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2019年12月 7日 (土)

宜野湾くれない丸様寄稿 「マンデラの夢と南アフリカ・スプリングボクス」を読んで

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大きなニュースが続いて掲載が遅れしました。まことに申しわけありませんでした。
                                                                            ブログ主

                                                            ~~~~~~

                 ■「マンデラの夢と南アフリカ・スプリングボクス」を読んで
                                                      宜野湾くれない丸

 

「マンデラの夢と南アフリカ・スプリングボクス」を拝読し、感慨深いものを感じました。
コメント欄にも入れましたが、80年代後期~90年代前期の南ア激動期に私は彼の地を度々訪れていたからです。

アパルトヘイト体制 (1948年ー1994年)が成立し、約半世紀にも及ぶ体制下のもので培われた差別潜在意識は、そう易々とは「払拭」できないだろうと思います。撤廃されてから早25年、ここまでの南アの苦難の歩みがそれをあらわしてます。
そもそもアパルトヘイト体制以前にも鉱山労働法、原住民土地法などいくつかの非白人への差別的な法律が存在していたわけですし、黒人部族間での様々な対立、ましてや白人同士の利害対立など含め単に「白人VS非白人」的な門切り型では説明できないことが南アには根深く存在します。

南アフリカ共和国は、資源大国、文化・観光・スポーツ大国、多民族国家で、アフリカ大陸最大の「先進国」です。
近代人類の歴史から鑑みると、ある意味「国民国家という体」がなしてきた様々な功罪が同時多発的に存在し、歪な社会現象として表面化してます。更に自ら「核」を「開発」し「実戦配備」した国でもあり、同時に「廃棄」した世界唯一の国でもあります(破棄した理由は様々な憶測や意見がある)。「世界の縮図」あるいは「人類の縮図」とも言えるかと思います。
換言すれば「南アを見れば、世界が見える」ような気がしてなりません。

ネルソン・マンデラの「まいた種」は、新生南アの誕生へ向け、確実に「発芽」しつつあると、今回のワールドカップまた本日の記事を読んでそう感じました。少なくとも今後の「国家(世界)の有り方」のひとつを示唆している。そのひとつの現象が「スプリングボクス」のあの姿ではなかろうか、と感じてます。

私は縁あって、87年頃から93年頃まで多くの南アの人たちと関わりました。
90年~92年にかけては、1回(だと思う)ですが、実際に南アへも行きました。
滞在期間の短い渡航が2,3回あったかもしれません
が、凡そ3週間くらいの滞在した時の記憶はハッキリと残ってます。仕事内容からして1回だけの渡航では無いと思いのですが・・・。あの頃はとてつもなく忙しくしていた時期で、年に何度も色んな国へ行ってましたし、使用済みのパスポートも当時の手帳もう手元には無いので、南ア渡航の正式な日付はいつなのか?何回行ったのか?もあやふやになってしまってます。国交がない国でしたので、渡航ビザを取る為に四苦八苦したのは、今となっては良い思い出になりました。

89年から世界の激動が始まり、日本では昭和から平成への世替わりがありました。彼の地、南アも同年にボタ大統領からデクラーク大統領へ政権が移りました。私が南アを訪れたのはアパルトヘイト最末期のこの時期でした。
90年2月にマンデラは釈放されましたが、私の記憶では私が南アへ行ったときはまだ釈放されていない時期だった思います(釈放時のTVニュースを東京の自宅で見た記憶があります)。南アではソウェト(
South Western Townships)へも行ったのですが、南アの仕事仲間たちは皆口を揃えたように「行かない方がいい。命の保証はないところだぞ」「地図もない地域なんだぞ」「内戦状態のところだぞ」と散々脅されました。

ホテルのスタッフに破格の金額でタクシーを手配してもらったのですが、手配するまでに何時間もかかりました。その日の夜、ソウェトのとある教会で開催されるミュージシャンの公演を観に行くためなのですが、タクシーへの条件は「そこまで行き、一緒に最後まで公演を見て、そしてホテルまで送り届ける」ことを条件としました。
だから「破格の金額」です。公演は無事観れましたが、驚いたのは公演終了直後に全観客が一斉に「蜘蛛の子を散らしたように会場から走り去る」その模様でした。

皆が皆、誇張はありません、全員なのです。「驚嘆」する以外なにものもない状態でした。
黒人ドライバー曰く「対抗勢力から襲撃を受けることがある」からだそうです。背筋に寒気がしました。なるほど公演は内容は、ずばり「反アパルトヘイト・アジテーション」だったからです。「反アパルトヘイト」を唱える黒人間でも意見の相違があり、複雑な運動・活動形態がありました。
「生死を賭けたアジテーション」と言っても大袈裟ではないものでした。実際その現場を離れた頃に遠くの方で機関銃の乱射音が聞こえました。再びドライバー曰く「あれだよ、あれ、聞こえる?また始まったよ。スピードあげるよ」と。「死」の恐怖を感じたのは、20代後半だった私の人生の中でこの時が初めてでした。

以下は私の体験ではないですが、当時の上司が南アの大企業のお偉さん宅での夕食会へ招かれた時の話です。
大豪邸での豪華な夕食をお偉さん家族とともに楽しくとっていた。給仕をするのは黒人女性数名。ふと隣の廊下を小走りする黒人の男の子がいた。
一瞬だったが男の子であることは分かった。夕食後にコーヒーなどを戴きながら、お偉さんのお子さん(男の子)に場繋ぎ話程度に声を掛け「〇〇ちゃん、さっきあそこに居た男の子の名前教えて?」と。お偉さんのご子息「・・・・・だれかな~、でも名前知らないよ。
・・・呼べば来るよ」と。上司はそれ以上あまり考えずにただ「ふーん、そうなの」で会話は終了。ところが、その後上司は驚嘆したという。あの給仕をしていた黒人女性らの中のひとりの子どもが「廊下を小走りしていた黒人男の子」だったらしいが、何とこの給仕家族はお偉さんの大豪邸に同居しており、その男の子も「この大豪邸の中で生まれた」ということである。
つまりお偉さんの子どもは「この家の中で生まれ育っている給仕さんの子どもの名前を知らない」のである。ましてや「呼べば来るよ」という・・・・。無理もないでしょう、親は人口の約1割に満たない白人社会のその中でも「超」が付く富裕層に属する。生まれた時から「不条理が刷り込まれている」のだから。

