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2019年12月 9日 (月)

中村医師倒れる

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中村哲医師が凶弾に倒れました。
常に声を荒らげずにおだやかに語る人で、まさに実践の人でした。
現代の生きている、今現在戦い続けていた偉人の死でした。
中村医師の非業の死に際して、心からご冥福をお祈りします。

4日、アフガニスタン東部で何者かの銃撃を受けて亡くなった中村さん。
一緒にいた運転手と警備担当者あわせて5人も死亡しました。
現地の報道によると、最初の銃撃のあと頭をあげた中村さんに、犯行グループは「まだ生きているぞ」などと叫びながら再び銃撃を加えたということです。
「僕はてっきり政治難民だと思っていたが、干ばつ難民だった、半分以上が」
100の診療所よりも1本の用水路をー。
現地での医療活動を通じて清潔な水の重要性を痛感した中村さんは、「井戸の掘削」と「用水路の整備」に奔走してきました。
これまでに掘った井戸の数は約1600本。
福岡市の面積の半分にあたる1万6000ヘクタールの農地を灌漑し、約60万人の人々の生活を支えています。
危険と隣り合わせのアフガニスタンで、中村さんは現地の人々との信頼関係が何よりの安全対策だとして、途切れることなく支援にあたってきました。
アメリカの同時多発テロを受けた自衛隊の現地派遣が論議された際には、参考人として国会に招致され「自衛隊の派遣は有害無益で、百害あって一利無しだ」と訴えました。
「戦争プロセスには一切関わらないという宣言だけでいい」
政治の事情や国際情勢に左右されることなく、人々の暮らしの再建を第一に考えた中村さんの取り組みは、国の内外で高く評価され、2013年には福岡アジア文化賞を受賞。
そして、2018年はアフガニスタンの国家勲章を受賞しました。
そして、4日も中村さんは農業用水路の建設現場に向かう途中、凶弾に倒れたのです」(テレビ西日本12月5日)

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中村医師は井戸を掘ることで、治水という国作りの根幹に手を貸してきました。
日本における先日の台風禍で分かるように、治水という概念はアジア・アフリカにおいてきわめて重要な概念です。
荒ぶる河を治めることができて、初めて世の中は平和に暮らせるのです。

アフガンではいい水は希少です。すぐに幼児が飲める水、怪我をした人の傷口を洗える清潔な水が手に入りにくいのです。
なぜでしょうか。それは水質が悪いからです。
水問題とは水の質と、治水に集約されます。

日本でも台風が来るとすぐに大水が起きて、大きな爪痕を残します。
それは
日本の河川が外国人学者をして「滝のようだ」と言わしめた水源の山系から急速度で海へとほとばしる急流だからです。
私はアフガンが望めるパキスタン領にまで行ったことがありますが、その
河川は恐ろしいまでの急流で、河岸を削りとっていました。
その水量は豊富ですが、利用できないのです。

中村氏はよい意味で日本人らしい発想でアフガン復興に取り組みました。
日本人が長い暴れ川とつきあってきた歴史の中で培った治水技術を、どうやってアフガンの人たちのために根付かせるのかに取り組んできたからです。

治水は水流をコントロールするだけではだめです。
いくら護岸工事で河岸を固めても、水流の運動エネルギーが弱い部分から堤を決壊してしまうからです。
日本人が考えたのは、暴れ川の水に逆らわず、徐々に河川周辺の田んぼに逃がしてやる方法でした。

信玄の霞堤などが典型ですが、堤を防ぐという役割だけではなく、農地に水を呼び込む用水路と組み合わせることでダーッと来る大水の時の奔流を、両脇の堤防に少し隙間を開けていくつもの水路から田んぼに流していきます。
すると急流の運動エネルギーは減殺され、かつ、呼び込まれた水(上流の有機質を大量に含んで水ですが)によって田畑を潤すことかできます。
 

「信玄堤は、増水した河川のエネルギーを内側に押し込めるのではなく、あらかじめ堤防を分断させてエネルギーを分散させる方法である。400年前、武田信玄は、堤防に切り込みをつくらせて、増水した川の水を湿地や田んぼ、遊水池に流れだす仕組みにした。切り込みが斜めになっているので、雨がやめば、川の外に分散した水は再び元の川に戻っていく。(フォーブス)
https://forbesjapan.com/articles/detail/30203

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https://togetter.com/li/1416707

田畑、特に水田は
川の水の量とバランスをうまくとりながら、水を溜めたり、放出したり出来ます。
多い時には田んぼの堰を切り、少なくなればまた堰を作るということが簡単に出来ます。
 
※信玄堤詳細
武田信玄の総合的治水術 32号 治水家の統(すべ):機関誌『水の ...

