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2019年5月10日 (金)

山路敬介寄稿 沖縄社会の矛盾・後進性や我那覇真子さんの事などその2

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                  ■沖縄社会の矛盾・後進性や我那覇真子さんの事などその2
                                                                                          山路敬介

承前

 我那覇真子氏の言説から

 ちょうど一年前くらいでしたが、我那覇真子氏の一行が宮古島を訪問してくれた事がありました。建設中の自衛隊施設や久松五勇士の記念碑などを視察し、講演も二回行った由でした。私も地元の我那覇ファンから誘われていましたが都合で行く事が出来ず、後でビデオでその模様を見ました。

その中で我那覇氏は、宮古島市が首尾よく自衛隊を誘致出来た事、例の「自衛隊が来たら婦女暴行が起きる」と発言した石嶺香織前市議を議会が辞職勧告した事や、その後落選した事に関して、「それは宮古島市民が一丸となった成しえた成果」であるとか、「宮古島市民の高い共同体意識のゆえである」と述べました。そうした見方は明確に事実と違うので、当時ここのブログにおいて一文書かせてもらおうかと考えていたものでした。

自衛隊の誘致成功については、粘り強く議会与党をまとめ切った長濱副市長の人間性と手腕によるものです。石垣市との違いはまさに「市政与党をまとめられたか、否か」の違いであって、石垣市には長濱氏のような存在がないことが中山市長の苦労の要因でしょう。
ですから、石垣市民より宮古島市民のほうが「共同体意識」があるという事もありません。

石嶺前市議の辞職勧告決議案の可決については、人権を蹂躙するような言動をする人間を置いておけない事は全ての議会人として当たり前で、これは当然の処置です。
その後の落選については、通常選挙においての宮古島ではそもそも過激で極左的な言動を容認する票は一議席分しかなく、それは共産党の上里氏のものだというにすぎません。二議席を争う補選でも再びあれば、石嶺氏がまた当選する確率は高いと思います。

我那覇氏は「家族のようにつながっていく、日本のネットワーク」をイメージした活動をされているそうで、それ以外の言説においても極端に言えば、何やら「全体主義化」を想起する感じを持ったものでした。
私の考えは、「常に個人の領域を拡大する事、個々の能力を高め、そこから個人々々の県民の意見の尊重や弱者の救済、それによる民主主義の伸長こそが沖縄問題の解決のカギとなる」というものです。

しかし、当時そのような記事を書かなくて本当に良かったと今は正直に思います。なぜなら、少なくも今の沖縄の状況を見、それに「見合った」という意味で我那覇氏の方法論は正しいと思わざるを得ない面があるからです。
いえ、それより何より沖縄社会の場合には「共同体意識」だとか、「家族的ネットワーク」というような古臭い観点に立ち返って考えるほうが、民主主義云々よりもよほど理解の助けとなるのだと気づかせてくれました。

私の理想論は「逸り」(はやり)だし、正しいがはるかに現実に遠い「理屈倒れ」のものでしかありません。そして、我那覇氏の宮古島評は「事実」ではないが、政治活動家の行動という観点から見れば「真実」ではあるのだ言うことも出来るでしょう。

いくら待っても叩いても、私の考える事が政治的有効性を持つようには沖縄社会は出来てはいず、民主主義行なう前提となる要件に、それこそ幾重にも欠けています。
民主主義を活かすには、それを受け止める成熟した人民あっての事なのです。
また、我那覇氏が目指す事を翁長前知事が逆の方向から先にやったと見る事もでき、ラジカルに変革を目指すならそれもいいかも知れません。ですが、保守にはそれは不可能です。

あと10年。ここが勝負だと思います。上の世代が抜けて下の世代と入れ替われば、今回の選挙の世代別投票率を見れば明らかなように、当落は逆転します。
ところがそれは革新陣営も強く意識しているところです。若者へのPR(実際は「教化」ですが、)が重要とされ、本土メディアや新聞労連などとも連携し、差別をキーワードとして「沖縄問題」に関するネット言論への締め付けは強化される一方となるんでしょう。