お偉さんの子どもにしてみれば、生まれた時から「黒人給仕の子どもは別次元の人たち」である。悪意も差別観も全く無くごくごく普通のこと。
この南アが多少なりとも「正常化」するにはだいぶ時間がかかるだろうな、と上司曰く。
このような上司の体験談に似たことは、私自身もいくつかありました。

80年代末、「ASINAMALI(アシナマリ)」という南アの黒人男性5名が演じる音楽劇の日本公演がありました。「アシナマリ」というのは「俺たちにはカネが無い!」という意味だそうです。囚人役を演じる5名の役者は、驚いたことにそれまでは役者経験の無い素人だったそうです。
「演じる」というより「そのままの南アの黒人たち」を表現したような印象を持ちました。
劇中、ひとりの役者が舞台から客席へ下りてお客さんへ激しく問いかけるシーンがありました。「あなたはどう思う?!」「ねぇ、あなただよ、あなたはどう感じる!?」と。問いかけられた日本人の客は薄ら笑いを浮かべハニカムばかり・・・そんな客を意識してか、しないでか役者は意にも解せずしつこく問いかける「オレはこんなに真剣なのに何であんたは笑うんだ?」「あんたはどう思う!?」と。
ピーンと張り詰める空気感・・・そして舞台へ戻った役者は声の限り歌い、激しく踊る。強靭な喉と体から発せられる「声」は見事なまでの役者たちのハーモニーと化し、張り詰めていた空気を一気に和ませる・・・・。肉体と精神を限界まで出し切る舞台は、それはそれは「素晴らしい」ものでした。「・・・・これが本物というものだな」と、その時私は思いました。

マンデラが「スプリングボクス」へ託した「希望」や「夢」を「再認識」させてくれたのが、今回のラグビー・ワールドカップ日本大会(まだ終了してませんが)であり、ブログ記事「マンデラの夢と南アフリカ・スプリングボクス」でした。勿論、日本チームの躍進ぶりと、肌も国籍も違うメンバー同士が「君が代」を声高らかに歌う姿にも同様のものを感じました。

さて、沖縄社会を舵取る人々に問いかけをしたい。
あなたたちはどう思うのか!?
あなたたちはどう感じるのか!?
そして、あなたたちは本気なのか、どう本気なのか、と。

 

 

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コメント

流行語大賞となった「One Team」。映画「インビクタス 負けざる者たち」のモデルとなった南アフリカチームこそまさにその原点であると感じています。

宜野湾くれいない丸さんの問いかけは重い。自分の中でもなかなか咀嚼できません。

30年来のラグビーファンです。
初めて南アで開催された1995年のRWCで、優勝したスプリングボクスのテーマは「one team one country」でした。このRWCは日本がNZに145点取られた忘れたい大会なので、覚えているマンデラ大統領がピナール主将にウェブエリス杯を渡すシーンは、今となってはリアルか映画か定かではありません。確かこの時のスプリングボクスの黒人選手は、WTBの一人だけだったと思います。
今回初めて日本で開催されたRWCで、日本チームのテーマは「one team」、南半球の各国やなんと韓国の人まで一緒に戦った日本チームでしたが、one countryは掲げていません。外人部隊と言われた平尾ジャパンの頃の比べると、リーチ・マイケルやトンプソン・ルークは日本人より日本人らしいですし、怪我をして悔し涙を流しながらグラウンドを去る具智元には、思わずもらい泣きをしてしまいました。
私も宜野湾くれない丸さんの問いかけは重たいと思います。具体的なことまでは思いつきませんが、私自身は日本代表がone countryを掲げる必要がない方向へと行動していきたいと思っています。

松任谷由実は「ノーサイド」で、「何をゴールに決めて 何を犠牲にしたの 誰も知らず」と歌う。
自由・多様性と、平等・協調。
それを調和させるのは本当に難しいと、真面目に考える人ほどわかっているはず。

差別と呼ぶべき事柄と、区別と呼ぶべき事柄がある。
一つに決めねばならない事柄と、一つに決めなくてもいい事柄がある。
そしてそれらを履き違えたり曖昧にしたりする。
それは、経験や勉強や能力の不足ゆえに起きることもあれば、知っていて態とやることもある。
考える、考える&考える、それしかベターやベストな選択に近づく道はないんじゃないか。
今、沖縄のメディア界隈では、「誰も取り残さない」というのがキーワードになりつつあるようだけれど。
わかった気にならないで、都度考える。
その美しい理念の実現は簡単ではなく、誰も何も前へ先へ進めない進ませない、そういうことでもあり得るから。
…てなことを、読んで考えてみました。

コメントありがとうございます。

悩みながらも、少しでも前へ進めれば・・・そんな思いです。
ラグビーの「トライ」という言い方、表現の仕方が好きです。
得点を「取る」のではなく「トライする」という言い方です。
青臭いようですが、そんなラグビーが好きです。
95年大会のテーマ曲を聴きながら日本と南アを応援しました。

https://www.youtube.com/watch?v=ux_Ok1dc-jw

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