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2019年3月29日 (金)

ヴァイツゼッカー演説 ドイツの反省のトリックとは

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またまた韓国国会議長のムンヒサンがこんなことを言い出しています。

「文氏は「発言の趣旨は『戦争犯罪や人倫に関する罪は時効がない。ドイツが敗戦国でも欧州の長なのは、全ての問題に謝罪し、現在も続けているからだ。心のこもった謝罪が最も重要だ。安倍晋三首相や安倍首相に準じた日本を象徴する国王(天皇)が慰安婦のおばあさんを訪ねて、申し訳なかったと一言言えば、根本的な問題が解決する』という話だった」と述べた[」(朝日3月27日)
https://www.asahi.com/articles/ASM3W3GB4M3WUHBI00S.html

こんどはドイツがでてきました。このムンの「誤解」は、日本を「歴史修正主義」としてバッシングする欧米や日本の左翼、そしてそれに乗った韓国の定説の上に成り立っています。

この人たちは、ドイツが大戦中にいかなる戦争犯罪をしたのか、その結果をどのように引き受けたのか、引き受けなかったのかについてまるで無知です。
ろくに調べもしないで口にしているために、あっさりとドイツの手の込んだレトリックにだまされているだけのことです。

それはギリシアが財布が苦しくなると戦後賠償を求めていることでもわかりますが、ドイツは一国たりとも戦後賠償に応じたことはありませんし、彼らドイツ人が唯一謝罪したのはユダヤ人虐殺という「自国民殺し」でした。
当初はユダヤ系ドイツ人のみを隔離収容していたのが、占領地拡大に応じて他国のユダヤ人強制収容に発展し、さらには処置に困って大虐殺へと拡がったのです。
このようにナチスのユダヤ人虐殺は、ただの戦争犯罪ではありません。

ドイツの罪を贖ったとされて称賛されているヴァイツゼッカー大統領演説をていねいに腑分けしてみれば、「真摯な謝罪」とされるこの演説がすべての罪をヒトラーになすりつけて口を拭ったことがお分かりになるでしょう。

こんな「日王は頭をすりつけて謝罪しろ」というようなムン如き男が、韓国では知日派だそうですから、やりきれません。
これは天皇を政治に介入させろという要求であって、明白な憲法違反です。
韓国と断交するかどうかは別にして、こんな天皇の地位をはき違えたうえに、「日王」と侮蔑する公人がいる韓国などは、そもそも新天皇の即位を言祝ぐ即位式に招待するべき資格を欠落させています。

差し押さえの実害が及んだ時に、直ちに報復できるような法整備も必要ですが、そろそろ大使召還を実施すべき時期ではないでしょうか。

ドイツの戦後謝罪について書いた2015年2月13日の記事を加筆し改題して再録します。

※タイトルを何回も替えてすいません。悪い癖です。

                                                             ~~~~~~~

戦後ドイツがこの「人道に対する罪」を、どう贖ったかみてみましょう。
たぶん、戦後補償について書かれた本のすべてに登場するのが、この余りに有名な1985年5月のドイツ連邦議会におけるヴァイツゼッカー大統領の一説です。

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ヴァイツゼッカー大統領 https://www.huffingtonpost.jp/2015/01/31/weizsacke...

やや長文ですが、引用します。

「我々は、戦いと暴力支配とのなかで斃れた人々を悲しみのうちに思い浮かべる。ことに強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人・・・ソ連・ポーランドの無数の死者・・・命を失った同胞・・・虐殺された・・・シンティ・ロマ(ジプシー)、精神病者・・・銃殺された人質・・・ドイツに占領されたすべての国の抵抗運動の犠牲者を。
罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばならない。全員が過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされているのである。
過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険にも陥りやすいのだ。
 若い人たちにかつて起こったことの責任はないが、その後の歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任がある。若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないように。敵対するのではなく、たがいに手を取り合って生きていくことを学んでほしい」(永井清彦訳)

もはや神話的な演説です。その文学的修辞の格調の高さに世界が感動の涙を流しました。

この有名な「過去に眼をとざすものは」の一節は、実は長い演説のごく一部なのですが、ここだけかピックアップされて取り上げられ 日本 の歴史認識を批判する場合の定番となりました。

「この一節を日本で最初に見出しにしたのは、岩波書店の雑誌世界1985年11月号で、朝日新聞も同年11月3日にコラムで取り上げている 岩波書店はさらに、1986年2月に演説全文を掲載したブックレット、1991年には単行本を出版している。この頃からこの一節が有名になり、歴史認識で批判するのにも使われるようになった」(ウィキ)

この部分は繰り返し各国のメディアによって流されて、「ドイツ人は過去のホロコーストと侵略の歴史を直視し、若き世代もまたそれを背負って生きていく。それがドイツ人が犯した大罪の償いなのだ」と、国際社会は受け取りました。

しかし、この演説の原文テキストを当たれば、そこにはさまざまな「趣向」が凝らしてあることに気づくはずです。ざっと読んだだけでも、この演説は意識的な混同をしています。

