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2018年11月14日 (水)

山路敬介氏寄稿 植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟と司法消極主義その3

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山路氏寄稿の3回目となります。今回で終了です。ありがとうざいました。

この論考で山路氏が指摘されている、「司法消極主義」の復権を印したこの判例は歓迎できます。

司法は万能ではありません。裁判官は超越的審判者ではありません。

あくまでも法の定める範囲と、判例に基づいて謙虚にそれを審判する法律家にすぎません。

しかし伝統的に左派は、政治課題をあえて法廷に持ち込み、有利な判決を勝ち取ることを闘争の火にくべるガソリンとする戦術を多用してきました。

しかも、近年はこれに自ら同調する裁判官も多数現れ、再稼働をめぐる一連の非常識な判決を残して行くことになったのはご承知の通りです。
関連記事「福井地裁判決  司法のひとりよがり」
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7e85.html

そしてこの風潮に便乗して、言論批判を名誉棄損として訴えるような訴訟が相次ぎました。

ひとつがこの植村訴訟であり、今ひとつが朝日が起こした小川栄太郎氏への訴訟です。
関連記事『朝日は「物言えぬ社会」を作りたいのか』
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-c79c-1.html

いずれも、司法が裁く対象にならない政治案件を法廷の場に持ち込んだものです。

裁判官は歴史家でもなければ、モリカケ問題を裁く立場ではありません。

そもそも法律で言論内容は裁けないのです。

できるとすれば、原告の「被害」と言論との因果関係が物証をもって立証された時に限定されます。

たとえば桜井氏が当該論考の中で「植村を社会的に抹殺しろ」などと読者を煽動していたら、判決もまた違ったものとなっていたことでしょう。もちろんそのような事実はありません。

札幌地裁判決は、山路氏が述べるように、植村氏の「被害」と、桜井氏の言論による「名誉棄損」の因果関係を冷静に切り分けた上で、バランスのとれた判決を下しています。

悪しき司法優越主義が跋扈する中、まことに心強い判決でした。

隣国において司法は政府間の条約をも優越するがごとき判決がでている時期に、一服の清涼剤に感じました。

                                        ~~~~~~~~  

        ■ 植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟と司法消極主義 その3
                                                                                                     山路敬介
 

承前  

■ 日本の司法は韓国と違い、正しい「司法消極主義」である事

「司法消極主義」というと、その語感から何やらネガティブなイメージがわくと思いますが、そういうものではありません。
 

多分に「保守的である」とは言えるでしょうが、むしろ法律の文言やこれまでの判例、立法の精神を逸脱する事はせず、立法府や行政府の判断も尊重し、違憲性が明確でないかぎり突飛な判断を下さない点や、優れた一般常識を有している点で「全国民的」と言えるでしょう。 

この対極にあるのが最近の韓国の司法の在り方で、これを「司法積極主義」と呼称する事はいささか判断に迷いますが、まぁ、ご存知のようにああいうものです。

今回の植村名誉棄損訴訟においての原告の植村隆氏の主張は、まことに情に訴える部分と「朝鮮民族に対する無謬性理解」による拡大解釈が多く、かつて前翁長沖縄県知事が「取り消し訴訟」でした「魂の飢餓感」の如くの戯言ような、かつ被害者意識丸出しの拙いものでした。
 

このような主張は韓国においてならば、そのまま認められて然るものでしょうが、今回の判決は植村氏が受けた「被害」と、「名誉棄損」という法律の運用上確定された解釈を見事に切り分けた優れた判決だったと言えます。

瞥見するところ、米国における合衆国最高裁はリベラル派と保守派に色分けされており、リベラル派が制している時期に数々の新しい価値判断が生まれており、これが日本の潮流にも明らかに影響を与えてます。
 

これらの判断はおそらく米国民全体のコンセンサスとは言えず、それがゆえに「分断が生まれている」とも言えると考えます。

この問題の所在は、立法府である議会においての議論が低調であったり、または決着がつかない場合において最高裁の多数がそれを決してしまうところにあり、私はそれが米国の衰退に婉曲に大いに繋がっていると考えるものです。(発祥は欧州なのかも知れませんが)

そうしてみると、トランプ氏が最高裁判事を決める権限がある上院で逆風のなか共和党が多数を占める事が現実となった事をして、これを大統領自身が「歴史的勝利」と評したのは、むべなるかなと考えます。

