宜野湾くれない丸氏寄稿 「沖縄を返せ」にあらためて思うこと
宜野湾くれない丸氏より寄稿いただきました。ありがとうございます。
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■「沖縄を返せ」にあらためて思うこと
宜野湾くれない丸
ふと感じたことを書こうと思う。
以前から私は、沖縄のアイデンティティーとは「日本を通したものだ」と思ってきた。
宮沢和史の「島唄」やネーネーズの「黄金の花」、「平和の琉歌」(詞曲:桑田佳祐)を通して構築され増殖される「想像のアイデンティティー」的なるもののことだ。
これは、沖縄の日本復帰前後に県民に良く歌われた「沖縄を返せ」を聴くと「なるほどなぁ」と感じる。
奄美の復帰時にも「復帰の歌」は歌われたが、この両地域の「復帰の歌」を聴き比べるとこれまた「違い」が見えて感慨深いものがある。
さて、県知事選挙真っ最中の沖縄である。
この前の連休(16日、17日)には、菅義偉官房長官と小泉進次郎氏が佐喜眞淳候補の応援として来沖していた。
一方、玉城デニー候補は得意のギターと歌を取りいれた演説会を開いたりと、それぞれの候補は「若者」向けのアピールに余念がない様子だ。
ここ宜野湾市は、知事選と同時に宜野湾市長選挙も行われる為「熱い夏」はまだまだ続いている。
知事選への出馬に向けた候補者選定作業について、オール沖縄革新側、自民保守系側の両者ともに「難産」であったことは各マスコミなどで報じらていたが、その過程で「永田町(本部)の意向」が大きかったことは両候補ともまぎれもない事実であった。
それを横目に感じたことがあった。沖縄の日本復帰前後に県民に広く歌われた「沖縄を返せ」である。あの歌はウチナンチュが創ったのではないんだよな、ということを・・・。
周知のことだが、沖縄県は1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。
復帰運動過程において「沖縄を返せ」が多くの県民に歌われたことは、よく耳にすることだ。
沖縄復帰当時小学校低学年だった私も奄美大島の地でこの歌を聞いた記憶がある。
大島在住のウチナンチュ達が、港で復帰を祝って歓喜の坊踊りをしていたのを昨日のように憶えている。
その輪の中に入って私も踊ったりしたものだった。
しかし、この曲の作詞作曲者は沖縄県人ではなく、本土の方であることはご存じであろうか?
「沖縄コンパクト事典」(琉球新報社)によると、「沖縄を返せ」は1960年代の沖縄の祖国復帰運動の現場で欠かせない歌。
56年、大分県で開かれた第四回九州うたごえ祭典で歌われたのが最初。70年代以降、復帰協主催の4・28県民大会でも歌われなくなった。
作詞土肥昭三、作曲 中島定良。編曲 荒木栄とある。
ネットで検索すると作詞:全司法福岡支部
※編者注 全司法労働組合 日本の裁判所職員などが加盟する労働組合
作曲:荒木栄とも出てくる。
随分以前のことだが、地元TV番組で「沖縄を返せ」のドキュメンタリー番組があって、その中で作詞をされた土肥氏だっかた、荒木氏だっかたは忘れてしまったが、いずれにせよ曲作りりに参加された方がコメントしてたのを憶えている。
「沖縄へは一度も行ったことがなかった」とか、「沖縄の人へ対して失礼なことをしてしまった」とか、そのようなコメントをされていた。
60年安保闘争を目の前にした、そんな時代背景(政治の季節)も重なり広く沖縄県民にも歌われるようになったのであろう。
奄美の日本復帰が「島民運動」だったことに対して、沖縄のそれは時代背景が重なった復帰「闘争」の色合いが強くなったことも見てとれる。
http://www.arsvi.com/d/oks.htm
*「沖縄をかえせ」*
作詞:土肥昭三
作曲:中島定良
編曲:荒木栄
固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
我らは叫ぶ沖縄よ 我らのものだ沖縄は
沖縄を返せ
沖縄を返せ
大学生の頃だったか、この歌を聞いて違和感が残ったことを憶えている。
その後、90年代半ば頃だったと記憶しているが、八重山民謡の大御所、大工哲弘さんが歌うこの曲を聴いて「腑に落ちた」ことがあった。
大工さんは歌詞の最後の部分を「沖縄(へ)返せ」と歌ってたのだ。「を」→「へ」に変えたのだ。そうすることによって曲の主体が「沖縄自身」となる。
つまり「を」のままだと主体は「沖縄以外の本土」なのだ。私の「違和感」はそれであったのだ。
この曲は「沖縄を日本へ返せ、と本土側からの視点で歌って」いるのだ。作詞作曲者が本土の人であるから当然のことではあるのだが。
だが、大工さんは「沖縄へ返せ」と歌うことで主体を「沖縄側へ持っていった」のである。
「沖縄を沖縄へ返せ」である。
しかしながら私の中では更なる違和感が生まれた。それは大工さんが主体を沖縄へ戻すまでウチナンチュは「主体が本土」のままのものを歌っていたというその事だ。
はたして、主体がアンバランスという「その自覚は県民にあった」のであろうか?
