初め美しき夢の如し、やがて哀しき悪夢かな
この間、移転について、かつての当事者だった人の証言がいくつかでています。
移転が橋本政権から打診された時の知事は大田昌秀氏でしたが、その後を受け継いで具体化に務めたのは稲嶺恵一氏でした。
氏の手記が公表されています。
(「稲嶺恵一独白「『反対』だけでは沖縄の声は届かない」2018年10月1日)
https://ironna.jp/article/10825
「私は1998年の沖縄県知事選で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「条件付き県内移設」を掲げ、現職の大田昌秀知事を破り、99年に辺野古(名護市)への移設を正式に表明しました。私にとって苦渋の選択でしたが、もちろん県民の方々にとっても苦渋の選択でした。
物事には理想論と現実論がありますが、あの時は、現実論を考えた場合、沖縄が苦渋の選択をしなければならないのではないか、と県民のマジョリティー(多数派)がそう考えたということです」
稲嶺氏は「苦渋の選択」と書いていますが、移転を打診された場に同席した江田憲司氏はこのように述べています。
(「独占手記」江田憲司が初めて明かす普天間合意「23年目の真実」)2019年2月19日)
https://ironna.jp/article/11987
橋本首相と大田知事https://www.asahi.com/articles/photo/AS20170612003
当時江田氏は橋本氏の秘書官をしていました。評判は、まぁご想像どおりあまりよくはありません。あの高慢ちきな官僚口調で将軍側用人を務めたようです。
それはさておき、当時の雰囲気が分かって興味をひきます。
「私には、今でも忘れられない光景がある。時は1996年12月4日。場所は沖縄県宜野湾市のラグナガーデンホテル。当時の橋本龍太郎総理と沖縄の基地所在市町村長との会合でのことだ。
その場を支配していた雰囲気は、感涙にむせび、その涙をこらえる嗚咽(おえつ)ともつかない声で満ち満ちていた。そして、この会の最後に発せられた地元新聞社社長の言葉が象徴的だった。
「こういう雰囲気は、40年のマスコミ生活を通じて空前の出来事だ。これまで沖縄は、被支配者としての苦悩の歴史だった。橋本総理、本当にありがとう。どうか健康には留意してください、それがここにいる皆の願いです」
橋本総理の沖縄への篤(あつ)い思い、真摯(しんし)な向き合い方が、ヤマトンチュ(本土人)とウチナーンチュ(沖縄の人)の厚い壁を初めて打ち破った! と心の底から感じられる、そういう「歴史的瞬間」だった」(江田前掲)
この地元紙社長とは沖縄タイムスだろうと思いますが、今の沖タイの記者諸君に読ませて上げたいものです。
今となっては「ウチナンチューの厚い壁を打ち破って真摯な心で向かい合った」と自己陶酔されても困りますね。
この後、この陶酔は速やかに覚め、基地利権、土木利権、利権配分、政治的思惑がからみあったジャングルのような様相を呈します。
それも実に23年間!オギャーと生まれた赤子が23歳のいい若者になっています。そしてまだこの先10年は移設問題に足をとられるでしょう。
今や移設問題は本土と沖縄、日本と米国を分断させるベルリンの壁ならぬ「ヘノコの壁」と化しています。
橋本氏が「打ち破った」のは、ただのパンドラの蓋の封印だっただけのことです。
江田氏は陶酔気味に、当時の地元自治体の「熱い感謝の言葉」を紹介しています。
「那覇市長「総理は沖縄の心を十二分に理解してくれている。その情熱が心強い」
名護市長「沖縄に『お互いに会えば兄弟』という言葉があるが実感した。沖縄の痛みがわかる総理に初めて会った。あとは感謝で言葉にならない」
宜野湾市長「一国の総理が心を砕き、我々の国政への信頼が倍加した。普天間基地の跡地開発をしっかりやりたい」
金武町長「希望が見えた。町民全体が燃えている」
読谷村長「日本の生きた政治を見る思い。村長をして22年になるが、総理が初めてボールを沖縄に投げた。もうやるしかない」(江田前掲)
今は「新基地を押しつけられた」として、本土政府の暴虐の象徴のように扱われている移設施設が、当時は「感謝で言葉にならない」とまで絶賛されていたのがわかります。
この大田-橋本両氏の結びつきは強く、橋本氏は財界中枢の諸井氏を大田知事に「特使」として送り、さらにはモンデール駐日大使を動かし、クリントンにまで話をつけたという秘話を稲嶺氏は述べています。
江田手記に至っては、当時の上司であった橋本氏を褒めちぎり、返す刀で安倍氏を「このような橋本氏の情熱がない」と斬って捨てています。
あのね、江田さん。状況がまったく違うのですよ。具体的中身が見えない分だけに、美辞麗句の総論にすぎないからです。
口開けはそりゃあ気持がいいでしょう。橋本氏が沖縄を愛し、負担を減らそうと善意で試みたこと自体は真実だったからです。
しかしその「善意」も23年もたてば、当事者の多くが鬼籍に入り、一体なにが始まりの動機だったか忘れられてしまいます。
さて総論から各論にはいるやいなや、利害対立が露呈します。それはどこにでもある話で、美しい理想から現実の泥の中に手を突っ込んだからです。
その交渉がいかに悪路の連続であったのかは、防衛事務次官だった守屋武昌の『普天間交渉秘録』をお読みいただければお分かりになるはずです。
稲嶺恵一元知事
https://ironna.jp/article/10825
次の県知事となった稲嶺氏はこう書いています。
