« 日曜写真館 紅の奔流 | トップページ | パリは燃えているか? »

2018年12月 2日 (日)

日曜雑感 紅葉と虫の音から見る日本人

1812_011
紅葉も終わりの時期となりました。

終わり行く秋に名残を惜しむかのように、夜ともなると、まさに満天の星の下に何種類とも知れない虫の声です。

今、「虫の声」と言って、ふとかつて読んだ和辻哲郎さんの「風土」(岩波文庫)という本を思い出しました。

和辻さんは欧州に行った時に、欧州の夜に「虫の声」が聞こえないことに気がつきました。

そして欧州人が、私たち日本人がこよなく愛する虫の音を、単にノイズとしてしかとらえていないことに驚かされたことを書いています。

紅葉も同じことで、欧米人には紅葉を愛でる感性が希薄です。

ましてや日本人のように、紅葉の季節ともなれば、大挙して紅葉の名所にもみじ狩りに行くなどという習慣は、彼らの想像を絶するのかもしれません。

私たち日本人は、この列島の褶曲の多い、霞たなびく山がちの島国の中で特異に発達した感性をもった民族なようです。

そう言えば面白いことに、日本人は外国に移民してしまうと、日本で生まれ育った1世の世代は頑として日本人そのままですが、2世、3世ともなると急速に現地化が進みます。

現地の人に溶け込んでいってしまうのです。これは同じ中国や韓国系の移民集団と比べると、明らかに違いがあるそうです。

一方、日本に移住した韓国系のひとたちなど3世ともなると、民族意識はあるもののどこから見ても日本人です。

どうやら日本人、あるいは日本に住む人達は、この日本という風土に居る時において「日本人らしさ」を持っているのかもしれません。

和辻さんは、日本の「風土」をこのように美しく説明しています。

「気候もまた単独に体験せられるのではない。
それはある土地の地味、地形、風景などとの連関においてのみ体験せられる。寒風は山おろしであり、からっ風である。
浜風は花を散らす風であり、あるいは波をなぜる風である。夏の暑さもまた旺盛な緑を萎えさせる暑さであり、子供を海に雀躍せしめる暑さである」
「我々は花を散らす風において歓び、あるいは痛むるところの自身を見いだすごとく、ひでりの頃に樹木を直射する日光において心を萎えさせる我々自身を了解する。すなわち我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を見いだすのである」

私はこの列島で生まれ、育ったことを嬉しく思います。そして私は骨の髄まで「日本人」なんだなと苦笑します。

« 日曜写真館 紅の奔流 | トップページ | パリは燃えているか? »

コメント

お久しぶりです。相模吾です。
先日の霞ヶ浦の夕陽といい、燃える紅葉といい見事ですね。たのしく拝見しました。
日曜雑感は紅葉と虫の音でしたが、確かに日本人にとって虫の音は生活のうるおいであり、季節の移ろいを感じたり、気持ちを表すツールであったりしますね。芭蕉の「岩にしみいる蝉の声」なんて表現は短い言葉に見事に夏と芭蕉の心象を表現してますよね。 写真がその一枚に、情景や自分の気持ちを表現するのに似ています。光の使い方と場面の切り取り方に歌(音)とは差があるにしても、感性は同じなのかな。また楽しい写真をお願いいたします。

能の理論書にして日本と日本人の美学の古典と云われる世阿弥の「風姿花伝」では、能者の老年期を指して「麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり さりながらまことに得たらん能者ならば 物数は皆みな失せて 善悪見どころは少なしとも花はのこるべし」とあります。
駑馬(どば)とは鈍才を指す比喩ですね。

どれ程の極みにあってもやがて衰え失せ行くことに美しさを見つけ、失せてなお残る何かを目指したり感じ取ったりするのが日本人の特徴のひとつですね。
例えそれを意識していなかったとしても。
旅行者や移住者からは四季を感じないと言われることもある沖縄ですが、本土と時期や種類が違うだけ。
植物や昆虫や鳥、イノー(焦湖)の様子や風などの移ろいが生活と共にあるのは、管理人さんもよくご存知のことですよね。
例え愛でるのを忘れかけた人でも、棄ててはいない…

日本の落葉はハラハラと散るまでが長く、初夏は蛙、盛夏に蝉、初秋めいてはリンリンと草原の虫たちが耳を楽しませてくれますね。あと川辺のせせらぎ。
大陸のそれはダイナミックなだけに、彼等も紅葉も楽しむんですが何せドサドサとあっという間に落葉するので愛で方が違いますね。欧米の乾いた地方には鳴く虫が元々少ないのかなとか、思っていました。
ほんの数年ずつしか海外暮らしはしていないのですが、戻って来て日本の秋をむかえるたび、このちんまりとした和む風情に、ああやっぱり良いなあと実感したものです。
土地と気候にあう文化や生活スタイルがそれぞれあり、私も若い頃和辻氏の本を読みその風土観に感銘を受けて大人になりました。
これからの日本人の定義というのは見た目はずいぶん変わっていくのでしょうが、この土地で季節を重ねて繰り返される自然災害を乗り越える中で、人が繁栄のもとに住み続けるなら日本的なものの真髄は失われる事なく時代によって磨かれてゆくのだと思っています。

日本人とポリネシア人だけらしいです。
ほとんどの民族は虫の声を右脳で認識するが、日本人とポリネシア人だけは左脳で認識しているというのだ。そのため、多くの民族には虫の声は「雑音」にしか聞こえない一方、日本人とポリネシア人には「言語」として認識されるとのこと。
詳細は下記を参照してください。
https://tocana.jp/2017/04/post_12883_entry.html

雑感たろうさん、興味深いリンクありがとうございます。
虫の鳴き声を“声”として認識する原因は、民族的な遺伝にはなく、その人の母語に秘密がある
というのはびっくりですが納得いきますね。

先の自分のコメント中の漢字変換ミスを今発見。
正しくはイノー(礁湖)
失礼致しました。

あ!私も虫の声を左脳で聞くということが腑に落ちる感じ。
昆虫でなく爬虫類だけれど、私にはヤモリの鳴き声が言語に聞こえて、いつも話しかける…

非常に無粋で申し訳ないけど、紅葉などのはっきりした四季の移り変わりや自然を得る「代償」として、毎年毎年各時期こうまであらゆる種類の自然災害に遭う、それも激甚化が進んでいる昨今、一年中月平均気温一定の「常春の国」の方がマシだと思うのです。世界にそんな都市があるのかと調べたら、赤道直下だけど高地にある南米の各都市や近場で言えば中国の昆明等。国で言えば「火山なし地震なし原発なし」がモットーのマレーシアあたり。もちろん経済文化治安等は全く違いますが

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 日曜写真館 紅の奔流 | トップページ | パリは燃えているか? »