 

水田と併設して小規模な溜め池を作れば、田んぼでオーバーフローした水はそこで溜めることも可能です。
このような田んぼの自在な水の貯水と放出機能により、川の水の量を一定に保つことが可能です。
 
日本の田んぼの畦は平均30㎝で、そこに水を溜めたり、放出したりすることができます。 
下手なダムより水が張られた田んぼの貯水量のほうが多く、全国でおよそ81億トンだと言われています。
この貯水量は治水用ダム貯水量の実に、3.4倍にも登ると言われています。

仮にこれを、社会インフラの整備事業単体でとらえれば、数千億円の投資が必要となるでしょう。
しかも、今日本で新たなダムを作ることは事実上不可能です。田んぼはコメ生産を行いつつ、水利事業を行う多目的な存在なのです。

ヒマラヤ山系から流れだす雪解け水は、急流となりインダス河水系としてアフガンを通過していきます。
治水をおこなわなければまさに「通りすぎていく」だけであって、アフガンは干ばつと洪水しか知りませんでした。

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東京新聞 2016年11月、アフガニスタン東部ジャララバード郊外で、日本の技術を利用して整備された用水路の前に立つ「ペシャワール会」の医師中村哲さん=共同

中村医師が支援医療から治水にと向かっていったのは素晴らしい方向でした。
そのきっかけについて中村医師はこう述べています。

「今考えると、予兆は1990年代後半から進む井戸水の涸渇でした。ダラエヌール、ダラエピーチのPMS診療所が井戸の再生を繰返しています。水位下降に抗しえず、離村が本格化したのが2000年以降でした。
地下水位は場所によって異なりますが、総じて下降を続けました。水位が低下したまま安定してきたのは2004年頃からでしたが、ダラエヌールを例外に、旧に復することは遂にありませんでした。ソルフロド郡、アチン郡では地下80~100メートルに留まっているものさえあります。こうして2006年までに、同地域で1600ヵ所の飲料水源を確保したものの、大半は三回、四回と再掘削を繰返してきました」
会報121|ペシャワール会|中村哲医師

中村医師は、生きるという視点から支援医療に関わり、更に水を得るために井戸を掘って水源を確保することに尽力しました。
しかしその地下水も、水位が低下し続け、空井戸となってしまう場所が続出し、ついには井戸を放棄する地点も出たようです。

アフガンが直面していた水問題について中村医師はこう述べています。

「降れば激しい集中豪雨で局地的に大被害を起こし、他方で降らない地域は乾燥してしまいます。つまり、広範囲に小分けされて降っていた夕立が、限られた地域に集中して鉄砲水や洪水となって、一挙に地表から消え去ることを意味します。
この傾向は日本でも同じですが、絶対的降雨量が極端に少ないアフガニスタンでは、地域によっては致命的な乾燥化をもたらします。 また、森林に覆われる日本列島と対照的に、強い陽ざしが直接、むき出しの岩盤や地面を更に温めて夜間まで冷えず、地表の結露を妨げ、乾燥化を加速します」(ペシャワールの会前掲)


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ペシャワールの会 会報

中村医師がアフガンで行った治水は、日本で育まれた治水技術のアフガンでの応用だったと思います。
彼は用水路を堀り、溜め池を建設していきました。

「こうした地域が生き残るには、二つの方法しかないと私は思います。①大河川に近い平野であればその上流からの取水、②標高がより高い地域なら多数の貯水池を作ることです。樹林造成は何れの場合でも必須です」(ペシャワールの会前掲)

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ペシャワールの会 会報

「貯水池は単に用水を貯めるだけではありません。中小河川の水を引き込むことによって、地表水の滞留時間を延ばせます。
例えば、一回の集中豪雨の水が数時間、数日の短期で下り去るとします。いくら降水量が多くとも、水が土に浸み込む時間のゆとりを与えません。あっという間に地表から消えてしまいます。

だが、沢山のため池があれば、かなりの水が池に引き込まれて地表に留まり、地下に浸透水を送ります。たとい池が乾いても、その分地下水になって地中の浸潤線を上げることになります。滞留水の総量が増えれば増えるほど、流下時間を延ばして地下水が増します。数日で消える一回の地表水を数週間かけて下るようにすれば、土地の湿潤性が上がってきます。即ち貯水力・保水力を高めるということです」(ペシャワールの会会報 前掲)

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ペシャワールの会

中村医師は、病人のためには清潔な飲料水を、貧困を生む農業破綻を食い止めるためにも豊富を水をと、生活用水を確保するために井戸を堀り、さらにはその水源を確保するために用水路と溜め池を作って行きました。
根気のいる果ての見えない仕事です。
その方法も、掘削にこそ土木機械を使いましたが、コンクリートと鉄筋に頼らずに、完成した後も現地の人
々が、後々自分の手で修繕が出来るように針金を編み、石を積み上げ、柳の根を張り巡らせたといいます。
これもまた日本の治水術の粋だった信玄堤の現代的応用です。(下写真)

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またすべての資金を日本からの募金で賄いましたが、できるだけ公的資金は遠慮しました。