芸能文化の盛んなこの島々で、「復帰を願う曲」が「自らの声」としてなぜ生まれてこなかったのだろうか?
沖縄より20年も先に日本へ復帰した奄美群島にも復帰の歌がある。
タイトルはそのものズバリ「日本復帰の歌」である。地元の人が創った曲である。その歌詞からは祖国復帰への切実な地元島民の願いを感じとることが出来る。
以前、奄美地元の書店が復帰60年を記念して制作したCDを持っている。地元の人たちのコーラスとピアノ伴奏だけのシンプルな音源だが、これはまさしく「ブルース」そのものだと感じた。
*「日本復帰の歌」*
作詞:久野藤盛
作曲:静忠義
一、太平洋の潮の音は 我が同胞の血の叫び
平和と自由を慕いつつ 起てる民族二十万
烈々祈る大悲願
二、我らは日本民族の 誇りと歴史を高く持し
信託統治反対の 大スローガンの旗の下
断固と示す鉄の意志
三、目指す世界の大理想 民族自独立の
我らが使命貫きて 奄美の幸と繁栄を
断固守らん民の手に
四、二十余万の一念は 諸島くまなく火と燃えて
日本復帰貫徹の 狼煙となりて天を焼く
いざや団結死闘せん 民族危機の時ぞ今
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コメント
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告知ですいません。
「佐喜眞 淳」候補のイベントが、下記で開催されます。
1、日時:9月23日(日曜)14:00〜
2、場所:パレット久茂地前
(沖縄県庁・那覇市役所近く)
※前回の16日は菅官房長官や小泉進次郎氏が来ましたが、今回も、より多くの応援者が来る予定です。
投稿: 名無しのコメントです。 | 2018年9月20日 (木) 12時11分
アイデンティティーというものは、きわめて自己性が高いパーソナルな概念であって、人それぞれ個人の内部にて生成し完結されるべきものでしょう。
そして、肝心なのはアイデンティティーは「不変ではない」という事ですね。
復帰恊以後の沖縄返還運動に決定的な力を尽くした中村俊子氏のご子息である仲村覚氏は、著書「沖縄はいつから日本なのか」の中で、自身の中にかつてあった「不全感」について次のように記しています。
「自分は何者なのか、沖縄人なのか日本人なのか? 自らの出自に疑問を感じていた」、そうして「(歴史の洗い直しから)ある時、沖縄の人も日本民族であり、誇れる国・日本の一員であった事を知った時から、その事が嬉しく不全感はきれいになくなり、迷いもなくなった」と述べています。
私は仲村氏とほぼ同じ歴史観を持つものですが、もうすでに、過去に過ぎない歴史に振り回されるのは止めてしまって久しいので、当該部分を読んでも大した感慨はありませんでした。
ところがですね、一片の歴史を根拠として「イデオロギーよりアイデンティティー」などとうそぶく標語を掲げる県知事候補には我慢がなりません。
県民のアイデンティティを一か所に集約して、一元化しようとする行為はどういうものか?これはもう、ヘーゲル哲学から都合よく引用されたマルクス主義闘争の手法と瓜ふたつです。
現代韓国や中国でもみられるのですが、アイデンティに基づいて人々をグループ化して、しかるのちに「被害者」と「抑圧者」に分けて優位を形成し、現体制を揺るがそうとする試みだとすら思えるのです。
少なくも県民は、本来的に個人の内奥にあるべきアイデンティを、これから為政者となるべき権力者候補が言う事に関して非常な嫌悪感を示すべきです。
記事の趣旨と外れたかも知れませんが、個人個人として自身の未来を描く中で形成し直せる可能性の下であれば、「アイデンティ」もけっこう有用だとは思います。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2018年9月20日 (木) 19時36分
何度もコメしてすいません。
記事内容が興味深いので、つい。(笑)
奄美群島の復帰は平和条約締結間もなくだったので、沖縄とは事情が違うと思うのですが、島は激烈な復帰運動一色だったそうですね。
