首里城をもっと相対的に見ませんか
ちょっと驚いたのですが、燃えてしまった首里城を「歴史的文化遺産」とか「世界遺産首里城が燃えた」と言っている人がいました。
もちろん違います。燃えたのはレプリカにすぎません。
高良倉吉先生を筆頭にした血の滲むような努力の結晶を前にして傲慢のそしりを覚悟でいえば、「しょせんレプリカ」にすぎません。
ですから法隆寺が燃えた、清水寺が燃えたというのとは次元が違うことなのです。
いや、世界遺産ではないかという声もあるでしょう。
たしかに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録されましたが、それは床下に眠る城跡であって、建造物とは関係ありません。
よく比較されるノートルダム寺院火災と首里城火災との違いを、元外務省国際文化協力室長・高橋政司氏はこう述べています。
「今回、「世界遺産焼失」の報道を受けて、「世界遺産の価値が失われたのか」という質問を複数の方からいただいた。パリのノートルダム大聖堂の尖塔の焼失の際も同じ質問があったが、実は、この2つの建物の焼失は、登録されている構成資産が何かという点で異なっている。
ノートルダム大聖堂は、焼失した尖塔を含め大聖堂全体が世界遺産であるのに対して、首里城は、「首里城跡」が構成資産の価値として認められている。
どういうことか。本殿の下の「遺構」、すなわち、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのである。従って、地上の建物の焼失をもって世界遺産としての価値を失ったことにはならない」
(高橋政司 『首里城が世界遺産としての価値を失わない2つの理由と、平和の砦としての価値』)
つまり、燃えてしまった正殿1階からガラス越しに照らされてみることができた遺構が世界遺産です。
今回の燃えたレプリカ首里城は、かつての遺構の上70㎝に底上げされて作られました。
ですから戦前の焼失前の首里城は国宝でしたが、このレプリカ首里城は国宝指定からも文化遺産指定からもはずされています。
まぁ、外されたことによって文化庁の防災指定が甘くなってしまい、それをいいことに県はただの観光スポット化してしまったのですがね。
世界遺産というならば、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は首里城だけではなく、中城城跡、勝連城跡、座喜味城跡、今帰仁城跡、斎場御嶽 (せーふぁうたき)などもそうです。
ユネスコはあくまでもこれらの城跡を総合して世界遺産に指定したのであって、新築された首里城の上物は無関係です。
首里城を「世界遺産」と呼び、「沖縄の象徴だから再建を急ぐべきだ」とまで言うならば、これら中城、勝連、今帰仁などの立場はどうなるのでしょうか。
これら「その他」とされた城跡は、しょせん中山王に敗北した者たちの遺物にすぎないから首里城より価値が劣る、とでも県はいうのでしょうか。
また首里城の主たる尚王朝(中山)によって侵攻され過酷な支配を受け続けた八重山・宮古、あるいは奄美にとって、首里城焼失を「沖縄の象徴」の喪失とは受け取らなかったはずです。
高橋氏のように「平和の砦」というのも思い入れが強すぎます。
首里城は城砦でした。それは高い城壁と狭い門という構造をみればわかるはずで、実際に戦闘に使用されたこともあります。
戦後の琉球王朝非武装論によって歪められましたが、琉球王朝は軍隊を持っていました。
この時期の琉球王府軍の装備や装束は明らかではありませんが、上の「沖縄風俗絵図」にあるような甲冑を身につけて、日本刀を持っていたようです。
http://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/d99023d577b22ba4c50214b03e79c3bf
琉球王国の軍隊は、種子島に鉄砲が伝来する以前に、既に中国から輸入した火矢(ヒャー)という中国式小銃を装備していた資料があります。
つまり日本本土より先に銃で武装していたと思われます。
ただし、それはこの時代に生きたすべての王国に共通のことだったにすぎません。
「平和の砦」などというのはただの「神話」にすぎません。
どんな「神話」なのか、ちょっと覗いてみます。
※山崎孝史大阪市立大学教授『戦後沖縄における社会運動と投票行動の関係性に関する政治地理学的研究』第4章より
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/yamataka/08chapter4.pdf
「沖縄平和運動センター76は1995 年の普天間飛行場を包囲する「人間の鎖」行動に際して以下のようなアピール文を発表した。
・声明文 「平和」、「基地」
沖縄はかつて琉球王国の時代に、平和外交を国是とする「武器を持たない国」として、東南アジア諸国を含む広い海域を舞台に長期にわたって中継貿易で栄えた大交易時代を経験した誇れる歴史を持っています。しかし、一六〇九年の薩摩侵攻にはじまり、一八八七年の琉球処分というように、時の権力間の都合によって振り回されるようになりました。また、太平洋戦争では国内唯一の地上戦を強いられ、あまりにも多くの命が奪われました。」(沖縄タイムス1995年5月15日)
これについて山崎氏はこう解説しています。
「15 世紀における非武装の琉球王国は大田(昌秀知事)の歴史認識の中核の1 つであり、彼は「沖縄の心」と呼ばれる沖縄県民の平和主義の起源をその時代にあるとした」
つまり、太田知事は、琉球王国こそが沖縄の平和主義の起源で、その理想的モデルに戻れと言っているわけです。
太田氏が信じている琉球王国、武器を持たない丸腰平和国家という通説はこんなものです。
・[通説1]尚真王が武器を捨てて、世界最初の「非武装中立国家宣言」をした。
・[通説2]ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いた。