                                                                                                                                                  (続く)

 

 

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コメント

ここまで拝読して。
悪夢の民主党(当時)政権がまだ続いていた時だったか、漸く崩壊してくれた後だったかもう忘れましたが、私は「石垣・宮古まで盗られないとみんなハッとしないだろうという暗い考えがある」と、「狼魔人日記」さんにコメントしたことがあります。
そしてその考えの底にある基本は今も変わりません。

マスコミとその中の人たちは、他者の有り様(ありよう)や落ち度を論う(あげつらう)ことに大きな意義があるといってそうしているので、当然自分たちのことも他者から論われるわけですが、そんな時だけは無視か文句か泣き言に出る。

先日の琉球新報に載って束の間ネットを賑わした宜野湾の「不登校の10歳少年革命家ユーチューバー」のお父さんが、ネット上の反対意見に対して「自分の気持ちに従って生きる事の何がいけないの?」といいながら賛同しない他者への文句をいうという、論点変えや簡単な矛盾への気付きの無さ。

誰もが自由にやりたいようにやるならば、国内法も制度も国際法も条約も無視で誰にも守ってもらえない世の中になるから、そうならないように務めてくれる人々があるが、そういった役割の人々・組織を無くしたいと主張する人たちとそれに従う人たちの、無くしても今と変わらずいられると何故か信じてしまえる幼さ。

例に挙げた人たちだけでなく、多くが何処かで自分は何も変えなくても大丈夫と漠然と信じています。
そのようにあまり真剣に物事を考えていなくとも、どれほどバカな主張をしようとも、我が国では大概自由にやりたいように生きていけるので、それが平和の証左であり、その平和を支える人々のお陰であり、続く平和のコストの一部だろうと思います。
自由であるが故に時に誰かが行き過ぎてバランスを崩す時が来るのも、それを何とかするために払う何かしらの代償、犠牲があるのも含めてです。
安っぽい失恋ソングみたいですけれど、失ってから思い知るのが人の常です。
それでも自由がいいのは言うまでもありませんが。

ネット上の評論や指摘が百花繚乱といっていい現在では、真剣に考える個人の知の集合が致命的惨事を防ぐ可能性はより高まりますが、成熟した人々無しに「よりましな民主主義」「よりましな自由」を実現するのは至難ですね。
そして、ルサンチマンを溜め込む人たちはより過激にならざるを得ず、どちらの失敗が先になるか、というのが「今ココ」だろうと思っています。

宜野湾よりさん

 今日の記事よりも、上の宜野湾さんのコメントのほうが素晴らしかった。読み応えもあります。(笑)

県民投票の時なんかでもそうでしたが、まったく無駄な投票をやろうした子供を諫めるべき大人がいなかった。あげくに「投票をやる事自体の権利は守られるべき」とかなんとか、我が県のクズ保守たちは「にわか民主主義」に逃げ込んだのです。これは従前のワク組にとどまり続けるための「保身」のためです。

民主主義が行うべきは、「その県民投票はやるべきでない」というべきところにこそありました。
「民主主義は時間がかかる」とはよく言われる道理ですが、問題はそういうところにはありません。
「沖縄の民主主義」はそれを使う県民の側に用意がなく、あるいは未熟さゆえに適正に機能せず、その事情を熟知している側に悪利用され、その度毎に逆に後退しつづけているのです。

このような馬鹿げた惨状が繰り返されいても何とか立っていられるのは、ギリギリのところで「本土という背骨」があるからです。それがなければ、そのまま「韓国」です。

けれど、県民すべてが「政治的人間になるべき」とは思いませんし、そうは出来ません。
ようは、歴史的に県民の「集団性志向」がいか我々から思考を奪ったか、そこを見つめるべきです。

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