沖縄では米軍の宣伝効果もあったし、特に都市部においては念入りに福祉や生活面で厚い施策がなされていたので、掛声とは違って内心では反対者も多かったようです。
文化的にもアメリカナイズされていたと思います。
復帰すれば今よりも生活が苦しくなる、という大きな懸念もあったし、臆病だったのかも知れません。
教員天国でしたから、「基地付き」なのが気に入らず復帰恊は「復帰せず」にカジを切りました。
最後は教員出身の屋良主席が抑え切り、奄美復帰時同様心情を持つ小数の人たちの本土への直訴運動により復帰が最終的に実現したのでした。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2018年9月20日 (木) 20時16分
沖縄のアイデンティティーとは何ぞや?ということを明確に答え切れる人間がいるのでしょうか。いるとしても、その人の中のもので皆が受けいれるものではないでしょうね。
奄美では明確に日本民族であると謳われていたのですね。沖縄(特に本島)との温度差はなんだろう。私は沖縄のルーツは日本にあると確信しているので沖縄人は日本民族であるということにいささかの疑念もありません。
沖縄は琉球国以来の中途半端な封建制が今に至っているのが問題ではないかと感じています。ザビエルの時代から日本人は総じて知識欲が旺盛で新しもの好きと言われ、江戸時代には庶民文化が花開きます。
沖縄にはこういった中間層が極めて薄い。支配するものとされるもの、搾取するものとされるものに分かれてしまっているように思います。支配する側は相手が馬鹿なほど都合がいいわけですし。格差や貧困問題なんかの根底のような気がします。あくまで私個人の感想ですが。
故人ですけど、革新側の中心人物の一人に父が親しくしている方がいました(あくまで個人的なもので政治的にはほぼ関わりなしです)。その方のことを「労働貴族」と言ってましたよ。まあ、どこに行って何をするにしても自分でお金を払うことがほとんどなかったそうです。
沖縄はお金持ちが少ないわけではなく、富が一部に集中してしまっているのです。雇用者は被雇用者に適切に富を分配せずに低賃金のままにしようとする、被雇用者側も不満は言っても逆らわない一方、横並びを望み、むしろ自助努力で這い上がろうとする人間に嫉妬し足を引っ張る。その目は本土から来られた有能な人にも向けられます。で、勝手に差別意識を持つ。
これは革新側も同じ。一部に権力が集中しその他大勢を支配する。だから労働貴族なんて言われる人が出てくる。保守側も革新側も似た様なもんです。下の者は賢くない方がいいのです。
やはり大事なのは教育です。小学校からの学力を県全体で底上げすること、正しい知識を持つことが重要なのだと思います。あと、ガレッジセールのゴリさんなんかもよく言ってますけど、若い人達は一度は沖縄を出るべきですね。
ちょっと脱線してしまいました。取り留めのない話で申し訳ありません。
投稿: クラッシャー | 2018年9月20日 (木) 21時32分
山路さん
コメントありがとうございます。
以前、山路さんが「歴史はもうあきた」的なニュアンスのことを書かれておりましたが、「うん、うん」とコメントを読みながら頷きました。私もそろそろ「飽きて」来ているのですが、「ボタンの掛け違い」や「スイッチの押し違え」を何処の部分でやったのかを見極めておきたいので、もう少し掘り下げてみようと思ってます(笑)
歴史観やアイデンティティーといったことをひとつの方向から捉えて、それに「誘導」する為政者や「利権者」という視点も山路さんと同意見です。いつの世もいるのですね。私がここで「ふと」感じたことの肝は、いつまでも「そのようなものに煽られ続ける県民」の姿なのです。つまり「個の確立」が肝だと思うのです。
「個の確立」があやふやな為に「自身の声」がいまひとつ出てこない沖縄社会というところなのです。その原因を探らねば、対策対処の方向性も見えないだろうと、そのような認識なのです。
「沖縄を返せ」を大合唱する集会の動画を見ましたが、歌っている人たちの表情からは「懐メロ」を歌っているような感じを受けました。