・[通説3]19世紀、米国平和運動の文献に、「平和郷のモデルとしてリリアン・チンという琉球人が登場し、好戦的米国を批判している。
・[通説4]琉球王国は軍隊がなかったために、薩摩藩の軍事侵略に無抵抗だった。
残念ながら、これらすべては事実ではありません。
そもそも尚真王は、非武装中立宣言なんかしていません。
彼の在位は1477(成化13年)~1527年(嘉靖5年)ですが、「成化」という聞き慣れない元号は、明のものです。
琉球王国は、中華帝国の属国でしたから、明の年号を使っています。
燦然たる首里城に象徴される琉球王国の繁栄は、明の冊封と海禁体制のなかで、唯一琉球にだけ特権的地位に支えられていたためでした。
琉球王国は海産物、硫黄、黒砂糖などの特産品をもち、「僻地」ではなく、東南アジアからインド洋にかけての広大な貿易圏を持つ国でした。
高良先生が言うように、当時琉球王国は東アジアのみならず、アジア交易圏という車輪の中心位置(ハブ)にありました。
これが琉球王国の空前の繁栄をもたらした秘密だったわけですが、琉球王国は確かに明の属国でしたが、ただの従順な下僕ではなく、明確な自らの意志を持ち、貪欲に栄えることに邁進する、山椒は小粒でもピリリと辛いような国だったのです。
尚真王時代、琉球王国は黄金期を迎えます。
では、当時の尚王朝(第二尚氏)の時代背景を見てみましょう。
尚真王は琉球王国が最大版図になった功労者であり、沖縄史に輝く「大英雄」です。
彼がしたことは、「非武装中立宣言」どころか、真逆の沖縄の武力統一でした。
時は1500年代初頭、本島を征服した尚は、次の版図拡大を八重山と久米島におきます。
八重山への征伐軍の規模は、3000余とされていますから、当時の渡海能力からすれば最大限のものでした。
ちなみに1世紀後の、薩摩軍の琉球侵攻時の総勢は3000人、80余艘を使用していますから、ほぼ同じ規模です。
「武器を持たない国」どころか、東アジア指折りの軍事国家だったと言ってよいでしょう。
迎え撃ったのは、石垣島の大浜生まれの遠弥計赤蜂(おおやけ・あかはち)でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
アカハチこそが、まさに英雄と呼ぶにふさわしい人物でした。
彼は王府の過酷な課税要求に対して島民をまとめ上げて、レジスタンスの戦いを繰り広げます。
結局、刀折れ矢尽きて戦死しますが、今に至るも八重山に深く残る「沖縄」への怒りをまさに体現した男でした。
またこの時期既に琉球王国は、尚徳王(在位1461年~ 1469年)時代に奄美の軍事支配も完了しており、後々まで残る王府による苛烈な収奪政策を残していきます。
尚徳王 - Wikipedia
尚徳王が喜界島侵攻時に動員した兵力は、約2千と言われています。
彼は奄美大島諸島の奄美大島、徳之島、永良部島、与論島などを支配しました。
このように八重山、奄美の軍事侵攻において、琉球王国は一回につき平均2千から3千人の兵力の海を渡った戦力投射能力を有していたと考えられています。
つまり琉球王国は普通の軍隊をもち、それを育成し、国内を武力統一した後には近隣地域にまで版図の食指を伸ばした国だったのです。
このどこが「平和国家」なのでしょうか。
琉球王国がほんとうに丸腰の「平和国家」になったのは、薩摩に侵攻された後になるまで待たねばなりませんでした。
相対的な歴史観が忘れ去られたままで、首里城を「平和の象徴」と呼び、栄耀栄華の昔をもう一回再現しようとするなら、なにかもっと大きなものを置き忘れてしまったような気がします。
※大幅に加筆しました。
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コメント
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詳しいわけではありませんが、沖縄では人気の「護佐丸・阿麻和利の乱」なんて戦国時代のごとく謀略渦巻く戦だったでようです。琉球正史では護佐丸が忠臣で阿麻和利が悪辣な反逆者の扱いみたいですが、おもろそうし等の民間伝承では阿麻和利の方が民衆に慕われており護佐丸が称えられているのは正史だけだそうです。まあ、琉球とて綺麗ごとで語られる国ではなかったわけでして。
投稿: クラッシャー | 2019年11月14日 (木) 13時11分
> 琉球王国がほんとうに丸腰の「平和国家」になったのは、薩摩に侵攻された後になるまで待たねばなりませんでした。
なるほど、薩摩の支配下にあれば自前の武力など持てませんからね。大田元知事は間違っておりましたね。琉球国が武力を持たない平和国家という誤ったイメ-ジを広めてしまいました。
大田さんは信用できない人物です。彼は、生前琉球新報紙上で、沖縄戦で日本軍兵士が他の兵士陣地に手榴弾を投げ込み殺し水筒を奪ったという記事を書きました。あまりのことであり、私は長い間その真偽を確かめたいと思っておりましたが、今でも真実は分かりません。このような突拍子もない記事でしたが、当時は問題にはなりませんでした。今、大田さんがウソを語ったのかあるいは彼の戦時中の異常心理のなかで生まれた妄想ではなかったのかと思っております。
彼には平和の礎の創建の頃の醜い手柄争いを上原正稔氏との間で演じた前科もあります。その大田前知事を尊敬している大学教授も今おり、一体名誉とか偉人であるとかを何により判断するのかと迷うばかりです。言いたいことは、真実を語る者が偉大な人物であり、名声や名誉職にある者が必ずしも偉大である偉人であるということは言えないということです。
このブログでは真実を追求しているという自負があるようですので、その方針を大事にしてもらいたいと思いますね。琉球王国が非武装中立であったという誤った認識が多くの人たちにあるようですが、こんなことでは日本国の防衛力整備計画にも悪影響をもたらします。
投稿: | 2019年11月14日 (木) 19時30分