「辺野古は、軍民共用で、将来は返還してもらい、基地を財産として使うこととし、固定化を避けるために「15年」という使用期限をつけました。あの時はまだ「最低でも県外」という鳩山由紀夫氏の発言がありませんでしたから、反対が60%程度だったわけです。十数パーセントが、こっちに賛成してくれれば進めることができる状況でした」(稲嶺前掲)
「反対が6割」、これが現実の壁でした。あれだけ感謝の涙を流した首長たちは、それぞれの御家の事情で反対に回っていました。
自分のところに来ない限りは総論賛成、来たら突っぱねて突っぱねまくって、更に逃げ場がなくなれば、ゴネてゴネて自分たちの要求を通す、これが移設候補地探しの実態でした。
今の辺野古埋立案も、メガフロート案は地元業者が「自分らはペンキ塗りくらいしか仕事がない」とゴネてボツ。
もっとも現実的だったシュワブ陸上案すら、土砂を入れて埋め立ててなんぼだと反対されてあえなくボツ。
つくづくこの陸上案に決着すればよかったと思います。ジュワブ敷地内の整備で済みましたからね。
今、埋立用地が軟弱地盤だと鬼の首をとったように反対派が騒いでいる水深90m問題も、とっくに分かっていたことです。
それを工事する特殊な船がないと言われていますが、そんなことは外国から借りてきてもやるでしょう。
もちろん、その工法変更についてデニー知事がゴネるのは必至ですが、そんなことは日常茶飯事で、政府は慣れっこにすらなっています。
結局、海上フロート案もダメ、陸上案もダメで、やむなく漁協をと困難な交渉の結果、着陸したというわけです。
まさに20いくつかの候補の消去法による決定にすぎませんでした。
埋立案に決まってからも、最小の埋立で済ませようとする政府案に対して、更に沖合まで埋立るように言い出したのは名護市です。
埋立を要求した当の地元の名護市と土木業者がゴネまくったからです。
もっと埋立面積を増やせというのですから、これも絶対反対を唱えた稲嶺前名護市長にお聞かせしたいものです。
これは埋立事業ほどぼろい儲けがないのは事実だからで、本島沿岸のそこかしこは虫食いのように埋め立て地だらけです。
名護市の要求どおり市街地をはずして飛行ルートを定めたために、飛行場のキモである滑走路がわずか1300mという短さという結果になりました。
そのうえ共産党を中心とした基地反対派の反基地運動が、これにからめばもうワヤです。
何度となく書いてきていますが、辺野古埋立案は下策でした。環境的にも軍事的にも最善とはほど遠い案にちがいありません。
それは本来対立する関係者の利害を無理やりにまとめた必然的結果でした。
その始まりは冒頭の江田手記にあるような、「(沖縄関係者が)感涙にむせび、その涙をこらえる嗚咽」の中から生まれたのです。
そしてすったもんだのあげく、鳩山氏がすべてを破壊します。
都合よく誤解されているようですが、安倍政権は鳩山政権の閣議決定を踏襲しているにすぎません。
稲嶺氏はこう書いています。
「ところが、私の次に知事に就任した仲井真弘多さんの時代に、当時首相だった鳩山さんの「最低でも県外」発言があり、県民の意識を変えてしまった。政府がその気になればできるのではないか、沖縄が苦渋な選択をしなくて済むと。あの時、マスコミにあの鳩山さんの発言をどう思うかと聞かれて、私は「覆水盆に返らずです」と答えましたね」(稲嶺前掲)
稲嶺氏が言うように、あの鳩山氏の「最低でも県外」発言は、長年作ってきたガラス細工のようなグゾーパズルを粉々にしてしまいました。
残ったのは、「政府が出来るといったんだから県外は可能だ」という「夢」です。ただし、それは現実性に欠けた白昼夢にすぎませんでしたが。
言った当の鳩山氏自身が裏切るのですから、いかにいい加減な「熱い思い」だったかわかります。
「枝野官房長官「少なくとも、現時点でアメリカ政府と日本政府それぞれの執行機関同士は、去年5月に日米合意がある。我が国政府としては、沖縄の負担を速やかに軽減するとの考えの下で合意を着実に実施する方針に変わりありません。(略)
普天間基地の辺野古への移設をめぐっては、沖縄県の理解が得られていない。また、普天間基地の代替施設の設置や工法などを決めるため、先月に予定されていた外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会も延期されるなど、実現の見通しは全く立っておらず、普天間基地の固定化が懸念されている。」(2011年5月11日日テレ)
http://www.news24.jp/articles/2011/05/12/04182610.html
すっかりハト氏は忘れているようですが、辺野古移設を閣議決定したのは他ならぬ鳩山政権であって、以後の政権はそれを継承しているにすぎません。
それを今になって枝野氏のように、「元々反対していたんだ、党名が変わったから許される」、などと言うのは、国民をバカにするのもいいかげんにしてくれと言いたくはなります。
稲嶺氏は諸井氏との記憶に寄せて、こう締めくくっています。
「諸井さんは私にこう言ったことがあります。「稲嶺さん、国民の60~70%のコンセンサスが得られないものについては、いかに沖縄がどんな大きな声で、沖縄だけで言っても、通りませんよ」と。
会うたびに何度も言っていた。多く人は、ただ反対するだけだったり、逆に甘い言葉はよく出ます。でも、沖縄のために、きれい事ではなく、本当の話をしてくれる人は少ない。
(略)
)国民のコンセンサスを得るためには、沖縄が一つにならならなければ実現できないでしょう。
今、大切なのは、沖縄を一本化して、国民のコンセンサスを得られるように努力することです」(稲嶺前掲)
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