かえりみれば、我が国の左派が提議する訴訟というものは、いつもこの「司法積極主義」を待望し、促すものでした。
 

しかし、裁判官は万能の「神」ではないし、国民の意思が反映された「選良」でもありません。 

そうであれば裁判官において事例に則った、いわゆる「保守的」である事は必須の条件であり、立法府における役割をも裁判官が担うべきではありません。 

そうした意味からも今の司法の在り方は肯首でき、今回の判決も納得出来るものだったと考えます。

 

 
                                     文責 山路 敬介

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コメント

よそ者ですが…言論の自由が認められるなら、尊重願います。
こちらのサイトは政治・外交等について詳しく解説されていて、毎日参考にさせてもらってます。
ただ、原発問題については納得いかないです。まず思想洗脳戦争から離れて、客観的に見ることが重要と思います。日本の司法は『法服の王国』という本で書かれてあるように、最高裁判所の事務局が仕切ってますので、結局のところ最高裁では問題の出る判決はでません。裁判官は一人一人独立しているので、たまに裁判官人生を棄てても骨のある判決をする人もあります。空母レーガンの被曝のテレビドキュメントを見てはっきりしてますが、原発公害は重症です。
私は、今の軍事環境で潜在的核武装を棄てるのは得策でないとも思います。ただ、原発の数は減らし、太陽活動低下にともなうマントル活性化による大地震・火山噴火に対する安全保障上の対策を至急行ってもらいたいです。
平成天皇は、水俣を訪れ、水俣は見捨てられたんですねと2回ご質問されたとのこちです。そして、二度と繰り返してはならないとおっしゃられたそうです。福島では、どうなんでしょう。

>かえりみれば、我が国の左派が提議する訴訟というものは、いつもこの「司法積極主義」を待望し、促すものでした。
今回も勉強になる記事をありがとうございました。
上記アプローチは時代に法が追いつかない事例に対して世論が形成されるのをマスコミがキャンペーンする、というパターンで成し遂げられてきました。
保守的消極的な判決が出ると人情にひっかけて大騒ぎが巻き起こるのですが、裁く者も人だからこそ法に対して保守的であるべきです。記事最終段落部分その通りだと思います。

判事の手に余る専門知識が必要な原発問題とは違い今回の名誉毀損は理路整然と整理がついてしまうので、植村氏側の弁護団も勝つ目算は低かったのではと思います。負け戦でも100人の弁護士が手を挙げることが彼等の実績というかいわゆるアクションなんでしょうかね。

オイラーさん、こちらの管理人さんは原発再稼働を必要最低限で水力などを再考する記事を挙げてらっしゃいましたよ。オイラーさんのご意見と対策については似ているかと思います。

オイラーさん。私の地域も被爆したので、私も原発削減論者です。
ただし私は原発ゼロか、それとも原発大国かという二者択一はえらびません。
原子力は完全な技術ではないことは明らかで、徐々に削減させていくのか望ましいと思っています。

原発ゼロを急ぐあまり、今の社会や経済に打撃を与えてしまってはなんにもならないからです。それは北海道全域の停電で改めて立証されたと思っています。

原子力を徐々に削減し、他のエネルギーに置き換えていくためには、逆説的ですが、ベース電源として原発を一挙にゼロにできないのです。
それをすると、今の多くの電力会社のようにやむをえず極端な火力依存シフトになってしまうからです。

ですから、一定数の原発を規制委員会が安全を認めたものから再稼働しつつ、リプレイスしながら少しずつ減らしていくのが賢明な道だと思います。

原発事故と再生可能エネルギーについては福島事故後から膨大な記事を書いてきていますので、カテゴリーの「原子力事故」と「原発を真面目に終りにする方法」を検索してください。

  記事の補足になりますが、

今回の判決は、植村記事について櫻井氏側が「ねつ造」と論評した事には「理由」があるし、そこに一定の合理性も認めたものとなりました。

そして、「なんで植村がああいう誤った記事を書いてしまったのか?」という、我々の素朴な疑問に対する植村側からの回答も訴訟中にあったと思います。

それは自分の間違いに対する謝罪というよりも、「植民地支配をはじめ歴史的に差別されてきた朝鮮人に対して、さらに日本人は特別な配慮をすべき。ならば、そういう地点から記事に角度をつけて書くことも当然だ」という開き直りでした。