それはたんなる国に頼らないいきがりではなく、ODAは必ず定量的な成果を求めて、失敗を許さないからです。

しかし氏の井戸事業がそうであったように、発展途上国援助において試行錯誤はあたりまえであって、新たな挑戦をすればそうとうの事例は失敗に終わるものなのです。

そして中村医師が大事にしたのは、建設方法のローテク化による現地化と同時に、事業の運営もまた現地化したことです。
現地スタッフに日本人はたったの二人。現場監督も兼ねる中村さんと会計・事務の責任者のみで、あとの140人を越える現地職員と500人を越える作業員はすべてアフガンの人々です。
ヒトを現地化する
ことによって、日本人がいなくなったらなにもできないのではなく、現地の人たちだけで運営することが可能です。
また技術の継承も可能となります。
用水・溜め池事業はその意味で「中村学校」でもあったのです。

私は中村医師のした事業を感嘆の念をもって見ます。
まさに尊敬よくあたわざる人でした。

だからこそ、このような下卑た政治利用はお止め下さい。中村氏の痛ましい死と安倍氏はなんの関係もありません。

医師の中村哲さんが現地で殺戮され死亡しました。悲しみは国境を超えて拡がっています。この国の愚かな為政者達とは次元の違う誇り高い生き方を貫いた中村さんのご冥福を心からお祈り申し上げます 」(報道特集・金平茂紀 )

今日は長くなりましたので次の機会に回しますが、中村医師は第9条を心のよりどころにする人たちにとってのアイコンでした。
中村医師の有名になってしまったこういう言葉が残されています。

「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。
武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ」
マガジン9〜この人に聞きたい『中村哲さんに聞いた』〜

失礼ですが、あまりにも悪い意味で日本的な言葉です。
結局、9条は中村医師を守りませんでした。
ただし、安全地帯にたむろする凡百の9条の輩と違い、中村医師は自らの実践においてそれを証明しようとしたのです。

また彼はタリバンをイスラム神学生集団として支持し、テロに対するISAF(国際治安支援部隊)などの国際警察活動を否定しました。
彼から見れば、国際警察活動はかえって外国人憎しを生み治安を悪化させるものだとして、用水路建設と対立するものだと考えたようです。
それは反面は事実でしたが、多くのアフガン人にとって国際警察活動は国内のタリバンやISを押さえ込んで平和をもたらたたものだったのです。

本来、中村医師が続けた民生事業と国際平和維持活動とは矛盾するものではなく、民生活動を守る「防風林」(小川和久氏)として後者はあるのです。
中村医師の地元の人々に対する深い信頼と愛情がそうさせたのですが、結果としてそれが彼の死を招き寄せたような気がしてなりません。

カカ・ムラド、ムラドおじさん、それが彼のアフガンでの呼び名でした。享年73歳。惜しい人をなくしました。

 

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コメント

ご存知かもしれませんが、下記は保守・右翼系の方のブログですが、元ぺシャワール会員(寄付金のみ)だったそうで、日本ではほとんど報道されていないような現地での苦労も記されています。
よろしければご参考までに

ttp://yomouni.blog.fc2.com/blog-entry-6825.html

無学な老人さん

 よぎぎねこは私も見ております。

私も中村医師を尊敬しております。良いお仕事をなさいました。

 中村医師はどこか世間とずれたところあったのではないのかとも思うのですよ。アフガニスタンの政府の支援は受けていたのでしょうか。アフガニスタン政府の警察、軍隊がペシャワ-ル会の活動を警備していたのかどうかが気になります。もしも中村医師たちが軍事的な警備など不必要だと考えていたのであればそこは問題ありと私は考えます。タリバンと親しかったとのことですが、タリバンはペシャワ-ルを攻撃しないと考えていたのでしょうか? 攻撃したのがタリバンではなくて別のテログル-プかも分かりませんが、テロの危険はいつも身近にあったのでしょう。

 もう一つ気になるのは、ペシャワ-ル活動の施設に沖縄という語を使ったことです。何の関係があるのかと普通人は考えるものでしょう。
沖縄の問題とアフガニスタンを共通の課題などないと思うのです。

 

「無学」様。よもぎねこさんですね。在特会を支持しておられるようなので、あまり読まなかったのですが、一読しました。
なるほど、このかたペシャワールの会にいらしただけあっ てよく知っておられて読みごたえがありました。
情報ありがとうございます。

※追記「在特会を支持」という部分は誤解を招きかねない表現なので削除します。失礼しました。

よもぎねこ氏ブログ読みました。

技術者として某重電メーカー勤務時代、政情不安定な地域へのプラント等の輸出(現地での組み立て等)やその後の保守点検に行く同僚から聞いた現地事情、武器を持つのが当たり前の部族社会、現地の警察や軍隊に護衛されながらの勤務、習慣の異なる現地人従業員とのゴタゴタ等々と良く似てます。
日本の戦国時代ってこんなだったの?って言ってました。

よもぎ氏の他の記事は在特関係?ぽく多少の違和感は感じましたが、該当記事は個人的にかなり信頼出来る内容、無学様、有意義な情報有り難うございます。

SIさん。よもぎねこさんのほかの記事が在特会関係なんていう意味で書いたわけじゃないんですが。
そうとりましたか。
ならば違いますので、当該部分を削除し、よもぎねこさんにもお詫びいたしまし.ます。

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