たとえば前段のユダヤ人虐殺と、ソ連、ポーランドの侵略に伴う死者を一緒にしていることです。
これは私が繰り返し述べたように、一般的戦争犯罪と、ユダヤ絶滅政策をあえて一緒にすることで、本質をボヤかすトリックです。
演説テキストは長文であり、しかもこの部分は前後を読まないと理解できない仕組みになっています。

ヴァイツゼッカーは、謝罪などしていないのです。
阿部賢一氏よるhttp://www.tulip.sannet.ne.jp/ken-abe/rondan-2014-07.html

たとえばヴァイツゼッカーは、単純な第2次世界大戦への謝罪を述べたのではなく、巧妙にドイツ民族、あるいは国民一般もまた、ナチスの被害者だったのだと言っています。この部分に注目してください。

しかし日一日とすぎていくにつれ、5月8日(※ドイツ降伏の日)が解放の日であることがはっきりしてきました。(略)ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります」

ドイツ国民は負けたのではなく、「解放」されたのだと、言っています。ここが重要なポイントです。え、負けたのはナチスであってドイツ国民ではないですって。

ヨーロッパ全域に対する侵略行為、そしてユダヤ民族絶滅もまた実行犯はナチスであって、それは極少数派だったのだと言っています。
ホロコーストも、大部分の国民はそれを知らなかったし、ましてやそのとき生れてもいない若者には責任をとりようがないのだ、と言っています。
その原文はこの部分です。

「ユダヤ人という人種をことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です」
「一民族に罪がある、もしくは、無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まったく生れていもしませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません

ヴァイツゼッカーは、あくまでも「集団的罪」ではないと述べています。「集団的」とは聞きなれない表現ですが、一般には民族的、国家的なことを指します。
ここで彼は、ドイツの犯した残虐行為やユダヤ絶滅政策は、あくまで「個人的なもの」だと言っているのです。

うっかり見過ごしてしまうていどに慎重に、「罪がある、もしくは無実である」というように巧妙にボヤかしているからわかりにくいだけで、文脈で読めば、ドイツ民族に「(集団的)罪」はないと言い切っているのです。

ましてや当時生まれてもいなかった子供には「自らの罪を告白することはできない」と言っているのです。
したがってこれは、「当時の子供」、すなわち現代ドイツ人には罪を贖う必要はないということになります。
ならば日本人も、韓国人から「百年たとうが 1000年 たとうが、恨みは忘れない」などと言われる筋合いはないわけです。

つまり、ヒトラーとナチス党の「個人的」犯罪である、とヴァイツゼッカーは言いたいのです。そして、この長文の演説テキストにはただの一カ所も、ドイツが侵略した国々への直接的謝罪の文言はありません。

わが国ならばこう言っている部分です。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」(村山談話1995年8月)

あー、内容ウンヌンの前にウルトラにダサーっ(苦笑)
ヴァイツゼッカー演説が、謝罪文学なら、村山談話はまるで、どこかの市議会の事務方が書いた答弁書です。香気もなければ品位もない。

村山さん、あなたに文学的素養がないのは分かっているんだから、スピーチライターを司馬遼太郎さんあたりに頼みなさいよ。
小役人に書かせるからこういう無味乾燥でクソ面白くないものが出来るんです。まぁ、万年ノーベル文学賞候補の村上春樹氏でもこのていどです。

日本が起こした戦争に中国人も韓国人も怒っているが、日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思う」

なにを言ってんだか、永久候補者さん。
このような悪しきナイーブさ、あるいは政治的幼児性は、ヴァイツゼッカー演説が、文学的修辞にまぶしてぼやかしまくって、すべての罪をナスチにすり替えて、ちっとも謝罪していないのと対照的です。

村山は床に額を擦りつけんばかたにして謝っているのに、誰の心にも響かないのだから最悪です。

下の写真は首相を辞めた後に韓国で土下座する鳩山氏ですが、その後も韓国の謝罪要求はエンドレスどころか、いっそうエスカレートしたのはご承知のとおりです。

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一方、ヴァイツゼッカー演説は、「過去に眼を閉ざす者は結局のところ、現在に盲目となる」という決めゼリフを言いながら、肝心なドイツの軍事侵略を受けた国々であるポーランド、チェコ、ソ連、フランスなどの多くの諸国に対してはひと言の言及もありません。
我が国が戦場になった東南アジア諸国はいうまでもなく、戦ってもいない南米やイタリア(!)にまで謝罪と戦後賠償を支払ったのと対照的です。

下手に謝ると、その代償を支払わねばならないからです。謝罪と賠償はかならずワンセットが決まりです。それが世界の常識です。

お分かりでしょうか。そう、ヴァイツゼッカーは何も謝罪していないのです。ただ抽象的に「思い浮かぶ」、「心に刻む」「思いを馳せる」remember, recall, commemorate, mourn, pay homageという表現に止まっています。
止まっている、という言い方は正確ではありません。あえてそこで寸止めして、すべての罪をヒトラーになすりつけたのです。