ですが、戦後70年をすぎ21世紀に入り平成も終わろうとしている現在において、また韓国人自身が「日本に伍して(あるいは日本以上に)躍進している」と考さえしている昨今にあって、そうした感覚はいかにもナンセンスだし、逆に低い者を高い位置から見下したような「横柄さ」さえ感じられます。

私にせよ「今や朝鮮人差別は全くないのだ」とは言えませんが、京都朝鮮学校訴訟などでも明らかなように、もはや個別法で十分対応できるレベルにあります。重ねてヘイトスピーチ対策法も制定されました。


ところで私は、植村氏らの「おかしさ」というのは、彼らの表立った主張から来るだけのものではないと思っています。
植村氏は配偶者が韓国人である事から特別に「韓国愛」が強い事情があるのかも知れませんが、朝日新聞全体として見渡すならば、慰安婦問題での失敗はまさに彼ら自身の「自己愛」に起因するものだと考えています。

自己を道徳的に一般の日本国民よりも高い位置に置く事こそが最大の眼目で、その為には最弱の「敗戦国たる日本」という相対的な敵がどうしても必要不可欠で、かつそれを永遠に使えるカードとして熱望しています。
それゆえ一生懸命に日本を貶める作業に専心しているのであって、朝鮮人問題はそのために用いられる「一つの軸」にすぎないものでしかありません。
それなしに彼らの満足感が得られないのだし、あのヒステリーぶりというのも理解出来ません。

ゆえに彼らにとって、櫻井氏や西岡氏の言説というものは「ねつ造」云々の問題というよりも、自身に対する「人格否定」なのであって、あのような過剰反応につながるのだろうと考えます。

司法システムの健全を維持するためにも裁判官の国民審査の精度は必須なのですが、その参考となる情報ソースがロクにないのは困った問題です。
地裁レベルにおいては審査の存在すら報じられない事もよくあります。
今どきは名前で検索をかければある程度の情報の収集も可能ですが、三権を司る重要な機関がそのようなおざなりなチェック体制のままでいいのか疑問を感じずにはいられません。

山路さんへ
「日本人は特別な配慮をすべき」
これは韓国や親韓の方々の常套句ともなっている言葉ですね。
この「特別」こそが逆差別に繋がる意味を含んでいる事を言葉を用いている人は気付いているのだろうかと私も常々疑問に感じています。

結局は自国の安定を邪道とも言える他国を貶め得られる優越感で補塡してきた政治的怠慢の結果が今の韓国であり、その手段が限界に近づいた現在、次なる希望を「南北統一」という更にタチの悪い幻想に求めているように見えます。
国家間の重要問題にまで発展しかかっている徴用工判決に関して未だに大統領が一言もコメントを発表できないというのはあってはならない責任放棄だと思っています。

管理人樣コメント有り難うございました。記事をよく見てみます。

この裁判の異常さは、2014年12月発売の月刊文藝春秋誌に植村隆氏の長文の手記が掲載された直後の、2015年1月に植村隆氏がその文芸春秋社等を名誉毀損で訴え、さらに櫻井よしこ氏らを同じく名誉毀損で訴えたことでした。

自分の主張をそのまま掲載してくれた雑誌を相手に、その直後に裁判を起こしたのです。つまり、自分の主張はするが、自分への批判は名誉毀損だ、許さないという態度です。これがジャーナリストのすることか。氏にとっては“利用できるものは利用してやれ”というかもしれません。が、私には、この行為は命取りになる、とその時に感じました。

植村氏のとって気の毒なのは、植村氏が朝日新聞社を退職した後で、朝日新聞が慰安婦報道(の一部)を取り消したことです。当時彼は朝日の慰安婦報道の象徴として一部勢力の批判にさらされていました。

朝日への批判はもっぱら当時の社長に向かい(社長は辞任)、社を離れた植村氏は、その署名記事への批判を直接個人で受けることになったからです。ある意味、彼にとっては朝日にハシゴを外されたも同然だったのではないでしょうか。

とは言え一連の彼の行動から、彼には署名記事を書くということの自覚、つまりその記事は個人として責任を持つということ。そして、言論には言論で、という批判の応酬を前提とした、言論人としての覚悟が無かったことが露呈したと思います。

山路さんの指摘通りだと思います。
朝日新聞にとって日本は残酷で罪深い国でなくてはならないのでしょう。
戦後GHQに睨まれるや手の平を返すようにおもねり始めた無様な姿を
何とか誤魔化そうという一種の自己防衛なのではないでしょうか。

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