投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年9月20日 (木) 21時51分
山路さんのコメントを読み、私が書こうと思っていたことを十分に(それ以上かも)表現してくださいましたので、もう書きません。
私の小学校時代に奄美が日本復帰しました。同級生の奄美の級友たちは喜んでいたように憶えております。ひきかえ、自分たちはいつまでアメリカ支配下にあるのかと、子供ながらに落胆したのですね(すこしませていたのかもしれません)。
山地さんがおっしゃる様に、米軍は沖縄のことを真剣に考えていた面は確かにあったと思うのですよ。そのこともあり、やがて、私には親米の感情と反米の感情が交錯してあるという複雑な状況がありました。当時は、まだアメリカの経済力が強く、戦後の貧しい日本のことを思うと、日本復帰したい情熱も当時の私にはありませんでしたね。
屋良朝苗氏は一貫して日本人であること主張していきましたね。今は、屋良氏という人物のことを見直したいと思います。当時の教職員組合が嫌いで、その長である屋良氏にも嫌悪感がありましたから。
投稿: ueyonabaru | 2018年9月20日 (木) 21時54分
クラッシャーさん
>やはり大事なのは教育です。小学校からの学力を県全体で底上げすること、正しい知識を持つことが重要なのだと思います。あと、ガレッジセールのゴリさんなんかもよく言ってますけど、若い人達は一度は沖縄を出るべきですね。
同意見です。
先ずは「読み・書き・算盤」の充実です。
そして、「おはようございます」「ありがとうございます」「申し訳ありません」「お世話になりました」と、これだけを徹底教育することだけでも沖縄は変わって行くと思います。
投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年9月20日 (木) 22時13分
宜野湾くれない丸さん
今日の記事は非常に含蓄があるというか、先の記事と全く違うやわらかさが印象的でした。
こういう繊細な表現力は、とても私にはないので勉強になりました。
歴史問題といえば、以前に「沖縄県の後進性は旧慣温存に由来する」旨のコメントをされていた(私も同意見ですが)と思いますが、その点についても機会がありましたら記事にてお願い出来ますと嬉しいです。
投稿: 山路 敬介(宮古) | 2018年9月20日 (木) 22時34分
沖縄を返せの歌は、私には大変に懐かしいものがあります。当時の復帰運動はこの歌なしには語れません。
復帰懐疑派であった私ではありましたが、この歌を多くのデモ隊が国際通りで歌っているのを何度も聴いておりました。復帰運動のことをこの歌とともに思い出すんです。デモの方々は明るい表情で元気がありました。純粋だったと思いますよ当時は。ところが、復帰運動はだんだんに左へ旋回し、終いには反復帰運動に代わってしまいました。これは、残念なことでした。前進歌という歌もあり、これが私は好きでした。
投稿: ueyonabaru | 2018年9月20日 (木) 22時35分
山路さん
お褒め頂きありがとうございます。
文章を褒められることはあまりないので、何だかこそばゆい気がします。
「旧慣温存」、根掘り葉掘り、だらだらと勉強中です。
今後ともご指導のほどお願いいたします。
投稿: 宜野湾くれない丸 | 2018年9月21日 (金) 00時09分
宜野湾くれない丸さん、昨日の寄稿ありがとうございました。
アイデンティティという難しい問題を、このような含意あるエッセイで書いていただいて、嬉しく思いました。
ぜひまた宜しくお願いします。
「名無しのコメントです」さん。管理人として告知は認めていません。ここは掲示板ではないからです。
私も佐喜眞さんを強く支持する者ですが、が故にこのようなことはやめて下さい。
もし佐喜眞氏支持を書きたいのなら、ご自分の意見を開陳した上で最後に告知を乗せるようにして下さい。
宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2018年9月21日 (金) 03時08分