意味ですから、抵抗政党の寄せ集めたるオール沖縄で続くわけがないのだと思います。私は沖縄の人達の自立、そして自律を望んでいる者です。

> 私には知事が「辺野古移設は行われるしかない」、という現実を受入れて対処して来ているように思えてならないのです。 

 そうなんだと思いますね。このような状況では、知事はあっさりと負けを認め自身の総括をするべきだと思います。この煮え切らない知事の態度はいただけません。周りの人たちに不快感を与えているのではないでしょうか。潔い人間であってほしかった。

 九州Mさんがいうように、最終的な課題は県民自身の自律・自立というところになるのだと思いますね。
しかし、与野党とわず沖縄の政治家というのは逆で、昔のままのかつてあった「負の構造
の中に留め置こうとしているようです。

また ueyonabaruさんが理解し、私がここで言っているような事も大勢の県民は分かっているのだと思うのです。
にもかかわらず、何故このような漫画チックな事が行われ続けなければならないか? 
ここを考えなければいかん、と思うのです。


少なくとも現在の知事とオール沖縄は全く県民の事を省みずに己が美学を追求する事だけに全力を注いでるように見えます。
知事は故太田氏のような「最後まで政府と戦い敗れた悲劇の政治家」のカーボンコピーになろうと思っているようにしか見えませんし、オール沖縄に至っては反基地運動する事そのものが目的化しています。

今回の撤回に関しても土砂投入直前に1200ページオーバーの資料を防衛局に投げつけ、明らかに投入までに撤回が間に合わない状況を意図的に作っています。
さらには珊瑚の移植許可を産卵時期である7月にまで遅らせるという嫌がらせもしています。
目的はこれだけのアクションをしたのに政府とそれに組する自民党県連はこれを無視して埋立てを強行したというレッテル張りをし、知事&オール沖縄はそれと対峙する正義の味方だと地元マスコミを使い大宣伝して知事選への足がかりにする事に他なりません。
そう考えると彼らにとっては予定通りに土砂を投入してくれるほうがむしろ都合が良いのです。

これは現時点においては私個人の妄想にしか過ぎませんが、このような悪質な当たり屋のようなマネを地方自治体の長が行う事がないことを祈っています。
本当に。

 しゅりんちゅさん

しゅりんちゅさんの意見は、「妄想」などではないと思いますよ。

オール沖縄が「美学」を持っているとは到底思えませんが。(笑)

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