あながち皮肉ではなく言いますが、なんというずぶとさ、そして驚くべきしたたかさでしょうか。
まず絶対悪のヒトラーが大前提としてあり、その圧政によって、初めにドイツ国民が支配され狂気に追いやられ、そしてヨーロッパ全域に対する侵略とユダヤ人抹殺にに駆り立てられたという図式です。
そして「われわれドイツ民族もまた被害者なのだ」、ということをヴァイツゼッカーは言いたいのです。自分たちドイツ人一般は「被害者」なのだから、私たちを責めるな、と言いたいのです。

この虚構をもっとも信じたかったのは他ならぬドイツ人自身でした。
敗戦と共に周辺諸国の怒りと蔑みの眼差しにさらされざるを得なかったドイツ人は、「あれはヒトラーが悪いんだ。オレたちもだまされていた被害者なだけだ」という言い訳にしがみつかざるを得なかったのです。
それを荘重に述べたのがこのヴァイツゼッカー 演説なのです。
この演説を聞いていると、ふと
いつのまにか、加害者と被害者が同じ席に座って、ヒトラーを糾弾しているような錯覚に襲われるではありませんか。

ヴァイツゼッカーが、唯一戦争責任を認めているのは、逃げようがないユダヤ人に対するホロコーストだけで、それもまた「一部のナチス」の責任なのだとしています。

これすらも本当はドイツ市民であったユダヤ系市民を平時に迫害し虐殺したのであって、正確には戦争犯罪、即ち戦時における非行ではないのです。

つまり、悪いのは極悪なヒトラー一派で、一般国民はノット・ギルティ、そして侵略したドイツ国防軍もまた「普通の戦争を戦っただけだ」(ニュールンベルグ裁判での国防軍の釈明)というのが、 ヴァイツゼッカー演説で、これこそが戦後ドイツの公式の見解なのです。
仮にこのドイツ国防軍の自己弁護のレトリックを使うならば、我が国も「普通の戦争をしただけだ。戦争は国際法上の罪に問われないはずだ」と言えてしまうのです。
実際、日本人にとっての第2次大戦は、ドイツ人にとっての第1次大戦のようなものなのです。

もっともこんなことを日本が言おうものなら、「反省が足りない歴史修正主義者どもめ」ともっとも大声で罵ってくるのが、このドイツ人なのですからイヤになります。ドイツ人はヴァイツゼッカー 演説で、日本人より道義的優越を得たと真剣に思っているようです。

Photo(写真 ワルシャワのゲットー英雄記念碑の前でひざまずくブラント首相。ユダヤ人ゲットー で あることに注意)

さて上の写真は1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相(社会民主党=SPD)が、ワルシャワを訪れた際に、ゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた時のものです。
このひざまずく黙祷のポーズは、後のヴァイツゼッカー演説と並んで強烈な<反省>プロパガンダを発しました。
これもポーランドに謝罪してひざまずいたのではなく、あくまでもユダヤ人虐殺に謝罪したのだということを忘れないでください。

日本のリベラル知識人が総なめにされただけではなく、中韓はこれこそが正しい歴史認識だと絶叫したことを覚えています。Photo_32013年7月日韓サッカー試合における垂れ幕

このハングルの垂れ幕の意味は、「歴史を忘れた者に未来はない」です。
また、わが国では、「日本の戦後補償がされていない」という論説や運動が、「ドイツの戦後補償に見習え」と叫んだことは記憶に新しいことです。

このようにヴァイツゼッカー演説は、朝日流にいえばいかに「コトバの力」を使うか、文学的修辞を巧みに使い、香気にまぶすか、そして本質をズラして謝らないか、謝っていないのに謝ったようにみせるのか、という政治的パーフォーマンスの宝庫のような演説です。

さぁ、声を揃えて叫びましょう!せーの、日本人はドイツに学べ!

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

過去に目を閉ざさない、というのであれば、ユダヤ人が苦労の末に樹立したワイマール体制がどういうもので、当時のドイツ人がどう思い、どうしようとしたのか、そこにも目を向ける必要があります。
ところが、「一民族に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません」でありながら、ワイマール憲法とその体制に、世界中の罪のない後の世代が公平な目で見て手をつけることすら憚られる状況が続いているのは、まことにおかしなことです。

「自由」と「平等」とは、両立し得ない、同時に求め実現しようとすればするほど、破壊と混乱で人心も世の中も荒れる、美しいがそれだけでは済まない価値を持つもので、世界は、我々は、それらを何によってどうコントロールするのがよりマシだと学べるのかってところに辿り着けない、というか、敢えて辿り着かないでいる、我々を含む世界の腹黒さ。

 「当時のドイツ世論はヒトラーとナチスを積極的に支持した」
 多分ドイツ人は今後もこの「過去」から「目を閉ざし」続ける事でしょう。

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